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All Chapters of 十年後の初恋: Chapter 11 - Chapter 20

52 Chapters

第11話 由美子退院、日常が戻り始める

 退院の日は、朝から雲ひとつない夏空だった。  病室の窓から差し込む光は、入院生活の終わりを祝福するように明るく、白いカーテンを柔らかく揺らしていた。 由美子は看護師に手伝ってもらいながら、ゆっくりと私服に着替えていた。  入院着から着替えるだけの動作にも、以前より時間がかかる。  有紗はそれを黙って見守りながら、荷物をボストンバッグに詰めていった。「そんなに見てなくていいのよ、有紗」「見てるよ。母さんが着替えるの、久しぶりに見た気がして」 軽口のつもりだったが、口に出してから少し切なくなった。  当たり前だった日常が、当たり前でなくなってから初めて、その重さに気づく。  由美子は「もう大丈夫よ」と笑ったが、その笑顔の奥に、わずかな疲労が残っていた。 退院手続きを終え、タクシーで店まで戻る間、由美子はずっと窓の外を眺めていた。  流れる景色の中に、十年前から変わらない町並みが見える。  商店街のアーケードが近づくと、由美子は小さく息を吐いた。「変わってないわね」「変わってないよ。母さんが心配することなんて何もない」 本当は、再開発の話も、店の経営のことも、山ほど心配事はあった。  けれど今この瞬間だけは、母を安心させたかった。 店に着くと、沙織と健太が「おかえりなさい」の張り紙を店先に貼って待っていた。  子供っぽい手描きの文字に、由美子は声を上げて笑った。「あんたたち、暇なの?」「暇じゃないですよ、由美子さんのために時間作ったんです」 沙織がむくれた顔で言うと、健太が慌てて花束を差し出す。  近所の花屋から──というより、有紗の店から仕入れたはずの花束を、律儀に持ってきたらしい。  有紗は思わず噴き出した。「うちの花、買ったの?」「いや、その、な
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第12話 夏祭り本番

商店街の夏祭りは、毎年八月の第一土曜と決まっていた。 由美子の入院騒動でどうなることかと心配されたが、退院から二週間が経ち、彼女自身が「今年もやりなさい」と背中を押したことで、例年どおりの開催が決まった。 夕方、アーケードには提灯が吊るされ、露店の準備で商店街全体が浮き足立っていた。 有紗の店先にも小さな出店を出すことになり、朝からずっとその支度に追われている。 「有紗ちゃん、金魚すくいの水槽どこに置く?」 「健太くん、そっちの角でお願い! あ、氷の追加も頼んでいい?」 慌ただしく指示を出しながら、有紗はふと空を見上げた。 夕焼けが少しずつ藍色に溶けていく時間帯。 この祭りの空気が、有紗は昔から好きだった。 人の声、提灯の灯り、屋台の匂い──全部が、夏の記憶を呼び起こす。 浴衣に着替え終えた頃、篤が姿を見せた。 私服姿の彼を見るのは、再会してから初めてかもしれない。 白いシャツに紺のパンツというシンプルな格好なのに、どこか祭りの空気に馴染んでいた。 「手伝おうか」 「え、篤が?」 「一応、地元だし。それに──」 篤は少し言葉を選ぶように間を置いた。 「今日くらいは、事業者としてじゃなくて」 その一言に、有紗の中で何かがふっと緩ん
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第13話 進捗報告

夏祭りの余韻が残る月曜の朝。 篤は始発に近い電車で東京へ戻った。 窓の外を流れる景色は、昨日までの喧騒とは違い、どこか無機質で淡々としている。 それでも、頭の中では昨夜の高台の記憶が消えずにいた。 有紗の横顔。 花火の音。 そして、自分が口にした「かすみとのこと」という言葉の重さ。 胸の奥に残るその感触は、電車の揺れとともに静かに沈んでいった。 オフィスに着くと、いつもと変わらない喧騒が待っていた。 コピー機の音、電話のベル、キーボードを叩く音。 だが、篤自身の内側は、以前とは明らかに違っていた。 商店街で過ごした時間が、東京の空気と微妙に噛み合わない。 まるで、二つの世界を行き来しているような感覚があった。 「桐生、ちょっと」 昼過ぎ、部長の高城《たかぎ》に呼ばれ、会議室に入る。 机の上には、篤が提出した現地調査報告書が広げられていた。 「進捗はどうだ。住民説明会からもう一ヶ月経つが」 「反対意見は根強いです。特に商店街の店舗経営者たちからは、代替案を求める声が強くなっています」 「代替案、ね」 高城はペンを指の間で回しながら、篤を見据えた。 「うちが求めてるのは代替案じゃない。スケジュール通りの合意形成だ。わかってるよな」 「はい」 答えながら、篤の中に小さな引っかかりが生まれる。 合意形成という言葉の裏にあるのは、結局のところ、住民側の事情をどこまで押し切れるかという計算でしかない。
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第14話 気配

その夜、かすみは一人で残業をしていた。 誰もいなくなったオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。 蛍光灯の白い光が書類の山を照らし、窓の外には東京の夜景がぼんやりと浮かんでいた。 篤が現地に提出した報告書の控えを、何気なく読み返す。 最初は業務上の確認のつもりだった。 だが、読み進めるうちに、かすみの中で小さな違和感が膨らんでいく。 報告書の文体そのものは変わらず簡潔で事務的だ。 それなのに、「早坂有紗氏」という名前が出てくる箇所だけ、心なしか記述が詳しかった。 店の経営状況、住民代表としての発言内容、母親の体調にまで触れられている。 担当者として当然の情報収集の範囲内かもしれない。 けれど、かすみの直感が、何かが違うと告げていた。 ページをめくる手が、ふと止まる。 篤の文章の端々に、わずかな「温度」がある。 それは、仕事の対象としての住民ではなく── 誰か特定の人間に向けられた、静かな気遣いのように感じられた。 かすみはスマートフォンを取り出し、篤とのメッセージ履歴を遡る。 ここ最近、返信が来る時間帯が明らかに変わっていた。 以前は深夜近くまで仕事の話が続いていたのに、最近は早い時間にあっさりと切り上げられる。 まるで、他に気を配る何かがあるかのように。 かすみは自分の中の疑念を、すぐには言葉にしなかった。 感情的にな
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第16話 沙織の過去

翌日の夕方、有紗は仕入れの帰りに沙織の美容室に立ち寄った。閉店間際で客はおらず、沙織は一人、鏡の前で道具を片付けていた。 「昨日はありがとう。ちゃんと考えてみる」 「別にお礼言われるようなことしてないよ」 沙織はそっけなく言いながらも、有紗にコーヒーを淹れてくれた。二人でカウンター席に並んで座る。この店の、少し古びた椅子とシャンプー台の匂いが、有紗にとっては昔から馴染み深いものだった。 「ねえ、沙織はさ」 有紗はふと思いついたように尋ねた。 「誰かのこと、好きだったのに言えなかったこと、ある?」 沙織の手が一瞬止まった。いつもなら即座に軽口で返してくる沙織にしては、珍しい間だった。 「……何、急に」 「いや、私ばっかり相談してるから。沙織はどうなのかなって」 沙織はしばらく黙ってコーヒーカップを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。 「昔、専門学校の頃にね。同じ美容師目指してた人がいたの。すごく不器用で、でも手先だけは器用でさ。よく一緒に練習してた」 「初めて聞いた」 「言ったことないもん」 沙織は苦笑した。 「結局、何も言えないまま、その人は地元に帰って、別の道に進んだ。今どうしてるかも知らない」 「後悔してる?」 「してないと言えば嘘になる。でも、あの時の私には、言う勇気がなかった。今の有紗と篤くんを見てると、ちょっと羨ましい
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第17話 見直しの芽

高城に釘を刺されてから一週間。 篤はデスクの上に積まれた過去の再開発事例の資料を、一つひとつ読み返していた。 表向きは「着地点」を探るための作業だったが、篤の中では別の問いが渦巻いていた。 ──本当に、今の計画のまま進めていいのか。 資料の文字を追うたび、商店街の店主たちの顔が浮かんでは消える。 有紗の店、沙織の美容室、健太の実家の惣菜屋。 どれも、単なる「対象区域内の物件」として処理していい場所ではなかった。 篤は昼休み、資料室にこもって他地域の再開発事例を漁った。 全てを取り壊して更地から作り直す方式ではなく、既存の商店街を活かしながら改修していく──いわゆる「リノベーション型」の事例がいくつか見つかった。 古いアーケードを残しつつ耐震補強を施した例。 店舗の外観を保ちながら内部だけを改修した例。 観光導線を整備し、商店街の魅力を活かした例。 資料を読み進めるほど、篤の胸の奥で小さな火が灯り始めた。 「そんな方式、うちの会社でやったことないだろ」 資料を覗き込んできたのは、同期の田村だった。 「うん。でも、実績がある自治体はいくつかある。工期は長くなるし、初期コストも読みにくいけど、住民の合意は取りやすい」 「合意は取りやすくても、会社が求めてるのはスピードと収益性だぞ。高城さんが許すと思うか?」 田村の言葉は、篤自身が誰よりもわかっていることだった。 それでも、篤の中では、以前とは違う確信のような
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第18話 商店街の未来図

 由美子の検査結果が「経過観察で問題なし」と出た週末、篤は久しぶりに休みを取って商店街を訪れた。仕事の名目ではなく、純粋に顔を見に来たのだと、篤自身も少し照れながら有紗に伝えた。「今日は事業者じゃない、でいいの?」「今日は、ただの篤で来た」 有紗は思わず笑ってしまった。閉店後の店先に、二人で小さな縁台を出し、缶ビールと麦茶を並べる。母の由美子は二階で休んでおり、静かな夜だった。「聞いてほしいことがあるんだ」 篤はそう切り出すと、鞄から一枚の紙を取り出した。手書きのラフスケッチのような、簡単な図面だった。アーケードの形はそのままに、老朽化した箇所だけを補修し、空き店舗をリノベーションして新しい店を誘致する案。商店街の通りを歩行者専用にして、季節ごとにマルシェを開くという構想も書き添えられている。「これ……」「まだ会社に正式提出できる段階じゃない。個人的に温めてる企画書の一部だ」 有紗は食い入るように図面を見つめた。取り壊しと再建設を前提にした最初の計画とは、まるで別物だった。「商店街、壊さなくていいの?」「壊さなくても、活かす方法はあると思ってる。時間はかかるし、会社を説得できるかもわからない。それでも──」 篤は言葉を選びながら続けた。「有紗が守ろうとしてるものを、俺は簡単に切り捨てたくないんだ」 その言葉に、有紗の胸が熱くなった。十年前、何も言わずに離れていった自分を、篤は責めることなく、今こうしてもう一度向き合おうとしてくれている。「もし、この案が通ったら」有紗は図面を指でなぞりながら言った。「フルール・アリサ、もっと大きくできるかな。奥のスペースを使って、ワークショップとかもやりたくて」「いいと思う。花の教室とか、ブーケ作りの体験とか」「篤、詳しいね」「有紗の店のこと調べてたら、自然と」 照れくさそうに笑う篤を見て、有紗も自然と笑みがこぼれた。夜風が心地よく吹き抜け、商店街の街灯が
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第19話 初対面

その週末、かすみは再び現地入りする篤に、今度は「広報の仕事」を理由にせず、はっきりと同行を申し出た。 「今日は、あの花屋さんに直接会ってみたいの」 「有紗の店に?」 「うん。事業の関係者として、一度きちんと挨拶しておきたくて」 篤は一瞬言葉に詰まったが、断る理由も見つからなかった。かすみの声には、いつもと変わらない落ち着きがあったが、その奥に何か決意めいたものが滲んでいるようにも感じられた。 「フルール・アリサ」の店先に着くと、有紗はちょうど店頭の花を並べ替えているところだった。篤の隣に立つ女性を見て、有紗の手が一瞬止まる。写真で見たことも聞いたこともなかったが、直感的にわかった。 「初めまして。桐生の婚約者の、三浦かすみです」 かすみは丁寧に頭を下げた。物腰は柔らかく、隙のない立ち居振る舞いだった。 「早坂有紗です。……いつも篤にはお世話になってます」 言葉を選びながら答える有紗の声は、自分でも驚くほど平静を保っていた。だが、内心では心臓が早鐘を打っていた。 「素敵なお店ですね。篤から話は聞いていました」 「そうなんですか……」 「商店街の再開発の件、大変でしょう。会社の人間として申し訳なく思っています」 かすみの言葉は丁寧で、非のうちどころがなかった。それだけに、有紗は余計に落ち着かない気持ちになる。目の前の女性が、篤の隣に立つべき人なのだと、頭ではわかっていた。 「よかったら、店の中も見ていってください。今の時期のおすすめの花もあるので」 有紗はなんとか営業用の笑顔を作り、店内へと二人を案内した。かすみは花を一つひとつ丁寧に眺め、時折り質問を挟んだ。「これは何のお花ですか」「花言葉ってあるんですか」──その受け答えの中に、悪意めいたものは一切感じられなかった。 それで
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第20話 探り合い

かすみが一人で商店街を訪れたのは、それから数日後のことだった。篤には告げていない、彼女なりの用事だった。 午前中の客足が落ち着いた時間帯を見計らって、かすみは「フルール・アリサ」の店先に立った。ガラス戸越しに、有紗が花瓶の水を替えている姿が見える。深呼吸をひとつしてから、かすみは戸を開けた。 「あ……三浦さん」 「突然すみません。近くまで来たので」 有紗は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに接客用の笑顔に切り替えた。だが、かすみにはその笑顔の下にある緊張が、はっきりと見て取れた。 「今日はお仕事ですか?」 「いえ、今日はプライベートです。……というより、少し早坂さんとお話ししたくて」 その言葉に、有紗の手が止まった。店内には、二人の間に流れる空気だけが張り詰めていく。かすみはカウンターに置かれた花を眺めるふりをしながら、静かに切り出した。 「篤、最近変わったと思いませんか」 「……どうでしょう。私にはあまり」 「早坂さんと話す時の篤、東京にいる時とは全然違うんです。声のトーンも、表情も」 有紗は何も答えなかった。答えられなかった、というほうが正しい。かすみの言葉には、責める調子はなかったが、それだけに逃げ場もなかった。 「誤解しないでください。早坂さんを責めてるわけじゃないんです」かすみは有紗の目をまっすぐ見つめた。「ただ、私は篤の本当の気持ちを知りたいだけなんです。それが誰に向いているのか」 「三浦さん──」 「篤には篤の人生があって、私にも私の人生があります。曖昧なまま、なんとなく流されていくのが、私は一番嫌なんです」 かすみの声は静かだったが、そこには確かな覚悟が滲んでいた。有紗はその強さに、ある種の敬意すら覚えた。 「私は、篤さんとどうこうなろうとしているわけじゃありませ
last updateLast Updated : 2026-08-15
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