LOGINシャッターを開ける音が、深夜の倉庫街に思った以上に大きく響いた。金属が擦れる音が止むと、残るのは遠くの波と、夜風が建物の隙間を抜ける音だけだった。エマは一度だけ周囲を見回してから、中へ入る。玲も、何も言わず後ろについてきた。壁際へ手を伸ばし、照明をつける。白い光が倉庫の奥まで届いた。画材の並んだ棚。乾きかけた筆。使いかけの顔料。床に落ちた色の跡。何度も立った場所だけ、コンクリートが少し汚れている。急に。裸を見られているような落ち着かなさを覚えた。ここへ人を入れたことは、浜中さん以外にはない。倉庫そのものが、見せるつもりのなかった自分の内側みたいだった。玲は何も聞かなかった。棚に見慣れない画材があっても。使い込まれた筆が増えていても。ただ、静かにエマの後ろを歩いている。それが、逆に緊張を強くした。中央に置かれた大きなキャンバス。上から布を掛けている。エマはその前で止まった。「これです」自分の声が、少しだけ硬い。返事はなかった。振り向けば。玲は数歩離れた場所に立っていた。片手には、さっきから持っていた紙コップ。いつもの穏やかな顔。でも。エマを見ている目だけが、少し真剣だった。心臓が速くなる。見せるだけ。見せたら、燃やす。それ以上の意味はない。そう言い聞かせて。布の端を掴んだ。指先に力が入る。一度だけ息を吸って。引いた。布が床へ落ちる。完成したキャンバスが。白い照明の下に現れた。エマは。作品ではなく、玲を見た。次の瞬間。玲の手から紙コップが落ちた。乾いた音。蓋が外れ。中のコーヒーがコンクリートへこぼれる。茶色い液体が、ゆっくり床へ広がっていく。エマの心臓が強く鳴った。「……神崎さん?」声をかけようとした。「ちょっと」玲が低く言った。エマの言葉が止まる。「待って……」息を呑んだ。敬語が。初めて崩れた。玲自身は、そのことに気づいていないようだった。目は。絵から一度も離れていない。瞬きすら惜しむように。何かを確かめるというより。完全に、作品へ持っていかれている。その横顔を見た瞬間。エマの中に、古い記憶が戻った。昔から。玲は、本当に衝撃を受けた作品の前ではこうなった。人の声が届かなくなる。視線を外さない。近づきすぎることもある。エ
玲の顔には、心配と戸惑いが浮かんでいた。深夜一時。人の気配もほとんどない海岸沿いの倉庫街。そんな場所で待っている人間の顔ではない。「……なんでここにいるんですか」エマが聞くと。玲は少しだけ視線を落とした。「海岸沿いの倉庫が、浜中さんの所有している場所だと分かったので」「調べたんですか?」「はい」あまりにも普通に答える。「それと」一度、言葉を切る。「心配だったので、人をつけさせていました」エマは黙った。玲も。さすがにまずいことを言った自覚はあるらしい。「謝ります」でも。悪気はまるでない顔だった。「……謝るところなんですね」「はい」「普通はやらないと思いますけど」「それも分かっています」本当に。分かっているのだろうか。そう思った時。玲の視線がエマの手元へ落ちた。金属製の容器。耐熱シート。消火器。大量の水。火ばさみ。どう見ても。深夜の倉庫へ持ち込むには、物騒だった。「……それ」玲の声が低くなる。「なんでそんなものを、こんな時間に持ってきてるんですか」エマは答えなかった。そのまま荷物を下ろす。玲は数秒。何も言わなかった。そして。静かに聞いた。「描いたものを燃やすつもりですか」手が止まる。また。答えられなかった。沈黙が。十分すぎる答えになった。玲は小さく息を吐いた。「海岸でものを燃やすのは、本来禁止されている行為です」「……知っています」「では」「ちゃんと安全には配慮します」「そういう問題だけではありません」少し咎める声。でも。強くはない。ただ。心配している。それが分かる。「僕は」玲は少しだけ近づいた。「エマさんの頼りになりたいので」真っ直ぐに。「手伝います」エマはすぐに首を振った。「不要です」「でも」「そもそも、なんでここまで」言葉が少し強くなる。玲は。そこで押さなかった。ただ。静かに言った。「顔色が悪かったからです」エマが見る。「ここ数日、あまりにも寝てなかったでしょう」声が少し柔らかくなる。「倒れたら困ると思っただけです」胸の奥が。少しだけ詰まる。「嫌なら無理強いはしません」玲は続けた。「でも、無理しないでください」その声が。本当に心配している人のものだと分かってしまう。エマは何も返さず。荷物
完成したのは、それから二日後だった。最後の一色を置いたあと。エマは、しばらく筆を動かせなかった。もう足す必要がない。削る場所もない。キャンバスから数歩離れ、長い間眺める。以前なら。完成した瞬間に、もっと強い達成感があった気がする。エレナだった頃は、作品を終えることは戦いが終わることに近かった。もっと良くできる。まだ足りない。その感覚と何日も争い。最後には、自分の方から作品を手放す。今回は違った。静かだった。長く止めていた呼吸を。ようやく吐き出せたような感覚。「……終わった」誰もいない倉庫で、声にする。その言葉を聞いて。初めて。本当に完成したのだと思った。***翌朝。久しぶりによく眠れた。目覚ましが鳴るまで、一度も起きなかった。鏡を見ると。ここ数日ずっと目の下に残っていた疲れも、少し薄くなっている。「今日、顔色いいね」カフェへ入ってすぐ。奏に言われた。「ちゃんと寝たので」「やっと?」「はい」「何が終わったのか知らないけど」奏はコーヒーを差し出しながら笑う。「ほどほどにしてね」エマは曖昧に笑って受け取った。終わった。確かに。制作は終わった。でも。別の問題が始まっていた。完成した絵を。どうするのか。***その日の夜。仕事を終えてから。エマはまた倉庫へ向かった。描くためではない。ただ。見るために。深夜近くになると、古い倉庫街に人の姿はほとんどない。扉を開け。照明をつける。壁際に。完成した絵。布はもう掛けなかった。椅子へ座り。ただ、眺める。自分で言うのも変だけれど。いい絵だと思う。技術だけではない。八年前には描けなかった。今の自分にしか描けないものだった。海がある。でも。海そのものではない。港町で暮らした三年間。子どもたちの線。浜中さんと並んで描いた時間。人を遠ざけ続けた自分が。少しずつ誰かの存在を受け入れ始めたこと。玲にもらった色もある。それでも。エレナの作品ではない。明確に。朝倉エマの絵だった。だからこそ。困った。残せば。いつか誰かに見つかる可能性がある。この倉庫を借り続けられる保証もない。引っ越すことになれば。運ばなければならない。保護担当者から移動を指示されれば。こんな大きなキャンバスを持っていく
その夜。カフェへ戻ってからも。エマの頭から、三作目が離れなかった。十九歳の自分が描いた絵。あの頃は。自分でも上手く説明できなかった。誰かに決められた場所へ進みたくない。けれど、自分がどこへ行きたいのかも分からない。だから。明るい窓の外へ背を向けた。浜中さんは。それを、立ち止まることを自分で選んだ人だと言った。玲は。外へ出たいのに、その方法を知らない人だと思っていた。どちらも。間違いではない。けれど。今のエマが同じものを描くなら。きっと。全く違う絵になる。そのことに気づいた瞬間。身体を起こしていた。時計を見る。午前一時を過ぎている。明日も仕事がある。分かっている。それでも。枕元に置いたスマートフォンより先に。頭の中で色を探していた。この前。玲から渡された顔料。エレナなら選ばなかった、少し濃い色。あれを。使いたい。そう思った。***翌日。仕事が終わると、そのまま海岸沿いの倉庫へ向かった。扉を開ける。昼間に籠もった熱と。油と顔料の匂い。棚には浜中さんから譲ってもらった画材。壁際には。途中まで描いた大きなキャンバス。エマはバッグを床へ置いた。しばらく。絵を見る。以前は。描きたいと思っても。ここへ来ると手が止まった。一色置く。違う。消す。また考える。何を描きたいのか。なぜ描くのか。答えを探すうちに。エレナの頃の自分が後ろから覗いてくるような感覚があった。これはエレナなら描く。これは違う。この色は昔使った。この構図は似ている。気づけば。エレナではないことを証明するために、絵を描いている。だから。苦しかった。でも。今は違った。エマはキャンバスの前へ立つ。筆を取る。玲から渡された顔料を開けた。以前。玲が見ていた色とは違うものを選んだ時。どうしてそちらを。と聞かれた。新しさを生み出したい。あの時。自分でも驚くほど素直に答えた。今なら。もう少し分かる。新しくなりたいわけではない。もう。新しくなっていた。八年。絵を描かなかった時間も。この町へ来てから見た海も。カフェで働いた時間も。子どもたちと描いたことも。浜中さんとの会話も。全部。自分の中に積み上がっている。エレナを消したから。エマになったのではない。
「まだ借りたばかりなので」「本当に生活感がありませんでした」「これから少しずつ増やします」そこで玲が。少し笑う。「エマさんが来ても居心地がいいと思えるものを」エマが玲を見る。「私を基準にしないでください」「努力します」「しないでしょう」「たぶん」認めるものだから。また少しだけ。笑いそうになる。「それに」玲が続けた。「三作目を見せるのも、緊張しました」今度は。エマの笑みが消えた。「エレナさんの作品を?」「はい」玲の視線が。暗い海へ移る。「あの作品をどう感じるのか、エマさんに聞きたかった」静かな横顔。「不思議なんです」「何がですか」「以前は」玲は少し考えた。「エレナの作品を、人に見せること自体があまり好きではありませんでした」エマの指先が僅かに動く。「僕が持っているものを、他人に見せる必要がないと思っていた」知っている。玲は。本当にそういう人だった。「でも最近は、少し変わりました」玲がこちらを見る。「エマさんには見てほしい」胸が締まる。「どう感じるのか聞きたいし。僕があの作品をどう見ていたのかも知ってほしい」少しだけ間を置く。「僕のことを知ってほしいからだと思います」エマは目を逸らした。「……私のことは、何も知らないのに」「そうですね」玲は否定しなかった。「だから知りたいんです」「知らない方がいいこともあります」口から出た言葉に。自分で驚いた。玲も。僅かに表情を変えた。けれど。「何がですか」とは聞かなかった。「分かりました」それだけだった。エマが思わず見る。「聞かないんですか」「今は」玲は穏やかに答える。「エマさんが話したくないことを、無理に聞かない方がいいと思っています」また。胸の奥が苦しくなる。昔なら。聞いた。エレナが何かを隠せば。知りたがった。玲自身。好きな人間のことを把握していない状態が苦手だった。今は。待つと言う。「ただ」玲の声が柔らかくなる。「いつか、話してもいいと思うことができたら」目が合う。「僕に教えてもらえたら嬉しいです」エマは。何も言えなかった。「小さなことでもいいです」玲は続ける。「好きな色でも」胸が跳ねる。「今日みたいに、どういう絵が好きなのかでも」穏やかな声。「カフェで疲れた
大きな窓の向こうは、もう真っ暗だった。海は見えない。ただ、波の音だけが遠くから届いている。「では、送ります」玲が車の鍵を手に取った。「お願いします」玄関を出ると、夜の空気は思っていたより涼しかった。昼間の熱を残した地面に、海からの風が流れている。玲は駐車場まで歩くと、助手席の扉を開けた。「どうぞ」「ありがとうございます」乗り込む。東京から持ってきてもらったという玲の車。革の匂い。低いシート。運転席へ回り込む玲の姿を見ながら。エマは、妙な懐かしさを覚えた。昔も。よく、こうして玲に送ってもらった。アトリエから。展示会場から。食事のあとに。もう八年も前のことなのに。助手席から見る玲の横顔は、それほど変わっていない。エンジンがかかる。「寒くないですか」「大丈夫です」玲が車を出す。少しして。「ワイン、二杯くらいでした?」エマは横を向いた。「数えていたんですか?」「見ていたので」あまりにも自然に返される。エマは少し黙った。「……本当に最近、隠さなくなりましたね」「何をですか」「私を見ていることです」言ってから。少しだけ後悔した。普段なら、こんな言葉は選ばない。やはり。ワインで少し気が緩んでいる。玲の指が、ハンドルの上で僅かに動いた。「隠した方がいいですか?」「そういう意味ではありません」「では、見ていても?」エマは玲を見る。穏やかな顔をしている。「そうやって、都合よく解釈しないでください」玲が小さく笑った。「すみません」全く反省していない声だった。***夜の海岸線を、車が静かに走っていく。街灯は少ない。建物が途切れるたび。暗い海が窓の向こうに現れる。車内には音楽もない。低いエンジン音と。時折、タイヤが道路の継ぎ目を踏む音だけ。しばらくして。玲が口を開いた。「今日は来てくださって、ありがとうございました」「それは、もう聞きました」「何度でも言いたいので」「……そうですか」「はい」玲の口元が少し緩む。「浜中さんと一緒なら来ていただけるかもしれないと思っていました」エマが横を見る。「だから浜中さんも誘ったんですか?」「それだけが理由ではありません」すぐに否定する。「浜中さんとは展示の話もしたかったですし、エマさんが信頼している方なのも分







