火曜日の朝――アステラ・スパイアロビーは、ガラスと大理石と――囁き声で満たされていた。午前八時四十七分。ナーリッサは回転ドアを抜けた。本当は、ここへ来たくなかった。レオは車で送ると言ってくれた。けれど、断った。これは自分一人でやらなければならない。ヒールが磨き上げられた床を叩く。足音が広いロビーに響く。視線が集まった。ナーリッサは前だけを見て歩く。「……あれが、あの人?」左側から声がした。受付の女だった。ナーリッサは振り向かない。「だからあんなに早くVPになれたのね」今度は警備カウンターのあたりから。彼女は歩みを止めない。エレベーターホールが見えてきた。ボタンを押す。待つ。数秒が、ひどく長く感じられた。「恥知らずだな」男の声。スーツ姿の男が、何人かの役員と一緒にコーヒーを飲みながら彼女を見ていた。隠すつもりすらない。珍しいものでも見るような目だった。ナーリッサの顎が強く引き締まる。振り返らない。やがてエレベーターが到着した。扉が開く。ナーリッサが中へ入る。後ろから、一人の女性が乗ろうとする。そのとき――「次のにしたほうがいいんじゃない?」誰かが言った。女性は気まずそうに足を止め、エレベーターの外へ戻った。扉が閉じる。ナーリッサは壁に背を預けた。膝の上で手を握る。震えている。両手を太腿に押しつける。エレベーターが上昇していく。十階。十一階。十二階。一つずつ増える数字が、小さな救いのように思えた。今からでも戻れる。そう思う。一階まで降りて、レオに電話して、どこかへ消えてしまえばいい。そんな考えが頭をよぎる。けれど――扉が開いた。エグゼクティブフロアは、ロビーより静かだった。それでも、視線は消えていない。何か月も一緒に働いてきた同僚。信頼してきた人たち。彼らはナーリッサを見る。そして、気まずそうに目を逸らす。中には、隠そうとさえしない人もいた。ナーリッサは自分のオフィスへ向かった。ドアは閉まっている。HRからのメールを受け取って以来、ここへ入っていなかった。鍵を開ける。中へ入る。後ろ手にドアを閉める。何も変わっていない。机。椅子。街を見下ろす窓。すべて、昨日までと同じ。なのに――自分だけが違っていた。ナーリッサは椅子に座った
Last Updated : 2026-09-06 Read more