私を心底憎んでいるはずのトップ俳優から、溺愛されるようになりました。 のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

80 チャプター

第60話

あの決裂から、一週間という時間が過ぎ去った。私たちはカメラの前で愛し合う男女を演じる時以外、一切の言葉を交わすことがなくなった。 私が自ら彼を突き放し、孤立を選んだのだから当然の報いだけれど、現場で彼の冷たい背中を見るたびに、胸の奥には常に息が詰まるような鈍い痛みが張り付いた。 ただ、皮肉なことに撮影自体は驚くほど順調に進んでいる。 高橋さんが裏で私に嫌がらせを仕掛けてくることもなく、不気味なほどの平穏が保たれている。 今日は、他のことを考える余裕はなかった。何が何でも、己の精神のすべてを演技だけに集中させなければならない。なぜなら、今日の午後に控えているのは、婚約発表の記者会見を開くという、前半最大のクライマックスシーンだからだ。 数十人規模のエキストラとカメラマンに囲まれ、カメラのフラッシュが四方八方から容赦なく焚かれる。 つまり、あの凄惨な記憶が私を襲う可能性が極めて高かった。 私は誰にも見られないよう、メイク室の片隅で葛西先生から処方されたパニック発作を抑え込むための頓服薬を取り出し飲み込んだ。 その時だった。ヘアスタイルの打ち合わせをしながら、メイクスタッフと高橋さんが部屋に入ってきた。 「あれ、桜田さん。どこか具合でも悪いんですか?」 全身の毛穴がキュッと収縮し、指先から一気に血の気が引いていく。 声をかけてきたのは、メイクスタッフの女性だった。 「あ、これは……」 喉の奥がカラカラに乾き、引き攣りそうになる頬の筋肉を総動員して、私はどうにか振り返った。 声が裏返らないように必死に腹の底に力を込める。 「もしかして風邪でも…」 スタッフの女性は不思議そうに首を傾げた。 「これは、ただのビタミン剤です」 それが、私が咄嗟に捻り出した精一杯の嘘だった。
last update最終更新日 : 2026-10-11
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第61話

いよいよ記者会見のテスト撮影が始まる。事前の打ち合わせで、監督から「テスト中はフラッシュは焚かない」と聞かされているのに、目の前にずらりと砲列のように並んだ無数の巨大なカメラのレンズが、まるで私という獲物を狙う銃口のように見えて仕方がなかった。冷たい汗が背中を伝い、私は必死に平常心を装おうと、ドレスの裾を強く握り締めていた。「……なんて顔してんだ」不意に耳元へと落とされたその低く冷ややかな声に、私はビクッと肩を跳ねさせた。唇の動きを最小限に抑え、周囲のスタッフやエキストラには聞こえない音量で私を咎めてきた。「え……?」完全に油断していた私は、間抜けな声を漏らしながら隣に立つ悠真を見上げた。「真っ青だぞ」「ただ少し、緊張してて……」私はドレスの下で震える膝を必死に押さえつけながら、なんとか声の震えを隠して言い返した。「情けないな」その声には、心配や気遣いなど微塵も含まれていなかった。「強がって俺を突き放したんだから、せめて虚勢くらい完璧に張れ」彼のその冷たい怒りが、皮肉にも私の暴走しかけていたパニックを強引に現実へと引き戻してくれた。そうだ、私はここで怯えている場合じゃない。私はギリッと奥歯を噛み締め、歪みかけていた口角を無理やり引き上げて、笑顔を顔面に固定した。 「うん。そうだね」その直後、助監督の「テスト、スタート!」という鋭い声がスタジオに響き渡る。悠真は一瞬にして、冷徹な俳優の顔から、私を深く愛する心優しい財閥の御曹司の顔へと完璧に切り替わった。「本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。この度、私たちは、正式に婚約の運びとなりましたことをご報告させていただきます」隣に立つ悠真は、堂々とした風格と気品に満ちた声で無数のカメラに向かって告げた。その佇まいは、彼が演じている絶対的な権力を持つ財閥の御曹司そのものだ。
last update最終更新日 : 2026-10-11
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第62話

「どうして、ないの……っ」私は鞄の中身を机の上にぶちまけ、血眼になって探した。衣装のポケット、床、机の下。他にも探してみるけれど、どこにもなかった。「一体、どこに消えたの……っ」数時間前までは手の中にあった命綱が、まるで初めから存在しなかったかのように跡形もなく消えた。焦燥感から心拍数が跳ね上がり、吸い込む空気の量がまったく追いつかない。本番までのタイムリミットが迫る恐怖と、丸腰で光の暴力に晒されるという絶望感が一気に押し寄せる。「…はっ…っ……。どうしようっ…どうすれば……」視界の端が急速に白濁し、世界がぐるぐると激しく回転し始めた。手が急速に凍りつき、指先の感覚が失われていく。過呼吸の激しい予兆が全身の筋力を根こそぎ奪い去り、私はもはや自分の身体を支えることすらできなくなっていた。耐えきれなくなった膝の力がカクンと抜け、私はその場にへたり込むように崩れ落ちた。「おい、大丈夫か」不意に、頭上から声が降ってきた。弾かれたように顔を上げると、いつの間にか開いたドアの前に、眉間を寄せた悠真が立っていた。「ゆ、悠真……」私は慌てて冷や汗で濡れた額を袖で乱暴に拭うと、震える膝に無理やり力を込め、机を頼りにしてフラフラと立ち上がった。「何があったんだ」一歩踏み出そうとした彼の鋭い視線から逃れるように、私は顔を背けた。そして渦巻くパニックの波を必死に喉の奥へと押し込め、白く乾いた唇を無理やり引き攣らせた。「なんにもないよ」私の言葉に、悠真は眉間を一段と深く寄せた。誰がどう見てもなんでもなくない状態の人間が発する、ひどく掠れたその嘘を彼が真に受けるはずがなかった。けれど、これ以上無理に踏み込んでも私が心を閉ざすだけだと悟ったのか、それ以上近づいてこようとはしなかった。「お前、どこか悪いのか」心配と不信感が入り交じった彼の声が、狭い楽屋の空気を
last update最終更新日 : 2026-10-12
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第63話

「悠真……?」冷や汗が額からこめかみへと伝い落ち、胸の奥が張り裂けそうなほどの痛みに襲われる。「お前は、俺に手を借りることが嫌なんだったな」その低く抑えられた声の裏には、頑なに心を閉ざす私に対するやり場のない苛立ちが濃く滲み出ていた。彼を傷つけたいわけじゃないのに、自分の弱さを隠そうとすればするほど遠ざけてしまう。「そういうわけじゃ、ないけど……」唇を強く噛み締めながら、弱々しく否定の言葉を絞り出すのが精一杯だった。私がパニック障害を抱えていると知れば、彼は共演者として私を庇い、現場で過剰に気を遣うだろう。「何もないならいい」私の優柔不断で要領を得ない返答に、悠真は完全に失望したように短くそう吐き捨てた。そして、迷いのない足取りで踵を返し、扉に向かって一歩を踏み出す。 遠ざかっていく冷たい靴音が、私の鼓膜を容赦なく叩きつけた。彼がこの部屋を出て扉が閉まれば、私は本当に一人きりになってしまう。そして…十数分後には、私を壊すあの無数のフラッシュが待ち受けるセットへと、丸腰で引きずり出される。想像しただけで息が詰まり、指先から血の気が引いて激しい痺れが全身を襲う。悠真の広い背中が遠く感じられ、視界が涙でじわじわと滲んでいく。私は必死で喉を絞り出し、掠れた声を漏らした。「…待って」私の弱々しい呼びかけに、悠真の歩みがピタリと止まる。けれど、彼が私へ振り返る気配はなく、重苦しい沈黙が流れた。「……けて」カラカラに乾いた喉から、ヒューという呼吸の漏れる音とともに、情けないほど小さな言葉がこぼれ落ちた。自分でも聞こえないほどの細い声。それでも、それは私がこれまでの人生で絞り出した中で、最も切実でなりふり構わないSOSだった。「なに」その声はひどく低く、無愛想だった。けれど、彼は私のかすかな掠れ声を拾い上げ、部屋を出ていくのを踏みとどまってくれた。
last update最終更新日 : 2026-10-12
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第64話

「……抗不安薬なの」私の口から漏れ出たその単語は、楽屋の中に重く落ちた。 悠真のシャツを握りしめる私の指先は激しく震え、彼の布地に無様なシワを作っていた。 「抗不安薬? お前、どこか悪いのか……?」 私は悠真と目を合わせることができず、ただ小さく首を横に振る。 どこが悪いのかと言われれば、私の心そのものが、女優としての資格そのものが壊れていた。 「パニックが起きるから飲むんじゃないのか?ストレスとか?」 悠真は必死に頭を回転させ、自分の知る限りの知識で私の状況を理解しようと問いを重ねてきた。 過労や一時的なストレスではれば、どれほど傷つかずに済んだだろう。 「そんなんじゃないよ……っ。ただ…ただ、私……」 私は首を激しく振りながら、零れ落ちる涙を拭うことすら忘れて声を絞り出した。 喉の奥が引き攣り、過呼吸特有の浅い酸素が胸を痛めつける。 「私、カメラが怖いの……!」 「は? 嘘をつくなら、もっとまともな嘘をつけよ」 悠真は呆れたように息を漏らした。 その冷ややかな眼差しに射抜かれながらも、私はもう撤回することの許されない真実を、泣きじゃくりながら訴え続けるしかなかった。 「嘘なんかじゃないっ…!カメラのフラッシュと、あのシャッター音が怖くてたまらないの……!」 あの日、逃げ場もなく無数の光と機械音に晒され、精神を切り刻まれたトラウマ。黒く光るレンズがすべて銃口に見え、自分を死に至らしめる兵器に思えてしまう恐怖。 その異常な心理状態を彼に伝えるために、私は震える声で必死に言葉を紡ぎ出した。 「今日、この会見シーンがあるって分かってたから安定剤を持ってきたのに……なくなっててっ……!」
last update最終更新日 : 2026-10-13
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第65話

ここは楽屋で、いつスタッフや高橋さんが扉を開けて入ってくるか分からない。 トップ俳優と新人女優が、施錠もしていない部屋で抱き合っているところを見られればどうなるかなんて、誰でも容易に想像できる。 「悠真……っ、だ、誰かに見られたら……」 私は彼の胸の中で身を小さく縮め、震える声で必死に訴えた。けれど、悠真は私を抱きしめる腕の力を微塵も緩めようとはしなかった。 「本番までまだ時間がある。誰も来ない」 彼は自分がここに留まるリスクなど微塵も気にしていない様子で、ただ私の乱れた呼吸が整うことだけに全神経を注いでいる。本来の悠真なら、こんな軽率な真似は絶対にしない。鍵もかかっていない楽屋で、新人女優を抱きしめるなんてリスクでしかない行為を、彼が自発的に選ぶはずがない。……私のせいだ。私が取り乱し、助けを求めてしまったから、彼にプロとして不適切な行動を取らせてしまっているんだ。 「それでも……っ、もし誰かが入ってきたら」 それでも不安を拭いきれずにいると、悠真は私の頭の上に顎を乗せるようにして、さらに強く身体を引き寄せた。 「誰が来ようといくらでも誤魔化してやる。だから、今はただ自分の心配をしてろ」 その頼もしい庇護に、私は言葉を詰まらせ、小さく頷くことしかできなかった。彼を巻き込んではいけない。理性がそう激しく警鐘を鳴らしているというのに、私の身体は彼の温もりから離れることを拒んでいた。 「……うん」 彼の胸に顔を埋めたままそう呟くと、悠真はそっと短い息を吐き出し、抱きしめる腕に込めた力をほんの少しだけ柔らかく緩めた。 「俺は…薬の代わりにはなれない」 自嘲気味に落とされたその言葉には、どこか歯痒さが滲み出ていた。そんなことない。こうし抱きしめてくれるだけで救われているのだと、そう伝えたくて顔を上げようとした。
last update最終更新日 : 2026-10-14
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第66話

スタジオに足を踏み入れた瞬間、強烈な照明が視界を白く焼き尽くした。完璧にセッティングされた結婚発表の記者会見セット。立ち並ぶエキストラのカメラマンたち、何十台ものレンズの群れ、そしてこれから一斉に焚かれるであろうフラッシュの予感。楽屋で悠真に抱きしめられ、一度は落ち着いたはずの動悸が、狂ったようなテンポで再び胸を打ち始めた。足元から冷気が一気に駆け上がり、膝の力が抜けそうになる。肺に送り込めるはずの酸素がどこかへ消え失せ、喉の奥がキュッと締め上げられる。「……はっ……っ」浅く引きつった息が、掠れた音を立てて唇からこぼれ落ちた。「大丈夫だ」耳元で落とされた悠真の低く穏やかな声が、崩れかける私を現実につなぎ止めてくれた。彼の大きな手が、周囲の視線から死角になるように私の背中に添えられ、体を支えてくれる。「うん、ありがとう」私は視線を床に落としたまま、震える足を無理やり一歩前へと踏み出した。「何か起きれば俺がアドリブでどうにかする。だからお前は、安心してどうにでもなれ」「ごめん。迷惑かけないって言ったばっかりなのに……」そう誓ったはずなのに、土壇場になって彼に頼るしかない自分が情けなくて仕方がなかった。「……元々お前に頼ろうとしてない」突き放すような、けれどどこまでも温かい彼の言葉が、冷え切った胸の内に染み入る。「足手まといにだけはならないようにしようって思ってたのに。ほんと、最悪だよね……」自分の無力さと惨めさに、涙が溢れそうになるのを必死で耐えた。トップ女優として彼の隣に立つどころか、まともに息をすることすらできない。こんな自分が惨めで、情けなくて、心が折れそうだった。「俺は……」悠真が何かを言いかけた、その瞬間――。「よーい!」現場を切り裂くような監督の鋭い声が、スタジオの空気を一変させた。
last update最終更新日 : 2026-10-15
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第67話

「愛理さん! その言葉を受けて、今のお気持ちは!」 記者からの鋭い問いかけが、怒涛のフラッシュとともに突き刺さる。 その瞬間、私は激しい動悸とともに現実の空間へと引き戻された。 「あっ……」 口を微かに開いたものの、漏れ出たのは掠れた空気の音だけだった。 唇が震え、全身の血が引いていくような冷たさが指先から急速に広がっていく。 「愛理さん……?」 白光の嵐が容赦なく襲いかかり、網膜に焼き付いて離れない。 まぶたの裏側まで白く塗りつぶされていくような恐怖の中で、私は必死に愛理としての記憶を手繰り寄せようともがいた。脚本のページ、前後の文脈、愛理の感情。 「どんな困難な状況でも……彼は……」 途切れ途切れの声で、私はすがるように言葉を絞り出した。 「彼は……っ」 もう一度セリフを繋ごうと試みたものの、震える声は情けなく途切れ、完全に言葉が途絶えてしまった。 喉の奥がカラカラに干からび、セリフがひとつ残らず頭の中から吹き飛んでいく。駄目だ。今はどんな言葉を紡いでも上手くいかない気がする。 撮影を止めてしまうかもしれないという罪悪感が胸を締め付け、呼吸すらまともにできなくなっていたその時。 隣に立つ悠真が、滑らかに一歩前へと足を踏み出した。 「ご覧の通り、彼女は人前に立つことにまだ慣れておらず、少々緊張しているようです」 低く芯の通った悠真の声が、ピリついた会場の空気を一瞬で塗り替えた。 彼は優雅な動作で記者たちの視線を一身に引きつけ、その圧倒的な存在感だけで、私に向けられていた鋭い追及の視線を綺麗に遮ってみせた。 「すみ、ません、私……」 「ゆっくりで大丈夫だ」 悠
last update最終更新日 : 2026-10-16
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第68話

「テストと違う動きをしてしまって……すみません、監督」 沈黙が流れる撮影現場で、私は頭を下げた。 監督は腕を組んだまま、じっとモニターを見つめて一口も口を開かない。一切の感情が浮かんでおらず、不機嫌なのか、それとも呆れ返っているのかすら判別がつかない。 「あの、監督」 現場の重苦しい空気を察した悠真が、そっと私の前に出るようにしてわずかに身体を傾けた。 「私が……っ」 私は震える脚に必死で力を込め、悠真が次の言葉を紡ぎ出すよりも早く、遮るように一歩前へ踏み出した。 「私が……こうした方が、このシーンの痛切さがよりリアルに伝わるのではないかと一ノ瀬さんにご相談させていただいたんです。ですので、もし何かご指導やご指摘があるなら、すべて私に……」 すべての責任は私にある。どんな厳しい叱責であっても甘んじて受ける覚悟だった。 すると、監督は組んでいた腕をゆっくりと解き、パンッと一回、大きな手叩きをした。 「すごく良かった!!」 予想していた激しい怒声とは正反対の、歓喜に満ちた大声が監督の口から飛び出した。 「え……?」 想定していた言葉とはあまりにもかけ離れた展開に、私は拍子抜けして目を丸くした。 「いやぁ驚いたよ! 現場でここまで鳥肌が立ったカットは、正直言って初めてだ!」 監督は興奮を抑えきれない様子でパイプ椅子から身を乗り出し、モニターの再生画面を興奮気味に何度も指差した。 「それなら…良かったです……」張り詰めていた緊張の糸がふっと切れ、私は胸に手を当てて深く深く息を吐き出した。全身から一気に力が抜け、身体の芯に残っていた冷たさがスーッと消えていく。 「脚本の上では、どんなに芯が強くて折れない女性として描かれていてもね、極限状態で
last update最終更新日 : 2026-10-17
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第69話

撮影が全て終わり、楽屋で自分の荷物を片付けていた。衣装から私服に着替え、バッグのジッパーを締めようとしたその時、背後から不意に名前を呼ばれた。「美羽」低く落ち着いたその声に振り向くと、そこには悠真の姿があった。黒のシンプルなシャツに着替えた彼は、いつもの完璧なスターとしてのオーラを漂わせている。私はハッとして手にしていたバッグを椅子の上に置き、彼の方へと向き直った。 「悠真、さっきは本当にありがとう。今お礼を言いに行こうと思ってたの」私の言葉に、悠真は表情を変えないまま近づいてくると、ポケットから小さく細長いプラスチックのケースを取り出した。「これだろ」彼の言葉とともに、手のひらに乗せられた薬ケースの冷たい感触が伝わってくる。私は視線を落としたまま、かろうじて掠れた声を絞り出した。「こ、これをどこで……?」「メイク室に落ちてた」悠真の口から出たその場所を聞いた瞬間、私の頭の中に疑問の渦が広がった。「メイク室……?」確かに、出番前に発作の予兆を感じて薬を飲んだのはメイク室だった。けれど、私は服用したあと、確かにいつものポーチの奥深くにケースをしまい込み、ジッパーを閉めたはず。その指先の感触も、ポーチをバッグの底に仕舞った記憶も、ハッキリと残っている。だとしたら、なぜそれがポーチから出て、メイク室の床に落ちているなんてことが起きるのだろうか。「落としたことに気づかなかったんだな」ポーチごと紛失しているなら、まだ自分の不注意だと納得できたかもしれない。けれど、中の薬ケースだけが外に落ちるなんてあり得ない。「そんなわけ……」否定の言葉が思わず口をついて出かけた。けれど、私は途中で言葉を飲み、膨らみかけた恐怖と不気味さを強引に胸の奥へと押し込めた。「そう、かもしれない……」悠真に訴えたところで、どうにかなる問題じゃない
last update最終更新日 : 2026-10-18
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