春の朝というのは、どうしてこうも人の決意を試してくるのだろう。 まだ少しだけ冷たい空気。通学路に浮かぶ白い光。新品の制服に袖を通した生徒たちの、妙に浮ついたざわめき。校門前に立った瞬間、久瀬湊人は胸の奥で小さく息を吐いた。 ――大丈夫。今日はただの転校初日だ。 それ以上でも、それ以下でもない。 目立たない。波風を立てない。誰かの記憶に強く残らない。 それが、今日からこの学校で生きていくための最重要方針だった。「普通に……普通にいこう」 自分に言い聞かせるように呟く。 だが、その「普通」が湊人にとって最も難しいことだと、本人だけがよく知っていた。 校門をくぐる直前、反射的に立ち止まる。先に入ろうとしていた女子生徒がいたからだ。無意識に身体を半歩引き、手で軽く進路を示す。「どうぞ」「あ……え、あ、うん」 女子生徒は一瞬きょとんとした顔をして、それからぺこりと頭を下げて通り過ぎた。 しまった、と思ったのは、その直後だった。 別に、そんなことをしなくてもよかったのだ。校門など広いし、譲り合うほどの狭さでもない。なのに、身体が勝手に動いた。 家では当たり前だった。誰かと鉢合わせれば、相手を先に通す。とくに女性や年長者ならなおさら。何も考えず、呼吸のように染みついている。 でもここは、そういう場所ではない。 湊人は自分の額に手を当てて、小さく項垂れた。「初手からだめじゃないか……」 校舎に向かう途中、何人かの生徒とすれ違った。誰も彼も、新しい年度特有のそわそわした空気をまとっている。クラス替えに一喜一憂しているらしい声があちこちから聞こえてきた。 そんな中、湊人はなるべく俯きがちに歩いた。背筋まで丸めすぎると今度は不自然だ。だから、ほんの少しだけ視線を落とし、気配を薄くする。あくまで自然に。あくまで地味に。 ……のつもりだった。「ねえ、あの人かな」「転校生って」「え、なんかすごくない?」「なにが?」「いや、なんか……雰囲気?」 小さなひそひそ声が耳に届く。 反射的に聞こえてしまうのも困りものだった。湊人は聞こえないふりをしながら、心の中で泣きそうになった。 いや、待ってほしい。まだ何もしていない。今日はまだ校門で一人先に通しただけだ。なのに、どうしてもう“なんか”で見られているのだろう。 答えは分かっていた。 た
Last Updated : 2026-08-01 Read more