All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話:昨日と同じ席でよろしいですか

***翌日。エマがカフェへ入ると、奏はすでに開店準備を始めていた。「おはようございます」「おはよう」奏はコーヒー豆の袋を閉じながら、エマの顔を見た。「眠れた?」「はい」完全な嘘ではなかった。短い時間でも、眠ることはできた。「昨日の企画だけど」奏がカウンターへ資料を置いた。「無理に受けなくていいからね」エマは、海辺の広場に設置されるチョークボードの完成予想図を見た。子どもたちが楽しみにしている。町の人も、エマが手伝うことを自然だと思うだろう。拒む方が、不自然になる。「子どもたちの補助としてなら、協力しようと思います」奏が少し驚いたように目を上げた。「いいの?」「私の名前を作家として出さないことと、全体の作品を私一人のものにしないこと。それを条件にしてください」「分かった。俺から担当の人に話すよ」「ありがとうございます、奏さん」奏は資料を受け取ると、少し安心したように笑った。その時、店の扉が開いた。「いらっしゃいませ」奏とエマが、ほとんど同時に顔を上げる。入ってきたのは玲だった。昨日と同じく、一人だった。玲の視線は、店内を確かめるより先にエマへ向けられた。けれど、エマは表情を変えなかった。「いらっしゃいませ」客へ向ける声で伝える。玲は僅かに目を細めたあと、カウンターの上にある資料を見た。「地域企画の件ですか」「はい」答えたのは奏だった。エマの前へ出るわけではない。ただ、会話の間へ自然に入る。「エマも、子どもたちの補助なら参加することになりました」「そうですか」玲の視線がエマへ戻る。「よかったです」「まだ、条件をお伝えしただけです」エマは短く答えた。必要以上に話を広げない。玲は、それ以上踏み込まずに頷いた。奏が席を勧める。「昨日と同じ席でよろしいですか」「はい」玲が窓際へ向かう。その背中を見送り、エマは資料を片づけた。「注文、俺が取ろうか」奏が小さな声で聞いた。「大丈夫です」「無理しないで」昨日と同じ言葉。エマは小さく頷いた。少し離れた席から、玲がこちらを見ていた。奏がエマへ声を落として話す。エマが自然に答える。そのやり取りを見た玲の表情は、ほとんど変わらない。けれど、カップのないテーブルへ置かれた指が、ゆっくりと組み直された。なぜ。また胸の奥
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第22話:エマ先生、これ何色にしたらいい?

玲が昨日と同じ窓際の席へ向かうと、エマは注文票を手にしたまま、ほんのわずかに呼吸を整えた。保護担当者から言われたことを思い出す。過剰に避けないこと。現地住民として、不自然にならない範囲で協力すること。ただし、神崎玲とジャン・モローとの接触には注意すること。朝倉エマとして振る舞うだけなら、難しくない。八年間、そうして生きてきた。エマは玲のテーブルへ近づき、いつも客へ向けている穏やかな表情を作った。「昨日と同じ、ホットコーヒーでよろしいですか」「はい。お願いします」玲は答えながら、エマの顔を静かに見ていた。露骨な視線ではない。けれど、言葉を交わすたびに表情の変化を探られていることは分かった。昨日よりも、見られ方が少し違う。死んだ恋人に似た顔を確かめているだけではない。朝倉エマが、何を考え、どこで言葉を止めるのか。それを知ろうとしているような目だった。エマは視線を長く合わせず、注文票へ目を落とした。「少々お待ちください」それだけ伝え、すぐに離れる。背中へ玲の視線を感じたが、振り返らなかった。玲は、自分から距離を詰めようとすればするほど、エマが自然に半歩引いていくことに気づいていた。不快そうに拒絶されるわけではない。会話を無視されることもない。必要な言葉には答える。けれど、そこから先へは入れない。玲が一つ尋ねれば、エマは一つだけ返す。余白を埋めようとしない。自分から玲へ質問することもない。これまで玲の周囲にいた女性たちは、少しでも会話を続けようとした。玲が短く答えれば、別の話題を探す。仕事のこと。食事の予定。好み。次に会える日。距離を縮めるきっかけを、相手の方から差し出してくる。玲は、それを受け取ることも、穏やかに断ることもできた。朝倉エマは違う。差し出さない。求めない。玲が誰であろうと、自分の生活へ簡単には入れない。その距離感は新鮮だった。そして、理由の分からない苛立ちを伴った。近づきたいと明確に思っているわけではない。それなのに、初めから近づく可能性を閉ざされていることが、妙に意識へ残る。玲は窓の外へ目を向けた。午後の海には、昨日エマから教えられたように複数の色があった。遠くは青く、岸に近づくほど灰色が混じり、光の当たる場所だけが白く揺れている。以前なら、ただの海で終わって
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第23話:誰かのために描くということ

エマが描いたのは、たった一本だった。その一本も、子どもの絵へ直接加えたものではない。可能性を示しただけ。玲は、その手元を見ていた。作品を作る時のエレナは、自分以外のものを画面へ入れなかった。一枚の絵を、完全に自分の世界として閉じる人だった。エマは、自分の線を残そうとしない。人の絵を奪わず、相手が描き続けられるだけの余白を作る。同じ才能を持つ人間だとしても。そこにある美術への向き合い方は、あまりにも違う。玲は初めて。エレナと似ているかどうかではなく。朝倉エマが、なぜこういう人間になったのかを知りたいと思った。***カウンターの中では、奏が子どもたちの人数を確認しながら飲み物を用意していた。玲は、これまでほとんど興味を持たなかった男へ、初めて意識的に目を向けた。確かに、整った容姿をしている。背が高く、派手さはないが、客へ笑いかける表情は柔らかい。相手の話を遮らず、必要な時だけ自然に手を貸す。エマが子どもたちに囲まれていても、過度に口を出さない。ただ、屈んだまま長く話していれば椅子を持ってくる。画材が足りなくなれば、頼まれる前に補充する。エマが何を必要としているのかを、見慣れているようだった。玲の胸へ、またざらつきが落ちた。奏が魅力的な男だからではない。二人の関係が何なのか、確かなことは何も分からない。ただ、奏はエマの日常にいる。彼女が子どもへ見せる顔も。疲れている時の声も。頼まなくても必要なものも知っている。玲は何も知らない。海の色をどう見ているのか。子どもへなぜあんなふうに教えるのか。この町へ来る前、どこで何をしていたのか。知らないことばかりだった。それを不快に思っている自分に、玲は静かな混乱を覚えた。死んだ恋人に似ているから気になる。その説明だけでは、もう足りなくなり始めていた。***子どもたちが帰ったあと、エマは散らばった色鉛筆を箱へ戻していた。玲は席を立ち、カウンターへ向かう。「企画への参加を決められたんですね」エマの手が僅かに止まった。「子どもたちの補助だけです」「全体の監修はされない?」「しません」迷いのない答えだった。「自分の作品として残すつもりもありません」玲は、その言葉の奥を探るようにエマを見る。「消えてしまっても、構わないんですか」エマはすぐには答えず、
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第24話:モロー財団からも、動きがありました

東京へ戻った翌朝、玲の予定表には空白がなかった。午前八時から海外拠点とのオンライン会議。十時には投資先の経営陣との面談。昼食を挟み、午後は財団の理事会と美術館関係者との打ち合わせが続く。夜には、海外から来日した取引先との会食も入っていた。以前なら、それで何も問題はなかった。仕事が途切れないことを、忙しいとも思わない。必要な判断を下し、次の指示を出し、時間どおりに別の場所へ移る。一日を埋める予定は、玲にとって感情を必要としない生活そのものだった。けれど、その日は、朝から何度も同じ日付へ目が向いた。来週。港町で開かれる、フェスティバルの地域企画会議。財団からは、文化事業部の責任者が出席する予定になっている。主要な条件はすでに共有しており、玲自身が足を運ばなければならない理由はなかった。それでも、予定表の空白を探している。「神崎さん」加瀬に呼ばれ、玲はタブレットから顔を上げた。会議室には、先ほどまで複数の役員がいた。今は資料を片づける音も消え、窓の向こうに東京の街並みが広がっている。「来週の港町ですが、文化事業部の松岡が現地へ入ります」「はい」「神崎さんの予定には入れておりません」玲は、表示された日程を見た。午前には別の会議がある。午後には、変更可能な打ち合わせが二つ。動かそうと思えば、動かせる。「午後の予定を翌日へ移してください」加瀬の指が止まった。「港町へ行かれますか」「地域企画の進捗を確認します」「松岡から報告を上げることもできますが」加瀬は反対しているわけではない。ただ、玲自身が確認する必要があるのかを確かめている。「初期段階だけは、僕も見ておきます」それらしい理由だった。地域へ価値を残す企画にする。その方針を決めたのは玲自身だ。出資者として、最初の運用を確認することは不自然ではない。それでも。本当に確認したいものが、予算や進行表だけではないことを、玲は分かり始めていた。子どもたちの線を奪わず、ほんの少しだけ選択肢を広げるエマの手。絵は消えても、描いた時間は残ると話した声。海の色を見つめる横顔。それらをもう一度見たい。その感情を、そのまま認めることはできなかった。「承知しました」加瀬は日程を変更しながら、何気ない調子で続けた。「モロー財団からも、動きがありました」玲の視線
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第25話:予定になかった時間

「モロー財団の動向は、引き続き確認してください」「承知しました」加瀬が会議室を出たあとも、玲はしばらく窓際に立っていた。ジャンがエマを見たら。何を思う。エレナに似ていると気づく。瞳を見る。話をする。そして、エマの絵へ関心を持つかもしれない。そこまで考え、玲は自分の思考に違和感を覚えた。最後の一枚を巡って、ジャンへ競争心を抱くことは以前からあった。エレナの作品を渡したくない。自分より先に見つけられたくない。それは、八年間続いてきた感情だった。けれど今、胸にあるものは、それだけではない。ジャンに。エマを見せたくない。理由もなく、そんな言葉が浮かんだ。玲は、すぐに打ち消した。エマは誰の所有物でもない。まして、自分は彼女をほとんど知らない。死んだ恋人に似ているだけの女性。数度会話を交わしただけ。それでも、誰かが彼女へ興味を持つ場面を想像すると、胸の内側が乾いた。エレナを失ってから、玲は長い間、何も欲しいと思わなかった。作品を集めることだけが残った。そこにあるのは、喪失を埋めるための渇きだった。けれど、港町から戻って以来。渇きの形が少し変わっている。何も感じなかったはずの日常の中へ、エマの言葉が入り込む。窓から見える空の色。会議室へ差し込む光。コーヒーの表面に映る照明。以前なら流れていったものへ、わずかに目が止まる。エマが見れば、何色と呼ぶのだろう。そんなことを考える。誰かの存在が、そこにいない時間へまで入り込む。それは、玲にとって初めてに近い感覚だった。少なくとも。エレナを失ってからは。***同じ頃。港町では、子どもたちのチョークボード企画に向けた最初の準備が始まっていた。カフェの奥にある小さなテーブルへ、町の子どもたちが描いた下絵が並べられている。海。魚。船。灯台。空。同じ町を描いているのに、一枚として似たものはなかった。「全部入れたら、ごちゃごちゃになるよ」男の子が言う。「でも、私の魚は絶対入れたい」向かいの女の子が言い返す。「灯台もいるよ」「大きい船も」言葉が重なり、収拾がつかなくなり始める。エマは口を挟まず、少し離れた場所から子どもたちを見ていた。一人で作品を作っていた頃。誰かと相談して、構図を決めたことはない。画面に何を入れるか。どの色を消す
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第26話:カフェへ寄ります

玲が再び港町へ向かったのは、地域企画への正式な出資を決めた三日後だった。神崎財団は、子どもたちが参加する大型チョークボードの制作費に加え、画材、会場整備、期間中の安全管理まで支援することになった。決裁に必要な資料は、東京ですべて確認できた。現地へ足を運ばずとも、担当者から報告を受ければ済む。それでも玲は、最終的な合意の場へ自ら出席すると伝えた。主要スポンサーとして、最初の段階だけは見届けたい。口にした理由は、誰が聞いても不自然ではない。ただ玲自身は、その理由だけで予定を動かしたのではないことに気づいていた。港町へ向かう車の窓から、低い建物と海が見え始める。以前なら、どの町も目的地へ着くまでの景色にすぎなかった。今は、水面へ落ちる光を見ながら、今日の海をエマなら何色と呼ぶのだろうと考えている。淡い青の奥へ、曇り空の灰色が薄く溶けていた。銀色に近い日。そう言うかもしれない。誰かの言葉が、自分の見方へ残り続けている。そのことに、玲はいまだ慣れなかった。***フェスティバル事務局との打ち合わせは、午後三時前に終わった。神崎財団の正式参加が伝えられると、主催者たちの表情に安堵が広がった。モロー財団との交渉は継続中だが、神崎財団の出資だけでも、当初より企画の規模を広げられる。特に地域企画については、画材の質を上げ、制作日数も増やせることになった。「朝倉さんにも、正式にご協力いただけることになりました」地域担当者が嬉しそうに報告した。玲の視線が、手元の資料から上がる。「補助としてですか」「はい。作家としてお名前を前へ出すことはせず、子どもたちと町の方々の制作を支える形です」エマが示した条件は、玲が想像していたものとほとんど同じだった。自分の作品にはしない。自分の名前も残さない。あくまで、誰かのために手を貸す。「本人の希望を優先してください」玲が伝えると、担当者は頷いた。「神崎さんからもそう言っていただいているので、こちらも慎重に進めます」会議が終わり、外へ出る。東京へ戻るまでには、まだ時間があった。加瀬が車の扉を開けながら尋ねる。「このまま駅へ向かいますか」玲は一度だけ腕時計を確認した。「カフェへ寄ります」加瀬は、もう理由を尋ねなかった。その沈黙が、玲には少しだけ居心地悪く感じられた。***午後
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第27話:初めて、断られた

***子どもたちが帰ると、エマは散らばった色鉛筆を集め始めた。玲は席を立ち、彼女のそばへ向かった。奏がカウンターからこちらを見る。その視線を感じながらも、玲は足を止めなかった。「正式に参加されるんですね」声をかけると、エマは顔を上げた。「子どもたちの補助だけです」「今日も、楽しそうでした」エマの手が、一瞬だけ止まる。褒められたことに困ったように、視線が色鉛筆へ落ちた。「子どもたちが楽しんでいますから」「エマさんも、楽しんでいるように見えました」玲が続けると、エマはわずかに眉を下げた。人の内側へ踏み込まれることを避ける時の顔。「そうかもしれません」否定はしなかった。けれど、それ以上の言葉も与えない。玲は、彼女が少しずつ距離を取ろうとしていることに気づいた。色鉛筆の箱を持ち上げ、会話を終える理由を作っている。今、引き止めなければ、また離れていく。その感覚に押されるように、玲は口を開いた。「今日、このあとお時間はありますか」エマの瞳が上がる。玲自身も、言葉にしてから自分の行動を理解した。「もしよろしければ、食事をしませんか」自分から女性を食事へ誘ったのは、八年ぶりだった。エレナが亡くなって以降、誰かから誘われれば応じることはあった。仕事の延長。財団関係者との会食。好意を向ける女性に時間を渡したこともある。けれど。自分から会いたいと伝えたことは、一度もない。理由のない食事へ誘うことも。相手と話す時間を増やしたいと思うこともなかった。今は、エマのことをもう少し知りたい。海の色でも。子どもたちの絵でも。何でもいい。店員と客ではない場所で、彼女の言葉を聞いてみたかった。エマは驚いたように玲を見た。しかし、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。「申し訳ありません」返事は静かだった。「お店でお会いした方とは、外でお会いしないと決めています」玲は、すぐには言葉を返せなかった。断られる可能性を、考えていなかったわけではない。エマが自分へ距離を置いていることは分かっていた。それでも、実際に明確な拒絶を受けると、胸の内側がざらついた。女性に誘いを断られたのは、初めてだった。そもそも、玲が自分から誘うこと自体がほとんどない。声をかければ、相手は喜んだ。予定があっても調整する。次の機会を自分か
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第28話:食事に誘われました

玲が店を出たあと、エマはしばらくカウンターの内側から動かなかった。大きな窓の向こうで、黒い車が海沿いの道へ滑り出していく。玲の姿はすぐに見えなくなり、残ったのは、午後の光を受けて白く揺れる水面だけだった。食事への誘いを断ったことに、迷いはなかった。お店で会った人とは、外で会わない。それは、朝倉エマとしてこの町へ来てから、自分の中に決めていた線だった。誰かと必要以上に親しくならない。自分の生活へ簡単に人を入れない。相手が玲であっても、例外にする理由はない。むしろ玲だからこそ、距離を保たなければならなかった。それでも。断った直後に浮かんだ玲の表情だけが、胸の奥に残っていた。大きく傷ついた顔ではない。不満を露わにしたわけでもない。玲はいつものように穏やかに受け止め、無理に押すこともなく引いた。ただ、ほんのわずかに。予想していなかったものへ触れたように、目の奥が揺れた。昔の玲なら、あんな顔をしただろうか。エマには分からなかった。二十四歳だった頃の玲は、欲しいものを言葉にする必要がほとんどなかった。玲が望めば、周囲が先に用意した。食事も。場所も。人との時間も。けれど、エレナに対してだけは違った。玲から予定を聞き。玲からアトリエへ来て。玲から食事へ誘った。エレナが気まぐれに断っても、怒りはしなかった。『じゃあ、明日は?』と、自然に次の予定を尋ねた。あの頃は。二人の間に、誘うことも断ることも特別な意味を持っていなかった。また会うことが前提だったから。今は違う。玲は神崎玲として自分の前に立ち。エマは朝倉エマとして、その誘いを断った。次に会える保証などない二人として。その違いを思うと、胸の奥に薄い寂しさが残った。愛情ではない。八年前に玲を愛していた気持ちは、同じ形では残っていない。抱きしめたいとも。玲の隣へ戻りたいとも思わなかった。ただ。かつて当たり前だった距離が、もうどこにも存在しない。その事実だけが、少しだけ寂しく感じてしまった。玲の声も。手の動きも。黙った時の表情も。記憶の中のものと似ている。けれど、今の玲は、エマの知らない八年間を生きた人だった。エレナが知らない仕事。知らない人間関係。知らない孤独。そのすべてを抱えた三十二歳の男。懐かしいのに、知らない。知っている
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第29話:結局、描くんだ

「急にどうしたの」「なんとなくです」「変なの」奏は笑った。その笑顔を見ながら、エマはまた何も知らないふりをした。それが優しさなのか。ただ臆病なだけなのか。自分でも分からなかった。***閉店後。エマは家へ戻らず、港の奥へ向かった。空はすでに濃い青へ変わり、倉庫街には点々と作業灯が残っている。フェスティバルへ向けた工事は日中で終わっており、遠くから波の音だけが聞こえていた。プレハブ倉庫の鍵を開ける。中へ入り、扉を閉める。補助錠を下ろすと、外の世界から切り離されたように静かになった。照明をつける。壁際に置かれたキャンバス。作業台の上の絵の具。乾きかけた筆。油と溶剤が混じった匂い。ここだけは、誰にも見せていない自分が残っている。エマはコートを脱ぎ、ゆっくりと布を外した。描きかけの油絵が現れる。港町の光。複数の色が混じる海。遠くから見れば穏やかで。近づけば、細かな緊張が画面の奥へ沈んでいる。玲と再会したあと。作品の中には、それまでなかった揺れが入り始めていた。恋ではない。過去へ戻りたい感情でもない。懐かしさ。警戒。寂しさ。知らない人になってしまった玲への、小さな興味。奏の好意に気づきながら、受け取れない自分への後ろめたさ。町を失いたくないという執着。言葉にすれば別々の感情が。絵の中では、一つの色として重なっていく。エマは、自分がどんな感情を抱いても。結局、ここへ戻ってくることに気づいた。悲しい時も。怖い時も。何かを選べない時も。言葉で整理できないものを。昔から、色へ置き換えてきた。エレナでなくなっても。画家としての名前を失っても。それだけは変わらない。「結局、描いちゃうんだ、私」小さく呟く。筆を手に取る。色を混ぜる。今日の海に近い、少し灰色を含んだ青。そこへ、ごく僅かに桃色を加える。玲が窓の外を見ていた時。エマの言葉を聞き、初めて色を探しているように見えた。あの表情が浮かぶ。エマは筆を止めた。玲を描きたいわけではない。それでも。誰かが自分の言葉によって、今まで見えなかったものを見る。その瞬間だけが、なぜか胸に残っている。筆先をキャンバスへ置く。薄い光が、海の奥へ差し込む。画面全体が、少しだけ開いた。エマは数歩下がり、絵を見る。以前のエレナな
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第30話:描く前に確かめたいこと

***その日は打ち合わせが外で行われた。海辺の広場には、すでに大きな黒板が設置されていた。高さは、エマの背丈を優に超えている。横幅も広く、数人の子どもが並んで描いても余裕があるほどだった。海へ向かって開けた広場の一角。背後には古い倉庫街があり、反対側には防波堤と、小さな漁船が浮かぶ湾が広がっている。午前中の光を受けた海面は、淡い青の中へ白を細かく散らしていた。風が吹くたびに色が崩れ、少し離れた場所では、雲の影がゆっくりと水面を横切っていく。真っ黒な黒板は、その景色の中で不自然なほど強く存在していた。何も描かれていない。色も。形も。まだ、誰の意図も入っていない。大きな黒い面だけが、これから何かを受け取るのを待っている。エマは黒板の前で足を止めた。「思っていたより、大きいですね」地域企画の担当者が、少し緊張したように笑った。「子どもたちだけではなく、期間中に町の方にも少しずつ参加していただく予定なので、このくらい必要かなと」エマは頷き、黒板から数歩離れた。近くで見た時と、遠くから見た時では、感じ方が違う。海を背負う位置。倉庫街から歩いてきた人が最初に見る角度。カフェや商店街から広場へ入った時の視線。夕方に太陽が傾けば、黒板の表面には光が反射する。夜になれば、広場の照明がどこへ当たるのかも確認する必要がある。エマは黒板そのものではなく、その周囲をゆっくりと見渡した。誰が、どこから見るのか。子どもたちが描く時、日差しは眩しくないか。小さな子が手を伸ばせる高さに、どれだけ余白を残すのか。描く人間だけではなく、そこを通り過ぎる人の目にも、自然に入るものにしたかった。「朝倉さん」担当者に呼ばれ、エマは顔を向けた。「こちらが、神崎財団から来ていただいている皆さんです」少し離れた場所に、数人の人間が立っていた。財団の担当者。フェスティバル事務局。そして、その後ろに玲がいる。黒に近い濃紺のジャケット。風に揺れる黒髪。広場の中でも目立つはずなのに、本人は周囲の視線を意識していないように見えた。玲も、こちらを見ていた。目が合う。胸の奥が、ほんの少しだけ強くなる。けれど、エマは表情を変えなかった。保護担当者から言われた言葉を思い出す。過剰に避けない。現地住民の一人として、自然に協力する。接触には
last updateLast Updated : 2026-08-05
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