「大人が境界を決めるより、最初に大きな流れだけ置いて、あとは少しずつ繋がる方がいいかもしれません」「大きな流れというと?」エマはすぐには答えなかった。海をそのまま描くのか。港町の建物を入れるのか。子どもたちの考えた魚や船を、どう繋ぐのか。まだ、何も決めたくなかった。黒板の前へ立ち。この場所そのものを、もう少し見たかった。広場の向こうでは、年配の男性が犬を連れて歩いている。防波堤では、制服姿の子どもたちが海を覗き込んでいた。遠くから漁船のエンジン音が聞こえる。観光客らしい男女が足を止め、黒板を見上げてから、海を背景に写真を撮っている。この場所には、すでに人の流れがある。作品を置く前から。誰かの生活がある。エレナだった頃。キャンバスの前にいる時、考えていたのは自分のことだけだった。何を描きたいか。何を見せたいか。どこまで自分の世界を閉じられるか。人が見る場所へ絵を出しても、画面の中へ入れるつもりはなかった。見る側は、外にいればいいと思っていた。けれど、今度の黒板は違う。子どもたちが描く。町の人が参加する。誰かが足を止め。誰かが通り過ぎる。一人の内側を閉じ込める場所ではない。たくさんの人が、自分の見た町を少しずつ置いていく場所。そして。フェスティバルが終われば。雨や風に晒され。いずれ、何も残らなくなる。エマは、真っ黒な面を見つめた。消えるものに。何を残したいのだろう。絵そのものではない。名前でもない。作家としての証明でもない。ここで描いた人たちが。後から海を見た時に。あの黒板へ置いた色を、ほんの少し思い出す。それくらいでいいのかもしれない。「朝倉さん?」担当者に呼ばれ、エマは振り返った。「すみません。少し考えていました」「何を描くか、ですか?」「それよりも」エマは、もう一度海を見る。「何を残したいのかを」自分でも、言葉にして初めて気づいた。担当者が少し意外そうに目を瞬く。「消える絵ですよね」「はい」「だからこそ、描いている時間に何が残るのかを考えたいです」それ以上は、うまく説明できなかった。エマは言葉を切り、黒板へ近づいた。周囲の人間も、それぞれの確認へ戻っていく。ただ一人。玲だけが。少し離れた場所から、エマを見ていた。***玲は、黒板ではなく。
Last Updated : 2026-08-05 Read more