*** ホテルの窓には、夜の海が映っていた。正確には、海そのものはほとんど見えない。港の灯りが暗い水面に細長く伸び、ときおり波に崩されているだけだった。ジャンはソファに腰を下ろし、タブレットを開いた。画面には、一人の女性についてまとめられた資料が表示されている。朝倉エマ。三年前から、この町で暮らしている女性。現在の勤務先、住居、交友関係、金銭面、確認できる範囲での経歴。美術市場との接点も、犯罪組織との関係も、特に見つからなかった。念入りに調べたつもりだった。それでも、エレナへ繋がるものは何ひとつ出てこない。「……綺麗なものだね」ジャンは小さく呟いた。不自然に整えられた経歴という意味ではない。本当に、ただ静かに暮らしている女性の記録だった。もっとも、三年前より以前の経歴には、確認できない部分もある。それだけで疑うのなら、世の中の人間をいくらでも疑えてしまうだろう。そろそろ終わりにしてもいい。そう思いながら、もう一度資料を遡った。数年前。エレナの最後の一枚を追っていた頃、彼女の死について僅かに不自然な情報を拾ったことがあった。死亡時の周辺情報。関係していた犯罪組織。その後、妙に途切れた記録。死亡偽装。そんな可能性まで、個人的に調べたことがある。だが、確証は得られなかった。だからこそ、この町でエレナによく似た女性を見たとき、忘れかけていた疑念が蘇ったのだ。けれど。この一週間、エマと話してみて分かった。彼女は、エレナではない。少なくとも、ジャンにはそう思えた。エレナは、自分の才能に対して驚くほど傲慢だった。自分が何を見ているのか。何を描けるのか。その感覚を疑うことがなかった。彼女にとって、世界はまず自分の目を通して存在していた。それが、あれほど強烈な作品を生み出す理由でもあった。一方、エマは違う。人を見る。相手が言葉にする前に、その表情を確かめる。自分の言葉が誰かを傷つけないか、一度考えてから口にする。そのくせ、境界線を越えられると容赦がない。『別人の故人の話を、私に当てはめないでください』あのときの顔を思い出し、ジャンは笑った。自分にあんな態度を取る人間は、最近ではほとんどいない。財団の人間も、美術館関係者も、コレクターも。ジャン・モローという名前を知る人間ほど、多少は態度を
Last Updated : 2026-10-10 Read more