All Chapters of 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします: Chapter 11 - Chapter 20

57 Chapters

第十一話 簪の中の二枚目の紙

 明霞姉様の簪は、洗衣局の梁の隙間に隠してあった。  梁、と言っても立派なものではない。  湿気で少し黒ずみ、雨の日になると木の奥から黴の匂いがする。下級宮女たちが寝起きする部屋の天井など、後宮の華やかな宮殿とは比べものにならない。  でも、だからこそ安全だった。  玉蘭妃様の白玉宮では、香炉の底まで調べられる。  蓮貴妃様の宮では、布の皺ひとつ見逃されない。  皇后宮では、死者の遺品さえ罪の証拠に変えられる。  けれど洗衣局の梁の隙間など、誰も覗こうとしない。  汚い場所。  湿った場所。  下の者の匂いがする場所。  後宮で見下される場所ほど、時には大切なものを隠すのに向いている。 「鈴花、本当にそこに隠してたの?」  蘭々が、私の下で小声を上げた。  私は棚に足をかけ、梁へ手を伸ばしていた。 「うん」 「落ちないでよ。あんた、運動得意そうに見えて全然得意じゃないんだから」 「得意そうに見えたことある?」 「ない」 「じゃあ言わないで」 「心配してるんだってば」  蘭々は下で両手を広げている。  どうやら私が落ちたら受け止めるつもりらしい。  ありがたい。  でも、蘭々の細い腕で私を受け止めたら、二人まとめて床へ落ちると思う。 「蘭々、少し離れて。落ちたら巻き込む」 「嫌。友達が落ちるのを少し離れて見てるとか無理」 「受け止められないでしょう」 「気持ちは受け止める」 「体を受け止めてほしいんだけど」 「それは無理」 「正直」 「嘘は下手なので」  最近、蘭々はそれを気に入っているらしい。  私は梁の隙間へ指を差し入れた。  埃が爪の間に入る。  少し奥を探ると、布で包んだ硬い感触があった。  よかった。  まだある。  私は慎重に包みを引き出した。  床へ降りると、蘭々がすぐに布を差し出した。 「手、真っ黒」 「ありがとう」 「簪、無事?」 「うん」  明霞姉様の簪。  銀細工の蓮。  青い石。  あの夜、姉様が私に渡したもの。  その中から最初に見つけた紙には、玉蘭妃様の偽装懐妊、医官・曹順、朱燕、香係、銀器と香に残る証拠が記されていた。  それだけでも、十分すぎるほど危険なものだった。  けれど黎星様は言った。  もう一度確認しろ、と。  明霞姉様が
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第十二話 黎星様ではなく、皇弟殿下

黎星様に似た男。  その言葉は、洗衣局の薄暗い空気を一瞬で冷やした。  釜の湯はまだ湯気を立てている。  白い布は山のように積まれている。  どこかで桶が軋み、外では後宮中を走る宦官の足音が遠く聞こえた。  けれど、その瞬間だけ、私には何も聞こえなかった。  黎星様に似た男。  白家の香箱。  古い祭殿。  玉蘭妃様の逃亡。  そして、黎星様を殺そうとした男。 「……同じ血を引く男、とは」  私は尋ねた。  黎星様は答えなかった。  蘭々が、私と黎星様を交互に見る。 「えっと、同じ血って、兄弟? 従兄弟? 皇族ってこと? あ、ごめん、私、そういう偉い人の家系図ぜんぜん分かんない。分かんないけど、今の顔、かなりまずいやつだよね?」 「蘭々、少し黙って」 「はい」  珍しく素直に黙った。  それほど、黎星様の顔が冷たかった。  怒っているのではない。  怯えているのでもない。  もっと深いところで、古い傷を指で押された人の顔だった。 「黎星様」  私はもう一度呼んだ。  彼は、ゆっくりこちらを見た。 「その名で呼ぶのか」  低い声だった。 「ご自分で、黎星でいいとおっしゃいました」 「ああ」 「では、黎星様です」  そう言うと、彼はほんのわずかに目を伏せた。 「……助かる」  その一言が、妙に人間らしかった。  皇弟殿下ではなく、黎星様がそこにいる気がした。  けれど、だからこそ私は腹が立った。 「助かる、ではありません」  声が少し硬くなる。 「私は、あなたが皇弟殿下だと知ったばかりです。宦官ではないことも。死んだことになっていることも。皇后様に頼まれて後宮に潜っていたことも」 「話した」 「はい。話してくださいました。でも、それは玉蘭妃様に暴かれた後です」  黎星様は黙った。 「今度は、あなたに似た男ですか」 「鈴花」 「まだ何か隠しているのですか」 「隠している」  即答だった。  胸が冷えた。  せめて少しは迷ってほしかった。  嘘でも、もう隠し事はないと言ってほしかったのかもしれない。  そんな自分が嫌だった。 「隠しているのですね」 「ああ」 「それは、私の命に関わりますか」 「関わる」 「なら話すと約束したはずです」  黎星様の眉がわずかに動い
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第十三話 北の薬材門

祭殿で見つけた女官は、まだ息をしていた。  名は翠芳。  白玉宮の下級女官で、玉蘭妃様の香炉や衣箱を運ぶ役をしていたという。  胸元に受けた傷は深くはない。けれど血を失いすぎていて、医療房へ運ぶまでの間、彼女は何度も意識を手放しかけた。 「……私、殺されますか」  担架代わりの戸板に乗せられた翠芳が、かすれた声で言った。  私はその横を歩いていた。  黎星様は少し前を警戒しながら進んでいる。  祭殿で見つけた白家の香箱は、布に包まれ、黎星様の部下――と言っていいのか分からないけれど、内侍省の者たちが運んでいる。 「今は話さないでください」 「でも……言わないと、また……」 「言葉は残します。だから今は息をしてください」  翠芳は苦しそうに笑った。 「鈴花さん……変なこと言うんですね。息をしてください、って」 「洗衣局では、息を止めて熱い釜を覗くと倒れます」 「それと……同じですか」 「たぶん、少し」 「少し……」  翠芳は小さく笑おうとして、痛みに顔を歪めた。  私は彼女の手を握った。  白玉宮の女官。  玉蘭妃様に仕え、小梅たちを見て見ぬふりをしてきた人。  もしかしたら、明霞姉様を罪人にする流れにも関わっていたかもしれない。  そう思うと、胸のどこかが固くなる。  でも、今この人は刺され、震え、死にたくないと怯えている。  後宮では、人は一つではない。  明霞姉様の言葉が、また私の中で響いた。 「翠芳さん」 「はい……」 「玉蘭妃様は、どこへ向かわれたのですか」  翠芳の指が震えた。 「地下道……でも、途中で……景蘭様が」 「景蘭様は、玉蘭妃様を助けたのではないのですか」 「最初は、そう見えました。玉蘭妃様も、景蘭様なら外へ逃がしてくれると……でも」  翠芳の唇が白くなる。 「景蘭様は、玉蘭妃様に言いました。あなたはもう役目を終えた、と」  背筋が冷たくなった。  役目を終えた。  美しい寵妃。  皇后を殺した女。  皇帝陛下の寵愛を集め、偽りの懐妊で後宮を乱した女。  その玉蘭妃様でさえ、景蘭という男にとっては役目を終えた駒なのか。 「玉蘭妃様は?」 「笑っていました」  翠芳は目を閉じた。 「怖いくらい、綺麗に。『私を捨てるの?』って聞いて……景蘭様が『捨てるのではな
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第十四話 阿梨が見た香箱

沈烈の帳面は、重かった。  紙の束としてではない。  そこに書かれているものの重さが、手のひらに沈んでくるようだった。  薬材名。  数量。  搬入日。  門番の印。  薬庫の印。  そして、ところどころ不自然に空いた余白。  墨で塗り潰された行。  破られた頁。  火鉢へ投げ込まれる寸前だった帳面は、端が少し焦げていた。  蘭々が濡れ布を投げなければ、今ごろ灰になっていた。 「私、すごくない?」  蘭々は医療房へ戻る道すがら、三度目の同じ言葉を言った。 「すごい」 「もっと驚いていいよ。私、火鉢に濡れ布を投げるなんて、人生で初めてやった」 「普通は何度もやらない」 「でも、ちゃんと当たった」 「うん。とても助かった」 「でしょ。私、釜の蓋だけじゃなくて、濡れ布もいける」 「武器を増やさないで」 「武器じゃないよ。洗衣局の知恵」  蘭々は胸を張った。  腕には擦り傷があり、髪は少し乱れている。  でも目は生き生きしていた。  怖かったはずだ。  沈烈に腕を掴まれた私を見て、景蘭という得体の知れない男を見て、毒箱が一つではないと聞いて。  それでも蘭々は、私の隣で歩いている。  そして、怖さをごまかすように喋っている。  私はそれをありがたいと思った。 「鈴花、腕痛い?」 「少し」 「少しじゃないでしょ。沈烈様、すごい力だった。あれ、絶対痣になる」 「痣くらいなら」 「痣くらいって言うな。体は一個しかないんだから。証拠みたいに何個も集められないんだよ」  言い方が蘭々らしくて、少し笑ってしまった。 「笑い事じゃない」 「ごめん」 「あとで冷やす。絶対。逃げたら小梅に言う」 「なぜ小梅に」 「小梅、静かに怒るから効く」  たしかに、小梅に静かに「鈴花さん、ちゃんと冷やしてください」と言われたら、私は逆らいにくい気がする。  前を歩いていた黎星様が、少し振り返った。 「医療房に戻ったら診せろ」 「老医官様にですか」 「ああ」 「そこまででは」 「診せろ」  短い命令。  以前なら、ただ冷たいと思ったかもしれない。  今は、少しだけ違う。  心配している。  そう思ってしまう自分がいて、腹が立つ。  まだ許したわけではないのに。  まだ信じきれないのに。  言葉
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第十五話 箱の中の寵妃様

夕刻の鐘が鳴った。 一つ。 二つ。 三つ。 東門の荷場にいた者たちが、一斉に動き出す。 門番が札を確認し、荷車の者が車輪に手をかけ、役人が帳面を閉じる。日が落ちる前に荷を外へ出さなければならない。そういう焦りが、場の空気をざわつかせていた。 そのざわめきの中で、木箱の中から玉蘭妃様の声が聞こえた。「来たのね、鼠」 蘭々の手が、私の袖を強く掴んだ。「鈴花……今の、聞こえたよね?」「聞こえた」「箱の中だよね?」「うん」「寵妃様って、箱に入るものなの?」「普通は入らない」「だよね!?」 叫びそうになる蘭々の口を、私は慌てて手で押さえた。 門番がこちらを見る。 私はすぐに頭を下げた。「申し訳ございません。荷布が落ちかけまして」 門番は舌打ちした。「邪魔だ。下級宮女は下がれ」「はい」 私は頭を下げながら、箱の隙間を見た。 白桂と記された木箱。 香木を運ぶための箱にしては、少し大きい。 板の隙間には白い布が詰められている。中身が揺れないようにするためか、音を漏らさないためか。 箱の縁には、白家の焼き印。 その下に、小さく刺繍された双蓮と細い月。 梁家の紋。 そして、箱の底に赤い泥。 朱砂庫の土。 証拠が多すぎる。 多すぎるということは、見せるために置かれたものも混じっている。 景蘭は言った。 北の箱にはいない。
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第十六話 西の葬送門

西の葬送門。 その名を聞いた瞬間、東門の空気が変わった。 北の薬材門でもなく、東門でもなく、西。 死者を外へ出すための門。 後宮の女たちが、最後に名を失う場所。 春燕の名で包まれた棺が、そこから出された。 玉蘭妃様は箱の中で薄く笑った。「急いだ方がいいわ。景蘭は、死者の扱いだけは丁寧なの。綺麗に燃やして、灰にして、何も残さない」「黙ってください」 私が言うと、玉蘭妃様は少し目を細めた。「あら、助けた相手に冷たいのね」「助けたのではありません。止めただけです」「そうだったわね。あなたは私を綺麗に死なせてくれない子だった」 箱から引き出された玉蘭妃様は、まだ両手を縛られていた。 白い衣は乱れ、髪も崩れている。けれど、それでも人目を奪うほど美しい。こういう人は、どれほど汚れても、自分がどう見られるかを知っているのだと思った。 蘭々が小声で言う。「腹立つくらい綺麗……でも箱から出てきた直後だから、ちょっとだけ芋虫みたい」「蘭々」「あ、ごめん。言いすぎた」 玉蘭妃様が、ゆっくり蘭々を見た。「芋虫」「すみません!」「いいわ。蝶になれない女には、ちょうどいいかもしれない」 蘭々は何と言っていいか分からない顔をした。 私も、少しだけ言葉に詰まった。 玉蘭妃様は、時々こういうことを言う。 自分を哀れむようでいて、聞く者に傷を残す言葉を。 黎星様は玉蘭妃様を見下ろした。「西へ何が出た」「言ったでしょう。春燕の名で包まれた棺」「中身は」
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第十七話 紅蓮楼へ出た灰壺

景蘭は逃げた。 また、逃げた。 煙が薄れた葬送門の前には、粗末な木棺と、玉蘭妃様の遺髪と、白家の香箱だけが残っていた。 そして、春燕の名札。 私はそれを握りしめていた。 春燕。 もう声を出せない娘。 小梅が命がけで守った布切れを残した娘。 自分の死さえ、誰かの毒の道具にされそうになっている娘。 その名前が、また使われた。 棺だけではない。 灰壺。 小さく、軽く、誰も覗き込まないもの。 人は死者を恐れる。 穢れを避ける。 だから、死者の荷は調べられにくい。 景蘭は、それを知っていた。「葬送係を押さえろ」 黎星様の声が低く響いた。 蓮貴妃様の宦官たちが、焼き場の隅に逃げかけた葬送係の男たちを取り押さえる。 男たちは震えていた。 死者の扱いに慣れているはずなのに、生きている権力者に囲まれると、こんなにも怯える。 玉蘭妃様は、蘭々に支えられながら棺の横に立っていた。 疲れ切っているはずなのに、まだ背筋だけは折れない。 彼女の髪は不自然に短く切られていた。 棺の中にあった遺髪。 景蘭は玉蘭妃様を殺す前から、死んだ証を作っていた。 髪。 血。 遺書。 棺。 灰壺。 人の死は、こんなにも部品に分けられるものなのか。「気分悪い?」 蘭々が私の横に来て、小さく尋ねた。
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第十八話 紅蓮楼の赤い屏風

 紅蓮楼の香は、後宮の香よりも濃かった。 白玉宮の香が、女の肌にまとわりつく甘い毒だとすれば、紅蓮楼の香は建物そのものに染み込んだ古い毒だった。 柱。 欄干。 敷物。 赤い蓮の屏風。 どこもかしこも、香を吸っている。 香木の甘さ。 乾いた花の匂い。 酒。 墨。 そして、その奥にある苦味。 玉蘭妃様の宮で何度も嗅いだ、毒を隠すための苦味。 私は、無意識に袖で鼻を押さえそうになった。「顔色が悪いぞ」 隣で黎星様が低く言った。「香が強いだけです」「それを悪いと言う」「慣れています」「慣れるな」 その言い方が少し強かった。 私は彼を見た。 黎星様は景蘭を睨んだまま、私だけに聞こえる声で続けた。「ここでは、香に酔ったふりをして連れ去られる。気分が少しでも変わったら言え」「はい」「強がるな」「はい」「本当に分かっているのか」「分かっています」「その返事は信用できない」「では、どう答えればいいのですか」「……俺の袖を掴め」 思わず、返事が遅れた。「袖、ですか」「倒れる前に分かる」「子供ではありません」「ここでは大人も子供も関係ない」 黎星様は、視線を景蘭から外さない。
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第十九話 皇帝の後悔

 紅蓮楼から後宮へ戻る道で、私は一度も喋らなかった。 喋れば、口から毒の匂いが出そうだった。 白家の香。 紅蓮楼の苦い煙。 灰壺に隠されていた黒い小袋。 皇后様を殺す手順が書かれた文書。 偽造された皇弟府の印。 そして、景蘭の声。 ――次は宮中だ。兄上に伝えろ。死んだ弟が帰ってくる、と。 供車の車輪が石畳を鳴らすたび、その言葉が頭の中で跳ねた。 私は、膝の上で両手を握っていた。 右腕には老医官に塗られた薬の匂いがまだ残っている。沈烈に掴まれた痣がじんじん痛む。けれど、その痛みすら今は遠かった。 向かい側に座る黎星様は、文書と毒袋を収めた箱を抱えていた。 箱には封がされ、蓮貴妃様の女官と内侍省の者が証人として印を入れている。 証拠。 決定的な証拠。 皇后様の死は、偶然でも衝動でもなかった。 誰かが計画し、誰かが運び、誰かが混ぜ、誰かが飲ませた。 そして、その命令者の場所には、偽の皇弟府の印が残されていた。 黎星様を罪人にするために。「鈴花」 黎星様が低く呼んだ。 私は顔を上げた。「気分が悪いか」「香のせいか、文書のせいか、分かりません」「どちらもだろうな」「たぶん」 車輪が小さな段差を越え、供車が揺れる。 私は箱を見た。「これを陛下に見せるのですね」「ああ」「皇帝陛下は、信じるでしょうか」「信じざるを得ない」「そうでしょうか」 自分の声が思ったより冷たく聞こえた
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第五十話 白家の腹の底

白い煙は、床下から生き物のように這い上がってきた。 甘い。 けれど、甘いだけではない。 舌の奥に苦みが残る。 吸えば眠くなる香だ。 以前、紅蓮楼で嗅いだものより古く、重い。 香木の甘さで人を安心させ、その底へ薬を沈めている。「口を覆え!」 景黎様の声が地下から響いた。 直後、兵が咳き込む音。 金属が床へ落ちる音。 誰かが壁にぶつかる音。 蘭々の声も聞こえた。「うわ、甘っ、苦っ、最悪!」「喋るな、吸う!」「喋らないと怖い!」「分かるが喋るな!」 景黎様もだいぶ蘭々の扱いに慣れている。 そんなことを思っている場合ではないのに、ほんの一瞬だけ頭に浮かんでしまった。 私は竈の横に座らされていた。 台車は入口の外。 母は別の台車の上。 父――柳昭は縄で縛られ、兵に囲まれている。 そして床下の白い煙の奥には、本物の白啓がいる。 母を最初に買った白家外商。 父に白啓の名を与えた男。 地下香庫の奥から、白家そのもののような声で笑っていた男。「鈴花か。なるほど。よく育った目だ」 その声は、優しげですらあった。 それが嫌だった。 悪意は、もっと分かりやすい顔をしていてほしい。 優しい声で人に値をつけるな。「白啓」 白瑛の声が、煙の向こうから聞こえた。 いつもより硬い。「生きていたのですね」「生きているとも」 
last updateLast Updated : 2026-08-27
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