夜が明ける前の王宮は、ひどく冷えていた。 窓の外には薄い霧が漂い、庭園の芝は白く湿っている。回廊に吊るされた灯火はまだ消されておらず、石壁に淡い橙色の揺らぎを落としていた。 エレノアは、北翼の監査室で夜を越した。 寝台に入ったわけではない。 机に突っ伏したわけでもない。 ただ、椅子に腰かけたまま、父の相続案を何度も読み返していた。 ――エレノアについては、王太子妃候補解消後、修道院付属慈善院への寄進名目で整理。 その一文は、短かった。 短いからこそ、逃げ道がなかった。 父はエレノアを処罰するつもりだったのではない。 追放するつもりだったのでもない。 もっと冷たい。 整理するつもりだった。 家の帳簿を整えるように。 余った家具を別邸へ移すように。 古くなった書類を紐で縛って棚の奥へしまうように。 王太子妃候補として使えなくなった長女を、慈善院への寄進という美しい名目で表舞台から消す。 世間には、こう説明しただろう。 王太子殿下との婚約破棄に心を痛めたエレノアは、自ら慈善事業へ身を捧げる道を選んだ。 なんと健気な令嬢だろう。 なんと公爵家らしい高潔な選択だろう。 妹リリアナ様の王太子妃への道を、姉として静かに支えるのだ。 社交界は、きっと美談として受け取った。 エレノアが何を思ったかなど、誰も聞かない。 王宮で十年働いた記録も、王妃の遺言状も、基金の不審に気づいた目も、すべて「傷心の令嬢」という布で覆われる。 そうなる前に王妃の遺言状が開かれた。 それがどれほど危うい時間差だったのか、今になって分かる。 エレノアは、机の上に置かれた相続案を見下ろした。 怒りは遅れてくるものなのだと、初めて知った。 昨日それを読んだ時は、ただ
Last Updated : 2026-08-28 Read more