LOGINいよいよ記者会見のテスト撮影が始まる。
事前の打ち合わせで、監督から「テスト中はフラッシュは焚かない」と聞かされているのに、目の前にずらりと砲列のように並んだ無数の巨大なカメラのレンズが、まるで私という獲物を狙う銃口のように見えて仕方がなかった。冷たい汗が背中を伝い、私は必死に平常心を装おうと、ドレスの裾を強く握り締めていた。「……なんて顔してんだ」不意に耳元へと落とされたその低く冷ややかな声に、私はビクッと肩を跳ねさせた。唇の動きを最小限に抑え、周囲のスタッフやエキストラには聞こえない音量で私を咎めてきた。「え……?」完全に油断していた私は、間抜けな声を漏らしながら隣に立つ悠真を見上げた。「真っ青だぞ」「ただ少し、緊張してて……」私はドレスの下で震える膝を必死に押さえつけながら、なんとか声の震えを隠して言い返した。「情けないな」その声には、心配彼は慌ててパイプ椅子から立ち上がり、スーツのシワを軽く伸ばしながら私の方へ向き直った。その立ち振る舞いは極めて丁寧で、敵意や怪しい気配は表面上は微塵も感じられない。むしろ、心底から兄を心配しているような温かい空気を纏っていた。 「あ、妹さんでしたか! これは失礼しました。初めまして。私、蒼真の職場の同僚で、明良と申します」 その肩書きを聞いて、私は少しだけ張っていた肩の力を抜いた。兄の会社の人なら、この病室にいるのも不思議ではない。 おそらく病院が、兄の所持品や携帯から会社関係にも連絡を入れたのだろう。 一人きりで病室に飛び込み、不審者に遭遇したのではないかと極限まで張り詰めていた私は、自分が無意識に彼を疑っていたことを恥じながら、深く息を吐き出して頭を下げた。 「初めまして。兄がいつもお世話になっております」 私はベッドで眠り続ける兄へと視線を移した。 酸素マスクの下の顔色は青白く、昨夜ソファーで笑っていたあの温かい気配は完全に消え失せている。見ているだけで胸が引き裂かれそうだった。 私の視線を追うようにして、明良と名乗った彼もまた、痛ましげに目を細めて兄の横顔を見つめた。 「本当に、びっくりしましたよね。俺も病院から電話があって……いてもたってもいられなくて、飛んできたんです」 彼の声には、嘘偽りのない純粋な心配と焦りが滲み出ているように聞こえた。 私は少しだけ彼に対する警戒心を解き、兄が眠るベッドの脇へと近寄りながら、今一番気になっていたことを彼に問いかけた。 「あの、兄は…少しでも目を覚ましたり……」 私の切実な問いかけに対し、彼は重苦しい空気を纏いながら伏し目がちにゆっくりと首を横に振った。 「いえ……まだ一度も目を覚ましてません。でも、医者は一番の峠は越えたから、そのうち目を覚ますだろうと言ってましたよ」
限界まで飛ばしてくれたマネージャーの車は、病院の入り口に滑り込むように急停車した。 「俺は現場に戻って、監督たちに頭を下げてくる。何かあったらすぐに連絡しろよ!」 「はい。ありがとうございます」 マネージャーはすぐに撮影スタジオへとUターンしていった。 彼を見送る余裕もなく、私は病院の自動ドアをくぐり抜けた。 病院特有の、冷え切った空気と鼻を突く消毒液の匂いが全身を包み込む。 私は息を切らして総合受付のカウンターへとすがりついた。 どうか、最悪の事態だけは免れていてほしい。神様に祈るような気持ちで、私は一人、震える声を振り絞った。 「あのっ、桜田蒼真の家族の者です。妹の桜田美羽と申します……! 兄は今どこに……っ」 カウンターから身を乗り出すようにして捲し立てる私の声は、恐怖と息切れでひどく掠れていた。 たった一人で血相を変えて飛び込んできた私の姿に、受付の看護師は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに手元のカルテとパソコンの画面へと視線を落として確認作業に入ってくれた。 キーボードを叩くカチャカチャという乾いた音が、やけに静かなロビーに響き渡る。待たされている数秒間が、まるで永遠のように長く感じられた。 「桜田蒼真さんは先ほどICUでの緊急処置を無事に終えられまして、現在は一般病棟に移されています。三階の305号室になります」 その言葉が聞こえた瞬間、私の中で極限まで張り詰めていた見えない糸がプツリと音を立てて切れ、ズルズルと床に崩れ落ちそうになった。 「それじゃあ兄は、一命は取り留めたってことですよね……?」 当たり前すぎる質問だったかもしれない。けれど、今の私には確信できる言葉が欲しかった。 看護師は、涙と汗でぐちゃぐちゃになった私の悲痛な顔を真っ直ぐに見つめ返し、優しく、けれど医療従事者としての揺るぎない責任を持った真摯な表情で深く頷いた。 「はい。命に別状はありません」 助かった。お兄ちゃんは生きている。神様が私から、最後の光を奪わずにいてくれたのだ。 「良かった……っ」カウンターにすがりつきながら、せき止めていた感情がすべて涙となって溢れ出す。 けれど、完全に安心しきるには、まだ聞かなければならないことがあった。私は震える手で乱暴に涙を拭い、すがるような目で再び看護師を見上げた。 「
「ゆ……一ノ瀬さん……」彼が放っているその強烈な怒りは、撮影を遅らせようとしている私に対するものではなく、明らかに言いなりになっている私に向けられていた。「お兄さんが病院に運ばれたんですよね。それに意識不明の重体だと。それなのに、どうしてすぐに行かないんですか」「ここで私が抜けてしまえば……」震える唇で言い訳を口にすると、悠真はひどく呆れたように短く息を吐き捨てた。そして、私から庇うように一歩前へ出ると、今度は監督へとその鋭い矛先を向けた。「監督。情緒不安定な彼女に演技をさせても、いい作品は撮れないと思います」焦る監督のスケジュール管理を理詰めで塞ぎ、作品のクオリティを盾にすることで、私を現場から強制的に解放しようとしてくれている。「そうは言ってもなぁ……。スケジュール的にも、ここで彼女に抜けられると……」ドラマの撮影現場において、役者が突発的に抜けるということは、その日予定していたスケジュールがすべて白紙になることを意味する。確保していたロケ地、エキストラ、ほかの役者の拘束時間。それらがすべて無駄になれば、莫大な制作費の損失が出る。監督が同情よりも現実的な進行を優先するのは、現場の責任者として当然の葛藤だった。その沈黙が私への見えない圧力となってのしかかり、「残ります」と口を開きかけた、その時だった。「俺の単独カットを先に全部回してください。彼女が必要な引きの画や、肩越しのシーンは、代役を立ててカメラアングルで凌げるはずです」悠真の口から飛び出したのは、感情論ではなく、現場を動かすための現実的な妥協案だった。それは技術的には可能でも、相手の表情や息遣いがない状態で完璧な演技を要求される、役者にとっては負担の大きい手法だ。 「代役で……? いや、でもそれだと後日、彼女の顔の寄りを別撮りする時に、一ノ瀬くんにもう一度相手役として来てもらうことになるぞ。君のスケジュールだってカツカツなのに……」監督が驚いたように反論した。トップ俳優である悠真のスケジュールは、分刻みで数ヶ月先までびっしりと埋まっている。今回のドラマ撮影だけでもギリギリの調整で参加しているはずなのに、私のために別日を設けさせるなんて不可能に近い。「構いません。スケジュールの帳尻は合わせます」迷いのないその一言が、静まり返ったスタジオに深く、重く響き渡った。「作品の質
兄が病院のベッドで生死の境を彷徨っている事実がどうしても頭で処理しきれず、私はマネージャーの腕をすがるように掴んだまま、ガタガタと震えることしかできなかった。 「美羽っ! しっかりしろ、大丈夫かっ!」 「兄が……っ、お兄ちゃんが……!」 呼吸の仕方を忘れたように喘ぎながら、私は必死に言葉を絞り出した。 「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ。蒼真くんに何があった」 マネージャーは、パニックに陥りかけている私を落ち着かせるように問いかけてきた。 私が泣いても兄は助からない。分かっているのに涙を止めることができなかった。 私は震える手で顔を覆い、しゃくり上げるのを必死で呑み込みながら、途切れ途切れの言葉で病院から告げられた惨状を伝えた。 「病院に運ばれて……意識がないって。私、どうしたらいいか……っ」 すぐにでも駆け出して病院へ向かいたいのに、足がすくんで一歩も動けない。 「監督に事情を話して、今すぐここを出るぞ。車は俺が回すから、美羽は向かう準備をしろ」 マネージャーは一瞬の迷いもなくそう断言すると、私の背中を力強く押してくれた。 通常であれば、ヒロインが撮影を途中で投げ出すなど許されない。それでも彼は、私の女優としてのキャリアよりも、一人の人間としての心を最優先に守ろうとしてくれた。 彼の背中から伝わる確かな味方の存在に、私はかろうじて頷きを返した。 「……はい」 私は手の甲で乱暴に涙を拭うと、重い足を引きずるようにして、スタジオの中央でスタッフに指示を出している監督の元へと向かった。 きらびやかな照明、慌ただしく動き回る美術スタッフ。数分前まで私もその一部だったはずの撮影現場の空気が、今の私には酷く遠い世界のように感じられた。 今は泣いている場合じゃない。何
「美羽、さっきスマホ鳴ってたぞ」長いリハーサルがようやく終わり、スタジオの隅に置かれたパイプ椅子に崩れ込むように腰を下ろした私に、マネージャーが私のバッグを差し出しながら声をかけてきた。 「え……誰からですか?」 「それが、全部非通知なんだよ。短い間に3回も連続でかかってきてたから、何か急ぎの用かもしれないぞ」 私の背筋を冷たいものが駆け抜けた。心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり、呼吸が浅くなる。 また、あの人からかもしれない。でも、これまで短い間に3回も連続して執拗に鳴り続けたことなんて一度もなかったのに。 ────プルルルル バッグの中で、無機質なバイブレーションの振動音が突如として鳴り響いた。 「……っ!」 着信音は切れることなく、どこまでも執拗に、そして不気味な一定のテンポで鳴り続けている。 「出なくていいのか?」 マネージャーの気遣うような声に、私はハッと我に返った。 あの人の存在を…得体の知れない悪意をマネージャーに話してしまえば、間違いなく警察沙汰になる。そうなれば現在進行中のこのドラマの撮影も止まってしまうかもしれない。 これだけ鳴り続けているのに出なければ、勘の鋭いマネージャーに不審がられてしまう。 恐怖で震える手を無理やりバッグに突っ込むと、意を決して通話ボタンをスワイプした。 「もし、もし……」 絞り出した声は、自分でも情けなくなるほどかすれて震えていた。 身構えて耳を澄ませた私の鼓膜を打ったのは、予想していたような気味の悪い沈黙ではなかった。 電話の向こうから聞こえてきたのは、背後で慌ただしく人が行き交う騒音と、事務的でありながらひどく切迫した、見知らぬ女性の緊迫した声だった。 「突然のお電話で失礼い
「本当のことは……ごめん。今はまだ話せそうにない」 絞り出すように告げたその言葉は、情けないほど小さく震えていた。 私の異常に気づき、どれほど心配してくれているか分かっているのに、それでも私は自分の抱える闇を兄に背負わせることはできなかった。 「いいよ。無理に聞き出そうなんて思ってない。ただ……美羽が話したくなった時に、ちゃんと受け止められる存在でいたい」 「……ありがとう、お兄ちゃん」 涙声になりそうなのを必死で呑み込み、私は短く感謝の言葉を紡いだ。 私は潤んだ瞳を隠すように手元の救急箱へ視線を落とし、使い終わった薬のチューブや湿布の袋を片付け始める。 パチン、と救急箱の留め具を閉めたその時、兄がふと、場を和ませるような軽いトーンで思いがけない言葉を落とした。 「それに、人のことは言えないしな。俺だってお前に隠してることがある」 その言葉に、私はピタリと手を止め、弾かれたように顔を上げた。 「え……? お兄ちゃんが、私に隠し事?」 私は目を丸くして、マジマジと兄の顔を覗き込んだ。 「ああ」 堂々と隠し事があると宣言されてしまうと、妹としてはどうしてもその中身を暴きたくなってしまう。私は救急箱をテーブルの端に押しやり、ソファーの上で膝を突き合わせるようにして兄へと距離を詰めた。 「え、何それ。気になるんだけど」 私は兄のシャツの袖を軽く引っ張り、答えを急かすように揺さぶった。 「俺も秘密だ」 兄は私の手を軽く払い除けると、意地悪な笑みを浮かべてそっぽを向いた。 「あ、もしかして、ついに彼女ができたとか?」 もしそうだとしたら、妹としてこれほど嬉しい隠し事はない。 私は確信めいた笑みを浮かべて彼の反応を待ったが、兄は呆れたような溜息を吐き出した。 「バカ言え。彼女ができたら、妹と二人で皿洗いなんかしてないだろ」 正論を突きつけられ、私は思わず確かにと納得してしまった。 もし大切な恋人ができたのなら、彼女と同棲でもしているはずだ。 兄の自嘲気味な笑いに、私もつられてふふっと笑い声を漏らしてしまう。 けれど、平和な笑いが落ちたその直後、私の頭の片隅に、自分が巻き込まれている危険の影が黒くよぎった。 まさかとは思うけれど、兄の隠し事も、そっちの類の暗いものなのではないかと