All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話:朝倉エマ

誰なのか。玲とどんな関係だったのか。自分のどこが似ていたのか。興味を示さない。そのことにも、玲は小さく引っかかった。エマは、自分が誰なのか知らない。それは当然だった。この町で暮らす女性が、世界中の投資家やコレクターを把握している必要はない。それでも、玲は人から先に名前を知られていることに慣れていた。目の前の女性にとって自分は、突然手へ触れてきた見知らぬ客でしかない。「神崎玲と申します」気づけば、自分から名乗っていた。エマの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。あまりに僅かな変化で、見間違いだったのかもしれない。「神崎様」エマは静かに繰り返した。そこにあるのは、客へ向ける丁寧な距離だけだった。「朝倉エマです」改めて名乗る。まるで、二人の間には過去など何一つないと確認するように。朝倉エマ。玲は、その名前を胸の中で繰り返した。知らない名前。港町のカフェで働き、奏と親しく話す女性。エレナとは別の人生を持つ人。「驚かせてしまい、申し訳ありませんでした」玲が伝えると、エマは小さく首を横へ振った。「もう大丈夫です」その場を終わらせる声だった。向かいにいた結衣は、言葉を挟めないまま玲を見ていた。玲がグラスを落としたこと。初対面の女性へ触れたこと。死んだ恋人の名前を呼んだこと。そのどれもが、結衣には信じられないのだろう。「神崎さん」ようやく出た声にも、驚きが残っていた。「本当に、お知り合いではないんですよね?」「はい」玲は答えた。「僕の勘違いです」結衣はエマを見る。それから、気まずくなった空気を変えるように笑みを作った。「驚かせてしまって、すみません。私たち、フェスティバルの視察で来ているんです」奏が、その意図を汲むように応じる。「三か月後の国際アートフェスティバルですか」「はい。このカフェも景色が綺麗だと話題になっていて」結衣は窓の外へ視線を向けたあと、奏へ戻した。「それに、店長さんがすごく格好いいと聞いたので」奏の表情に、初めて困惑が浮かんだ。「俺ですか」「SNSで少し話題になっていますよ」「SNSをほとんど見ないので、知りませんでした」奏は苦笑し、エマへ顔を向ける。「エマも見ないよね」「見ませんね」エマは自然に答えた。先ほどまでの出来事が何もなかったような落ち着きだった。「
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第12話:死んだはずの私を呼ぶ声

玲たちが店を出たあとも、エマはすぐには動けなかった。窓の向こうで、黒い車の扉が開く。先に宮永結衣が乗り込み、少し遅れて玲がその後を追った。けれど、車へ乗る直前。玲は一度だけ足を止めた。カフェの方角へ振り返る。誰かを探しているような視線に、エマは反射的に身体を引いた。カウンターの陰へ隠れ、窓から見えない位置まで下がる。やがて、車は海沿いの道を走り出した。建物の陰へ入り、その姿が完全に見えなくなってから、エマはようやく息を吐いた。玲。八年間、口にしなかった名前。思い出さないようにしてきた人。調べようと思えば、いくらでも調べられた。玲は世界的な投資家となり、アートコレクターとしても頻繁にメディアへ登場しているらしい。名前を検索すれば、現在の姿も、仕事も、隣にいる女性のことも知ることができたはずだった。それでも、エマは一度も検索しなかった。SNSを見ない。美術界の記事も読まない。玲の名前が偶然目に入れば、すぐに画面を閉じた。彼の現在を知ってしまえば、八年前に捨てた人生が、再び自分の中へ入り込んでくる気がしたから。その玲が、突然目の前に現れた。二十四歳だった青年は、三十二歳の男になっていた。以前よりも輪郭は鋭くなり、纏う空気には静かな威圧感があった。けれど、感情を抑える時に唇を僅かに結ぶ癖も、何かを見極めようとする目も、昔と変わっていなかった。一目で分かった。見間違える余地などなかった。そして玲も、自分を見た瞬間、グラスを落とした。手へ触れ。エレナと呼んだ。エマは、自分の指先へ視線を落とした。皮膚には何も残っていない。赤くもなっていなければ、痛みもない。触れられたのは、ほんの数秒だった。それでも、感覚だけが手の中に残っていた。玲の指先の温度。僅かな震え。失ったものを確かめるような、迷いのある触れ方。身体は、それを覚えていた。けれど。胸の内側は、想像していたほど大きく揺れてはいなかった。そのことに気づき、エマはゆっくり瞬きをした。八年前。玲を置いていくことは、自分の身体の一部を切り離すような決断だった。保護先へ移された夜は、声を殺して泣いた。玲の名を呼び、今すぐ戻りたいと何度も思った。夢の中では玲が振り返り、エレナがその腕の中へ駆け込んだ。けれど、目を覚ませば隣には誰もいない。一年
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第13話:お似合いでしたね

胸は痛まなかった。エレナ・カワサキは、確かに死んだのだと思う。記録の上だけではない。朝倉エマとして生きた八年間が、昔の自分を遠い存在へ変えていた。奏は、車が消えた方向を見た。「ずいぶん、驚いてたね。あの人」「そうですね」「神崎玲って言ってた?」名前を聞いても、先ほどのように身体は固まらなかった。「そう名乗っていました」知らない相手について話すように、穏やかに答える。奏が僅かに眉を上げた。「本当に知らないの?」「有名な方なんですか」「投資会社の経営者。アートコレクターとしても、かなり有名みたいだよ」「そうなんですね」「宮永結衣と交際を噂されてる人」宮永結衣。先ほど、自分から名乗った美しい女性。洗練されていて、玲の隣に立つことへ慣れているように見えた。同じ車に乗り、同じ仕事へ向かう。エマの知らない八年間の中で、玲の近くにいるようになった人。胸の奥に、ごく小さな引っかかりが生まれた。けれど、痛みと呼ぶほどではなかった。玲には玲の人生がある。八年も経ったのだから、誰かと出会い、恋をするのは当然だった。結婚していたとしても、何もおかしくない。そう考えても、心は乱れなかった。「お似合いでしたね」エマは言った。声にも無理はなかった。奏は少し考えてから首を傾げた。「そうかな」「違いましたか」「宮永さんは、神崎さんのことをよく見てたけど」奏は、先ほどの席へ視線を向けた。「神崎さんは、あまり周りを見てないように見えた」昔から、玲はそういう人だった。誰に対しても礼儀正しく、相手を不快にさせない。けれど、関心がない時、内側はほとんど動かない。エレナは、その違いをよく知っていた。ただ、今の玲を、わずかな時間だけ見て判断することはできない。「噂は噂ですから」「そうだね」奏は、それ以上続けなかった。代わりに、エマの手へ目を向ける。「痛くない?」「え?」「触られたところ」エマも自分の手を見た。どこにも跡はない。「痛くありません。触れられただけです」軽く指を握る。皮膚に何も残っていないからこそ、自分の中にだけ感覚が残っていることが妙に意識された。けれど、それも時間が経てば消える。昔の感情が、少しずつ削げ落ちたように。「本当に大丈夫です」改めて伝えると、奏は小さく頷いた。「分かった。少し
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第14話:それでも、似ていました

カフェを離れてからも、玲の指先には朝倉エマへ触れた感覚が残っていた。実際には、もう熱など残っているはずがない。車内には冷房の乾いた風が流れ、窓の外では港町の景色が後ろへ遠ざかっていく。それでも手をわずかに握るたび、布巾を持つ細い指と、生きている人間の温度が鮮明に蘇った。死んだ恋人に似ていた。ただ、それだけのことだった。黒髪も、そばかすも、身につけている服も違う。声は低く穏やかで、感情をすぐ表へ出したエレナとは、人との距離の取り方まで異なっていた。本人も、朝倉エマと名乗った。玲のことさえ知らなかった。それでも。『どなたか存じ上げませんが』穏やかに距離を置いた声が、耳から離れない。自分から名前を告げた時も、エマの瞳に浮かんだ揺れはほんの一瞬だった。『神崎玲と申します』『神崎様』客として丁寧に呼ばれただけ。二人の間には何の過去もない。それを確認するための挨拶だったはずなのに、玲の中には言葉にできない引っかかりが残った。「先ほどは、驚きました」隣に座る結衣が、静かに口を開いた。玲は窓の外を見たまま答える。「申し訳ありませんでした」「私に謝ることではありませんけど」結衣は、珍しいものを見るように玲の横顔を眺めていた。「神崎さんが、あんなふうに取り乱すところを初めて見ました」玲自身も、初めてだった。誰かを見て呼吸を忘れる。手からグラスを落とす。考えるより先に相手へ触れる。普段の玲なら、決してしないことだった。「本当に、エレナさんに似ていたんですね」「はい」それだけは否定できない。「写真で見たエレナさんとは、髪も雰囲気も全然違いましたけど」「違います」玲は短く答えた。「それでも、似ていました」顔の輪郭。鼻筋。唇。瞳。困った時に、一度だけ目が揺れるところ。完全に同じではない。だからこそ、見間違いでは片づけられないほど面影が残った。結衣は少し黙ったあと、窓の外へ視線を向けた。「同じくらいの年齢に見えましたね」玲も考えていた。エレナが生きていれば、今は三十歳。朝倉エマも、そのくらいに見える。けれど、それだけで何かを疑うことはできない。世界には似た顔の人間がいる。同じような瞳を持つ人もいる。死んだ人間を忘れられない者が、他人へ面影を重ねることも珍しくない。自分が会いたすぎたから、似
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第15話:もう一度会う理由

最後の一枚と寸法が一致する美術品が運び込まれた町。ジャンが不自然な関心を示している場所。フェスティバルへ関わる理由は、十分にある。「出資額については、今日の段階では決めません」主催者の表情がわずかに硬くなった。玲は続ける。「ただし、企画の再設計には財団から人員を出します。条件が整えば、主要スポンサーとして参加します」室内に小さな安堵が広がった。「モロー財団が参加するかどうかにかかわらず、フェスティバルのあとにも町へ価値が残る内容にしてください」作品と地域。開催期間だけ人を集め、町を消費して終わる企画に、玲は興味がなかった。地域企画の担当者が、一枚の資料を差し出す。「その点について、町の子どもたちと進めたい企画があります」海辺の広場に大型のチョークボードを設置し、子どもたちと町の人が一緒に一枚の絵を完成させる。雨や風によって、少しずつ消えていく作品。残すのは完成品ではなく、町の人が共に描いた時間そのもの。玲の視線が、資料に添えられた写真で止まった。海沿いのカフェ。入口の黒板。つい先ほどまで、自分がいた店だった。「この黒板を描いた方が、指導されるんですか」問いが、考えるより先に出た。「ご存じでしたか」担当者が明るく答える。「朝倉エマさんです」その名前が、再び玲の耳へ入る。写真には、黒板の前で笑う子どもたちが写っていた。端には、肩までの黒髪をしたエマがいる。子どもの目線へ合わせるように屈み、持っているチョークを見て微かに笑っていた。カフェで玲へ向けた、距離のある表情とは違う。柔らかな横顔。この町の中で、朝倉エマとして生きている人間の顔だった。玲は写真から目を離せなかった。「月に二度、カフェで子どもたちへ絵を教えているそうです。町では人気の先生でして」「正式に参加は決まっていますか」「まだです」担当者は少し困ったように笑った。「朝倉さんは、自分の作品を人前へ出すことには消極的なんです。黒板も、いずれ消すものだから描いてくれているのかもしれません」消えるもの。その言葉が玲の中に残った。絵を描ける。子どもにも教えている。それなのに、自分の作品は残そうとしない。なぜ。理由を知りたいと思った自分に気づき、玲は僅かに視線を落とした。地域企画の協力者。それだけの女性だ。彼女が何を描き、なぜ残
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第16話:昨日のカフェですか

フェスティバルの打ち合わせは、予定より三十分ほど早く終わった。倉庫を出ると、午後の光が海面へ斜めに落ちていた。朝より少し強くなった風が、古い煉瓦の壁を抜け、潮の匂いを運んでくる。「このまま東京へ戻られますか」加瀬に尋ねられ、玲は足を止めた。本来なら、その予定だった。確認すべき事項は終わっている。出資条件の整理も、ジャン・モローの動向調査も、あとは財団の担当者へ任せられる。玲自身が、町に残る理由はなかった。それでも、視線は海沿いの道へ向いていた。あのカフェは、ここから車で十分もかからない。昨日、グラスを落とした店。死んだ恋人によく似た女が働いている場所。朝倉エマ。名前を思い浮かべただけで、昨日触れた指の感覚が蘇った。「少し、寄る場所があります」「昨日のカフェですか」加瀬の問いに、玲は一瞬だけ返事を遅らせた。「地域企画について、店長にも確認しておきたいので」口にした理由は、不自然ではなかった。子ども向けのアート企画には、あの店が関わる可能性がある。主要スポンサーとして、現場の意向を確認しておく意味はある。ただ。本当にそれだけなら、担当者へ任せれば済む。玲は、その先を考えないまま車へ乗った。***昼を過ぎたカフェは、昨日より静かだった。窓際に年配の夫婦が座り、カウンターでは常連客らしい男性が新聞を広げている。開いた窓から海風が入り、コーヒーの香りと混ざって店内をゆっくりと巡っていた。扉を開けると、奏が顔を上げた。一瞬だけ意外そうな表情を見せたあと、すぐに穏やかな笑顔へ戻る。「いらっしゃいませ。今日はお一人ですか」「はい」昨日の件を責める様子はない。けれど、奏の目には、玲を客として迎えながらも警戒を完全には解いていない静けさがあった。「お好きな席へどうぞ」玲は、昨日と同じ窓際の席を選んだ。海が見えるからではない。ほかの席を選ぶ理由が、思いつかなかっただけだった。椅子へ座り、窓の外へ目を向ける。昨日と同じ湾。同じ防波堤。同じように揺れる小さな船。玲には、ほとんど変わらない景色に見えた。カウンターの奥で、食器が触れ合う。女性の低い声が聞こえ、玲の意識がそちらへ向いた。しばらくして、エマが水とメニューを持って現れた。肩までの黒髪は、昨日と同じように低い位置でまとめられている。白いシャ
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第17話:海は、毎日違う色をしている

***コーヒーを運んできたエマは、カップを音もなく置いた。「お待たせしました」「ありがとうございます」エマは軽く頭を下げ、すぐに離れようとする。玲は窓の外を見た。何かを聞きたいと思った。けれど、自分が何を知りたいのか、うまく言葉にできない。昨日のように、死んだ恋人との共通点を探したいわけではなかった。朝倉エマが、普段どんなことを考えているのか。この町で何を見ているのか。ほんの少しだけ、知りたかった。「この町には、長く住んでいるんですか」エマの足が止まった。「三年ほどです」必要なことだけを短く答える。「海の近くで暮らすことには、慣れましたか」玲自身、なぜそんな質問をしたのか分からなかった。海辺の生活に興味があるわけではない。エマは窓の外へ目を向けた。午後の光が水面で砕け、青の上に薄い白を重ねている。遠くで船が向きを変えると、細い波が岸へ向かって広がっていった。「はい」短く答えたあと、エマは少しだけ間を置いた。「毎日、違うので」「違う?」玲が聞き返すと、エマは海を見たまま頷いた。「色が」それ以上を説明するつもりはなかったのか、一度言葉が途切れる。玲は待った。自分が誰かの言葉の続きを、こんなふうに待っていることに気づく。エマは窓へ差す光を眺めながら、静かに続けた。「晴れていても、同じ青にはなりません。風が弱い日は、銀色に近く見えることもありますし、夕方は少しだけ桃色になります」口数は少ない。声にも、誰かを楽しませようとする調子はなかった。ただ、自分が日々見ているものを、そのまま言葉へ置いている。その話し方が、玲の中に残った。エレナも、色を見る人だった。空を見れば、名前のない青を作ろうとした。海の色が気に入れば、そのままアトリエへ戻り、夜まで顔料を混ぜていた。『綺麗』『描きたい』エレナの言葉は、いつも衝動へ直結していた。目の前のエマは違う。海の色を見ている。けれど、それをすぐに自分のものへしようとはしない。毎日の暮らしの一部として、静かに受け取っている。似ている。色の変化へ気づく目は、エレナを思わせる。それでも、見つめ方が違った。その違いを、もっと知りたいと思った。玲は、自分の胸の内側に生まれた感覚へ戸惑った。これまでなら、他人が何を見ているのかなど、興味を持たなかった。
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第18話:先生、描かないの?

玲が帰ったあと、エマは窓際の席を片づけながら、海へ視線を向けた。午後の光は、玲と話していた時よりも少し傾いている。青く見えていた水面には薄い灰色が混じり、遠くの船が通った跡だけが、白い筋となって長く残っていた。毎日、違う色をしている。玲へ伝えた言葉を、心の中でもう一度なぞる。あれほど長く話すつもりはなかった。注文を取り、コーヒーを運び、必要な会話だけをして離れる。それで終わらせるはずだった。玲は、近づけてはいけない人だ。保護担当者から連絡を受けた夜から、それは分かっている。それでも。『この町には、長く住んでいるんですか』そう尋ねられた時。昔とは違う、静かな声で今の自分へ関心を向けられた時。エマは、完全には黙っていられなかった。玲が知っているのは、エレナが見ていた色だ。衝動のままに奪い、絵へ閉じ込めようとしていた頃の自分。けれど、朝倉エマとして見てきた海は、それとは違う。描かなくても、そこにある。自分のものにしなくても、翌日にはまた別の色を見せてくれる。そのことを、ほんの少しだけ伝えたくなった。なぜ玲へ話したかったのか。考え始めると、胸の奥が落ち着かなくなる。エマは、テーブルに残ったカップをトレーへ載せた。「今日は、よく話してたね」背後から奏に言われ、指が僅かに止まった。「そうですか」「エマにしては」奏は、玲が座っていた席へ目を向ける。責めるような言い方ではない。ただ、普段なら客へ必要以上の話をしないエマの変化に、自然と気づいたらしい。「海のことを聞かれたので」「それだけ?」「それだけです」エマが短く答えると、奏はそれ以上追及しなかった。代わりにトレーを受け取り、カウンターへ運んでいく。「悪い人には見えなかったけど」エマは顔を上げた。奏はカップを流し台へ置きながら続ける。「前のこともあるし、何か困ったら言って」「大丈夫です」「分かってる」奏は苦笑した。「エマは、そう言うと思った」その言葉に返事ができず、エマは布巾を手に取った。奏は玲を警戒している。当然だった。初めて来た日に、突然エマへ触れ、知らない名前を呼んだ男。今日も、用事があるようには見えないまま、一人で店へ戻ってきた。奏から見れば、警戒する理由は十分にある。けれど、エマは玲が危険な人ではないと知っている。むし
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第19話:最後の一枚を探す人

「はい。主要スポンサーとして検討してくださっているんですが、朝倉さんが望まないなら、別案も準備するようにと」玲が。自分の名前を知り。フェスティバルの企画に関わっている。それだけでも緊張が高まるのに。無理に参加させないよう、わざわざ言葉を添えた。エマは、その意図を測りかねた。昨日のことを気にしているのか。死んだ恋人に似た女を、これ以上驚かせたくないのか。それとも。すでに自分へ関心を持ち始めているのか。どちらにしても。玲の意識へ、自分が残っている。その事実は、好ましくなかった。「神崎さんは」奏が資料へ目を落としながら尋ねる。「どうして、この町のフェスティバルへ出資を?」担当者は少し考えた。「モロー財団が後援を検討していることと、美術品の流通に関する調査もあるみたいです」エマの呼吸が浅くなった。「美術品?」「詳しいことは私も知らないんですが。亡くなった画家の、行方不明になっている作品を探していると聞きました」胸の奥へ、冷たいものが落ちる。それ以上聞く必要はなかった。誰の作品なのか。分かっている。最後の一枚。エレナが死ぬ直前に描いていたとされる絵。犯罪組織の証拠と共に消えた作品。玲は今も、それを探している。八年間。諦めずに。しかも、その手がかりがこの町にあると考えている。エマは、表情を変えないようにゆっくり息を吸った。「その画家は、どなたなんですか」聞くべきではない。そう思いながらも、自然な会話を装うために尋ねた。担当者は、ためらいなく答えた。「エレナ・カワサキです」自分の名前が。八年ぶりに、他人の口から日常の中へ落ちた。店内には、コーヒーの香りが残っている。窓の外では海が静かに暮れていく。奏は資料を見ている。担当者も、エマの変化には気づいていない。それでもエマには、周囲の音が一瞬だけ遠ざかったように感じられた。「世界的に有名な画家ですよね」奏が言う。「若くして亡くなった」「はい。神崎さんは、その方の作品をほとんど所有しているそうです」担当者は、どこか感心したように続ける。「最後の一枚だけが見つかっていなくて。ずっと探しているんですって」エマは、カウンターの端へ指を添えた。玲は。最後の一枚を探すために、この町へ来た。自分へ会いに来たわけではない。当然のことなのに
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第20話:ここを、手放したくない

保護担当者から返信が届いたのは、店を出てから一時間ほど経った頃だった。エマは自宅へ戻らず、海沿いの遊歩道にあるベンチへ座っていた。夜の海は、昼間よりも輪郭が曖昧だった。遠くの防波堤に並ぶ灯りが水面へ細長く落ち、波が寄せるたびに形を崩している。スマートフォンの画面には、短い文章が表示されていた。『安全な場所で通話できますか』エマは周囲を確かめてから、指定された番号へ発信した。数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた女性の声がした。『状況を確認しました』「神崎玲は、最後の一枚を探しています。作品がこの町に運ばれた記録もあるそうです」『こちらでも把握しています。ただし、現時点で犯罪組織がこの地域へ動いている明確な兆候はありません』「でも、玲が調べ続ければ」『危険へ近づく可能性はあります。こちらからも動向を確認します』淡々とした声だった。八年前から、何度も聞いてきた話し方。必要な事実だけを伝え、感情を挟まない。それが自分を守るために必要な距離だと、エマも理解していた。「私が町を離れた方がいいですか」言葉にした瞬間、胸の奥が強く縮んだ。けれど、担当者はすぐに否定した。『今、急に移動する方が不自然です』「玲に顔を見られました。エレナと呼ばれています」『人違いとして処理できたのでしょう?』「はい」『ならば、現時点で朝倉エマの生活を捨てる必要はありません。突然姿を消せば、かえって神崎玲の疑念を強めます』それは正しかった。玲は、一度気になったものを簡単には手放さない。エマが何も告げずに町から消えれば、調べるだろう。住所も、過去も、なぜ港町にいたのかも。朝倉エマという人間を、もっと深く知ろうとする。『今回のフェスティバルは、現段階では大規模な国際展ではありません』担当者は続けた。『モロー財団や神崎財団の参加によって規模が拡大する可能性はありますが、今から過剰に警戒して住民としての行動を変える方が目立ちます』「では、普通に暮らせと」『はい。現地住民の一人として、可能な範囲でイベントにも協力してください。断り続ける方が、周囲の関心を集める場合があります』子どもたちのチョークボード企画が頭に浮かんだ。名前を前へ出さず、子どもたちの補助に徹する。それなら、朝倉エマとして不自然ではない。『ただし、神崎玲とジャン・モローとの接触に
last updateLast Updated : 2026-08-03
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