「お姉様が、私を押したの……?」
妹の声は、震えていた。
けれど、不思議なくらいよく通った。
王宮大広間に流れていた舞曲が、糸を切られたように止まる。
楽師が弓を持ったまま固まり、談笑していた貴族たちが一斉にこちらを見た。金の杯を持つ手、扇で口元を隠す手、令嬢たちの細い首が、同じ方向へ向く。
階段の下。
桃色のドレスを乱した妹、セレスティナが、侍女に支えられて座り込んでいた。
白い膝に、赤く薄い擦り傷。
肩から落ちかけたレース。
頬を濡らす涙。
金色の巻き毛が乱れて、余計に儚く見える。
可哀想な妹。
か弱い妹。
守られるべき妹。
そして私は、その妹を見下ろすように階段の上に立っていた。
これほど分かりやすい絵はない。
「押していません」
私は言った。
自分では、はっきり言ったつもりだった。
だが、大広間に広がるざわめきの中では、私の声など羽虫の羽音ほどにも届かなかったらしい。
「まあ……」
「やはり、ヴェルクレア家の長女はお厳しい方だから」
「でも、妹君にまで手を上げるなんて」
「セレスティナ様、以前から姉君を怖がっていらしたものね」
囁きが、扇の陰から漏れてくる。
あれは、質問ではない。
確認でもない。
もう答えは決まっている。
冷たい姉が、婚約者と親しくしていた可愛い妹に嫉妬し、階段から突き落とした。
分かりやすい。
胸が痛むほど、分かりやすい。
人は真実より、分かりやすい物語を好む。
「セレスティナ!」
人垣を押し分けて駆け寄ったのは、第二王子エドガル・クレイム殿下だった。
私の婚約者。
いえ、正確には、この瞬間までは婚約者だった人。
金の髪に、空色の瞳。
優しげな顔立ちと、相手に合わせて微笑むのが上手い口元。
社交界では「春の日差しのような王子」と囁かれている。
その春の日差しは今、私ではなく、妹だけを照らしていた。
「大丈夫か。どこを打った。医師を呼べ、早く」
「殿下……私、私……」
セレスティナは、エドガル殿下の袖を掴んだ。
弱々しく。
だが、決して離さないように。
昔から、妹はそういう仕草が上手かった。
握りしめすぎれば、わざとらしい。
離してしまえば、誰も助けてくれない。
だから彼女は、ほんの少しだけ縋る。
相手が「自分が守らなければ」と思う程度に。
「お姉様を責めたいわけではないの。私が、私が悪いのよ。殿下と少しお話ししていただけなのに……お姉様のお顔が、とても怖くて」
「セレスティナ」
「違うの。お姉様は、きっとそんなつもりじゃ……でも、私、階段で足がすくんで……」
言葉が途切れる。
そこから先を、妹は言わない。
押されたとは言わない。
突き落とされたとも言わない。
嫉妬されたとも、直接は言わない。
けれど、聞く者たちの頭の中で、残りの言葉が勝手に埋まっていく。
私には、それが見えるようだった。
ああ、まただ。
幼い頃から、ずっと同じだった。
セレスティナが母の花瓶を割った時も、そうだった。
『お姉様が怒ると思って、怖くて、手が震えたの』
私は花瓶に触れてもいなかった。
けれど叱られたのは私だった。
家庭教師の課題をセレスティナが燃やした時も、そうだった。
『お姉様みたいに上手にできなくて、恥ずかしくて』
私は課題を燃やしていない。
けれど母は、私に言った。
『あなたが妹を追い詰めるからでしょう』
妹は、いつも直接私を刺さない。
ただ泣く。
震える。
私を怖がる。
すると周りが、勝手に私を悪者にしてくれる。
便利な涙だ。
「リディア」
エドガル殿下が私を見上げた。
その目を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに冷えた。
彼は、私を信じていない。
いえ、違う。
最初から、信じるかどうかを考えてすらいない。
「説明してくれ」
殿下はそう言った。
だが、それは説明を求める声ではなかった。
罪人に弁明を許す声だった。
「私は、妹に触れておりません」
「では、セレスティナが嘘をついていると言うのか?」
「妹は、私に押されたとは明言しておりません」
「そういう言い方をするな」
殿下の眉間に、深い皺が寄った。
「いつもそうだ。君は何でも言葉で正そうとする。人の気持ちを考えず、書類の不備を指摘するみたいに、相手の弱さを切り捨てる」
「事実を確認しているだけです」
「事実?」
殿下は、呆れたように息を吐いた。
その息が、思いのほか私を傷つけた。
罵声より、軽蔑より、その小さな息の方が痛かった。
「君には、優しさがない」
優しさ。
その言葉を聞いた時、思わず笑いそうになった。
笑わなかったのは、きっと最後の礼儀だった。
優しさがない。
では、王妃教育の課題を放り出した妹の分まで、夜明けまで文書を書き直した私は何だったのだろう。
殿下が外交使節の名前を間違えて覚えていた時、恥をかかせないように会談直前まで確認表を作った私は何だったのだろう。
公爵家の収支が合わず、父が商会に責められかけた夜、黙って帳簿を洗い直した私は。
母が主催する慈善茶会の寄付金の流れに不自然な点を見つけ、三日眠れずに書類を整えた私は。
全部、優しさではなかったのか。
ただの義務だったのか。
都合のいい、無償の労働だったのか。
「エドガル殿下」
私は静かに言った。
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「今この場で、私が何を申し上げれば、殿下は私を信じてくださいましたか」
殿下は口を開きかけた。
だが、言葉は出なかった。
その沈黙だけで十分だった。
答えは、ない。
何を言っても、私は信じてもらえない。
「……お姉様」
階段下から、セレスティナが私を呼んだ。
小さく、濡れた声。
母なら胸を押さえ、父なら眉を曇らせ、殿下なら膝をついて手を取る声。
「私、謝るわ。お姉様を怒らせたなら謝る。だって、殿下はお姉様の婚約者なのに、私が親しくお話ししてしまったから……」
「セレスティナ、君は悪くない」
殿下が即座に言った。
妹は首を振る。
「ううん。私が悪いの。私、いつもそう。お姉様みたいに立派じゃないから、何をしても迷惑をかけてしまうの」
セレスティナの肩が震える。
母が人垣を押しのけて駆け寄ってきたのは、その時だった。
「セレス!」
「お母様……」
母、オルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、妹を抱きしめた。
まるで命を奪われかけた娘を守る母親のように。
私は階段の上から、その光景を見ていた。
たった一度でいい。
私も、ああして抱きしめられたかった。
そんな、今さらどうにもならない願いが胸を掠めた。
馬鹿馬鹿しい。
二十一歳にもなって、何を考えているのだろう。
「リディア」
母は妹を抱きしめたまま、私を見上げた。
泣いているのは妹なのに、母の目も潤んでいる。
「どうして、こんなことに」
「私は何もしておりません」
「またそうやって」
母の声が震えた。
「あなたは昔からそう。正しいことばかり言って、相手の心を見ない。セレスティナがどれほど傷つきやすい子か、あなたが一番知っているでしょう」
「傷つきやすければ、事実は必要なくなるのですか」
「リディア!」
母の悲鳴のような声が、大広間に響いた。
周囲の視線が、さらに冷たくなる。
親に刃向かう娘。
泣いている妹を責める姉。
王子の前でも反省しない悪女。
もう、そう見えているのだろう。
その時、父が現れた。
ヴェルクレア公爵。
いつも通り、重々しく、疲れた顔をしている。
父は私を見るなり、低い声で言った。
「家の恥を広げるな」
その言葉を聞いて、私は不思議と落ち着いた。
父は、いつもそうだ。
何があったかではなく、家の恥になるかどうかを気にする。
「お父様。私は妹に触れておりません」
「それを今、ここで争うつもりか」
「事実ですので」
「事実より先に、守るべきものがある」
「それは、何でしょう」
父は苛立ったように眉を動かした。
「家だ」
短い答えだった。
あまりにも短くて、胸の奥にすとんと落ちた。
家。
私は、そのために何度も黙ってきた。
妹が壊したものを隠した。
母の失言を取り繕った。
父の書類の穴を埋めた。
殿下の未熟さを周囲に悟られないよう、笑顔で頭を下げた。
すべて、家のため。
けれど、その家は一度も私を守らなかった。
「リディア・ヴェルクレア」
エドガル殿下が、改まった声で私の名を呼んだ。
大広間の空気が変わる。
ああ。
来る。
私は直感した。
彼は、これをしたかったのだ。
可哀想な妹を守る、優しい王子。
冷酷な婚約者を断罪する、正しい男。
人々の前で正義を示す、美しい場面。
そのために私は、ちょうどよい悪役だった。
「君との婚約は、ただ今をもって破棄する」
ざわめきが、波のように広がった。
誰かが息を呑んだ。
誰かが扇を取り落とした。
誰かが、面白そうに身を乗り出した。
私は、瞬きを一つした。
十年。
婚約が決まったのは、私が十一歳の時だった。
王子妃教育は、遊びではなかった。
朝から晩まで礼法、歴史、外交、会計、隣国語、王族の血縁関係、領地ごとの税制、祝祭日の序列、茶会の席順。
何度、泣きたかっただろう。
でも、泣かなかった。
泣けば母に言われるからだ。
『セレスティナはもっと幼いのに我慢しているのよ』
妹は我慢などしていなかった。
泣けば許された。
私は、泣けなかった。
「今後、君を王家に迎えることはできない。人を思いやれぬ者に、王族の隣に立つ資格はない」
エドガル殿下は、堂々と言った。
その横で、セレスティナが小さくすすり泣いている。
母は妹を抱きしめ、父は腕を組み、周囲は私の反応を待っていた。
取り乱すと思っているのだろう。
泣くと。
縋ると。
謝ると。
妹を責めると。
けれど、私はもう疲れていた。
怒りよりも、悲しみよりも先に、ひどく疲れていた。
「承知いたしました」
私がそう言うと、大広間が一瞬静まり返った。
エドガル殿下が目を見開く。
「……何?」
「婚約破棄、承知いたしました」
「君は、それだけか」
「他に、何を申し上げればよろしいでしょう」
殿下の顔に、苛立ちが浮かんだ。
自分から切り捨てたくせに、切り捨てられた私が泣かないことが不満らしい。
人間とは、本当に面倒くさい。
「謝罪しろ」
「どなたにでしょうか」
「セレスティナにだ」
「私は妹を押しておりません」
「まだ言うのか!」
殿下の声が荒くなる。
セレスティナがびくりと震え、母がさらに強く妹を抱いた。
その瞬間、殿下の怒りが私へ戻る。
見事な循環だ。
妹が震え、周囲が怒る。
妹が泣き、私が責められる。
この家で、私は何度この芝居を見てきただろう。
「殿下」
私は静かに背筋を伸ばした。
「謝罪はいたしかねます」
「リディア!」
父が唸る。
母が泣きそうな顔で首を振る。
セレスティナが、信じられないという目で私を見る。
そうでしょうね。
私はいつも、最後には折れてきたから。
私が折れれば場が収まる。
私が謝れば母が安心する。
私が黙れば妹が笑う。
私が働けば父が面目を保てる。
私が整えれば殿下は褒められる。
だから、そうしてきた。
けれど今夜、それは終わる。
「ただし、婚約破棄は確かに承りました。したがって、明朝より、これまで私が婚約者として担っていた業務をすべて本来の担当者へお返しいたします」
殿下が眉をひそめた。
「業務?」
「はい」
私は指先を揃え、淡々と続けた。
「第二王子殿下宛ての外交文書の事前確認。諸侯家への返礼状の草案作成。南部侯爵家との会談資料。東方商会との税率調整案。王宮予算案に関するヴェルクレア家からの補足資料。王妃教育の進捗報告書。殿下が来週ご提出予定だった慈善基金監査の下書き」
並べるほどに、殿下の顔色が変わっていく。
ようやく、ほんの少しだけ理解したらしい。
「待て、リディア。それは……」
「婚約者の務めとして、お手伝いしておりました。婚約が破棄された以上、私が関わる理由はございません」
「それは困る」
思わず出たのだろう。
殿下の声は、あまりに素直だった。
私は笑いそうになった。
婚約破棄を告げた直後に、困る。
私という人間ではなく、私の仕事がなくなることに。
「お困りになるのですか」
「そういう意味ではない。君は、今この場で王家に恥をかかせる気か」
「恥をかかせるつもりはございません。殿下のお仕事を殿下へお返しするだけです」
周囲のざわめきが、少し変わった。
先ほどまでの好奇と軽蔑に、別の色が混じる。
不安。
疑問。
もしかして、この令嬢は本当に何かを握っているのではないか。
そういう目だ。
「お父様」
私は父へ視線を移した。
父の肩が、わずかに動く。
「ヴェルクレア公爵家名義で王宮へ提出している月次収支の補正資料も、今後は私は確認いたしません。商会との契約書、使用人給与の改定案、領地からの収穫報告、セレスティナの社交費の処理も同様です」
「リディア、お前……」
「私の役目ではございませんので」
「家を脅す気か」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「家族なら当然助けてくれると、皆様がお考えになっていたものを、家族でなくなった私が手放すだけです」
「家族でなくなったなどと、何を馬鹿なことを」
母が震える声で言った。
「あなたは私たちの娘でしょう。セレスティナのお姉様でしょう。そんな言い方をするなんて、ひどいわ」
「お母様」
私は母を見た。
母は、妹を抱きしめていた。
その姿は、美しい母娘に見えた。
私だけが、そこに入れない。
「私は今日、家族に信じていただけませんでした」
「それは、あなたがあまりにも冷たく振る舞うから」
「では、温かく振る舞えば信じていただけましたか」
母は答えなかった。
父も。
殿下も。
誰も。
その沈黙が、また答えだった。
「お姉様……」
セレスティナが母の腕の中から、こちらを見た。
涙に濡れた瞳。
けれどその奥に、ほんのわずか、責めるような光があった。
「そんな怖いことを言わないで。私、謝るから。ねえ、お姉様。怒っているのなら、私にだけ怒って? お父様やお母様を困らせないで」
上手い。
実に上手い。
自分は被害者のまま、私を家族を困らせる加害者に戻す。
この子は、本当に分かっていないのだろうか。
それとも、分かっていてやっているのだろうか。
たぶん、その両方だ。
人は、自分が一番可哀想でいたい時、驚くほど残酷になれる。
「セレスティナ」
私は、妹の名を呼んだ。
妹が小さく肩を震わせる。
「私は怒っていません」
「本当……?」
セレスティナの表情が、少し緩んだ。
いつもの私なら、ここで折れる。
ええ、もういいわ。
大丈夫よ。
あなたは悪くないわ。
そう言って、妹の罪を私の名前で片づける。
けれど、今夜は違う。
「もう、あなたに怒るほどの期待がありません」
妹の表情が凍った。
母が息を呑む。
「リディア、あなた……!」
「それから、セレスティナ」
私は妹を見下ろした。
見下ろす形になってしまったことが、また周囲には悪女らしく映るのだろう。
ならば、それでいい。
「泣けば許される人生は、今日で終わりにしましょう」
セレスティナの唇が、わずかに開いた。
だが、言葉は出ない。
初めてだった。
妹が、泣く以外の方法を失った顔をしたのは。
「リディア!」
エドガル殿下が怒鳴った。
「君はどこまでセレスティナを傷つければ気が済む!」
「殿下」
私は振り向いた。
「私が妹を傷つけたかどうかは、後日、階段付近にいた侍女と警備兵に確認なさるとよろしいかと存じます。妹の靴の留め具が外れていたことも、ドレスの裾を自ら踏んだ跡も、証言と照合すれば分かるでしょう」
セレスティナの顔から、色が消えた。
ほんの少しだけ。
その変化を、私は見逃さなかった。
「お姉様……どうして、そんな……」
「見ていたからです」
私は静かに答えた。
「私はいつも見ていました。あなたが何をして、何を言わずに、誰に泣いてみせるのか」
妹は黙った。
母が、私と妹を交互に見る。
父は眉を寄せていた。
殿下だけが、まだ怒っている。
「それほど言うなら、なぜ最初から言わなかった」
「聞いていただけると思えませんでしたので」
「馬鹿にしているのか」
「いいえ。経験に基づいた判断です」
大広間に、妙な沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、先ほどまでと違っていた。
私を責めるための沈黙ではない。
誰もが、少しずつ気づき始めている。
この場には、まだ見えていない何かがあるのではないかと。
しかし、もう遅い。
「失礼いたします」
私は深く礼をした。
殿下へ。
父へ。
母へ。
そして、泣き止んだ妹へ。
「長い間、お世話になりました」
その言葉は、婚約者に向けたものだったのか。
家族に向けたものだったのか。
自分でも分からなかった。
階段を下りる。
セレスティナの横を通る時、妹が小さく私の袖を掴んだ。
昔と同じように。
人前でだけ、甘える妹の手。
「お姉様、本当に行くの?」
その声には、初めて本物の不安が混じっていた。
私は袖を見た。
白い指が、震えている。
「ええ」
「でも、明日の朝、お母様のお茶会の招待状の返事をまとめる日よ。私、どのお返事を先にしたらいいか分からないわ」
この子は。
私は、腹が立つより先に、少しだけ泣きたくなった。
婚約を破棄された姉に、最初に言うことがそれなのか。
自分を階段から突き落とした悪女だと思っているはずの姉に、明日の手紙の整理を頼むのか。
それとも、心の底では分かっているのか。
私が押していないことも。
自分が嘘を混ぜたことも。
それでも私は、最後には手伝うと思っていることも。
「セレスティナ」
「な、何?」
「自分でおやりなさい」
妹の指が、私の袖から離れた。
私はそのまま、大広間を出た。
扉が閉まる直前、背後で誰かが言った。
「リディア様がいなくなったら、明日の会談はどうなるの?」
その声に、答える者はいなかった。
廊下は静かだった。
王宮の夜気は冷たく、火照った頬に心地よい。
窓の外には欠けた月が浮かび、庭園の噴水が細く白い水を上げていた。
私はそこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
怖かったのだろうか。
悔しかったのだろうか。
悲しかったのだろうか。
たぶん、その全部だ。
でも、涙は出なかった。
泣き方を忘れてしまったのかもしれない。
「見事だった」
背後から、低い声がした。
私は振り向いた。
柱の陰に、一人の男が立っていた。
黒に近い宰相服。
銀糸の刺繍。
夜色の髪。
整いすぎて冷たく見える顔。
灰色の瞳は、こちらの心の奥まで測るように静かだった。
ギルベルト・レイヴァン。
王弟にして、王国宰相。
社交界では、冷血宰相と呼ばれる男。
「盗み聞きでございますか、宰相閣下」
「扉が薄かった」
「王宮の扉の品質については、担当部署に改善を求めてくださいませ」
「婚約破棄された直後に、扉の心配をする令嬢は初めて見た」
「それは光栄です」
ギルベルト閣下は、わずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。
あまりにも分かりにくい笑い方だった。
「泣かないのか」
「泣けば、私が正しいと証明されますか」
「されないな」
「では、後回しにします」
「後で泣く予定はあるのか」
「未定です」
「そうか」
不思議な会話だった。
慰められているわけではない。
責められているわけでもない。
ただ、事実だけがそこにあった。
それが、ひどくありがたかった。
ギルベルト閣下は懐から一通の封書を取り出した。
封蝋には、王国監査局の紋章。
私は眉を動かした。
「それは?」
「君に仕事を頼みに来た」
「先ほど婚約者の仕事を失ったばかりなのですが」
「なら、ちょうどいい。空いた時間があるだろう」
「冷血宰相という噂は本当だったのですね」
「噂より悪い」
「否定くらいなさっては?」
「無意味な嘘は嫌いだ」
彼は封書を私へ差し出した。
「リディア・ヴェルクレア。君は、王宮中の弱みを知っているな」
私は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えない方が、正しいと思った。
ギルベルト閣下は続ける。
「第二王子派の帳簿。ヴェルクレア公爵家の補正資料。慈善基金の不自然な支出。東方商会との契約改竄。君は、すべて気づいていたはずだ」
「何のことでございましょう」
「とぼけるのが下手だな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「君を救いに来たわけではない」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
救う。
助ける。
可哀想に。
大丈夫か。
そんな言葉を言われるより、ずっとましだった。
「では、何をしに?」
「君が持っている証拠を、王国のために使いに来た」
封書が、私の前にある。
受け取れば、もう戻れない。
婚約破棄された哀れな令嬢として泣き寝入りする道は消える。
家族に許されるために頭を下げる道も。
妹の罪を、また私の名前で片づける道も。
「私を利用なさるのですか」
「そうだ」
「清々しいほど最低ですね」
「君も私を利用すればいい」
ギルベルト閣下は、表情を変えずに言った。
「君を悪女にした者たちがいるのなら、悪女として戻ればいい」
「悪女として」
「ああ。泣き寝入り令嬢より、その方が似合う」
「……褒め言葉が下手すぎます」
「先に言ったはずだ。私は噂より悪い」
私は封書を見つめた。
扉の向こうから、まだ騒ぎ声が聞こえる。
エドガル殿下の声。
父の怒声。
母の泣く声。
セレスティナの、途切れ途切れの言い訳。
今までなら、私は戻っていた。
場を収めるために。
誰かの失敗を片づけるために。
家族に、ほんの少しでも認めてもらいたくて。
でも、もう戻らない。
私は封書を受け取った。
その瞬間、震えていた指先が止まった。
「閣下」
「何だ」
「私は、復讐のためにこの仕事をするかもしれません」
「構わない」
「王国のためではなくても?」
「王国の不正を暴くなら、動機まで清らかである必要はない」
ギルベルト閣下は、淡々と言った。
「怒りは悪いものではない。使い方を間違えなければな」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
私は、怒ってよかったのだろうか。
家族に。
妹に。
婚約者に。
私を冷たい女だと決めつけたすべての人に。
怒ってよかったのだろうか。
「……では」
私は封書を胸に抱いた。
「悪女にされた責任を、取っていただくことにいたします」
ギルベルト閣下の口元が、ほんの少しだけ動いた。
今度は、笑ったのだと分かった。
その時、大広間の扉が勢いよく開いた。
「リディア!」
エドガル殿下が廊下に飛び出してきた。
先ほどまでの断罪者の顔ではない。
青ざめ、焦り、どこか縋るような顔。
「待ってくれ。明日の南部侯爵との会談資料は、君が持っているはずだ」
婚約破棄から、まだ半刻も経っていない。
それなのに、彼が最初に求めたのは、私の弁明でも、謝罪でも、怪我の確認でもなかった。
資料。
あまりにも彼らしくて、私はようやく少しだけ笑えた。
「殿下」
私はかつての婚約者に向かって、静かに微笑んだ。
「それは、婚約者の仕事でございます」
エドガル殿下の顔が、凍りついた。
背後で、ギルベルト閣下が小さく息を吐く。
「リディア、君は……私を困らせたいのか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「殿下のお仕事を、殿下へお返ししただけです」
大広間の光が、殿下の背後で揺れていた。
その奥で、セレスティナがこちらを見ている。
もう、泣いていなかった。
私はその顔を見て、静かに思った。
泣けば許される人生は、今日で終わりにしましょう。
あなたも。
殿下も。
お父様も、お母様も。
そして、私自身も。
もう二度と、誰かの罪を私の名前で片づけたりしない。
悪女にされたのなら。
悪女らしく、帳尻を合わせてみせる。