All Chapters of 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま: Chapter 21 - Chapter 30

70 Chapters

第21話 父は何も見ていなかった

ヴェルクレア公爵が監査局へ来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。 王宮東棟の廊下に、その足音が響く。 重い足音だった。 怒っている人間の足音は、分かりやすい。 床を踏む音が、相手より先に部屋へ入ってくる。 私は第二面談室の机に資料を並べながら、その音を聞いていた。 目の前には、当主印の使用記録。 慈善基金承認書。 偽造署名疑義一覧。 公爵家会計報告の閲覧記録。 そして、十三歳の私の名が記された書類の写し。 何度見ても、胸の奥はざらつく。 だが今日は、そのざらつきを手で押さえ込まない。 ざらついたまま、見る。 ざらついたまま、読む。 そう決めた。「リディア」 隣に立つギルベルト閣下が、低く呼んだ。「はい」「茶は飲んだか」「飲みました」「食事は」「軽く」「軽く?」「……パンとスープを」「菓子は」「なぜ菓子まで」「食べたか」「一つ」「よろしい」 私は少しだけ眉を下げた。「父との面談前に、食事確認をなさるのですか」「君の家族と会う前は必要だ」「否定しづらいのが嫌です」「なら、否定しなくていい」「閣下は本当に横暴ですね」「よく言われる」 いつものやり取り。 短い言葉。 それだけで、肩に入っていた力が少し抜ける。 父と会う。 その
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第22話 妹は姉の手紙を読む

リディアからの返事は、思っていたよりずっと薄かった。 封筒も、便箋も、飾り気がない。 白い紙。 監査局の無地の封蝋。 宛名は、少し硬い字で「セレスティナ・ヴェルクレア様」と書かれている。 お姉様の字だ。 それだけで、セレスティナは胸の奥がきゅっと痛くなった。 昔から、リディアの字は綺麗だった。 冷たいくらい整っていて、線に迷いがなくて、見るだけで自分とは違うと思わされる字。 セレスティナの字は、よく「可愛らしい」と褒められた。 丸くて、柔らかくて、女の子らしい字だと。 リディアの字は「美しい」と言われた。 きちんとしていて、品があり、公爵家の長女にふさわしい字だと。 どちらも褒め言葉だったはずなのに、今見ると、その違いの中に二人の役割が閉じ込められていたような気がする。 可愛らしい妹。 美しく正しい姉。 泣いて守られる妹。 泣かずに整える姉。「お嬢様」 ノーラが控えめに声をかけた。「お読みになりますか」 セレスティナは、封筒を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。「読むわ」 そう答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。 怖い。 とても怖い。 返事が欲しかった。 けれど、いざ届くと、開くのが怖い。 姉が何を書くのか分からない。 怒っているかもしれない。 冷たく突き放すかもしれない。 そもそも質問そのものを無礼だと言うかもしれない。 それでも、読まなければならない。 聞いたのは自分だ。 姉の痛みに触れたいと思
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第23話 冷血宰相は、泣き方を知らない令嬢を待つ

父が退室した後、私はしばらく椅子から立てなかった。 第二面談室の扉は閉じている。 廊下の向こうへ父の足音が遠ざかっていく。 重く、硬く、怒ったような足音。 その音が完全に消えてからも、私は机の上の書類を見つめたままだった。 十三歳の偽造署名。 当主印の使用記録。 会計報告の閲覧記録。 父の証言。『まだ十九だろう』 その一言だけが、頭の奥で何度も繰り返されていた。 十九。 私は二十一歳だ。 それくらい、父が知らないはずがない。 そう思いたかった。 ただの言い間違いだと。 疲れていたからだと。 緊張していたからだと。 けれど、私は知っている。 人は、本当に大切に見てきたものの年齢を、そう簡単に間違えない。 少なくとも、父が領地の主馬の年齢を間違えたことはなかった。 父が大切にしている古い葡萄酒の収穫年を、間違えたこともなかった。 王宮で誰が何年にどの役職へ就いたかも、よく覚えていた。 それなのに。 娘の年齢は、違った。 私は笑おうとした。 笑えば、いつものように少しは整う気がした。 けれど、口元は動かなかった。「リディア」 ギルベルト閣下の声がした。 近い。 でも、触れてはいない。 その距離が、ありがたかった。 今、触れられたら、たぶん体が強張る。 慰められたら、たぶん笑おうとしてしまう。 大丈夫です、と言ってしまう。 まだ大丈夫な顔を作ろうとしてしま
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第24話 泣いた姉は、もう戻らない

聖ルカ孤児院の門は、前に来た時より少しだけ明るく見えた。 屋根の応急補修が終わったからかもしれない。 門柱の欠けたところに、新しい木片が当てられていたからかもしれない。 あるいは、セレスティナ自身が、前回ほど目を逸らさずに歩けたからかもしれない。 王都西区の道は、相変わらず綺麗とは言えなかった。 馬車が通るたび、乾いた泥が跳ねる。 路地の隅には、古い野菜くずが積まれている。 パン屋の前には香ばしい匂いが漂い、そのすぐ隣からは濡れた布と薬草の苦い匂いがした。 前回のセレスティナなら、きっと眉をひそめた。 そして、その顔を隠そうとして、余計に分かりやすい顔になっていた。 今日は違う。 嫌ではない、とは言えない。 慣れた、とも言えない。 ただ、見ようとしていた。「お嬢様、足元にお気をつけください」 ノーラが横で言った。「ええ」 セレスティナは裾を少し持ち上げ、泥を避けた。 今日の服は生成り色の簡素な外出着だった。 前回よりもさらに飾りを減らした。 髪飾りも、小さな布リボンだけ。 最初、鏡の前に立った時、少し心細かった。 可愛くない気がしたから。 自分が自分ではないような気がしたから。 けれど、孤児院へ行くのに、可愛いと思われる必要がどこまであるのか。 そう考えたら、手が自然と真珠の髪飾りから離れた。 門の前に着くと、前回と同じ少女が待っていた。 ミラだ。 細い体。 日に焼けた頬。 膝に継ぎ当てのある服。 そして、遠慮のない目。「あ、きれいな人」 ミ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第25話 慈善茶会は中止できない

慈善茶会を中止したい。 オルガ・ヴェルクレア公爵夫人がそう思ったのは、人生で初めてのことだった。 慈善茶会は、彼女にとって戦場だった。 ただし、剣を抜く戦場ではない。 微笑む。 頷く。 手袋越しに手を取る。 寄付額をやんわり競わせる。 相手のドレスを褒めながら、宝石の格を見抜く。 孤児や未亡人や病人の話を、泣きすぎず、冷たすぎず、美しく語る。 それが、オルガの戦い方だった。 王都の夫人たちは、誰もが優雅に笑いながら互いの喉元へ手を伸ばしている。 その中で軽んじられないために、オルガは何年も慈善茶会を磨き上げてきた。 花の種類。 菓子の皿。 演奏者の選定。 席次。 寄付箱の置き方。 最後に読み上げる感謝状の文面。 どれも、気を抜けない。 気を抜けば、笑われる。 公爵夫人ともあろう方が。 あの家も落ちたものね。 娘の婚約も駄目になった上に、茶会までこの程度だなんて。 そんな言葉が、実際に聞こえなくても耳の奥で鳴る。 だからオルガは、これまで中止など考えたことがなかった。 嵐でも。 熱でも。 王宮で嫌な噂が出ても。 慈善茶会だけは開催した。 公爵夫人としての顔を保つために。 それなのに今、彼女は中止を考えている。 理由はひとつ。 リディアだ。 あの子が、監査局から茶会を見に来るかもしれない。 いや、きっと来る。 今のリディアなら、来る。 母の茶会であろうと、公爵家の体面であろうと、構わず帳簿を開くだろう。 オルガは自室の机に両手を置き、
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第26話 夫人たちは、善意を競う

慈善茶会の朝、ヴェルクレア公爵家の大広間は花の匂いで満ちていた。 白薔薇。 淡い紫のリラ。 温室で咲かせた季節外れの小花。 そして、香りを強めるために控えめに焚かれた香油。 控えめに、というのが難しい。 強すぎれば下品。 弱すぎれば印象に残らない。 慈善茶会とは、いつもそういう場所だった。 誰かを救うための会、と言いながら、救う側の美しさ、品の良さ、財力、交友関係、夫の地位、娘の婚約状況、すべてが静かに比べられる。 菓子の皿ひとつにも意味がある。 寄付箱の位置ひとつにも意図がある。 誰が最初に金貨を入れるか。 誰がそれを見て微笑むか。 誰が少し遅れて、より多くの額を入れるか。 善意は、この場では数字で飾られる。 そして数字は、花よりも強く香る。「白薔薇が少し多すぎるわ」 オルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、広間の中央でそう言った。 声は落ち着いている。 だが、扇を持つ指先は少し硬い。 侍女がすぐに頭を下げた。「申し訳ございません、奥様。すぐに間引きます」「全部ではないのよ。南側の花台だけ。あそこはミルシュ男爵夫人の席からよく見えるでしょう。白薔薇が多すぎると、喪の印象が強くなるわ」「かしこまりました」「それから、寄付箱の隣に置く羽根飾りは下げて」 侍女が手を止めた。「羽根飾りでございますか?」「ええ。今日は使わない」「ですが、慈善を象徴する白羽の飾りは、毎年」「今年は使わないの」 オルガの声が少しだけ鋭くな
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第27話 セレスティナ、飾りの慈善を見る

セレスティナは、広間の隅で自分の手を握っていた。 茶会は続いている。 花は美しく、菓子は甘く、夫人たちは優雅に笑っている。 けれど、先ほどまでの華やかな空気はもう戻らなかった。 リディアが放った一言。 ――皆様の善意は、なぜ帳簿の中で半分に減るのでしょう。 それは、広間の中央に落ちた小さな氷のようだった。 誰かが踏めば割れる。 けれど、誰も踏めない。 だから皆、その周りを美しい靴で避けながら歩いている。「本当に、リディア様は思い切ったことをなさるわね」「ええ。あれでは、まるでこの茶会が悪事の場みたい」「でも、監査局が入っている以上、何か見つかっているのでしょう?」「しっ。聞こえますわ」 囁き声が、あちこちで揺れていた。 セレスティナは、自分がその視線の中にいることを感じていた。 妹。 問題のドレスを着た令嬢。 婚約破棄騒動で泣いていた娘。 そして今、監査補佐官となった姉に「記録します」と言われた妹。 どの視線も、痛い。 逃げたい。 でも、逃げない。 そう決めた。 ミラは逃げなかった。 ノアも、自分の名前が逆向きになっても何度も書いた。 自分だけ、ここで泣いて部屋へ下がるわけにはいかない。 セレスティナは、そっと息を吸った。 その時、ローデン伯爵夫人が近づいてきた。 彼女は葡萄色のドレスの裾を優雅に揺らし、口元に柔らかな笑みを浮かべている。「セレスティナ様」「ローデン伯爵夫人」 セレスティナは礼をした。
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第28話 雨漏りの証人

慈善茶会の大広間に、沈黙が増えていた。 最初の沈黙は、リディアが寄付額の矛盾を指摘した時だった。 次の沈黙は、セレスティナが「ミラは、可哀想な飾りではありません」と言った時。 そして今、三度目の沈黙が広がっている。 それは、入口に立った一人の女性のせいだった。 黒い修道服。 白い襟。 年齢は五十を過ぎているだろうか。 手は荒れ、指の節は太く、社交界の夫人たちのような柔らかな手袋はしていない。 聖ルカ孤児院院長、シスター・マルタ。 彼女が大広間へ入ってきた瞬間、花と香油と菓子で満たされていた空気が、ほんの少し変わった。 実際に雨漏りの匂いがしたわけではない。 けれど、夫人たちは一斉に気づいてしまったのだ。 自分たちが美しく語っていた「可哀想な子どもたち」の向こうには、本当にその子どもたちと暮らし、濡れた毛布を干し、足りない薬代を数えている人間がいるのだと。 マルタ院長は、深く礼をした。「本日は、お招きいただきありがとうございます」 声は穏やかだった。 場違いなほど落ち着いている。 オルガは顔色を変えた。「シスター・マルタ……?」 驚きは、本物だった。 招待した覚えがない。 そんな顔だった。 リディアは一歩前へ出る。「王国監査局より、証言協力者としてお越しいただきました」「証言協力者?」 ミルシュ男爵夫人が、扇を握りしめた。「茶会に、証言者を?」「慈善基金支出の実態確認に必要です」 リディアの声は静かだった。 だが、その静けさが場を凍らせる。
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第29話 母の仮面がひび割れる

オルガ・ヴェルクレアは、若い頃から美しいと言われてきた。 ただ美しいだけではない。 賢く、気品があり、どの場でどの程度微笑めばよいかを知っている女。 誰かが泣けば、少しだけ眉を寄せる。 誰かが褒められれば、自分の手柄でなくても柔らかく拍手する。 誰かが失敗すれば、見なかったふりをしながら、その場を崩さない程度に救う。 それが、貴婦人の技術だった。 オルガはそれを母から教わった。 女は家を守るもの。 男たちは領地と政務を語るけれど、家の評判を保つのは女の仕事。 夫人の微笑みひとつで、夫の格も、娘の縁談も、家の信用も変わる。 だから、笑いなさい。 どんな時も。 泣くなら、扉の内側で。 怒るなら、香水を変えるだけにして。 恥をかいたら、次の茶会で取り戻しなさい。 オルガは、その教えを守ってきた。 公爵家へ嫁いだ日から、ずっと。 最初の頃、王都の夫人たちは優しかった。 少なくとも、表面上は。「まあ、若い公爵夫人は華やかでよろしいわね」「これからが楽しみですこと」「ヴェルクレア公爵家の奥向きを任されるのは大変でしょうけれど、あなたならきっと」 その言葉の下に、どれほどの品定めが隠れていたか。 オルガはよく覚えている。 少しでも粗相をすれば、若さを笑われる。 少しでも地味なら、公爵家の財力を疑われる。 少しでも派手なら、成り上がりじみていると陰で言われる。 慈善茶会を始めたのは、そんな中で自分の場所を作るためだった。 慈善。 それは便利な言葉だった。 優しさを示せる。 家の格を示せる。 夫人たちを集められる。
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第30話 羽根印の招待客

 慈善茶会は、もう茶会ではなくなっていた。 少なくとも、オルガ・ヴェルクレア公爵夫人が思い描いていた、美しく整えられた慈善の場ではなかった。 花はまだ咲いている。 菓子もまだ銀の皿に整えられている。 茶も冷めないように、侍女たちが絶えず入れ替えている。 だが、夫人たちはもう心から茶を味わってはいなかった。 誰もが、自分の手元の扇、自分の署名、自分の寄付額、自分が過去に何を言ったかを気にしている。 美しい会話は、ところどころで途切れた。 誰かが「可哀想な子どもたち」と言いかけて、言葉を飲み込む。 誰かが「運営費も必要ですものね」と言いかけて、隣の夫人の顔色をうかがう。 誰かが「オルガ様も大変で」と言いかけて、監査局の書記官が近くにいることに気づき、扇で口元を隠す。 善意は、見られると急にぎこちなくなる。 リディアは、それを静かに見ていた。 寄付箱はロザリーによって封がされ、監査局の証拠箱へ移された。 各夫人の寄付額、発言、署名書簡への関与、支援先への訪問歴、運営委員会での役割。 すべて記録されている。 この場で一気に罪を裁くわけではない。 だが、茶会はもう以前のようには終われない。 それだけは確かだった。「補佐官」 セオが、記録板を抱えて近づいてきた。「受付分の一次記録、終わりました。寄付額変更を申し出た家が四件。うち二件は増額、一件は『使途が明確になるまで保留』、一件は……」「一件は?」「『夫に相談します』です」 リディアは一瞬だけ目を閉じた。「それは保留ですね」「はい。夫に相談します、は社交界語で『今は払いたくありませ
last updateLast Updated : 2026-09-07
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