Tous les chapitres de : Chapitre 71 - Chapitre 80

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第71章アーランの高級セダンは、雨上がりの湿った夜の街を静かに滑るように走っていた。静まり返った車内には、エンジンのかすかな響きとエアコンの送風音だけが漂い、重苦しい静寂が満ちていた。ラヴェルは助手席でじっと口を閉ざしていた。窓の外に目をやり、ボヤけて映る街灯の光を見つめている。こらえていた涙が静かに頬を伝い、蒼白な肌を濡らしていた。膝の上で固く握りしめた手は、まだ微かに震えている。目を閉じるたび、カリスタの腫れ上がった顔と、狂乱したような悲鳴が耳裏にリフレインした。胸を締め付けるような息苦しさが、容赦なく彼女を襲う。「……あの子は、この8年間、私のことを本当の母親だなんて思っていなかったのに」ラヴェルは突然、ぽつりと呟いた。かすれた声が、静かな車内に切なく響く。アーランは前方に視線を向けたまま、優しくラヴェルを一瞥し、深い忍耐強さで彼女の言葉に耳を傾けた。ラヴェルは手の甲で荒々しく涙を拭うと、自嘲気味な笑みを浮かべた。「昔から、ジェシカがカイルのビジネスパートナーとして遊びに来るたび、カリスタはいつも彼女にばかり懐いていたわ。私を無視して、作ってあげた料理も拒絶して……私がジェシカほど綺麗じゃないとか、良い匂いがしないなんて言ったこともあった。一度だって、本当の愛情を込めて私を呼んでくれたことなんてなかったのに……」胸に重くのしかかる痛みを追い払おうと、ラヴェルは大きく息を吐き出した。「でも今夜……あんなに傷ついて、私の名前を叫んでいる姿を見たら、心が引きちぎられるように痛むの。カイルのことは憎くてたまらないのに、あの子供がかわいそうで仕方がない。そこから立ち去ってしまった自分が、世界で一番冷酷な人間のように思えて……」赤信号になり、車が静かに停車した。アーランは少し車を寄せ、ギアを入れると、体をラヴェルの方へと向けた。そして冷たく震える彼女の手に手を伸ばし、包み込むような温もりで優しく撫でた。「ヴェル、僕の言葉を聞いてくれ」アーランはまっすぐにラヴェルの潤んだ目を見つめ、静かだが確信に満ちた声で言った。「君は冷酷な人間なんかじゃない。僕が知る限り、誰よりも愛情深い女性だ。君が8年間注いできた愛情は本物だった。だからこそ、あの子は自分の世界が崩壊したとき、心の奥底で君を求めたんだ」アーランは親指でラヴェルの手の甲をゆっくりとさすった。「けれど
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第72章ブランソン家の主寝室。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、重く腫れ上がった瞼を開けたラヴェルを優しく照らした。昨夜の激しい感情の混乱により、彼女の体力はすっかり削ぎ落とされていた。2階のテラスで温かい紅茶を飲みながら心を落ち着かせる間もなく、緊急の電話が穏やかな朝を切り裂いた。電話の主は、スティーブン家の個人秘書だった。「ブランソン様……早朝からこのようなご連絡を差し上げ、大変申し訳ございません」電話の奥から聞こえる声は、パニックで震えていた。「ですが……カリスタお嬢様の容態が急変いたしました。昨夜から息もしにくくなるほど激しいヒステリーを起こされ、今朝がた高熱で倒れ、痙攣を起こされたのです! 急遽、メディカ・ウタマ病院のICUへ搬送されました!」ラヴェルはベッドの脇で凍りついた。手にしていたティーカップが微かに揺れる。「痙攣……? どうしてそんなことに?」「お嬢様は一切の飲食を拒否され、カイル様が近づかれるたびに、ご自身の頭を何度も壁に打ち付けられていました。長期間にわたるトラウマにより、神経系と精神状態が完全に崩壊しているとお医者様はおっしゃっています。小児科の専門医も、反応を引き出せるような肯定的で前向きな感情のきっかけ(情緒的トリガー)がない限り、回復は絶望的だと……」電話の向こうが一瞬、静まり返った。ラヴェルは指を強く握りしめた。その知らせは、あまりにも強烈な衝撃となって彼女の胸を撃ち抜いた。カイルの過去とは明確に線を引いたはずだったが、8年間自分の手で大切に育ててきた子供が今まさに生死の境を彷徨っているという現実は、彼女の心の奥底を深く深く傷つけた。ショックを受け止めきれずにいるラヴェルの耳に、今度は寝室のドアを激しく叩く音が飛び込んできた。「お嬢様! ラヴェルお嬢様!」ブランソン家のメイドの一人が、怯えた甲高い声を上げた。「大旦那様が! 大旦那様がリビングで倒れられました!」電話が手から滑り落ちそうになった。ラヴェルは靴も履かずに部屋を飛び出し、胸の動悸を激しく打たせながら階段を駆け下りた。リビングでは、ブランソンおじい様が長椅子の上に力なく横たわっていた。普段は威厳と気品に満ちている老人が、今は死人のように青ざめている。呼吸は浅く、苦しそうだ。家族の健康管理のために離れに滞在していたアーランがすでに傍らに立ち、腕に血
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第73章午後の心地よい風がブランソン邸の庭の木々を揺らし、ラヴェルとアーランの間に深い静寂を残していた。アーランの手は温かく、混乱の渦にあったラヴェルの心に奇跡のような安らぎを与えてくれた。ラヴェルはアーランの澄んだ瞳を見つめた。そこには不当なプレッシャーも、無理な要求も、嘘や偽りも一切なかった。ただ10年間変わることのなかった、真っ直ぐで誠実な献身だけが存在していた。寝室で力なく横たわるブランソンおじい様の絶望に満ちた顔を思い浮かべ、ラヴェルは深く息を吸い込んだ。胸を重く押し潰していた重荷が少しずつ押し流され、代わりに確固たる決意が満ちていく。「エル……」ラヴェルは静かに呼びかけた。その声にはもう迷いの揺らぎはなかった。「何だい、ヴェル?」「受けるわ」短く答えたラヴェルの声には、確信に満ちた響きが宿っていた。「おじい様の願いを叶える。私、あなたと結婚する」アーランはその場に凍りついた。目の前の女性の唇から発せられたその単純な言葉を理解するのに数秒の時間を要するかのように、彼の目は見開かれた。常に冷静で、合理的で、天才医師として卓越した落ち着きを保っていた男が、今や完全に絶句している。「ヴェル……本気で言っているのかい?」彼は自分の耳を疑うかのように、声を潜めて尋ねた。ラヴェルは唇を和らげ、薄い笑みを浮かべた。悪夢に満ちた日々が始まって以来、初めて心から溢れ出た笑みだった。「本気よ、エル。もう余計な迷いで時間を無駄にしたくないの。おじい様には心の平穏が必要だし、それに……あなたと一緒にいることが、私の人生で最高の選択だって分かっているから」溢れんばかりの歓喜が、一瞬にしてアーランの表情を照らし出した。ラヴェルがこれまで見たこともないほど、眩しく魅力的な笑みが彼の顔に広がる。胸を満たす計り知れない安堵と幸せを抑えきれず、アーランはラヴェルをその腕の中に引き寄せた。10年間の孤独な待ち時間がついに報われたかのように、深い感謝を込めて彼女を強く、強く抱きしめた。「ありがとう、ラヴェル……本当にありがとう」アーランは彼女の耳元で愛おしそうに背中を撫でながら、静かに囁いた。「生涯をかけて君を守り、君の傷を癒やすと誓うよ」ブランソンおじい様にこの素晴らしい知らせを伝えると、老人の顔には一瞬で安堵と平和な喜びが戻り、その容態は劇的に改善した。そして喜びも束
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第74章ラヴェルとエルランの足音が、静まり返った病院の廊下に一定のリズムで響いていた。空調から吹き出す冷気が肌を刺したが、ラヴェルの指に絡められたエルランの手の温もりが、残っていた気まずさを吹き飛ばすには十分だった。ガラス窓の向こう、立ち並ぶ固く閉ざされた木製ドアの先では、病院の穏やかな静寂のなかで日常が営まれていた。しかし、その静けさはわずか数秒で打ち砕かれた。「ラヴェル!! 待ってくれ、ラヴェル!!」背後から、掠れた息絶え絶えの叫び声が響いた。静かな廊下に、不揃いな足音が急接近してくる。カイルはまるで何かに取り憑かれたかのように走っていた。磨き上げられた花崗岩の床に、革靴の不快な擦過音が大きく響く。蒼白な顔は冷や汗に濡れ、血走った瞳には圧倒的な絶望の色が滲んでいた。かつて人々の羨望を集めた前CEOとしての矜持も、プライドも、傲慢さも、今の彼からは完全に削ぎ落とされていた。「お願いだ、ラヴェル! まだ行かないでくれ!!」ふたりを追い詰めるように立ち塞がり、カイルは悲痛な叫びをあげた。体全体を震わせ、荒い息を吐きながら、カイルは躊躇うことなくその場に両膝をついた。足を止め、困惑した様子で見つめる看護師や患者の家族たちの視線など一切気にとめる様子もなく、彼はラヴェルの目の前に直接ひざまずいた。「カイル! 一体全体、何をしているの!?」ラヴェルは嫌悪感をあからさまにした表情で、咄嗟にエルランの傍へ寄り添いながら一歩後退りし、低く威嚇するように言った。「頼むから、ベル……お願いだ、あいつと結婚しないでくれ……」カイルは声をつまらせ、胸が張り裂けんばかりの泣き声を漏らしながら囁いた。彼は胸の前で両手を固く合わせ、祈るようにラヴェルを見上げた。「僕が悪かったんだ、ベル。神に誓って、自分がどれほど酷い男だったか分かったんだ! 今になって気づいたんだ……心からすべてを反省している!」カイルの痩せこけたやつれた顔を、ずっと瞳に溜まっていた涙がようやく伝い落ちた。彼の胸を掻き乱す痛みは、もはや演技でも計算された罠でもなかった。手遅れとなった後悔が、今や彼の魂を激しく切り刻んでいた。「僕はこれまでずっと愚かだったんだ、ベル」カイルは荒い息の合間に声を震わせ、哀れっぽく訴え続けた。「ジェシカのような女のために、君の純粋な愛を無視し続けてきた。君を苦しめ、その体に毒
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第75章再び静寂に包まれたICU前の廊下で、カイルは冷たい大理石の床の上に座り込んだままだった。遠ざかっていくラヴェルとエルランの足音が未だ脳裏に響き渡り、自分の人生すべてを呑み込んだ崩壊をあざ笑っているかのようだった。男は涙に濡れた顔から、ゆっくりと両手を下ろした。息は依然として荒く、胸は耐えがたいほどの息苦しさに押し潰されそうだった。しかし、その圧倒的な絶望の渦中で、血走った瞳の奥に狂気に満ちた執着の火花が突如として燃え上がった。カイルはゆっくりと立ち上がった。ズボンの塵を払い、震える指先で皺の寄ったスーツを整えた。「嫌だ……まだ終わってなんかいない」カイルは憎しみと現実への拒絶を込め、掠れた声で自分に言い聞かせるように呟いた。胸に手を押し当て、先ほどのラヴェルの瞳を思い出す。彼女は冷酷で容赦のない決意をもって語っていたが、10年もの間、人生のすべてと愛と忠誠を捧げてくれた女が、ほんの数週間でその感情を消し去れるはずがないとカイルは信じようとしなかった。「君はただ怒っているだけだ、ラヴェル。僕を罰しているだけなんだ」カイルはICUのガラス窓へと歩み寄り、中で身動ぎひとつせず横たわるカリスタの小さな身体を見つめながら呟いた。「君は10年間、僕の妻だった。僕を支え、家庭を守り、無限の愛を注いでくれた……それほど深い愛が、簡単に消えてなくなるわけがない。君はエルランを利用して、僕に復讐しようとしているだけだ」カイルは厚いガラスにそっと手を押し当てた。その瞳の哀しみは、ゆっくりと鋭く執拗な確信へと変わりつつあった。「諦めてまるか」カイルは狂気すら孕んだ揺るぎない執念で低く唸った。「君の愛を取り戻してみせるさ、ベル。君の心の中で、エルランが僕の代わりになど決してなれないことを証明してやる。分かっているんだ……心の底では、君がまだ僕を愛していることを。どんな犠牲を払ってでも、君を取り戻す」◇◇◇一方、午後の街並みを穏やかに走るエルランの高級セダンの車内では、耐えがたいほどの気まずく重苦しい雰囲気が漂っていた。傾きかけた夕陽の黄金色の光がフロントガラスから差し込み、サイドウィンドウの外を見つめるラヴェルの横顔を照らしていた。彼女は冷たいガラスに頭を預け、虚ろな瞳で流れていく街路樹やビルの並びを追っていた。涙こそ流していなかったが、その表情は深い物思い
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第76章路肩に停められた車内の静寂は、いよいよ重く息苦しいものへと変わっていった。点滅を続けるハザードランプの淡い光が、エルランの顔に影を落としている。男は運転席の背もたれに頭を預け、彼には珍しい傷ついたような、そして深い疑念に満ちた表情で前方の暗闇をまっすぐに見つめていた。ラヴェルはエルランの横顔を見つめた。これまで常に自分を護ってくれた男の心に、先ほどの自分の沈黙がどれほどの傷を残してしまったかを痛いほど感じ取っていた。胸の奥から罪悪感が急速に込み上げてくる。カイルの悲惨な現状やカリスタの哀痛な運命に気を取られていたせいで、エルランに誤解を与えてしまったのだとラヴェルは悟った。ゆっくりと、ラヴェルは体勢を変えた。彼女は手を伸ばし、太ももの上で力なく横たわっていたエルランの右の手にそっと重ねた。ラヴェルはその力強い指をしっかりと握りしめ、自分の中にある温もりのすべてと申し訳なさを伝えた。エルランの身体が小さく跳ねた。男はゆっくりと顔を向け、自分の手を握るラヴェルの手を見つめてから、隣に座る女性の瞳へと視線を移した。その瞳の奥には、まだ完全には消え去っていない痛みの名残が宿っていた。「エル……よく聞いて」ラヴェルは、発する一語一語から純粋な誠実さが溢れ出るような、ごく優しい声で語りかけた。「さっき物思いに沈んでいたのは、あなたとの結婚を決めたことを後悔していたからじゃないの。断じて違うわ」エルランは沈黙を守ったまま、息をのんで彼女の次の言葉を待った。「過去の愚かな自分に対して、哀れみを覚えていただけなの」ラヴェルは瞳に涙を浮かべながら、エルランを見つめて続けた。「さっきカイルがひざまずいて崩れ落ちる姿を見て、10年ではなく、間違いなく8年間という月日を、間違った男と一緒に過ごした自分がどれほど愚かだったかを思い知らされただけ。浪費してしまった青春の年月を悼んでいたのよ、エル。でも、あなたと共に歩むと決めたこと? それについては、一瞬たりとも後悔なんてしていないわ」ラヴェルは背筋を伸ばし、まだかすかに疑念の影を残すエルランの瞳をまっすぐに見つめ返した。普段は何事においても絶大な自信に満ち溢れている天才医師が、愛の前ではこれほどまでに脆く儚く見えた。「まだ……信じてくれないの?」ラヴェルは静かに囁いた。エルランの唇が固く結ばれた。彼女を信じたかっ
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第77章ブランソン邸の主寝室は、包み込むような温もりに満ちていた。部屋の隅にあるナイトランプが柔らかい黄金色の光を投げかけ、夜の静けさの中で互いの温もりを確かめ合うふたりの影を壁に映し出している。屋外では、庭の木々を通り抜ける夜風の音が心地よい余韻となり、ふたりだけの極上の空間を演出していた。ラヴェルは大きなベッドの上に仰向けに横たわっていた。あふれ出す感情と照れくささが入り混じり、彼女の胸は浅く急な呼吸で上下していた。その上から、エルランがたくましい両腕で身体を支え、ラヴェルを覆いかぶさるように見下ろしている。彼の顔はすぐ至近距離にあり、瞳には満ち溢れる愛おしさと誠実さ、そして温もりが宿っていた。親密な静寂の中で、かつての病弱だった肉体の記憶と過去の暗い影が、ラヴェルの脳裏をかすめた。湧き上がりつつあった勇気の隙間に、ふと躊躇いが忍び寄る。「エル……私、あなたを満足させられないかもしれない……」ラヴェルは蚊の泣くような声で囁いた。彼女の視線はエルランの瞳を見つめたり、それを避けるように下を向いたり揺れていた。「私の体のこと……それに、これまで私に起きたすべてのこと……」エルランの表情が、一層の優しさに包まれた。彼はゆっくりと体を低くし、ふたりの額をすれ合わせるように重ねた。お互いの温かな吐息が肌を撫でる。エルランは極めて繊細な手つきで、ラヴェルの額にかかる前髪をそっと横に払った。「ベル、まずは試してみよう? ね?」エルランは酷く掠れた、落ち着いた声で優しく囁いた。その声には、深い安心感が宿っていた。「他のことは何も考えなくていい。今夜は、僕たちふたりだけだ」ラヴェルは、澄み切った確信に満ちたエルランの瞳を見つめた。胸の中にあった不安が、ゆっくりと溶け去っていく。彼女は静かに頷き、10年間自分を待ち続けてくれた男にすべてを委ねる決意をした。その真摯な承諾を受け取り、エルランは温かな笑みを浮かべた。顔を少し傾けると、ラヴェルの耳元で甘い囁きを落とし、そのまま耳垂れに優しく唇を重ねた。エルランの唇の触れ合いと温かな息遣いはそのまま首筋へと滑り落ち、ラヴェルの全身の力を一瞬にして奪い去るような繊細な口づけを刻んでいった。そのあまりにも優しい愛撫は、ラヴェルがこれまでの人生で一度も感じたことのない未知の微震を呼び起こした。センシティブな快感が神経を駆け巡
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第78章ブランソン邸の主寝室は、再び心地よい静寂に包まれていた。枕元のランプがかすかに光を放ち、大きなベッドの上に温もりあふれる淡い黄色の光を投げかけている。アロマオイルの芳しい香りが、空気中に残るふたりの身体の匂いと軽やかに混ざり合っていた。ラヴェルはエルランに背を向け、横向きに寝そべっていた。上気した顔を枕の中に押し当て、ふたりの身体を覆う分厚い毛布の端を両手で強く握りしめている。肌に一枚の衣類も纏っていない状態で、身を包む夜の冷気は、突如として五感を打ちのめした猛烈な恥ずかしさの波によって吹き飛ばされていた。先ほど起きた出来事の記憶が脳裏で巻き戻され、彼女の息は未だ少し荒くなっていた。ゆっくりと、背後の毛布が動いた。たくましくしなやかな腕がラヴェルの腰にスムーズに巻きつき、彼女の素肌の背中がエルランの広い胸に温かく寄り添うまで、その身体を徐々に引き寄せた。男はラヴェルの肩に顎を預け、温かな吐息を彼女の耳の裏にそっと吹きかけた。「どうしたの、ん?」エルランは低く掠れた、極めて愛おしさに満ちた声で囁いた。「どうしてそんな風に僕に背を向けて寝ているんだい? 僕の……夜の務めが、妻にとって満足のいくものじゃなかったのかな?」ラヴェルは小さく身を竦め、両頬の赤みは耳の先端に達するまでさらに熱を帯びた。ほんの少し身体を動かそうと試みたが、腰を包むエルランの腕は極めて保護的で、逃げ出す隙など与えてくれなかった。「ちょっと、エルさん……私たち、まだ結婚していないわ」ラヴェルは照れくささに声が震えながらも、毅然とした態度を装って優しく咎めた。エルランは低く笑った。その心地よい笑みの振動が胸を通して、背中に直接伝わってくるのをラヴェルは感じた。男はラヴェルのうなじに優しく口づけを落とした。「もうすぐ結婚するじゃないか」エルランは事もなげに返した。そして、少し申し訳なさそうな振りをしながら、懇願するようなトーンに変えた。「すまない……さっきのが十分に満足させられなかったのなら……」「もう、やめて!」頭を少し後ろに巡らせながら、ラヴェルは素早く遮った。彼女の瞳はエルランを睨みつけていたが、その表情はただ愛らしさを増しているだけだった。突如としてこれほどまでに悪戯っぽくなった天才医師の振る舞いに、どう応えていいのか分からず、ラヴェルは下唇を強く噛みしめた。ラヴェル
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第79章第5区の留置場の鉄扉が、看守の手によって開けられた。カイルはげっそりとやつれ、暗く落ちくぼんだ顔で中へと足を踏み入れた。目の下には色濃い隈が刻まれ、ここ数日間にわたって胸の中で渦巻いていた怒りと怨念を如実に物語っていた。面会室を隔てる木製テーブルの向こう側には、くすんだオレンジ色の囚人服を着たジェシカが座っていた。かつてお気に入りのサロンで完璧にセットされていた髪は、今やボサボサで生気を失っていた。その美しかった顔には青あざがいくつも浮かび上がっている——数日前の夜、同房の囚人たちから受けた暴行の痕跡だった。しかし、カイルの姿を目にした瞬間、ジェシカの顔には恐怖も後悔の色も浮かばなかった。それどころか、乾いた唇を不快で嘲笑的な笑みに歪めたのだった。「あらあら、誰かと思えば」ジェシカはかすれた声で嘲笑した。彼女は木製の椅子の背もたれに体を預け、カイルを上から下まで見下ろした。「偉大なるカイル・スティーヴンス様じゃない。こんな私のような囚人に面会しに、一体全体何の用でわざわざお越しくださったのかしら?」カイルはテーブルの上で拳を強く握りしめた。溢れ出す憎悪を湛えた血走った目で、目の前の女を睨みつける。「この邪悪な毒蛇め……」カイルは低く震える声で威嚇するように唸った。「お前の安っぽい手口のせいで、俺はすべてを失ったんだ! 会社は潰れ、名声は地に堕ち、ラヴェルには去られ、カリスタは病院で死にかけている! お前が俺の人生をすべてぶち壊したんだ、ジェシカ!!」ジェシカは一瞬黙り込み、それからゆっくりと顔を上げた。次の瞬間、狭い面会室の中に甲高い爆笑が響き渡った。ジェシカは頭を後ろに反らし、胸を波打たせながら大声で笑い続け、その笑い声を部屋中に響かせた。「あははは! おかしくてたまらないわ、カイル!」ジェシカは笑い声が少し収まると、蔑みの色を込めた目でカイルを見つめて言い放った。「私のせいにするわけ!? 簡単に誘惑に乗るような、弱っちい男だったあんた自身が悪いんじゃないの!」カイルはぎくりとし、目を鋭く見開いた。「何だと……!?」「あんたは弱い男だって言ったのよ!」ジェシカは横の床に唾を吐き捨て、容赦なくその言葉を遮った。「最初から誠実で、夫として毅然としていたら、私みたいな女に誘惑されたって乗るわけがないでしょう! なのにあんたはどうした? 自分
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第80章グランドハイアットの豪華な大ホールは、磨き上げられた大理石の床に美しく反射するクリスタルの光で満たされていた。柔らかいクラシック音楽が BGM として流れ、招待客——政財界の重鎮、専門医、そして街の社交界の有名人たちの歓談の声と混ざり合っていた。ラヴェルは深みのあるミッドナイトブルーのシルクドレスを身に纏い、優雅に身体のラインを際立たせながら会場へと足を踏み入れた。その隣には、体に完璧にフィットした黒のタキシードを着たアーランが立ち、その高い身長と引き締まった体格を一層引き立てて、格別の男前さを漂わせていた。入場口からホールの中央へと進む間、アーランはラヴェルの指先を一度も放そうとしなかった。まるで自分の隣にいる最も尊い女性が誰であるかを、世界中に知らしめたいかのように。「アーラン、見て。あちらにハリオ教授がいらっしゃるわ」ラヴェルは、同僚数人と親しげに歓談している中年男性を指差して囁いた。アーランは微かに微笑んだ。「行こう、ご挨拶しよう」アーランはラヴェルを同僚たちのグループへと導いた。隠しきれない誇りを胸に、出会うすべての人々にラヴェルを紹介していった。「紹介させてください。私の婚約者のラヴェル・ブランソンです」アーランは絶対の自信を込めて言った。ラヴェルはすべての挨拶に対して、穏やかで礼儀正しい微笑みで応えた。今夜の彼女は違っていた。心の中にはもはや何の引け目も、他人の目を恐れる気持ちもなかった。自分を心から愛してくれる男性の隣に、新しいラヴェルとして立っていたのだ。しかし、温かい会話の最中、大ホールの重厚なメインドアが突如として激しく押し開けられた。ドアが壁にぶつかる大きな音が響き渡り、場内の喧騒が一瞬にして静まり返った。全員の視線が一斉に入口へと向けられる。そこに立っていたのは、まるで遠く離れた場所から駆けつけてきたかのような、シワだらけのスーツを着たカイル・スティーヴンスだった。彼の姿は以前よりも遥かに惨めで——顔色は蒼白で、目は血走り、非常に禍々しいオーラを纏っていた。カイルは客たちの痛烈な視線など一切気に留めなかった。彼は人混みを素早くかき分け、アーランとラヴェルが立っている場所へと真っ直ぐに向かって歩を進めた。「へえ、パーティーはもう始まっていたのか」カイルの声はかすれ、皮肉に満ちていた。彼はアーランとラヴェルの真前
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