「少なくとも、私には必要です」 その言葉だけが、涙の向こうでもはっきり聞こえた。 糀は我に返り、煌の胸元から弾かれたように離れた。昨日会ったばかりの男性の服を掴んで泣いていたと気づき、頬が熱くなる。 「昨日会ったばかりの人に、こんなことまで話してしまって……すみません」 「謝る必要はありません。それから、今の言葉も取り消しません」 また涙が出そうになり、糀は慌てて目元を押さえた。 少し経って、糀の涙が落ち着いた頃、離れた場所に控えていた秘書が紙袋を手に歩み寄ってきた。 ずっと待っていたのだろうか。糀は煌からもう半歩離れ、濡れた頬を急いでぬぐった。 「こちら、社長からです」 秘書はちらりと煌を見た。 「水仕事をする人向けで、料理に香りが残らないものを、と細かく指示がありました」 「細かく、ですか」 「はい。ここまで細かく気を遣われるのは、正直めずらしいです」 「余計なことを言わなくていい」 煌が眉を動かすと、秘書は「失礼しました」と表情を崩さず下がった。 紙袋には、白く細い容器が丁寧に包まれていた。 「……私のために?」 「初めて会ったとき、あなたの手を見ました」 あのときの糀は、離婚を突きつけられ、自分のことで精いっぱいだった。けれど煌は、荒れた指先まで見ていたらしい。その選び方が、困るほど嬉しかった。 昨夜、家から連れ出してくれた腕も、さっき涙を受け止めた胸も温かかった。 もし修司ではなく、この人と結婚していたら――。 まだ離婚していないのに浮かんだ考えを打ち消した。自分には子どもがいる。煌には、煌の人生がある。 それに、祖母との関係をまだ話してくれない。 嬉しいと思うほど、知らないことが怖くなった。 「店の話を、続けてもいいですか」 「もちろんです」 煌は古いメモ紙を引き寄せ、数字を書いた。 「三席だけの店を続けるための価格です。一人、一万二千円」 「……一万二千円」 糀は紙の数字を呆然と見つめた。考えていた三千八百円の、三倍以上だ。 「一万二千円なんて、誰も来ません」 「三席だからです。仕込みに一日。営業は三席。掃除も仕入れも片付けも一人。三千八百円では利益が出ません」 煌は開業費用の返済額を書き足した。
آخر تحديث : 2026-08-31 اقرأ المزيد