Semua Bab 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Bab 111 - Bab 120

157 Bab

第111話:待って

シャッターを開ける音が、深夜の倉庫街に思った以上に大きく響いた。金属が擦れる音が止むと、残るのは遠くの波と、夜風が建物の隙間を抜ける音だけだった。エマは一度だけ周囲を見回してから、中へ入る。玲も、何も言わず後ろについてきた。壁際へ手を伸ばし、照明をつける。白い光が倉庫の奥まで届いた。画材の並んだ棚。乾きかけた筆。使いかけの顔料。床に落ちた色の跡。何度も立った場所だけ、コンクリートが少し汚れている。急に。裸を見られているような落ち着かなさを覚えた。ここへ人を入れたことは、浜中さん以外にはない。倉庫そのものが、見せるつもりのなかった自分の内側みたいだった。玲は何も聞かなかった。棚に見慣れない画材があっても。使い込まれた筆が増えていても。ただ、静かにエマの後ろを歩いている。それが、逆に緊張を強くした。中央に置かれた大きなキャンバス。上から布を掛けている。エマはその前で止まった。「これです」自分の声が、少しだけ硬い。返事はなかった。振り向けば。玲は数歩離れた場所に立っていた。片手には、さっきから持っていた紙コップ。いつもの穏やかな顔。でも。エマを見ている目だけが、少し真剣だった。心臓が速くなる。見せるだけ。見せたら、燃やす。それ以上の意味はない。そう言い聞かせて。布の端を掴んだ。指先に力が入る。一度だけ息を吸って。引いた。布が床へ落ちる。完成したキャンバスが。白い照明の下に現れた。エマは。作品ではなく、玲を見た。次の瞬間。玲の手から紙コップが落ちた。乾いた音。蓋が外れ。中のコーヒーがコンクリートへこぼれる。茶色い液体が、ゆっくり床へ広がっていく。エマの心臓が強く鳴った。「……神崎さん?」声をかけようとした。「ちょっと」玲が低く言った。エマの言葉が止まる。「待って……」息を呑んだ。敬語が。初めて崩れた。玲自身は、そのことに気づいていないようだった。目は。絵から一度も離れていない。瞬きすら惜しむように。何かを確かめるというより。完全に、作品へ持っていかれている。その横顔を見た瞬間。エマの中に、古い記憶が戻った。昔から。玲は、本当に衝撃を受けた作品の前ではこうなった。人の声が届かなくなる。視線を外さない。近づきすぎることもある。エ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-23
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第112話:失うには惜しすぎる

そのことにも。自分で少し驚いた。以前なら。すぐに引いていただろう。今は。動かなかった。少しして。玲の目がようやく絵から外れた。そして。自分の手を見る。エマの腕を掴んでいる。そこで初めて。気づいたらしい。すぐに指が離れた。「……すみません」敬語へ戻っている。「つい」「いえ」エマは短く答えた。玲の指が離れたあとも。腕には、まだ熱が残っている気がした。意識しないように。エマはキャンバスへ近づいた。縁に手をかける。「では」持ち上げようとした時。「本当に」玲の声がした。低く。さっきまでとは違う。真剣で。どこか切実だった。「本当に、燃やすつもりですか?」エマは振り返る。玲はもう作品ではなく。エマを見ていた。「手伝っていただけるのが、お約束では?」そう言うと。玲の眉が僅かに寄った。言葉を探すように。もう一度絵を見る。「それでも」苦笑する。「これは……」玲が。作品について言葉を探している。それだけで。エマの胸がまた緊張する。「失うには、惜しすぎる」静かな言葉だった。なのに。胸の奥に、はっきり届いた。玲は。もう一度、絵を見た。「いろんな作品を見てきました」声が、少しずつ落ち着いていく。「有名かどうかに関係なく。信じられないくらい才能のある人も」視線が。ゆっくり作品の中を辿る。「天才と呼ばれている人も、何人も」玲の指が。僅かに動く。本当は近づきたいのだろう。でも。作品に触れないよう、距離を保っている。「だから最初」玲は眉を寄せた。「誰に似ているんだろうと思ったんです」エマの心臓が。強く鳴る。一瞬。身体の奥が冷たくなる。「でも、分からなかった」玲がこちらを見る。「誰にも似ていない」胸の奥に詰まっていたものが。少しずつほどける。「だから、理解するのに時間がかかりました」玲は続ける。「技術があるから、というだけじゃない」また絵を見る。「色の置き方も、空間の作り方も」少しだけ息を吐く。「何を描かないかまで、ちゃんと意志がある」その言葉に。エマの指が震えた。最後の一割。何度も。置くか。置かないか。迷った。最後には。置かないことを選んだ。そこを。玲は見ていた。「それに」玲が静かに続ける。「今まで見てきたエ
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第113話:燃えていくもの

キャンバスを外へ運ぶ。二人で持てば、それほど重くはなかった。それでも玲の手つきは、妙に慎重だった。角をぶつけないように。表面へ指が触れないように。これから燃やすものだというのに。まるで、美術館へ運び込む作品を扱うようだった。エマは何も言わなかった。倉庫の前。周囲に何もない場所まで運ぶと、キャンバスを一度立てかける。エマは準備していたものを取り出した。玲も黙って手伝った。必要なものを運び。周囲を確認する。さっき落としたコーヒーのことなど、もう忘れているようだった。ただ。時折。玲の視線が絵へ戻る。一度見ると。数秒。離れない。そのたびに。エマの胸の奥が、落ち着かなくなった。「……神崎さん」呼ぶと。玲がようやくこちらを見る。「これ、お願いできますか」「はい」渡したものを受け取る。指先が一瞬触れた。すぐに離れる。いつもなら気に留めないほどの接触なのに。今夜は。妙に皮膚に残った。玲はエマの隣へしゃがみ。しばらく無言で準備を続けた。それから。「正直に言うと」不意に。玲が口を開いた。エマは手を止めなかった。「絵を見るのが、怖かったんです」思わず。玲を見る。玲は。こちらを見ていなかった。手元を整えながら。独り言のように続ける。「あなた自身に興味があるのも。惹かれているのも事実です」静かな声だった。もう。何度も言われた。それでも。今夜は。言葉の響きが違った。「でも」玲の手が止まる。「あなたが描いたものを見たら」僅かに眉が寄る。「僕が、エレナに似たあなたを影として見ていたことが、正当化される可能性があったから」エマの指先が止まった。夜風が。髪を揺らした。玲はまだ。こちらを見ない。「似た顔をしている」淡々と。「同じような瞳をしている」一つずつ。自分の中にあったものを確認するように。「そこに、もし絵まで重なったら」玲は小さく息を吐いた。「僕は、自分があなたに惹かれている理由を、都合よく解釈できてしまう」胸の奥が。ゆっくり締まった。エマ自身。同じことを考えていた。だから。見せた。玲が。朝倉エマの絵を見た時。何を見るのか。知りたかった。「失礼な話でしょうが」玲が。小さく笑った。笑ったというより。自分を嘲るような吐息だった。
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第114話:頼ってほしい

火は、思っていたより静かに絵を食べていった。最初に端が黒く縮れ。次に、色の層が熱で浮き。少し遅れて、キャンバスの奥へ炎が回った。玲も。エマも。ただ。燃えていく絵を見ていた。さっきまでそこにあったものが。形を失っていく。朝倉エマとして初めて完成させた一枚。八年間描かなかった時間。港町で過ごした三年。玲からもらった色。浜中さんから譲られた画材。全部が混ざっていた。それでも。炎は。どこから来た色なのかを区別せず、同じように燃やしていく。エマは自分で決めたことなのに。胸の奥が。少しずつ冷えていくようだった。玲は。一度も止めなかった。絵を見る目には、明らかに苦しさがあった。それでも。約束を守っている。炎が弱くなる頃。玲がようやく、小さく息を吐いた。その音だけが。妙に近かった。***完全に火が落ちるまで待った。灰が冷えたことを確かめてから。二人で片づけを始めた。玲は。何も言わない。エマも。話す気にはなれなかった。その沈黙が。さっきの言葉をまだ二人の間に残していた。――エレナを失った時以来です。胸の奥に。何度も戻ってくる。聞かなければよかった。でも。聞けてよかった気もする。その矛盾が。重かった。道具をまとめ。灰を処理し。最後に消火器を倉庫へ戻す。「ここからは自分でやります」エマが言った。玲は動かない。「大丈夫です」「手伝います」「もう終わりです」「だからです」エマが見る。「何がですか」玲は少しだけ困ったように笑った。「最後までやらせてください」その顔を見て。これ以上言っても引かないのだと分かった。エマは諦めて、倉庫の中へ入る。玲も続いた。***照明をつける。さっきより。倉庫の中が広く見えた。中央にあった絵がなくなったからだ。その空白だけが。妙に目につく。玲の視線が、室内をゆっくり動く。浜中さんからもらった画材。いくつかは。明らかに使った跡がある。表面を削った跡。開封された顔料。混ぜたまま乾いた小さな容器。玲の目が。そこへ一度止まった。エマの胸が少しだけ硬くなる。でも。何も言わなかった。質問もしない。ただ。見た。それだけ。そして。少しして。「多分」玲が言った。エマは振り返る。「もう、これ以上驚
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第115話:嫌われていない

***嫌いじゃない、です。その言葉を聞いた瞬間。玲は、自分でも分かるほど肩の力が抜けた。ほんの僅か。けれど。胸の奥にずっと入っていた力が、ようやくほどけたような感覚だった。エマはもう視線を逸らしている。倉庫の棚。使いかけの画材。さっきまで絵があった場所。どこを見ているのか分からない。ただ。玲には、その一言だけで十分だった。嫌われていない。それだけで。こんなにも安心する。誰かが自分へ向ける感情を。こんなふうに気にしたことが、あっただろうか。好かれているか。嫌われているか。そんなものは。今まで、ほとんどどうでもよかった。仕事でも。人間関係でも。女性から好意を向けられても。興味がなければ、それで終わりだった。それなのに。エマのたった一言で。胸が軽くなる。自分でも。信じられなかった。もし。嫌いだと言われていたら。玲はふと。自分に問いかける。その時は。諦められただろうか。答えは。考えるまでもなかった。無理だ。すぐに思った。特に。あんな絵を見せられたあとでは。もう。無理だった。***いっそ。絵が下手だったなら。そんなことまで。考えてしまう。技術が浅くて。誰かの真似で。少し器用なだけの作品だったなら。まだ。自分の感情を整理できたかもしれない。エマという人間に惹かれている。それだけで。済ませられた。でも。違った。あの絵は。まだ玲の中に残っている。燃えた。確かに。自分の目の前で。色が崩れ。形がなくなり。灰になった。それでも。見たものが消えない。画面の奥行き。色の温度。描かなかった余白。あえて残した空間。見る人間を拒絶しきらないのに。簡単には入らせない。作品そのものが。エマに似ていた。その印象が。頭から離れない。今。この人に対する気持ちと。この人の才能に対する感情が。明確に別々に存在している。どちらも。欲しい。もっと見たい。もっと知りたい。その欲が。思っていた以上に深い。いっそ。知らなければよかった。そう思う。でも。もう遅い。玲は。使った道具を最後に片づけた。「帰りましょうか」そう言うと。エマは今日は何も反論しなかった。「はい」それだけだった。送ると言っても。断らない。その小さ
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第116話:もう一枚のキャンパス

翌日。目を覚ましたのは、昼近くだった。「……寝た」久しぶりに、まともに眠った気がする。身体はまだ重い。けれど、ここ数日ずっと頭の奥に張りついていた鈍い痛みは、少しだけ薄れていた。ベッドの上で身体を起こす。昨日の夜のことが、ゆっくりと戻ってきた。燃えていくキャンバス。隣にいた玲。『嫌いじゃない、です』自分の声まで、妙にはっきり覚えている。言ったあと。玲の顔に広がった安堵も。思い出した途端、胸の奥が落ち着かなくなった。「……何言ってるんだろ、私」嫌いではない。そんなこと。八年前から、一度だって。けれど。エマとして口にする必要はなかった。むしろ言わない方がよかった。そう思うのに。『なら、頼ってください』あの声まで続けて蘇る。玲は。あんな顔をする人だっただろうか。いや。知っている。私は知っている。ただ、あれを見せる相手が。昔は、私だっただけだ。胸の奥が少し痛んで。それ以上考えるのをやめた。*夕方。カフェの仕事を終える頃には、身体もだいぶ軽くなっていた。奏からも、「今日は顔色いいね」と言われた。「昨日、ちゃんと寝たので」「毎日そうしてください」呆れたように笑われて。私も少し笑った。こういう会話は楽だ。説明しなくていい。考えなくていい。三年前から積み重ねてきた日常の中に、そのまま身体を預けていられる。なのに。仕事を終えて家へ帰る途中。気づけば足は、海の方へ向いていた。倉庫に着いた頃には、空が薄い橙色に変わっていた。潮の匂いがする。シャッターを開ける。昨日。玲と二人で片づけた場所。床は綺麗になっている。燃やした絵は、もうどこにもない。それを見ても。不思議と後悔はなかった。あれは。描きたかったから描いた。それで十分だった。画材を整理しながら、昨日使った筆を確認する。浜中さんにもらったもの。自分で少しずつ集めたもの。玲から渡された顔料もある。ひとつずつ。この町へ来た頃にはなかったものが増えている。私はしばらくそれを眺めてから。棚の横へ回った。大きな資料棚。その後ろに、僅かな隙間がある。身体を横にして手を伸ばす。指先が、布に触れた。ゆっくり引き出す。もう一枚のキャンバス。昨日燃やしたものより。ずっと前から描いている絵。誰にも見せ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-27
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第117話:誰かの線が入る場所

フェスティバルの開催まで。実質、あと一か月半ほどになった。もともとの予定より、少しだけ期間は延びた。財団からの出資が正式に決まり。 展示企画そのものを厚くできることになったことで、フェスティバル全体の日程も調整されたらしい。その分。 展示企画までの猶予も増えた。とはいえ。一か月半。数字にすると、むしろ短い。展示作品の調整。 輸送。 会場設営。 広場の企画。 子どもたちの展示。 町の導線。決めなければいけないことは、まだいくらでもあった。「もう少し、こっち空けられますか?」広場の端。地面に貼られた仮設用のテープを見ながら、私はしゃがみ込んだ。役所の担当者がメジャーを伸ばす。「どれくらいですか?」「三十センチくらい。できれば四十あってもいいです」「結構動かしますね」「はい」私は立ち上がって。 少し離れた。そこから全体を見る。大きなチョークボード。最初は。子どもたちが自由に描ける場所を作れたらいい。それくらいの話だった。けれど。 実際に形にするなら。ただ大きな板を置けばいいわけではない。「絵って、近くで描いていると全体が見えなくなるので」私はボードから数歩離れた。「描いて、離れて見る。その動きが自然にできるくらいの余白は欲しいです」「ああ」担当者が頷く。「通路だけの問題じゃないんですね」「そうですね。特に子どもなら、自分が描いたものを遠くから見たくなると思います。隣の子の絵も見たいでしょうし」絵画教室のオーナーである小林さんも、仮設位置を見る。「確かに。教室でも一回描き始めると、床まで全部使いますからね」「あと」私はテープの端を指した。「ここは、できれば角を作らない方がいいです」「安全面ですか?」「それもありますけど」ボードを見る。「せっかくみんなで一枚を作るなら、ここからここまでがあなたの場所、みたいに見えすぎない方がいいと思います」担当者が少し首を傾げた。私は言葉を探す。「上手い子の隣に描きにくいとか。自分の絵だけ小さいとか。子どもでも、意外とそういうことを気にするので」昔。 自分がそうだったから。とは言わなかった。真っ白な場所ほど。 自由なようで。 怖い。何を描いてもいいと言われるほど。 最初の一本を引くことが難しい。だから。誰かの線の続き
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-29
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第118話:絵を見るまでの時間

午後は。 美術館側との打ち合わせだった。浜中さんも途中から顔を出して。 いつものように。どこまでが正式な仕事なのか分からない調子で席についた。「エマさん、この前の案。採用になったよ」「どれですか?」「広場から美術館までの導線」渡された資料を見る。思わず。 指が止まった。以前。来場者が広場だけを見て帰るのではなく。 町そのものを歩けるようにした方がいいのではないか、と話した。美術館。 アート教室。 広場。 港。 小さなギャラリー。それぞれが離れているなら。欠点として考えるのではなく。 移動そのものを展示体験の一部にできないか。そんな話をした。それが。 簡易マップになっている。「……本当にやるんですね」「なんだ、その反応」浜中さんが笑う。「エマさんが言ったんだろう」「そうですけど」地図を見る。「私のは、ただの案だったので」「案を形にするのが、こっちの仕事だよ」さらりと言われる。視線を落とした。地図の中には。 この町の道がある。毎日働いているカフェの前。海へ向かう細い道。何度も歩いた場所。そういうものが。 ひとつの体験として繋がっている。「美術館へ着くまでに、少し静かな区間を作れたのもいいですね」思わず口にすると。浜中さんが笑った。「ほら。もう次のこと考えてる」「……すみません」「褒めてるんだよ」資料へ視線を戻す。広場で。 人の線や色が混ざったものを見る。町を歩く。港の風景を見る。少しずつ。 人の多い場所から離れる。そのあと。 静かな美術館へ入る。「この順番なら」指で地図を辿る。「美術館に入った瞬間の静けさが、今より強く感じられると思います」浜中さんが。 少しだけ真面目な顔になった。「そういうところが、エマさんに見てもらうと面白いんだよなあ」「普通のことですよ」「普通じゃないよ」即答されて。 少し困る。「作品だけじゃなくて、人が見るところまで考えてる」「……見る人がいて初めて、作品になる部分もありますから」言ってから。胸の奥が。 僅かにざわついた。あまり。 昔の自分を出しすぎない方がいい。そう思ったのに。浜中さんは特に気にした様子もなく。「僕もそう思うよ」と笑った。そのことに。 少しだけ安心した。机の上に置いてい
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第119話:残るもの

打ち合わせが終わる頃には。 日が傾いていた。広場へ戻る。片づけ途中の資材。仮設用のテープ。まだ。 何も完成していない場所。なのに。頭の中には。 完成した景色が浮かぶ。子どもが地面に座って。 手をチョークで汚す。その横で。 大人が少し遠慮しながら線を足す。観光客が足を止める。知らない誰かの色の上へ。 別の誰かが色を重ねる。次の日には。 昨日とは違う絵になる。そして。最後には消える。「……」そこで。 足が止まった。消える。その言葉に。以前なら。 安心したはずだった。残らないから。 描ける。そう思って始めた。でも。今は。 少し違う。消えるものでも。そこにいた時間まで。 なくなるわけではない。誰かが覚えていれば。残るものはある。私は。 このフェスティバルを。 楽しみにしている。成功させたいと思っている。自分の作品が展示されるわけでもない。名前が大きく出るわけでもない。それでも。自分が考えたことが。 この町の中に少し残ったらいいと思っている。三年前の私なら。 考えなかった。作品も。 名前も。 人との関係も。何も残したくなかった。なのに今は。朝倉エマとして。 何かを作ることが。少しずつ。 怖くなくなっている。「エマさん」後ろから呼ばれた。振り返る。役所の女性が、小走りでこちらへ来る。「あ、よかった。まだいた」「どうしました?」「子ども展示の説明文なんですけど。明日、一度見てもらってもいいですか?」差し出された紙を受け取る。「もちろんです」「ありがとうございます」彼女は安心したように笑った。「エマさんに見てもらった方が安心なので」何気ない言葉。それだけ伝えて。「じゃあ、また明日」と戻っていく。私は。 手元の紙を見た。エマさんに見てもらった方が安心。そんなふうに。 誰かから頼られる。仕事なら。 昔からいくらでもあった。エレナだった頃も。 求められた。期待された。次は何を描くのか。どんな作品を出すのか。私の感性を。 才能を。必要としてくれる人はいた。でも。今は違う。私が絵を描けることすら。 ほとんど誰も知らない。ただ。この町で三年間働いて。人と話して。少しずつ関わって。その延長に。 今の
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第120話:戻ってきた人

フェスティバルまで、実質あと一か月半。期間が少し延びたことで余裕ができたはずなのに。むしろ。やることは増えていた。財団からの出資が正式に決まったことで、海外から借りられる作品が増えた。それに伴って。展示室の構成も、一部組み直すことになったらしい。朝。カフェへ出勤してすぐ。私は美術館から送られてきた資料を、カウンターの端で確認していた。「……また増えてる」思わず呟く。先週見た一覧にはなかった作家が、三人。しかも。一点ずつではない。作品の年代を見る限り。単純に空いた壁へ追加できるようなものでもなかった。「何が?」背後から声がして。資料から顔を上げる。奏だった。「フェスティバルです。海外からの作品が増えたみたいで」「ああ。出資増えたから?」「多分」資料を閉じる。「増やせばいいというものでもないんですけどね」口にしてから。少しだけ、自分で笑った。「何?」「いえ」最近。こういうことを。普通に口にするようになった。展示について。作品について。何を見せるかだけではなく。何を見せないのか。昔なら。何も考えず話していたこと。今は一度、口にしていいことなのか考える。それでも。以前ほど怖くはなくなっていた。「エマ」「はい」「最近さ」奏が冷蔵庫から牛乳を取り出しながら言う。「楽しそうだよね」手元の資料へ視線を落とした。「忙しいですけど」「うん。だから」冷蔵庫の扉が閉まる。「忙しそう、じゃなくて。楽しそう」「……そう見えますか」「見える」あっさり言われた。少し困る。けれど。否定する理由も見つからなかった。「そうかもしれません」答えると。奏の手が。ほんの一瞬だけ止まった。それから。「そっか」と笑った。いつもの。穏やかな笑顔。なのに。なぜか少しだけ。以前と違って見えた。*最近。奏は少し変わった。正確には。変わったというより。隠さなくなった。「今日、美術館?」「午後からです」「帰りは?」「分かりません」「遅くなるなら連絡して」以前なら。それだけだった。最近は。そのあとに。「迎えに行けるから」が付く。「大丈夫ですよ」「大丈夫なのは知ってる」コーヒーを淹れながら。奏は顔も上げずに続けた。「俺がそうしたいだけ」「……」
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