All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話:会う理由

それから数日。玲との連絡は、不思議なくらい静かに続いた。毎日ではない。長いやり取りもしない。フェスティバルの確認事項があれば、玲から短いメールが来る。エマが返す。それだけで終わる日もあれば、最後に一文だけ、仕事とは関係のない言葉が混ざることもあった。『今日は海がかなり青いですね』『こちらは少し灰色に見えました』『エマさんの方が正しい気がします』正しいも何もないでしょう。そう思いながら。エマは、『見る場所によると思います』と返していた。そんなやり取りをする必要はない。分かっている。それなのに。玲から通知が届けば、以前より早く画面を見るようになった自分にも気づいていた。***その日の午後。フェスティバルの広場では、本番を想定した二度目の動線確認が行われていた。黒板の前には、子どもたちが描く位置を示すテープ。横には色別に分けられたチョーク。以前より資材も増え、簡易テーブルや作品を乾かす棚まで用意されている。「朝倉さん、大きいキャンバスも届きましたよ」担当者に言われ、エマが振り返った。壁際には、梱包された数枚のキャンバス。先日。玲が何気なく言っていたものだ。――必要とする人が、ほかにも出てくるかもしれませんから。結局、本当に用意したらしい。「子どもたちに使うんですか?」「自由制作で使おうかと。神崎財団から、用途は限定しなくていいと言われてます」「そうですか」それだけ返す。自分には関係ない。そう思いながら。キャンバスの大きさを無意識に測っていた。横幅。高さ。このサイズなら。オイルスティックで大きな線を入れたら綺麗だろう。そこまで考えて。エマは視線を外した。まただ。最近。何かを見ると、描くところまで考えてしまう。八年間。止め続けていたものが。一度動き始めた途端、以前より強くなっている気さえした。「気になります?」背後から聞こえた声に。肩が僅かに揺れた。振り返る。玲が立っていた。「……また、いつからいらしたんですか」思わず言うと。玲が少し笑った。「五分くらい前です」「声をかけてください」「楽しそうに見ていたので」「見ていただけです」「はい」否定しない。そのくせ。明らかに信じていない顔だった。エマは小さく息を吐いた。「神崎さん、最近少し意地悪にな
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第92話:ビーチハウス

『ビーチハウスで、浜中さんや美術館、フェスティバル関係者を招いて小さなパーティーをします』あの話。本当に企画したらしい。続けて。『先日お約束いただいたので、正式にお誘いします』エマは画面を見た。逃げ道がない。自分で行くと言った。『承知しました』送信。数秒後。『ありがとうございます』それだけ。仕事のようなやり取り。なのに。ふと顔を上げると。向こうで玲がこちらを見ていた。目が合う。そして。笑った。エマは思わず視線を逸らした。メールにする意味なんて。最初からなかったのではないか。***帰ろうとしたところで。「エマさん」結局、直接呼び止められた。「はい」「土曜日、ありがとうございます」「皆さんいらっしゃるのであれば」無意識に強調する。玲は苦笑した。「分かっています」「でしたら」「でも」言葉を重ねられる。「僕は、エマさんが来てくださることが一番楽しみです」また。そんなことを。「……そういうことを自然に言うの、ずるいですね」エマは小さく呟いた。玲の目が少し見開かれる。今日は。言葉が漏れすぎている。「何がずるいんですか」「何でもありません」「気になります」「忘れてください」「それも嫌です」エマはとうとう笑ってしまった。この人。こんな人だっただろうか。いや。エレナの前では。こんなところもあった。真面目で。丁寧で。それなのに、一度欲しいと思ったものについては意外なほど諦めが悪い。ただ。今。その部分を向けられているのは。エマだった。「では、土曜日に」逃げるように言う。玲は、それ以上追わなかった。「はい。お待ちしています」少し歩いてから。エマは振り返らなかった。振り返れば。まだ見られている気がしたから。***その夜。プレハブ倉庫。エマは描きかけのキャンバスの前に立っていた。玲からもらった濃い緑。浜中から譲られたオイルスティック。以前より増えた画材が、棚に並んでいる。筆を取る。最近。ここへ来る回数が明らかに増えた。描きたい。何かが動くたびに。その感情を、色へ置きたくなる。キャンバスには。少しずつ人の気配が増えている。昔のエレナの絵にはなかったもの。誰かが画面へ入ってきても。拒まない余白。エマは濃い緑を重ねた。その
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第93話:いつか見せてよ

土曜日。浜中さんとの待ち合わせ時間を確認して、エマはようやく時計を見た。「……まずい」思っていたより、二十分も過ぎている。ほんの少しだけ。乾いた色の上へ、昨日から気になっていた青を置くだけのつもりだった。それなのに一度筆を持つと、次の色が気になった。その次は、光の入り方。気づけばキャンバスの前から動けなくなっていた。外から車の音が聞こえる。浜中さんだ。エマは慌ててほとんど片付けることなく、倉庫の扉を開ける。「すみません、お待たせしました」「いやいや。俺も今来たところ――」浜中さんの言葉が止まった。視線が、エマの腕へ落ちる。「……何ですか?」「袖」見れば、白いシャツの袖口に青緑の絵の具がついていた。「あ」洗う時間はない。エマは諦めて袖を一度折った。浜中さんが楽しそうに笑う。「ずいぶん夢中だったみたいだね」「時間を見ていなかっただけです」「それを夢中っていうんじゃないの」「行きましょう」誤魔化すように倉庫へ鍵をかける。「いつか見せてよ」不意に言われて。指が止まった。「……何をですか」「今描いてるもの」振り返ると。浜中さんは、いつもの穏やかな顔をしていた。「無理にとは言わないよ。あれだけ夢中になるものなら、ちょっと見てみたいだけ」エマは少しだけ迷った。以前なら。見せることはありません。そう答えていたと思う。けれど。「……まだ、見せられるようなものではないので」今日は、そう答えた。浜中さんは何も追及しなかった。「じゃあ、いつかだな」そのまま、トラックへ向かう。エマはその背中を見ながら。自分が否定しなかったことに、少し遅れて気づいた。***ビーチハウスは、町でも有名な建物だった。海岸線を少し上がった場所。コンクリートとガラスで作られた低い建物が、海へ向かって伸びている。「やっぱりここだったかあ」浜中さんがトラックを停めた。「ご存じなんですか?」「建った時は町でも話題だったからね。設計した人も有名だよ」外から見ただけでも美しい。けれど。中へ入って最初に感じたのは。生活感がない、だった。家具は必要最低限。大きなガラス窓。広い壁。何も置かれていない場所が多く、どこを見ても海へ視線が抜ける。美しい。それでも。玲が半年暮らす場所だと言われなければ、誰かの
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第94話:見せたかったもの

***中にはすでに十数人ほど集まっていた。美術館関係者。フェスティバルのキュレーター。財団の担当者。以前、顔だけ見たことのある人もいる。料理は町のレストランからケータリングされていた。地元の魚や野菜を使ったものが多く、立食に合わせて小さな皿へ整えられている。「朝倉さんですよね?」声をかけられた。振り返ると、美術館関係者の男性が立っていた。「はい」「やっぱり。前から一度話してみたかったんですよ」「私と、ですか?」「町では有名ですよ」嫌な予感がする。「カフェにいる美人さん。でも奏くんがいるから、なかなか話しかけられないって」エマは苦笑した。また、その話。「奏さんは店長なので、スタッフを気にかけてくださっているだけです」「そうかなあ」別の女性まで会話へ入ってくる。「千早くん、エマさんのことになると分かりやすいって聞くけど」「そんなことありませんよ」笑って流す。けれど。そこから話題は、エマが子どもたちへ絵を教えていることへ移った。「黒板の絵もエマさんなんでしょう?」「少しお手伝いしているだけです」「浜中さんも感性を褒めてましたよ」「本当に絵は描かないんですか?」一人。また一人。いつの間にか。エマの周りに人が増えている。悪意はない。むしろ好意的だった。だからこそ。逃げる理由がない。「昔、美術を勉強されてたんですか?」「いえ、そんな大したものでは」「今度、美術館の企画も見てもらいたいな」「私より適任の方が――」笑顔を保ちながら。少しずつ疲れていく。距離が近い。質問が多い。昔のような取材ではないのに。大勢の視線が自分へ集まる感覚だけが。身体の奥に残っている記憶を刺激する。その時だった。「エマさん」聞き慣れた声がした。人の間から玲が現れる。「少しよろしいですか?」「……はい」思ったより早く返事が出た。玲が周囲へ軽く頭を下げる。「すみません。少しお借りします」ごく自然だった。仕事の確認でもあるような顔で。エマをその輪から連れ出す。数歩離れたところで。「助かりました」小さく言うと。玲がこちらを見る。「やっぱり」「何がですか?」「少し疲れていらっしゃったので」エマは黙った。「そんなに分かりやすかったですか」「僕には」短い返事だった。それが。
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第95話:あなたなら、どう見る

「エマさんに、見せたかったんです」玲の言葉に、エマはすぐには返事をしなかった。三階の一室には、二人しかいない。階下から人の話し声がかすかに届いているものの、厚い扉を隔てると別の家にいるように遠かった。海へ面した大きな窓からは夕暮れ前の光が入り、壁に掛けられた一枚を柔らかく照らしている。自分の三作目。十九歳の頃に描いた絵。玲と出会ったのも、ちょうどこの頃だった。エマは作品を見たまま、慎重に尋ねた。「どうして、私に?」玲は少し考えてから答えた。「あなたが、どう感じるのか知りたいと思って」それだけだった。試しているわけではない。エレナとの共通点を探ろうとしているようにも見えない。純粋に。朝倉エマという人間が、この絵をどう見るのか。それを知りたくて、東京からわざわざ運んだのだ。そのことに気づくと。かえって胸がざわついた。自分が描いたものについて。自分自身が、意見を求められている。奇妙だった。「……難しいですね」エマが小さく笑う。「そうですか?」「有名な作品に、私が何を言っても」「有名かどうかは関係ありません」玲はすぐに答えた。「僕は、エマさんの意見が聞きたいんです」また。真っ直ぐだ。最近の玲は、以前にも増してそうだった。欲しいものを曖昧にしない。知りたいなら、知りたいと言う。会いたいなら、会いたいと言う。エマに対してだけ。そのことが、相変わらず落ち着かなかった。玲は絵の方へ視線を戻した。「実は」少しだけ声が変わる。「エレナは、この作品について僕に説明しようとしませんでした」エマの胸が、僅かに痛んだ。覚えている。初めて玲に見せた時。まだ付き合い始める前だった。玲は長い間、絵を見ていた。そして。何を描きたかったの、と聞いた。エレナは。『別に』とだけ答えた。本当は。恥ずかしかった。玲に見られることが。あの頃の作品は、まだ自分と近すぎた。絵の中に置いたものと、自分自身を上手く切り離せていなかった。何を感じて描いたのかを説明すれば。そのまま自分の内側まで見られてしまう気がした。だから。話さなかった。「いつか聞けばいいと思っていました」玲は穏やかに続けた。「そのうち、教えてくれるだろうって」わずかに笑う。けれど。目には、寂しさがあった。「そう思っている
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第96話:行くとか、行かないとか

「僕はずっと、この絵は『行けない人』を描いたものだと思っていました」窓辺に立つ人物。その向こうの明るい景色。「外は明るい。行こうと思えば行ける。でも、この人は背を向けたまま動かない」玲の視線が、女性の背中を追う。「だから、外へ行きたいのに行けない。自分で選べない状態にいる人だと」少し黙る。「当時のエレナは、まだ評価も今ほど大きくなかった。これからどこへ行くのか、自分でも分からなかった時期です」エマは聞いていた。玲らしい。十九歳の頃にも。おそらく同じようなことを考えていた。少し希望的で。エレナが前へ進むことを疑っていない解釈。「でも」玲は続ける。「浜中さんと展示について話した後、少しだけこの絵の見方も変わりました」「今は、行けないのではなく」玲がゆっくり言葉を選ぶ。「行かないことを選んでいた可能性もあるのかと思っています」エマは絵を見た。何も答えなければいい。曖昧な感想を。朝倉エマとして返せばいい。それなのに。懐かしさが邪魔をする。あの頃。玲へ言えなかった。本当のこと。今。知らない人間の感想としてなら。言ってもいいのではないか。そんな危険な考えが浮かぶ。「……私は」口を開き。一度止めた。玲は急かさない。ただ待っている。その目が。昔よりもずっと静かだった。エマは作品を見る。「行くとか、行かないとか」慎重に言葉を選ぶ。「それ自体が、この人にとってはあまり重要ではなかったんじゃないでしょうか」玲の目が僅かに動く。「どういう意味ですか」「外が明るいことも知っている。今いる場所が、ずっといられる場所ではないことも分かっている」エマはそこで止めた。これ以上。作者の言葉になってはいけない。「でも」玲が続きを待っている。「……誰かに次を決められることに、疲れていたように見えます」玲の表情が止まった。エマはすぐに視線を作品へ戻した。「私なら、そう見えるというだけです」逃げ道を作る。けれど。胸の鼓動が速い。玲はしばらく何も言わなかった。絵を見る。エマを見る。また絵を見る。「だから」静かに呟く。「動かないことが、意思だった」「そう見えます」短く答えた。玲の目に。また懐かしさが浮かぶ。「……エレナが」言葉を切る。「そう考えていても、不思議ではないです
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第97話:知らない場所で

「絵の感想を聞かせていただけたので」玲が、壁に掛けられた三作目へ視線を戻した。「そろそろ、ほかの関係者にもこの絵をお見せしようかと思います」エマは一瞬、玲を見る。あまり二人きりの時間を長引かせないようにしている。そう気づいた。以前の玲なら、自分が話したいと思えばもう少し続けただろう。今は。エマが困ることを、先回りして避けようとしている。「そうですね」エマは小さく頷いた。「せっかく皆さんいらしてますから」「はい」玲が扉を開ける。「戻りましょうか」それ以上は何も言わなかった。その配慮が。かえって胸へ残った。***一階へ戻ると、すでにケータリングの準備が整っていた。長いテーブルに、地元の魚や夏野菜を使った料理が並んでいる。ガラスの器、白い皿、冷えたワイン。人が増えたことでようやく家らしい空気が出ていたが。それでも。エマは改めて周囲を見回した。生活感がない。本当に。借り始めてすぐなのだ。棚には私物らしいものがほとんどない。本も。写真も。日用品も。玲がここへ半年住むと言ったことさえ、まだ現実感が薄かった。「エマさん」浜中さんの声がした。振り返ると。隣に一人の男性が立っていた。四十代半ばほど。細身で。黒縁の眼鏡。派手さはないが、整った身なりをしている。「紹介しようと思ってたんだ」浜中さんが言う。「黒木さん。町の美術文化事業を担当してる」男性が丁寧に頭を下げた。「黒木です。お会いできて光栄です」「朝倉エマです」エマも頭を下げる。その瞬間。黒木の視線が。少しだけエマを測るように動いた。露骨ではない。けれど。好奇心と。わずかな疑い。両方がある。「浜中さんから、よくお名前を伺っていました」「……そうなんですか?」エマが浜中さんを見る。浜中さんが。少しだけ気まずそうな顔をした。「まあ……ちょっとね」嫌な予感がする。「浜中さん」「いやいや、ちゃんと話すよ」浜中さんは笑う。「この間の展示構成の件。最終判断の時に、エマさんの名前を出しちゃってね」エマは思わず目を閉じそうになった。「出さないでくださいって」「名前そのものを外に出すな、とは聞いてたんだけど」「ほぼ同じ意味です」「そうだねえ」まったく悪びれていない。こういうところがある。猫のスケッチの時
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第98話:ひまわりの瞳

テラスへ出ると、潮を含んだ風が頬を撫でた。室内の話し声はガラス扉一枚を隔てただけで遠くなる。黒木は手すりから少し離れた場所で足を止め、エマへ向き直った。改めて正面から見ると、思っていたより端正な顔立ちをしている。年齢はエマより十歳ほど上だろうか。細い黒縁の眼鏡の奥には切れ長の目があり、表情そのものは静かだった。けれど。よく目が合う。「朝倉さん?」「……すみません」エマは反射的に視線を外した。この人は、話す時に真っ直ぐ相手を見る。それだけなのだろう。けれど、人から長く見られることに慣れていないエマには、少し落ち着かなかった。「美術館のことは、浜中さんからどのくらい聞いていますか?」「企画展について、少しだけです」「では、前提からお話しします」黒木はそう言って、美術館の成り立ちから話し始めた。港町が観光地として整備されるより前から、土地に縁のある収集家たちが少しずつ作品を寄贈してきたこと。そのため、所蔵作品は一つの時代や地域に偏らず、日本美術から近代西洋絵画まで幅が広いこと。「それが面白さでもありますが、難しさでもあります」「展示に一本の流れを作りにくい?」黒木の目が、エマへ向く。「そうです」また。視線が重なった。エマは海へ目を移した。黒木は気にした様子もなく続ける。「今回、古典作品を中心に組み直す区画があります。今ある所蔵品だけでも成立はしますが、解釈と展示の方向性を明確にするため、二作品ほど借り受けの交渉をしていまして」黒木が大まかなテーマと、現在置かれている作品の構成を説明する。エマは頭の中で並べた。壁の長さ。時代。視線の流れ。人間と宗教。生と死。説明を聞き終える前に。二枚の作品が浮かんだ。「――と、――ですか?」作品名を二つ口にする。黒木が黙った。エマはそこで、ようやく彼を見る。眼鏡の奥の目が、僅かに見開かれていた。表情を変えない人だと思っていたのに。意外だった。「……どうして分かったんですか?」「テーマをその方向に置くなら、自然かなと」「自然」黒木が小さく繰り返す。まずかっただろうか。エマは少しだけ言葉を足した。「昔、美術館を見るのが好きだったので」嘘ではない。黒木は何かを考えるようにエマを見たが、それ以上は追及しなかった。「一枚目は、おそらく借りられ
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第99話:自分だけだと思っていた

エレナの三作目を前に、人が集まっていた。玲は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。以前の自分なら。この光景を、心地よいとは思わなかったはずだ。エレナの作品を人に見せること。他人がそこへ意味を与え、好き嫌いを語り、それぞれの解釈を口にすること。それが嫌だった。自分だけが知っている彼女の一部を、知らない人間へ渡していくような感覚があった。だから作品を集めても、ほとんど外へ出さなかった。保存する。守る。二度と失わない場所へ置く。それでいいと思っていた。けれど今。美術館関係者たちが三作目を囲み、思い思いに言葉を交わしている。「この時期は、後年より色が素直ですね」「でも構図には、もう閉鎖性がある」「私はむしろ、この未整理な感じが好きです」賞賛もあれば。批評もある。それなのに。以前ほど気にならない。玲は、その変化をはっきり自覚していた。エレナを誰にも渡したくないという感覚が。少しずつ薄くなっている。忘れたわけではない。大切ではなくなったわけでもない。ただ。今の自分の感情を強く動かしているものが、別にある。エマ。彼女への気持ちが大きくなるほど。八年間、自分の中心を占め続けていた過去が、少しずつ形を変えている。そのことを。もう否定する気にはなれなかった。***今日は。少し緊張していた。それもまた。玲には珍しい感覚だった。ここは、半年間過ごすために借りた場所だ。東京の自宅とは違う。まだ自分のものもほとんど運び込んでいない。それでも。今の自分が生活する場所へ、エマを招いた。それだけで。妙に落ち着かなかった。気に入るだろうか。海は好きだろうか。人が多すぎれば疲れないだろうか。一人で来ることを警戒すると思って、浜中にも声をかけた。そんなことまで考えている自分に気づいて。玲は小さく息を吐いた。誰かを自分の生活する場所へ呼ぶだけで。こんなに緊張したのは、いつ以来だろう。スマートフォンが震えた。画面を見る。結衣からだった。『ビーチハウス、本当に借りたんですね。今度呼んでください』その下には。仕事で何度か顔を合わせた女優からも。『海の家、素敵だって聞きました。遊びに行きたいです』ほかにも数件。玲は画面を眺め。そのまま閉じた。返事をする気にならない。以前なら、必要な
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第100話:嫉妬

***階段を下りる。ガラス扉の向こうに。二人が見えた。黒木とエマ。話しているだけだった。距離も。不自然なほど近くはない。けれど。黒木の視線が。気に入らなかった。玲は足を緩める。黒木は、人の目を見て話す男だ。美術への熱意が強い。興味を持ったものへ真っ直ぐ向かう。裏がある人間ではないことも知っている。それでも。エマを見る目には。美術の話だけでは説明できない関心が混じり始めているように見えた。彼女が話せば。目を逸らさず聞く。エマが海へ視線を逃がしても。また顔を見ている。そのことが。胸の奥をざらつかせた。玲がガラス扉へ近づいた時だった。「朝倉さんの目は、不思議と見てしまいますね」黒木の声が聞こえた。玲の指が止まる。エマが。少し困ったように笑った。「そうですか」「はい」黒木は。やはり真っ直ぐエマを見ていた。「目の中に、ひまわりが咲いているようで綺麗です」胸の奥に。鋭く感情が落ちた。嫉妬。そう認めるまでに、時間はかからなかった。ひまわり。玲にとって。あの瞳をそう表現するのは。自分だけだと思っていた。琥珀と淡い茶色の中に。光が入ると、薄い緑が浮かぶ。エレナの瞳。初めて近くで見た時。目の中に小さなひまわりが咲いているようだと思った。エレナにそう伝えたこともある。それは。自分だけが見つけたものだと。どこかで勝手に思っていた。同じ瞳を持つエマへ。別の男が。同じ言葉を使った。理屈では。ただの偶然だと分かっている。それでも。気に入らなかった。「黒木さん」声は。普段と変わらず出た。黒木が振り返る。エマもこちらを見る。玲は黒木へ微笑んだ。「上で、エレナ・カワサキの初期作品をご紹介しています」「エレナの?」黒木の目が動く。「三作目です。浜中さんが、黒木さんにもぜひ、と」「三作目?」明らかに表情が変わった。美術の話になると。本当に分かりやすい。「実物ですか?」「はい」黒木はすぐにエマを見る。「朝倉さん、すみません。続きはまた後ほどでも?」「もちろんです」「ありがとうございます」黒木は玲へ軽く頭を下げると、室内へ入っていった。玲は。その背中をもう一度見た。端正な顔立ち。知識もある。落ち着いている。美術への熱意も本物だ。危険な人
last updateLast Updated : 2026-09-03
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