All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話:違うはずだった

*** ホテルの窓には、夜の海が映っていた。正確には、海そのものはほとんど見えない。港の灯りが暗い水面に細長く伸び、ときおり波に崩されているだけだった。ジャンはソファに腰を下ろし、タブレットを開いた。画面には、一人の女性についてまとめられた資料が表示されている。朝倉エマ。三年前から、この町で暮らしている女性。現在の勤務先、住居、交友関係、金銭面、確認できる範囲での経歴。美術市場との接点も、犯罪組織との関係も、特に見つからなかった。念入りに調べたつもりだった。それでも、エレナへ繋がるものは何ひとつ出てこない。「……綺麗なものだね」ジャンは小さく呟いた。不自然に整えられた経歴という意味ではない。本当に、ただ静かに暮らしている女性の記録だった。もっとも、三年前より以前の経歴には、確認できない部分もある。それだけで疑うのなら、世の中の人間をいくらでも疑えてしまうだろう。そろそろ終わりにしてもいい。そう思いながら、もう一度資料を遡った。数年前。エレナの最後の一枚を追っていた頃、彼女の死について僅かに不自然な情報を拾ったことがあった。死亡時の周辺情報。関係していた犯罪組織。その後、妙に途切れた記録。死亡偽装。そんな可能性まで、個人的に調べたことがある。だが、確証は得られなかった。だからこそ、この町でエレナによく似た女性を見たとき、忘れかけていた疑念が蘇ったのだ。けれど。この一週間、エマと話してみて分かった。彼女は、エレナではない。少なくとも、ジャンにはそう思えた。エレナは、自分の才能に対して驚くほど傲慢だった。自分が何を見ているのか。何を描けるのか。その感覚を疑うことがなかった。彼女にとって、世界はまず自分の目を通して存在していた。それが、あれほど強烈な作品を生み出す理由でもあった。一方、エマは違う。人を見る。相手が言葉にする前に、その表情を確かめる。自分の言葉が誰かを傷つけないか、一度考えてから口にする。そのくせ、境界線を越えられると容赦がない。『別人の故人の話を、私に当てはめないでください』あのときの顔を思い出し、ジャンは笑った。自分にあんな態度を取る人間は、最近ではほとんどいない。財団の人間も、美術館関係者も、コレクターも。ジャン・モローという名前を知る人間ほど、多少は態度を
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第132話:最後の夜の訪問者

翌日。展示の最終調整は、予想以上に長引いた。借り入れ作品の保険条件。輸送経路。照明の角度。展示室の湿度管理。帰国前に確認しておきたいことは、いくらでもあった。「ここ、もう少し落とせない?」ジャンは展示室の中央に立ち、壁面を指した。担当者が照明の調整を始める。少しずつ、作品の表面に落ちる光が変わっていく。「……そこ」ジャンが手を上げた。「そのくらいがいい」隣にいた学芸員が、ようやく安堵した顔をした。「モローさん、本当に細かいですね」「いい作品だからね」ジャンは当然のように答えた。「いい作品ほど、見せ方で損をさせたくない」そこで、不意にエマの言葉を思い出した。『最初に色を見せすぎると、それだけで満足する人がいるので』あのとき、彼女はほとんど迷わず照明を選んだ。しかも、理由まで明確だった。感覚だけで判断したのではない。鑑賞者がどこを見るのか、どの順番で作品を理解するのか。そこまで考えていた。「……本当に面白い」「何か?」学芸員に聞かれ、ジャンは首を振った。「いや、何でもない」明日には、この町を出る。一週間。思っていたより短かった。展示の調整は十分に進んだし、フェスティバルの準備も順調だ。仕事としては、申し分ない滞在だった。それでも。もう少しだけ、ここにいてもよかったと思っている。その理由が、展示だけではないことも分かっていた。*美術館を出た頃には、すっかり日が暮れていた。港へ向かう道には、まだ昼間の熱が残っている。海から吹く風が、少し湿っていた。ジャンは車の窓を開け、街並みを眺めた。毎日通ったカフェ。あの小さな店へ行けば、エマがいる。最初は、エレナによく似た女性だった。それだけの理由で気になった。けれど今は違う。朝倉エマという、少し変わった女性。人のことはよく見るのに、自分のことは話さない。絵について聞けば逃げる。それでいて、話し始めれば遠慮がない。自分の肩書きにも興味がない。何より、思っていた以上によく笑う。「……もう少し話したかったな」口に出してから、自分で少し驚いた。一週間も、ほとんど毎日会っていたというのに。まだ足りないらしい。そこで、昨夜の資料を思い出した。海岸沿いの倉庫。もし本当に絵を描いているなら。一度くらい、見せてもらいたい。嫌だと
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第133話:その絵を、知っている

最初に目に入ったのは、海だった。深い青の下に、鈍い緑。その奥には灰色に近い紫が沈み、僅かな暖色が、夜明け前の光のように滲んでいる。幾重にも重ねられた色が、互いを消すことなく、水の奥行きを作っていた。静かな海だった。それなのに、見つめていると、遠くからゆっくりと潮が満ちてくるような錯覚を覚える。ジャンは、無意識に息を止めた。「……」何だ、これは。画面の手前に残された光は、海を明るくするためのものではない。むしろ、暗い場所がどれほど深いのかを意識させるために置かれている。そして、その海の前には、一人の男がいた。まだ輪郭しか描かれていない。顔も分からない。けれど、その男がいるだけで、絵の意味が変わっていた。誰かが見た海。あるいは、誰かと見たかった海。「……ジャン?」エマの声がした。ジャンは答えられなかった。手にしていたワインが滑り落ちそうになり、慌てて瓶の首を握り直す。趣味や落書き。そんな軽い想像は、もう消えていた。これは、長い時間をかけて描いてきた人間の絵だ。どこを描かずに残すのか。どこで色を止めるのか。何を隠し、何を見せるのか。その選択が、画面の隅々にまで行き届いている。ジャンは、数え切れないほどの作品を見てきた。だから分かる。これは、単に上手い絵ではない。描くことを、自分の言語として使ってきた人間の絵だった。「……なんで」声が漏れた。似ていない。エレナの絵とは、まったく似ていなかった。あの頃のエレナは、もっと激しかった。怒りも、欲望も、寂しさも、隠すより先に色が叫んでいた。けれど、この絵は違う。感情を何層もの色の下へ沈め、見る者に答えを与えない。優しさも、後悔も、愛情も、喪失も。どれか一つに決めることを拒んでいる。だからこそ、ジャンの背筋に冷たいものが走った。ずっと昔。パリのアトリエで、エレナと夜が明けるまで絵の話をしたことがある。『いつか、今の描き方を全部捨ててみたいの』『君が?』『そう。感情をそのまま出すんじゃなくて、色の下に時間を入れてみたい』エレナは、飲みかけのワインを揺らしながら笑った。『最初に見たものと、五分後に見えるものが違う絵。見る時間そのものが、作品を変えるような』あの頃、彼女自身にも方法は分からなかった。少なくとも、ジャンが知る限り、作品にはならなか
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第134話:欲しい作品

倉庫の外では、波が一定の間隔で砕けていた。半分ほど開いたシャッターから潮風が入り込み、天井の照明を僅かに揺らしている。ジャンは、まだキャンバスの前に立っていた。『僕が、何に気づいたのか。もう分かってるんじゃない?』その言葉を最後に、二人の間には沈黙が続いていた。エマは、ジャンの横顔を見つめた。知っている顔だった。欲しい作品を見つけたとき、この人は決まってこうなる。まず黙って作品を見る。画家が何を描き、何を捨てたのかを読み取る。それから何気ない質問を重ね、制作の動機を引き出していく。気づいたときには、相手が自分から作品について話している。昔から変わらない、ジャンの交渉のやり方だった。「……随分、真剣に見ますね」エマは、できるだけ普段通りに言った。「いい絵だからね」ジャンは振り返らなかった。「これ、売るつもりはある?」「ありません」「まだ値段も聞いてないのに?」「値段の問題じゃないので」「なるほど」ジャンの口元が、僅かに緩んだ。その表情に、エマの胸が嫌な音を立てる。断られることを、この人は恐れない。むしろ、断る理由に興味を持つ。「じゃあ、どうして手放したくないの?」「まだ完成してませんから」「完成したら?」「……考えてません」「惜しいな。これだけのものを描いておいて」ジャンは腕を組み、もう一度海を見た。「でも、分からなくもない。これは誰かに見せるための絵じゃないんだろうね」エマの指が強張った。「……何が言いたいんですか」「君が何を描こうとしたのか、知りたいだけだよ」その声は穏やかだった。「どうして、感情を色の下に隠したの?」「そういう表現が好きだからです」「昔から?」「昔は、違いました」言ってから、しまったと思った。ジャンがゆっくり振り返る。「昔?」「……以前も、少し描いていたので」「どんな絵を?」「覚えてません」「自分の絵なのに?」「全部覚えている人なんていないでしょう」思わず、語気が強くなった。ジャンは笑わなかった。「そうだね。忘れたい絵もあるだろうし」その言い方に、エマは唇を結んだ。「……何が言いたいんですか」「君の絵を見て、昔の知り合いを思い出したんだ」「またエレナですか」名前を出した瞬間、後悔した。ジャンの眉が、僅かに上がる。「君は、彼女の話にな
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第135話:玲には言わないで

「……もう帰ってください」エマの声は、自分でも驚くほど硬かった。ジャンは、手にしていたワインへ視線を落とした。「本当は、これを一緒に飲んで帰るつもりだったんだけどね」少しだけ苦笑する。「君の絵を見て、面白いねって言って。明日にはヨーロッパへ帰るつもりだった」「だったら、そうしてください」「そうしたかったよ」ジャンの笑みが消える。「でも、もう知らないふりはできない」エマは、作業台の端を握った。この人は昔から、作品に対して容赦がなかった。有名な画家でも、無名の新人でも関係ない。気になるものを見つければ、その背景を徹底的に調べる。画家が何を隠していても、作品から読み取ろうとする。エレナだった頃、そんなジャンを頼もしいと思っていた。自分の絵を、誰よりも真剣に見てくれる人だったから。今は、その執念が恐ろしい。「……私を調べたんですか」「うん」「最低ですね」「そうだね」ジャンはあっさり認めた。「でも、昔から引っかかってたことがあった。エレナの死について」エマは息を止めた。「君の経歴も調べたよ。三年前にこの町へ来たことは分かった。でも、どうしてここを選んだのかが分からなかった」「海が好きだからです」答えが早すぎた。ジャンの目が細くなる。「そう。エレナも海が好きだった」「海が好きな人なんて、いくらでもいます」「玲と行った港町も、綺麗だったね」その名前に、エマの肩が強張った。「……何の話ですか」「エレナと玲が、昔二人で行った場所の話」ジャンは、キャンバスへ視線を移した。「ところで、この男は誰?」「……誰でもありません」「誰でもない男を、こんなに大切に描くの?」「まだ途中です」「完成したら、顔を描く?」「分かりません」「玲に似ているね」「まだ顔も描いてないでしょう」言い終えて、エマは唇を噛んだ。ジャンが、ゆっくりこちらを見る。「僕は、顔の話をしていないよ」倉庫の空気が、急に冷たくなった。この人はもう、答えを知っている。今の質問は、正体を確かめるためではない。何を隠したいのか。どこまで認めるつもりなのか。それを見極めている。「……エマ」ジャンは、穏やかな声で続けた。「もし、君が僕の考えている人なら、どうして玲に会っても何も言わなかったの?」エマは顔を上げた。「……何のことで
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第136話:八年ぶりの君

「こんな時も、君はあいつのことしか考えてないんだね」ジャンの声が、静かな倉庫に落ちた。エマは答えられなかった。半分ほど開いたシャッターの向こうでは、暗い海が白い波を寄せている。潮を含んだ風が入り込み、作業台に広げていた薄い布の端を揺らした。ジャンは、もう質問をしなかった。先ほどまで、欲しい作品を見極めるコレクターの目でキャンバスを眺めて。答えを引き出すように問いかけていた。今は違う。目の前にいる人間が、本当にそこにいるのかを確かめるように。エマを見つめていた。昔、パリで何度も向けられた眼差しだった。その懐かしさに、胸が苦しくなる。「……何か言ってよ」沈黙に耐えきれず、エマが口を開いた。「言いたいこと、あるでしょう」「あるよ」ジャンはすぐに答えた。「ありすぎる」少しだけ昔の調子が戻ったものの、彼は続けなかった。視線を落とし、手にしたワインの瓶を見つめる。冷えたガラスには水滴が浮かび、指の間をゆっくり伝っていた。「……変だな」ジャンが苦笑する。「僕、もっと色々言うと思ってたんだけど」「例えば?」「どうして生きてるのか。八年間、どこにいたのか。僕らに何も言わなかったことを怒るとか」エマは俯いた。責められる覚悟なら、していた。むしろ、その方が楽だったかもしれない。「でも、今の君を見てると」ジャンは言葉を選んだ。「聞いていいことと、まだ聞くべきじゃないことがあるんだろうなって」顔を上げると、彼の表情から先ほどまでの鋭さが消えていた。「エレナの死を調べたとき、普通の死亡記録としては説明できないことがいくつもあった」ジャンは、棚の上にワインを置いた。「作品の流通経路も、当時君の周りにいた人間も。それに、犯罪組織との関係も」エマの指先が強張った。ジャンはその反応を見たが、追及しなかった。「やっぱり、無関係じゃなかったんだね」「……どこまで知ってるんですか」ジャンが眉を寄せる。「今、僕に敬語を使うんだ」「……こんな時に、それ?」「気になるよ。昔はそんな話し方しなかっただろう」エマは言葉に詰まった。八年間、誰にも見せなかった自分を、目の前の人間だけが知っている。「……ジャン」呼び直すと、彼の目元から僅かに力が抜けた。「うん」その返事まで、昔と同じだった。「どこまで知ってるの」「全部
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第137話:帰れなくなった理由

「……ジャン」エマが改めて呼ぶと、彼はすぐにこちらを向いた。「玲には、本当に——」「言わないよ」最後まで言わせず、ジャンが答えた。「君が最初にそれを言った時点で、何か事情があるのは分かった」エマは、すぐには安心できなかった。ジャンはその表情を見て、苦笑する。「信用ないな」「勝手に身辺調査する人だから」「それは謝る」「反省してないでしょう」「今はかなりしてるよ」軽く返しながらも、ジャンの目は真剣だった。「僕が知っている範囲だけでも、君が生きていることを公にすべきじゃない可能性がある。そこは理解してる」エマは顔を上げた。「だから、玲にも言わない。君が自分で話すと決めるまでは」その言葉に、ようやく胸の奥の緊張が緩んだ。ジャンは約束を軽く扱わない。少なくとも、昔の彼はそうだった。「……ありがとう」「どういたしまして」ジャンは穏やかに答えた。それから、棚に置いたワインを手に取った。「これ、どうしようか」「持って帰れば?」「せっかく買ったのに」「頼んでないもの」「相変わらず手厳しいな」ジャンは笑ったが、すぐに瓶を棚へ戻した。「……エマ。明日、僕はヨーロッパへ帰る予定だった」「知ってる」「でも、帰れなくなった」エマが眉を寄せる。「どういう意味?」「君が生きていると分かった以上、何もなかったように飛行機に乗るわけにはいかない」ジャンはスマートフォンを取り出し、画面を確認した。明日の便。現地で予定していた打ち合わせ。帰国後に会うはずだったコレクターたち。すでに組まれた日程を見つめ、短く息を吐く。「少なくとも、もう一日は必要だ」「……私のために予定を変えなくていい」「君のためだけじゃないよ」ジャンは顔を上げた。「僕自身が、整理しなきゃいけないこともある」エマは何も言わなかった。「八年間、死んだと思っていた友人が目の前にいる。それに、君の身に何が起きたのかも分からない」少しだけ、声が厳しくなる。「そんな状態で帰って、遠くから調べ始める方がよほど危険だ」その言葉には、反論できなかった。ジャンは、エマの秘密を知った。彼が動けば、どこかに痕跡が残る。それがどんな結果を招くのか、今は誰にも分からない。「……分かった」エマが答えると、ジャンは頷いた。「じゃあ、明日の予定を変える」その
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第138話:もう、嘘をつかなくていい

「玲には言わないよ」ジャンは迷わず答えた。「君が最初にそれを言った時点で、何か事情があるのは分かった。それに、今の状況で君が生きていることを誰かに話すべきじゃない可能性くらい、僕にも想像できる」半分ほど開いたシャッターの向こうで、白い波が砕けていた。潮を含んだ風が倉庫に入り込み、床に落ちた薄い布を揺らす。ジャンは作業台の横に立ち、エマが言葉を返すのを待っていた。「……本当に、誰にも言わない?」「言わない」「玲にも?」「玲にも」「絶対に?」ジャンの眉が僅かに寄った。「エレナ」その名前に、エマの呼吸が止まった。八年ぶりだった。誰かが、自分に向かってその名前を呼ぶのは。ジャンも、口にしてから暫く黙っていた。「……僕が、君の生死に関わることで約束を破ると思う?」低い声には、微かな痛みが滲んでいた。エマは首を振った。疑っているわけではなかった。ただ、八年間、名前も過去も、絵を描いていたことさえ隠してきた。玲にエレナの話をされても、他人の思い出を聞くように振る舞った。秘密を守ることが、いつの間にか生きることそのものになっていた。「……ごめん。言わないことに、慣れすぎたの」ジャンは何も言わなかった。「エレナを知っているかと聞かれれば、知らないって答えて。似ていると言われれば、別人だと言って」エマは、絵の具のついた指先へ視線を落とした。「自分が描いた絵の話をされても、知らないふりをしてきた。玲にも、ずっと」最後の言葉だけ、うまく声にならなかった。ジャンがゆっくり息を吐く。「……じゃあ、僕には?」顔を上げる。「僕には、もう嘘をつかなくていい?」その問いかけは、思っていたよりもずっと優しかった。エマは唇を噛み、少しだけ俯いた。「……うん」それから、もう一度ジャンを見る。「あなたには、もういい」ジャンの表情が崩れた。いつも余裕があり、どんな相手にも言葉を選び損ねることのない人だった。そんな彼が、何かを言おうとして口を開き、そのまま閉じた。「……ちょっと待って」片手で口元を覆い、目を閉じる。エマは戸惑った。「ジャン?」「ごめん。僕、本当に……」そこで声が途切れた。「死んだと思ってたから」胸の奥が締めつけられた。当たり前だった。死んだと思わせるために消えたのだから。それが誰かを傷つけるこ
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第139話:おかえり

ジャンが身体を離したとき、エマは慌てて頬を拭った。けれど、彼は両肩に手を置いたまま、じっと顔を覗き込んでくる。「……泣いてる」「見れば分かるでしょう」「エレナが?」「うるさい」「君が泣くところなんて、ほとんど見たことないから」「ジャン」「ごめん」そう言いながら、彼の目にも明らかに涙が滲んでいた。エマは眉を上げる。「あなたもじゃない」「これは……年齢かな」一瞬、言葉を失った。それから、思わず笑ってしまう。「八年で随分、言い訳が下手になったね」ジャンも笑った。窓のない倉庫には、波の音と、二人の小さな笑い声だけが響いていた。ジャンの手が肩から離れる。ただ、片方の手だけはエマの腕に残った。まだそこにいることを確かめたいような触れ方だった。「……聞いてもいい?」「うん」「何があったの?」先ほどまでとは違う、静かな問いかけだった。エマは視線を落とした。床には、描きかけの小さなキャンバスがいくつか立てかけられている。どれも海を描いたものだった。八年前、二度と絵を描けないと思ったことがある。名前を捨て、道具を手放し、自分の手が何を作れるのかさえ忘れようとした。「……殺される可能性があったの」ジャンの指が、腕の上で止まった。「私だけじゃなくて、近くにいる人も」「玲も?」エマは暫く黙ってから頷いた。「……特に」ジャンは目を閉じた。「だから、死んだことにした?」「そう」「誰が手配したの?」「それは、まだ言えない」「分かった」あまりにも簡単に引き下がったので、エマは顔を上げた。「……聞かないの?」「聞きたいよ。全部」ジャンは真っ直ぐ答えた。「どこにいたのかも、どうやって生きてきたのかも。どうして、この町だったのかも」彼は腕から手を離した。「でも、君が八年かけて守ってきたものを、再会してすぐ全部吐かせるほど馬鹿じゃない」エマは少しだけ目を細めた。「昔なら聞いたでしょう」「昔ならね」「変わったね」「君ほどじゃないよ」ジャンは微笑んだ。「エレナだった頃より、ずっと静かになった。人のことも、よく見るようになった」「前が酷かったみたいに言わないで」「酷かったよ」「帰って」「今それ言える?」「言える」ジャンが笑った。その笑い方を、エマは覚えていた。パリのアトリエで、気に入らな
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第140話:まだ終わっていない

ワインの栓が抜けると、倉庫に微かな果実の香りが広がった。ジャンは紙コップへ少しだけ注ぎ、自分のグラスにも同じ量を入れる。「……乾杯」「何に?」エマが聞くと、ジャンは少し考えた。「君が生きていたことに」その答えに、胸が温かくなった。「……うん」二人は静かにグラスを合わせた。薄い白ワインは冷たく、柔らかな酸味が舌に残った。ジャンは一口飲むと、キャンバスの方へ視線を向ける。「それにしても、本当にいい絵だね」「またその話?」「だって、まだ欲しいと思ってるから」「売らないよ」「分かってる。今夜は交渉しない」「今夜は?」「明日以降は分からない」エマは呆れたように笑った。昔から、この人はそうだった。欲しい作品があれば、何年でも待つ。画家が納得するまで、無理に手放させようとはしない。けれど、諦めることもしない。「……変わらないね」エマが言うと、ジャンは少しだけ目を細めた。「君にそう言われるのは、悪くないな」二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。外では波が寄せ、遠くで船のエンジン音が低く響いている。ジャンはワインをもう一口飲み、グラスを作業台へ置いた。「……ただ、一つ話しておきたいことがある」声色が変わった。エマが顔を上げる。「何?」「最後の一枚について」その言葉に、指先が止まった。八年前。エレナが最後に描いた作品。自分の人生を変えることになった、あの一枚。「……まだ追ってるの?」「うん。ずっとね」ジャンは静かに答えた。「作品の所在も、当時の流通経路も。全部が分かったわけじゃないけど、最近になって動きがあった」「……どんな?」「八年前、君の死について調べていたときの情報と、最近追っていた作品の流通経路が繋がったんだ」エマは、グラスを置いた。ジャンは続ける。「当時、作品を動かしていた人間の一部が、別の名前で今も取引に関わっている可能性がある」「……誰?」「まだ確証はない。だから名前は出せない」ジャンの表情には、先ほどまでの柔らかさがなかった。作品の来歴を追い、関係者の証言を精査するときの、鋭い眼差しだった。「でも、それだけじゃない」エマは黙って続きを待った。「その経路を調べているうちに、君の死亡記録について、もう一度疑問を持つようになった」「……どうして?」「作品の動きが、君の死
last updateLast Updated : 2026-10-16
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