All Chapters of 復讐のアフェア:親友の夫が、私に復讐を持ちかけてきた: Chapter 81 - Chapter 90

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第81章

――ブラックウッド家・同じ夜ヴァンスは書斎に座っていた。扉は開いたまま。リビングからテレビの音が聞こえていた。そして――静かになった。ヴァンスが顔を上げる。テレビは消えている。ジョヴィはソファにいなかった。立ち上がる。寝室へ向かう。空っぽ。バスルーム。そこにもいない。ジョヴィのコートも消えていた。ヴァンスは、広いペントハウスの中央に一人で立った。それだけで分かった。彼女は出ていった。電話はしなかった。メッセージも送らなかった。ただ書斎へ戻る。暗い部屋の中で、再び椅子に座る。そして、待った。――ザインの家・早朝カーテンの隙間から、夜明けの光が差し込んでいた。ザインはソファで目を覚ました。隣には、まだジョヴィがいる。彼女の頭はザインの胸に乗り、片手は腹部に置かれていた。眠っている。ザインは、しばらく彼女を見つめた。規則正しく上下する呼吸。丸みを帯びた腹部。穏やかな寝顔。ネリッサを思い出す。離婚届。オフィスで彼女が自分を見つめていたときの顔。怒っていたわけでもない。悲しんでいたわけでもない。ただ――もう終わっていた。ザインはジョヴィを見る。赤ちゃんを。そして、自分が選ぶかもしれない未来を考える。これを受け入れることができたなら。それでも――自分が本当に何を望んでいるのか、分からなかった。ジョヴィが身じろぎする。目を開ける。そして、ザインを見上げた。「……おはよう」「おはよう」ジョヴィはゆっくり身体を起こす。顔を擦る。「今、何時?」「まだ早い」ジョヴィは部屋を見渡した。朝の光が差し込み、家の中が少しだけ柔らかく見える。「私、帰らなきゃ」小さく言う。「誰かに気づかれる前に」ザインは頷いた。ジョヴィが立ち上がる。玄関へ向かう。そして、扉の前で足を止めた。「ザイン」「ん?」ジョヴィが振り返る。「諦めないで」一拍。「自分のことも」そして、腹部へ手を置く。「この子のことも」さらに静かに。「私たちのことも」「あなたが必要なの」ザインは何も言えなかった。ジョヴィはそのまま出ていく。扉が閉まる。ザインは一人、ソファに残された。重い沈黙だけが、部屋に残る。――ジョヴィの実家・翌朝家は、いわゆる「昔からの名家」の空気をまとっていた。
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第82章

ヴァンスはナーリッサへ視線を向けた。「ミズ・サリヴァン。君はこの建築家と直接仕事をしている。君の評価を聞かせてくれ」ナーリッサの胸が激しく鼓動した。それでも、声だけは平静を保った。「建築家としての仕事ぶりは、十分に優秀です。ただし、現在の契約内容でプロジェクトを進めるには事足ります。追加のスポンサー支援は、成功のために必要ではありません」「だが、支援があればプラスにはなるんじゃないか?」別の役員が尋ねた。ナーリッサはその男をまっすぐ見返した。「測定可能な利益がないままコストだけが増加します。データ上、それを正当化できる根拠はありません」すると、ジョヴィの父親が身を乗り出した。「ミズ・サリヴァン。君は現在、その建築家との離婚手続きを進めているそうだな。だとすれば、個人的な事情が君の判断に影響している可能性はないのか?」室内の空気が凍りついた。ナーリッサは表情ひとつ変えなかった。「私の判断は個人的な事情ではなく、データに基づいています。数字が示していることは明確です」ヴァンスが口を開いた。「ミズ・サリヴァンの分析は正しい。このプロジェクトに追加のスポンサー支援は必要ない。採決を提案する」会議室が静まり返った。ヴァンスは微動だにせず、手にしたペンを握ったままだった。ナーリッサはノートパソコンの画面から目を上げず、感情を消したような顔で座っていた。ほかの役員たちは椅子の上で落ち着かなげに身じろぎし、互いの顔を見ながら、次の展開を待っている。やがて議長が再び口を開いた。「採決の前に、ほかに意見はありますか?」ジョヴィの父親が前へ身を乗り出した。「私はスポンサー支援を妥当な投資だと考えている。あの建築家はすでに十分な実績を示している。彼を今後も関与させるためにも、支援を確保すべきだ」別の役員がうなずいた。「注目度の高いプロジェクトです。安定性は重要でしょう」三人目の役員は首を横に振った。「現在の契約で十分です。これ以上資金を投入するのは無駄でしょう」議論は続いた。次第に声が大きくなり、それぞれが自分の主張を繰り返す。その間、ヴァンスは一言も口を挟まなかった。ただ、黙って全員を見ていた。やがて議長が採決を求めた。「では、建築家ザーン・サリヴァンへのスポンサー支援に賛成の方は?」手が上がった。最初に手を挙げたのはジョ
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第83章

「彼は冷たい人じゃない」ナーリッサの声は静かだった。ほとんど穏やかとさえ言えるほどに。「あなたを尊重してる。彼なりのやり方で、あなたを気にかけてる。ただ……あなたが、それに気づかなかっただけよ」角の向こうで、ヴァンスが息を呑んだ。胸の奥が、きつく締めつけられる。そんなふうに自分のことを語ってくれる人がいるなんて、彼は知らなかった。母親でさえ、父親でさえ、仕事仲間でさえ、友人でさえ――誰一人として。ヴァンスは物陰に立ったまま、身動きひとつできずにいた。ただ、ナーリッサの言葉を聞いていた。ジョヴィの表情が硬くなる。「あなたに彼の何が分かるの? あなたが見てるのは、彼があなたに見せたい部分だけよ」「そうかもしれないわね」ナーリッサはバッグを手に取った。「でも、あなたよりは、彼のことを見てきたと思う」そう言って、踵を返す。「ナーリッサ。友達として言ってるの。彼のせいであなたが傷ついてほしくない。私はあなたを――」ナーリッサの足が止まった。口元に、薄い笑みが浮かぶ。ゆっくり振り返り、ジョヴィを見た。「友達?」その声から温度が消えた。「心配してる?」ジョヴィの顔から血の気が引いていく。「それなのに、私の夫と寝たの?」ジョヴィの口がわずかに開いた。何か言おうとして、けれど言葉にならない。やがて、その瞳に涙が滲んだ。「……ごめんなさい」声が震える。「分かってる。私が間違ってることくらい。でも……私……彼を好きな気持ちを止められないの」ジョヴィは唇を噛んだ。「ザーンは私のすべてなの」ナーリッサはしばらく彼女を見つめていた。そして、かすかに笑った。「そうね……高校で、あなたたちが初めてキスしてるところを見た瞬間から分かってた」声は穏やかだった。だからこそ、その言葉は痛かった。「ただ、馬鹿だったのよね。いつかあなたの代わりになれるかもしれないって……そんなことを願った私が」ナーリッサはそれ以上何も言わず、エレベーターへ向かった。扉が開く。一歩踏み込もうとした、そのときだった。「待って」ジョヴィが手を伸ばした。「ナーリッサ――」けれど、その声は途中で途切れた。ジョヴィの顔が突然青ざめる。身体が大きく揺れた。片手が腹へ飛んだ。「……めまいがする」息をするのさえ苦しそうな、細い声だった。「私…
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第84章

待合室は白く、静まり返っていた。頭上では蛍光灯が低く唸り、空気には消毒液の匂いが漂っている。ヴァンスはプラスチック製の椅子に座り、肘を膝についたまま、深くうつむいていた。ここへ来てから、一言も話していない。やがて、一人の医師が現れた。四十代半ばほどだろうか。穏やかな目をした男で、手にはカルテを抱えている。「ブラックウッドさん?」ヴァンスが顔を上げた。「奥さまは安定しています。おそらく、強いストレスと脱水、それに血圧低下が重なったのでしょう。深刻な状態ではありません。ただ、念のため今夜は入院して経過を見ます」ヴァンスは短くうなずいた。「ありがとうございます」医師が去っていく。その二十分ほど後、ジョヴィの母親が駆け込んできた。コートのボタンは一つずれて留められ、髪も乱れている。明らかに慌てて家を飛び出してきたのだろう。「ジョヴィはどこ?」「容体は安定しています。今夜は入院するそうです」母親はヴァンスの隣に腰を下ろした。震える手を膝の上で握りしめている。「何があったの?」「ストレスと脱水。それから低血圧だそうです。詳しいことはまだ分かっていません」母親はヴァンスを見た。心配で動揺しているはずなのに、その目だけは鋭かった。「あなたは?」ヴァンスは黙っていた。「ジョヴィが倒れたとき、あなたはどこにいたの?」ヴァンスは答えなかった。母親はしばらく彼を見つめたあと、手を伸ばし、その腕にそっと触れた。「あなたは家に帰って休んだほうがいいわ。私がここにいるから」ヴァンスは立ち上がった。そのままドアへ向かう。「ヴァンス」足が止まった。「気をつけて」母親の声は静かだった。「ジョヴィは……今、とても脆い状態なの」ヴァンスは振り返らなかった。そのまま病院を出た。ヴァンスはエンジンを切った。運転席に座ったまま、しばらく動かなかった。両手はまだハンドルの上にある。視線を上げる。目の前にそびえる高層ビル。その最上階に、彼女がいる。ナーリッサは、あそこにいる。分かっていた。自分でも気づかないうちに、ここまで車を走らせていた。病院も。待合室も。ジョヴィの母親も。すべてが少しずつ遠ざかっていく。今、彼の中に残っているのは、あの部屋にいる一人の女だけだった。ヴァンスは車を降りた。エレベーターへ向かい、
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第85章

「彼女を抱き上げるしかなかった。みんなが見ていたんだ」ヴァンスの声には、いつもの冷静さがなかった。「必要なことだった。事態を安定させるために。あの取引を守るために」まるで必死に弁解しているようだった。自分でも、なぜそこまで説明したいのか分からない。ただ、ナーリッサに勘違いされたくなかった。それだけだった。ナーリッサは立ち上がった。窓辺から離れ、二人の間に距離を作る。「分かってる」「じゃあ、どうして――」「どうして?」彼女が振り返った。「あなた、明らかに怒ってる。俺に……」ナーリッサは喉を鳴らし、再び視線を逸らした。「怒ってない。ただ……」首を横に振る。それでも、次に出てきた声は静かだった。けれど、その静けさの奥に鋭い痛みがあった。「あなた、言ったでしょう。もう演じることには疲れたって」ヴァンスは何も答えない。「この前、私と話したときに」沈黙。「でも、違った」ナーリッサが一歩近づいた。「あなたが疲れたのは、私の前で演じることだけだったのよ」声が震えた。「彼女の前では……これからもずっと演じ続けるんでしょう?」「それは――」「じゃあ、あれは何だったの?」ナーリッサはエレベーターのほうを指した。その指先が震えている。「彼女を抱き上げたことも。夫として振る舞ったことも。病院へ連れて行ったことも」一つ一つ、言葉を重ねる。「全部、演技じゃなかったの?」「俺にどうしろっていうんだ?」ヴァンスの声が初めて強くなる。「彼女を床に寝かせたままにしておけっていうのか?」「できたでしょう!」ナーリッサの声が割れた。次の言葉は、喉の奥で止まる。――一度でいいから、私を見てほしかった。そう言いたかった。ほんの一度だけ。けれど、口にはできなかった。「できた……って、何を?」ヴァンスが尋ねる。ナーリッサは答えなかった。そのまま彼に背を向け、窓辺へ戻る。「帰ってください、ブラックウッドさん」声はもう小さかった。「お願いです。これ以上、ややこしくしないで。私たちの間で、こんな話をするべきじゃないんです」ヴァンスは動かなかった。「こんな話って、何だ?」苛立ちを隠せないように、両手を広げる。ナーリッサは何も言わない。部屋に沈黙だけが落ちた。しばらくして、ヴァンスが低い声で尋ねた。「俺がそば
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第86章

ヴァンスが最初のコーヒーを飲み終えるより先に、電話が鳴った。画面を見る。父親の名前。一瞬、無視しようかと思った。だが、ヴァンスは通話ボタンを押した。「ヴァンス」挨拶もない。温かみもない。父親の声は、いつものように短く、冷たかった。「父さん」「取締役会のスポンサー支援について聞いた」短い沈黙。「お前の妻に、弱みを見せたな」ヴァンスは何も言わない。窓の外を見る。朝の街は灰色だった。「彼女がお前の後ろであの建築家を押し通した。その間、お前は黙って座っていた」「……」「処理しろ」父親の声がさらに低くなる。「できなければ、お前を家族信託から外すことも考える」ヴァンスの顎が強く引き締まった。「スポンサー支援は取締役会の決定だ。私は反対票を投じた」「なら、もっと反対すべきだったな」また、沈黙。そして父親は、別の話題を口にした。「それから、お前が副社長とずいぶん親しくしているという話も聞いている」ヴァンスの目が細くなる。「それも終わらせろ」それだけ言って、電話は切れた。ヴァンスはしばらくスマートフォンを見つめていた。かけ直すことはしなかった。代わりに、机の一番上の引き出しを開ける。そこから分厚いファイルを取り出した。表紙には、こう書かれている。Project Horizon――持続可能エネルギー・イニシアチブ彼がこの計画を始めてから、もう一年になる。会議の合間。誰もいない早朝。まだ社員が出社していない時間。誰にも知られない場所で、少しずつ積み重ねてきた。これは彼の逃げ道だった。彼自身の未来。そして――父親には決して触れさせない、彼だけの遺産になるはずのもの。これまで、誰にも見せたことがなかった。それを今、初めて開く。同じ頃、別のフロアにあるナーリッサのオフィスで、コンピューターが通知音を鳴らした。彼女はハリントン案件の資料から顔を上げる。HRからのメールだった。件名――「正式調査――職務上の行動について」ナーリッサは開いた。ミズ・サリヴァンヴァンス・ブラックウッドCEOとの関係性について、匿名の懸念が寄せられました。つきましては、これらの懸念に関する書面による説明をご提出ください。今週中に正式な面談を予定しています。彼女は二度読み返した。匿名の懸念。誰の仕業かなんて、
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第87章

その夜、家は静まり返っていた。ジョヴィはソファに座り、片手を腹に添えていた。胎動を感じる。彼女はその場所を手のひらでそっと押さえた。向かい側にはザーンが座っている。身体は強張り、両手を膝の間で組んでいた。ジョヴィがここへ来てから、一度もまともに彼女を見ていない。「スポンサーの資金、承認されたわ」ジョヴィが言った。ザーンはうなずいた。「知ってる」「嬉しそうじゃないわね」そこで初めて、ザーンが彼女を見る。その目には疲労が滲んでいた。「俺は頼んでない、ジョヴィ」「必要だったでしょう?」ジョヴィは身を乗り出す。「あなたの事務所にも必要だった。これで安定する」そして、自分の腹に手を置く。「それに、私にはあなたが安定していてほしいの。私たちには子供がいるんだから」腹を撫でる。「私たちの子よ」ザーンは視線を逸らした。「分かってる」ジョヴィは黙って彼を見つめた。強張った肩。疲れ切った横顔。そして、そこにある何かを感じ取る。「ヴァンス、何か企んでる」ザーンが顔を上げた。「何?」「分からない。でも、感じるの。最近の彼はずっと距離を置いてるし、何かを隠してる」ジョヴィは声を落とした。「私たち、準備しておく必要があるわ」「何に?」「何が起きてもおかしくないってこと」そう言って、ジョヴィは彼の手に触れた。ザーンは手を引かなかった。冷たい指だった。「私たちは一緒にいるのよ、ザーン」ジョヴィの指が彼の手を包む。「あなたと私と……この子と」ザーンは何も言わなかった。手を握り返すこともしない。ただ、そのまま座っていた。ジョヴィは彼の手を握り続けながら、窓の外で少しずつ暗くなっていく街を見つめていた。その頃、Aerieでは――ナーリッサが一人、ソファに座っていた。部屋は薄暗い。明かりはつけていなかった。窓の向こうには、夜の街が広がっている。その隣の窓辺には、蘭の花。ナーリッサはしばらく何もせず、そこに座っていた。やがて、スマートフォンが振動する。画面を確認する。My Partner:今週末の予定は決まった。二日間だ。アシュワース氏の邸宅は人里離れた場所にある。こちらの計画を説明する必要がある。決めたか?ナーリッサは画面を見つめる。親指がキーボードの上で止まった。しばらく迷ってから、打
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第88章

土曜日の朝が来た。空は晴れていたが、空気は冷たかった。ナーリッサは高層レジデンシャルタワーの前に立ち、小さなバッグを足元に置いていた。荷物は必要最低限にした。着替え。ノート。そして、Project Horizonのデータが入ったファイル。昨夜はよく眠れなかった。やがて、一台の黒いSUVが目の前に停まった。窓が下がる。運転席にいたヴァンスが、ナーリッサを見上げた。スーツ姿ではない。ダークカラーのパンツに、ネイビーのクルーネックセーター。カジュアルな服装になると、いつもより整った顔立ちが際立っていた。鋭さはそのままなのに、どこか近寄りやすく見える。ナーリッサは助手席へ乗り込んだ。「おはよう」さえ言わない。ただバッグを膝に置き、窓の外を見つめる。ヴァンスも何も言わなかった。そのまま車を走らせる。街の景色が後ろへ流れていく。高速道路へ入り、やがて細い道へ。さらに進むと、舗装された道路は田舎道へと変わっていった。空気まで違っていた。澄んでいて、冷たい。二人の間に会話はほとんどなかった。居心地がいいわけではない。けれど、敵意があるわけでもなかった。言葉を交わしすぎて、もう何も言えなくなった二人の間に流れる沈黙だった。しばらくして、ナーリッサが窓に寄りかかったまま眠りに落ちた。ヴァンスがちらりと横を見る。眠っている彼女の顔は穏やかだった。普段より若く見える。彼はすぐに前へ視線を戻した。森が深くなる。遠くに山が見え始める。エンジンの低い音だけが、車内を満たしていた。ナーリッサは起きなかった。やがて、木々の向こうに屋敷が見えてくる。石造りの塀。高い窓。オークの木々が並ぶ長い私道。ヴァンスは門の手前で車を脇へ寄せ、停車した。エンジンはまだ動いている。彼は隣を見た。ナーリッサはまだ眠っていた。頭は窓に寄りかかり、唇がわずかに開いている。髪が頬にかかっていた。起こすべきだ。ここまで来たのだから。それでも、ヴァンスは手を伸ばさなかった。ただ、彼女を見つめる。静かな呼吸。バッグの上に置かれた手。指先は軽く曲がっている。そして――眠っていても消えない、目の下の薄い影。ヴァンスはゆっくり手を伸ばした。頬に触れようとする。髪を一度だけ払ってやりたい。その肌の温度を確かめたい。指先が
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第89章

部屋は暗かった。窓の外では、森が静まり返っている。二人は並んでベッドに横たわっていた。その間には、ほんの数インチの隙間しかない。それでも、どちらも動かなかった。ナーリッサは天井を見つめていた。すぐ隣から、ヴァンスの体温が伝わってくる。呼吸はゆっくりしていた。一定で、落ち着いている。――落ち着きすぎている。そう思いながら、ナーリッサは何も言わなかった。何分経ったのか分からない。やがて、静かな声が闇を揺らした。「ナーリッサ」彼女は顔を向けた。暗闇の中で、ヴァンスの顔は影にしか見えない。「君はジョヴィに……」そこで彼は一度言葉を止めた。「俺は彼女を愛してるって、言ったな」沈黙。やがて、低い声が続く。「本当に……そう思ってるのか?」そこに挑むような響きはなかった。ただ、不確かなものだけがあった。自分は誰かを愛することなどできない。そう信じて生きてきた男が抱える、戸惑いだった。ナーリッサは再び天井へ視線を戻した。「そう思ってる」ヴァンスは何も言わず、待った。ナーリッサは、どう言えばいいのかを考える。「愛には、いろんな形があると思う」声は穏やかだった。「誰もが、分かりやすく愛するわけじゃない」少し間を置く。「守る人もいる」「そばにいる人もいる」「誰にも頼まれていないのに、責任を引き受け続ける人もいる」ナーリッサはかすかに笑った。「そして、それを義務だと思い込む人もいるの」「本当は……愛なのに」ヴァンスは黙っていた。ナーリッサは続ける。「あなたはジョヴィに安定した生活を与えた」「彼女を尊重した」「彼女の評判を守った」「一度だって、人前で恥をかかせなかった」ナーリッサは息をついた。「彼女があなたに誠実でなくなったあとも、あなたは結婚生活を守ろうとした」そして、静かに問いかける。「もし愛がなかったのなら……」「どうして、そんなことを何年も続けられたの?」その問いは、暗闇の中に静かに落ちていった。そして初めて――長い年月の中で、ヴァンスには答えがなかった。父は教えた。愛は弱さだと。母は教えた。結婚は義務だと。けれど、その二つの間にある違いについては、誰も教えてくれなかった。愛情と責任は、どこから別れるのか。いつから義務ではなく、愛になるのか。ヴァンスは、いつの間に
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第90章

ヴァンスは、しばらく何も言わなかった。やがて、静かな声が暗闇に落ちる。「……言ってくれて、ありがとう。ナーリッサ」その声は掠れていた。「誰かに、こんなふうに感じてもいいんだって思わせてもらったのは……初めてだ」短い沈黙。「でも、君の言う通りだ。俺は、伝え方を間違えていた」ナーリッサが顔を向ける。「ええ。でも、それはあなたに何かが欠けているという意味じゃないわ」暗闇の中で、二人の視線が重なった。ヴァンスの手がベッドの上をゆっくり動く。指先が、彼女の指に触れた。ほんの一瞬。ためらうような、かすかな接触。ナーリッサは手を引かなかった。ヴァンスはその手を取る。強くではなく、確かめるように。「君の言う通りだ」彼は彼女を見る。その目には、いつもの冷静さではなく、柔らかな感情が浮かんでいた。「俺は欠けてなんかいない」そして、ナーリッサの手を握ったまま続ける。「君もだ」彼女の呼吸が止まる。「君は素晴らしい女性だ。正しい相手に愛される価値がある」胸の奥が、大きく揺れた。ヴァンスが少しだけ身を寄せる。額が触れる。鼻先がかすかに重なる。そして、唇が触れた。静かなキスだった。何かを求めるためではない。言葉の代わりに、互いの存在を確かめるようなキス。ナーリッサは考えることができなかった。ただ、その瞬間に感じたものへ身を委ねる。そして――彼にキスを返した。ほんの一瞬だけ。自分から彼へ近づいた。けれど、すぐに離れた。急いで身体を起こし、ベッドの背に寄りかかる。膝を抱え込む。「……だめです、ブラックウッドさん」ヴァンスもすぐには動かなかった。横向きのまま彼女を見つめ、それからゆっくり身体を起こす。「君は……俺にキスを返した」ナーリッサは否定しなかった。「あなたはまだ結婚しています」静かな声だった。「まだ彼女との関係を終わらせていない」ヴァンスは彼女へ手を伸ばす。けれど、今度は無理に引き寄せない。ただ、その手を取った。「もう、演じたくないんだ」彼の目がナーリッサを捕らえる。「君にも、もう自分を偽ってほしくない」ナーリッサの胸が苦しくなる。二人の間に、言葉にならないものが満ちていった。それ以上、どちらも境界線を守る理由を口にしなかった。やがて再び唇が重なる。今度は、さっきより長かった
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