تسجيل الدخول「女性へのアプローチは忘れたと、以前おっしゃっていましたね」加瀬が淡々と補足した。玲は横目で見る。「聞いていたんですか」「聞こえましたので」「あまり思い出させないでください」珍しく、少し本気で落ち込んだ。八年前まで。こんなことを考える必要はなかった。エレナには。会いたければ会いたいと言った。彼女も勝手に玲の家へ来た。機嫌が悪ければ追い出され。翌日には何事もなかったように腕を絡めてきた。あれが普通だと思っていた。今は。一言送るだけでも考える。どう受け取られるか。嫌がられないか。距離を置かれないか。こんなにも誰かの反応を気にしたことが。自分にあっただろうか。「本当に、下手ですね」玲は小さく呟いた。「ご自身で認められるのは珍しいですね」「加瀬さん、今日は少し厳しくないですか」「事実を申し上げただけです」玲は笑った。その瞬間。ふと気づく。笑っている。自分が。誰かに会えないことを残念がり。どう近づけばいいか悩み。自分の不器用さに落ち込んで。それでも。少し楽しい。胸が動いている。八年間。何も欲しくなかった。仕事で成功しても。人に求められても。作品を一枚手に入れても。満たされるのは一瞬だった。あとは。また乾く。今は。エマに会えないだけで残念になる。一言返されれば嬉しい。知らない一面を見れば、もっと知りたくなる。自分の心が。面倒なくらい動いている。そのこと自体が。妙に、生きている心地を与えていた。「……悪くないですね」「何がでしょうか」加瀬が聞く。玲は少し考え。「こんなに落ち着かないのも」とだけ答えた。***夜。最後の会議を終えた頃には、海の向こうは真っ暗だった。リビングへ一人で立つ。昼間とは違い。大きな窓には、室内の自分が薄く映っている。玲はグラスへ水を注ぎ、テラスへ出た。潮の匂い。波の音。遠くに見える港町の灯り。この町へ来る理由は。まだいくつもある。最後の一枚。フェスティバル。エレナの作品。ジャンの動き。けれど。一番近い理由だけは。もう誤魔化す必要がなかった。エマに会いたい。ただ。どうすれば。彼女が自分を警戒せずに。もう少し近くへ置いてくれるのか。考える。猫のスケッチも。まだ頭から離れなかった。本当は。
ビーチハウスの契約は、思っていたより早くまとまった。海沿いの斜面に建つ、コンクリートとガラスを基調にした家だった。知人の建築家が十年ほど前に手がけたもので、リビングの大きな窓からは水平線まで遮るものがない。床の高さをわずかに変えながら、家のどこにいても海が視界へ入るよう設計されている。半年。この町に滞在するには、十分すぎる場所だった。管理担当者から設備の説明を受けながら、玲は窓際へ立った。午前の海は明るい。遠くで白い波が細く崩れ、その向こうを小さな船が進んでいる。美しい。そう判断する。けれど、最初に頭へ浮かんだのは建築でも海でもなかった。エマだった。ここからなら、カフェまで車で十分もかからない。広場も。美術館も近い。その距離を無意識に測っている自分に気づき、玲は小さく息を吐いた。もう、理由を作る必要もないのかもしれない。会いたい。だから、この町にいたい。少なくとも自分の中では、それだけでも十分な理由になり始めていた。***フェスティバルまで、実質二か月。ジャン側の調整が本格化してから、仕事は明らかに増えていた。モロー財団が連れてきたのは、名前だけを貸すような人間ではない。欧州の若手作家。まだアジアで大きく紹介されていない新興ギャラリー。古典作品を管理する財団。数年後に評価が上がりそうな作家まで、ジャンらしい選び方で混ざっている。展示候補が増えれば、当然すべてが動く。配置。照明。輸送。保険。警備。作品同士の意味。エレナの二作品についても、もう一度位置を考え直さなければならなかった。ビーチハウスのダイニングテーブルには、すでに仕事の資料が積み上がっている。ノートパソコン。会場図。輸送スケジュール。作品リスト。東京の執務室と、大差ない景色だった。「二十七作目は、この位置だと近すぎます」玲が会場図へペンを置く。「追加されたフランスの作品と色の方向が似ています」加瀬がメモを取る。「三十四作目は?」「入口側へずらした方がいいかもしれません。最初に見せるなら、その後の流れも組み替えたいです」本来なら。玲自身がここまで深く入る必要はない。神崎財団には専門のキュレーターもいる。現地担当者もいる。それでも。気づけば、自分から会議へ入り、資料を読み、修正案を返している。最後の一
キャンバスの前へ立つ。筆先へ色を取る。一度。深く息を吐く。そして。色を置いた。最初の一筆だけは、少し重かった。けれど。二本目。三本目。そこから先は、止まらなかった。海辺で見た光。子どもの描いた紫色の海。浜中と一緒にスケッチした時の、鉛筆が紙を擦る音。カフェの窓に映る人影。奏が何も聞かずコーヒーを差し出す手。町の人が、自分を当然のようにエマちゃんと呼ぶ声。一つずつ。画面の中へ入っていく。描きながら。エマは、自分の変化に気づいていた。以前は。感情が強いほど、画面から人を遠ざけた。怒りも。孤独も。愛情さえ。誰にも触れられない形へ閉じ込めた。今は違う。誰かと関わった時間が。そのまま色になっている。人を入れたくないのではなく。誰かが立ってもいい場所を、画面の中に残している。あの黒板へ白を置いた時と同じだった。遠くから見るだけの景色にはしたくない。そう思った自分の言葉を。今さら思い出す。「……変わったな」誰もいない倉庫で、小さく呟いた。それが。怖いのに。少し嬉しかった。***手を止めた時には、外はすっかり暗くなっていた。エマは数歩下がり、キャンバスを見る。以前より。明らかに良くなっている。技術の話ではない。絵の中に。呼吸できる場所が増えていた。そのことを。真っ先に誰へ見せたいと思ったのか。そこまで考えて。エマの胸が止まる。玲。一瞬。名前が浮かんだ。彼なら、どう見るだろう。何を言うだろう。この変化に気づくだろうか。そこまで考えて。すぐに首を横へ振った。違う。見せられない。絶対に。玲こそ。最も見せてはいけない人だ。エレナの作品を四十六枚も集め。誰より線を知っている人。あの猫のスケッチだけで。懐かしいと口にした人。この絵を見せれば。何が起きるか分からない。エマは筆を置いた。布をかけようとして。手が止まる。今日は。すぐに隠したくなかった。少しだけ。このまま見ていたい。そう思った。そんな自分にも。以前との違いを感じる。***数日後。フェスティバルの広場には、仮設のテントが増えていた。エマはスタッフと一緒に、当日の動線を確認していた。「子どもたちはこちらから入って、描き終わったら反対側へ」「はい」「保護者は、この線
フェスティバルまで、あと二か月。正確には、ジャンと玲が出資することが決まってから。フェスティバルの期間が少し延長したことで。展示企画までの猶予が、あと一か月半から二か月まで延びたので。エマがフェスティバルに関わる期間は、残り二か月となった。町の空気が、少しずつ変わり始めていた。商店街には開催日を知らせる小さな旗が並び、海沿いの倉庫では朝から資材を運び込む音が響いている。カフェにも、フェスティバルについて尋ねる観光客が増えた。エマも、以前より店を空ける時間が長くなっていた。午前中はカフェ。午後からは広場へ移動し、子どもたちの企画を担当するスタッフと打ち合わせをする。使うチョークの種類。黒板の高さ。小さな子でも手が届く範囲。当日の人数を考えた制作時間。最初は、頼まれた部分だけを手伝うつもりだった。けれど。始まってしまえば、気になるところが次々と見つかる。「ここ、もう少し下げられませんか」エマは黒板の前へ立ち、手を伸ばした。担当者が図面を見る。「十センチくらいですか?」「それくらいです。小さい子が上を見続けなくても描ける方がいいので」「なるほど」別のスタッフがメモを取る。「あと、チョークも同じ色を多めに用意した方がいいと思います」「色数を増やすんじゃなくて?」「増やしてもいいですけど」エマは箱の中を見ながら答えた。「子どもって、ほかの子が使ってる色が急に欲しくなったりするので。同じ青が一本しかないと、それだけで待つ時間ができますから」「ああ、確かに」担当者が笑った。「朝倉さん、本当に子どもたちのことよく見てますね」「教室で何度も取り合いになっているだけです」そう答えると、周囲から笑いが起きた。エマもつられて笑った。少し前なら。これほど人のいる場所で、絵に関わること自体を避けていた。何かを提案するのも。自分の視点を求められるのも。できる限り目立たないようにしていた。今も、そのつもりは変わらない。けれど。子どもたちのため。町のため。その理由があると。不思議なくらい、言葉が出る。「エマ先生!」広場の端から声がした。振り向くと、教室へ来ている男の子が母親と一緒に手を振っている。「こんにちは」「今日も絵?」「今日は準備だけ」「俺、魚描くからね」「決めたの?」「サメ」「こ
カフェまでの道は、歩けば十分ほどだった。夕方の海沿いは、昼間より風がやわらかい。歩道脇の植栽が小さく揺れ、遠くでは漁船が港へ戻ってきている。玲は、エマの歩幅に合わせて歩いた。話したいことはある。それなのに、不思議と急いで言葉にする気にはならなかった。少し前までなら。相手が何を考えているか分からない状態など、気にも留めなかった。必要なら聞く。必要がなければ、そのままにする。それだけだった。今は違う。隣を歩くエマが、さっきの言葉をどう受け取ったのか。『惹かれているんです。エマさんに』言ったあとから、そのことばかり考えている。困らせたかもしれない。距離を置かれるかもしれない。それでも。『必要があれば、時間は作ります』完全には拒まれなかった。その事実だけで、胸の奥に薄い高揚が残っていた。こんな感覚は久しぶりだった。誰かの言葉一つで。次に会える可能性があるというだけで。景色まで少し違って見える。「今日は、ありがとうございました」カフェが見えてきた頃、エマが言った。「送っていただいて」「いえ」玲は小さく笑う。本当は。もう少し歩きたかった。それを言えば、また困らせるだろう。だから飲み込む。「浜中さんの展示、面白かったですね」玲が言うと。エマは少しだけ考えるように目を伏せた。「はい。作品自体も素敵でした」また。絵の話になると表情が変わる。ほんの少しだけ。普段より目が深くなる。玲は、その変化を見つけるたびに知りたくなる。どこで。何を見てきたのか。誰から教わったのか。そして。なぜ隠すのか。頭に浮かぶのは、やはりあの猫だった。額に入れられた、小さなスケッチ。最初に見た時。エマが描いたものではないと思いたかった。いや。正確には。そうであってほしかった。偶然。ただ、エレナを思い出しただけ。輪郭の取り方も。目の表情の柔らかさも。尻尾へ残した遊びも。全部。自分の記憶が勝手に重ねただけ。そう思いたかった。けれど。描いたのはエマだった。しかも。短時間のスケッチだろうに。線に迷いがない。形を取るだけなら、描き慣れた人間は多い。けれど。あの猫には。ただ写しただけでは出ない温度があった。それが。どうしても引っかかる。黒板。チョーク。展示構成への見方。そ
「惹かれているんです。エマさんに」玲の言葉が落ちたあとも、エマはすぐに返事ができなかった。美術館の廊下には、空調の低い音だけが流れている。窓の向こうでは夏の光が中庭の植栽を照らし、白い床へ葉の影を落としていた。こんなにも真っ直ぐに、誰かから想いを伝えられたのはいつぶりだろう。エレナだった頃ではない。朝倉エマとして。過去を持たない女としてこの町へ来てから、誰かの好意には気づかないふりをしてきた。奏の優しさにも。時折向けられる視線にも。恋愛というもの自体を、自分の人生から遠ざけてきた。だから。今の自分が動揺している。その事実に、エマ自身が戸惑っていた。しかも相手は。誰より近づいてはいけない人だ。この人にだけは、朝倉エマの内側へ入らせてはいけない。やはり、きちんと言葉にしなければ。「神崎さん、私は——」「困らせるつもりはなかったのですが」玲が先に口を開いた。「……つい」珍しく、言葉の終わりが曖昧だった。エマが顔を上げる。玲は少し眉を寄せていた。先ほどまで真っ直ぐに感情を伝えていた男と同じ人とは思えないほど、今度は何かを考え込んでいる。そして。親指が、人差し指の側面をなぞった。また。その癖。「今になって気づきました」玲は少し息を吐く。「エマさんは警戒心が強いですし、人との距離にも慎重なのに」視線が一度だけ逸れる。「こんなことを言えば、今まで以上に避けられる可能性もあったなって」エマは黙って玲を見た。「そこをまったく考慮していなかったことに、今、少し後悔しています」その言葉に。胸の奥が、痛んだ。知っている。この玲を。何を言われても、ほとんど表情を変えない。人前で言葉に詰まることもない。自分の判断を口にしたあとで、相手の反応を気にして慌てることもない。昔からそうだった。少なくとも。エレナの前以外では。玲の整った表情や言葉が乱れるところを、ほとんど見たことがなかった。だからこそ。どうして。エマに対してまで。その問いが、胸の奥に小さな痛みを残した。エレナではない自分に。玲が同じような顔をする。嬉しいのか。苦しいのか。もう自分でも分からなかった。気づけば、エマは少し笑っていた。「神崎さんでも、そんな表情されるんですね」玲が目を瞬く。それから、困ったように苦笑した。







