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第31話 本当に、手を引くおつもりですか

「少なくとも、私には必要です」  その言葉だけが、涙の向こうでもはっきり聞こえた。  糀は我に返り、煌の胸元から弾かれたように離れた。昨日会ったばかりの男性の服を掴んで泣いていたと気づき、頬が熱くなる。 「昨日会ったばかりの人に、こんなことまで話してしまって……すみません」 「謝る必要はありません。それから、今の言葉も取り消しません」  また涙が出そうになり、糀は慌てて目元を押さえた。  少し経って、糀の涙が落ち着いた頃、離れた場所に控えていた秘書が紙袋を手に歩み寄ってきた。  ずっと待っていたのだろうか。糀は煌からもう半歩離れ、濡れた頬を急いでぬぐった。 「こちら、社長からです」  秘書はちらりと煌を見た。 「水仕事をする人向けで、料理に香りが残らないものを、と細かく指示がありました」 「細かく、ですか」 「はい。ここまで細かく気を遣われるのは、正直めずらしいです」 「余計なことを言わなくていい」  煌が眉を動かすと、秘書は「失礼しました」と表情を崩さず下がった。  紙袋には、白く細い容器が丁寧に包まれていた。 「……私のために?」 「初めて会ったとき、あなたの手を見ました」  あのときの糀は、離婚を突きつけられ、自分のことで精いっぱいだった。けれど煌は、荒れた指先まで見ていたらしい。その選び方が、困るほど嬉しかった。  昨夜、家から連れ出してくれた腕も、さっき涙を受け止めた胸も温かかった。  もし修司ではなく、この人と結婚していたら――。  まだ離婚していないのに浮かんだ考えを打ち消した。自分には子どもがいる。煌には、煌の人生がある。 それに、祖母との関係をまだ話してくれない。 嬉しいと思うほど、知らないことが怖くなった。 「店の話を、続けてもいいですか」 「もちろんです」  煌は古いメモ紙を引き寄せ、数字を書いた。 「三席だけの店を続けるための価格です。一人、一万二千円」 「……一万二千円」  糀は紙の数字を呆然と見つめた。考えていた三千八百円の、三倍以上だ。 「一万二千円なんて、誰も来ません」 「三席だからです。仕込みに一日。営業は三席。掃除も仕入れも片付けも一人。三千八百円では利益が出ません」  煌は開業費用の返済額を書き足した。
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第32話 糀さん、分かりますか

 それから二週間、糀は保健所へ通い、営業許可の手順を確かめ、仕入れ先から見積もりを取り寄せた。  煌に一万二千円と言われても、糀が開きたかったのは、気軽に入れる普通の店だった。毎日来てもらえる値段で、昔から作ってきた料理を出したかった。  糀は厨房の作業台に事業計画を広げ、コース料金の欄へ「三千八百円」と書いた。これなら、特別な日でなくても来てもらえる。  けれど、三席で営業した一か月分の売上から食材費、光熱費、開業資金の返済を引くと、何度計算しても足りなかった。  食材の質は落としたくない。仕込みの手間も減らしたくない。最後に削れるのは、自分の給料だけだった。  糀は「自分の給料」の欄に、ゼロと書いた。  その数字を見た瞬間、手が止まった。  八年間、家族のためだからと、自分の料理にも働いた時間にも値段をつけなかった。安くすれば客は来るかもしれない。けれど、また自分だけが無料で働くことになる。  それは普通の店ではない。家でしてきたことを、店でも続けるだけだ。  糀はゼロの上に一本線を引いた。  スマートフォンを取り、煌へメッセージを送る。 《一人二万円のお店へ、行きたいです。まだ間に合いますか》  返事はすぐに届いた。 《はい。今夜、迎えに行きます》  その日の夜、糀は煌と並んで、表通りから少し入った店の前に立っていた。  一人二万円の発酵料理店。  初めて聞いた時は、値段だけで頭が止まった。  けれど目の前に立つと、ただ高いだけの店ではないと分かった。  暖簾は小さく、店名も控えめだった。  糀が暖簾の前で足を止めると、煌が横顔をのぞきこんだ。 「緊張していますか」 「少しだけ」  煌はネクタイの結び目に一度触れた。 「私もです」 「神楽坂さんが?」 「仕事の会食なら、しません。今夜はあなたと来ていますから」  返事ができない糀の前で、煌は扉を開いた。その手が糀の背へ添えられ、コート越しにも温かさが分かった。 「行きましょう」  靴を預かる女性の声。磨かれた木の床。器を置く音まで静かだ。  案内されたのは、白木のテーブルが一つだけ置かれた、二人用の小さな個室だった。  向かい合うと、食事をしに来たみたいで落ち着かなかった。  水を置いた
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第33話 二口目を食べない人

 一瞬、何を答えればいいのか分からなかった。  まだ口にもしていない。工程の説明も聞いていない。 けれど、煌の目にあるのは、試すような疑いではなかった。  糀なら分かると、疑ってもいない目だった。 落ち着いて。  いつもどおり、料理を見ればいい。 糀はすぐには答えず、椀へ顔を近づけた。表面を見て、湯気を一度吸い込む。 「豆乳は煮立てずに温めて、白味噌は火を止めてから溶いていますか」  女性が目を見開いた。 「まだ召し上がっていないのに、どうして」 「表面に膜も分離もありません。それに、白味噌の香りが湯気に残っています。最初から一緒に煮た香りではないと思いました」  煌が店員へ言った。 「彼女は料理人です。工程をそのまま説明してください」  女性は、確かめるようにもう一度糀を見た。 「この椀の工程を、口にする前に当てたお客様は初めてです」  煌は少しも驚かなかった。 「やはり、あなたは私が見込んだ料理人です」  糀は思わず背筋を伸ばした。  妻でも、母親でもない。料理人として、この席へ連れてこられたのだ。  そのことが、二万円という値段より先に、糀を支えた。 女性は糀へ一礼した。 「失礼いたしました」  その声から、客を喜ばせるための柔らかさが消えた。代わりに、同じ料理に関わる人へ向ける、真剣な響きが生まれた。 「おっしゃるとおりです。豆乳は直火にかけず、湯煎でゆっくり温めています。火から外して白味噌を溶き、二度漉してから蕪と合わせております」  おいしい。  そう思った。  塩はやわらかく、舌に残る甘みもきれいだった。  器も、量も、出す温度もよかった。  けれど糀なら、最後にほんの少しだけ酸を足す。  甘さで終わらせず、次の皿を待てる味にする。  二皿目は、麹で締めた魚だった。  火入れは完璧だった。  でも、皮の近くの風味が少し弱い。  古い梅酢を使えば、もっと魚の脂がはっきりする。  糀は箸を置いた。  三皿目の野菜も、手は込んでいた。  ぬかの香りをきれいに抜いて、苦みだけを残している。  けれど、糀ならもう少しだけ米の甘みを戻す。  その方が、発酵が苦手な人でも箸を伸ばせる。  値段を聞いた時は、ただ怖かった。  けれど食べているうちに、怖さの形が変わっていく。  高いから
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第34話 あなたの料理なら、食べられる

「食べられる料理はほとんどありません」 その一言の意味を、糀はすぐには飲みこめなかった。「偏食、ということですか」「そうかもしれません」 煌は、空にならない皿を見た。「医師にも相談しました。検査で大きな異常はないと言われました。心因性なのかもしれませんが、はっきりとは分かりません」 淡々とした声だった。 けれど、何でもない話ではない。「いつからですか」「子どもの頃からです」「何か、きっかけがあったんですか」 煌は答えなかった。 ナプキンを握る指だけが、さっきより強く曲がった。「それを話せば、あなたは、私が店を支援する理由まで疑うでしょう」 何もなかった人の顔ではなかった。 それでも、これ以上は聞くなという声だった。「食べたいと思わないんですか」「思う時もあります」「でも、食べられない」「ええ」「でも、澄乃で出した時は全部食べていました」 瀬川家で誰にも手をつけられなかった、あの最後の晩ご飯を。「あなたの料理は、食べられました」 甘い言葉ではない。 もっと切実な事実のように聞こえた。 誰にも食べられなかった料理。 捨てられた弁当。 いらないと言われたご飯。 その全部の先で、この人だけが食べた。「どうしてですか」「分かりません」 煌はそこで、少しだけ言葉を探した。「ただ、以前にもありました」「以前?」「澄江さんの料理は、食べられました」 祖母の名前が出た瞬間、糀は顔を上げた。 祖母である澄江。 そしてその店の澄乃。 この人は、また祖母のことを知っている。 糀の知らない祖母の顔を、当たり前のように持っている。「神楽坂さんは、祖母とどこで」「今は、まだ話せません」 言い切ったあと、煌は糀から目を外した。平然としているように見せても、口元には力が入っていた。*** 食事を終えて澄乃へ戻ったあと、糀は翌日の仕込みを始めた。「神楽坂さん。一万二千円で、やってみます」 煌の目が糀の顔へ戻った。「三席を守って、借りたお金も返します」「ええ。そのつもりで、客を連れてきます」 怖さが消えたわけではない。それでも、二人で店を開く準備を始めるのだと思うと、糀は鍋の火をつける手に力を込められた。 鍋を火にかけた時、カウンターの端に置いたスマートフォンが鳴った。 糀ごよみの更新通知だった。 
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第35話 こんな茶色い料理、人に見せたくないでしょう?

 翌朝、瀬川家の玄関前には、段ボール二つと布団袋が出されていた。  段ボールの口から、見覚えのあるエプロンと弁当箱、蒼太が小さい頃に使っていた毛布が見えた。  糀は毛布を箱の中へ戻した。家の窓は閉まっている。蒼太の姿もない。 「人の荷物を、何だと思っているんでしょうね」  隣で秘書が足を止めた。いつもは表情を崩さない人が、閉まった玄関をにらんでいる。 「八年も暮らした方に、顔も見せずに、この扱いですか」  秘書は膝を折り、箱の口を閉じた。 「社長があれほど大切にしていらっしゃる方を、こんなふうに……」 「大切に、ですか」 「ご本人の前では叱られますが、そう申し上げて差し支えないと思います」  大切にされている。そう聞くと嬉しいのに、どう受け止めればいいのか分からなかった。  祖母との約束だけではないと、煌は言った。では、糀自身の何を、そんなに大切に思ってくれているのだろう。  秘書は段ボールの底を両手で支え、車へ運んだ。  荷物を積み終えると、修司からメッセージが届いた。 《本気であの店を開けるつもりなのか? まあ、試食くらいはしてやるよ》  糀は車の中で返信した。 《有料です。一人一万二千円です》 《はいはい。美咲と二人で行くから、ちゃんと用意しとけ》  糀は、試食営業の日と時間を伝えた。  料理を出すなら、ほかの客と同じ値段を払ってもらう。 ***  数日後の夜、糀は澄乃にいた。  営業許可は下りたが、正式な開店は一か月後だ。今日は有料の試食会で、接客も確かめる。  修司たち二人と、店のページから予約した女性一人を迎える。  煌は仕事のあとに寄ると言っていた。糀は三人分の膳を確かめ、暖簾を出した。  最初に来たのは、白髪をきれいにまとめた女性だった。 「予約の久我原です。少し早く着きました」 「お待ちしておりました」  女性を端の席へ案内したところで、戸が乱暴に開いた。 「まだ潰れてなかったか」 「やだ、修司さん。そんなに言ったら可哀そう。さすがに開店前から潰れないでしょう」  美咲が笑いながら修司に言った。  修司が、前に倒した椅子を引いた。美咲も隣へ座り、品書きをつまみ上げる。 「本日は、お食事だけでお願いします」  糀は二人の前へ品書きを置き直した。 「一名様、一万二千円です」 「無
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第36話 豚に真珠ですね

 美咲の画面には、食べる前に撮った五品の写真が映っていた。 「紹介してあげるんだから、むしろ感謝してほしいくらいよ」 「紹介は頼んでいません」  糀は美咲を見た。糀ごよみも、家での居場所も、母親としての立場も奪われた。これ以上、美咲から何も奪われたくなかった。  今日は、正式開店の前に料理と接客を確かめるための試食会だった。せっかく予約して来てくれた久我原に、落ち着いて料理を楽しんでもらいたかった。それなのに修司たちは、糀を侮辱するために、客の時間まで台無しにしている。 「お食事の代金をお願いします」  糀が二人へ伝票を出すと、修司はそれを裏返した。 「何だ、これ」 「お二人で、二万四千円です」 「本気で取るつもりだったのか。嫁の飯に金を払う馬鹿がいるかよ」 「予約の時にも、召し上がる前にも、お伝えしました」 「だから、食って評価してやっただろ。客に出せるもんじゃないって」  修司は空の椀を、糀の方へ押した。 「授業料をもらいたいくらいだ」 「そうよ。十万人に宣伝してあげるんだから、無料でしょう。お金まで取るなら、接客のことも書かないとね」  美咲が笑った。糀は、店のページについた星一つのレビューを思い出した。 「評価を頼んだのではありません。お食事の代金です」 「ああ、もう面倒くさい。余ってる分、包めよ。母さんの明日の飯にするから」 「お持ち帰りは承っていません」 「売れ残るだけだろ。捨てるものでまで金を取るなよ」 「お断りします」  煌は仕事のあとに来ると言っていた。まだだろうか。  来てほしい。  そう思った自分に、糀は戸惑った。  この店は自分で守ると決めたのに、修司を止めてくれる人として、いつの間にか煌を待っている。  それでも、糀が店主だった。久我原の食事を守るために、ここで引くわけにはいかない。  修司の顔から笑いが消えた。 「家から追い出された女が、何を気取ってる。誰のおかげで八年も飯が食えたと思ってるんだ」  糀は伝票を持ち直した。  食材を買う金も、投稿で得た収益も家へ入れた。毎日料理をした。その相手へ、今も食べさせてもらった礼をしろと言うのか。 「あなたたちの食事代を、私が負担することは――」 「子どもにもいらないって言われた飯なのよ」  美咲が遮った。 「お金を取れると思う方
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第37話 二万四千円、頂戴しました

「その手を離してください」  戸口から声がした。  修司が振り返るより先に、煌が久我原の襟をつかんでいる手首を押さえた。 「痛えな。離せ!」 「先に、あなたが離してください」  煌の指に力が入る。修司は顔をゆがめ、久我原の襟から手を離した。  煌はすぐに久我原の前へ立った。 「お怪我は」 「ありません」  久我原は乱れた襟を直し、カウンターへ名刺を置いた。  食文化季刊誌『食卓の手帖』編集長、久我原佐和。  糀もその名を知っていた。祖母の本棚に、古い『食卓の手帖』が何冊も残っていたからだ。  美咲の目が名刺に釘づけになった。 「……『食卓の手帖』の編集長?」  美咲はスマートフォンの投稿画面を閉じた。口元だけで笑おうとして、失敗した。 「私、糀ごよみをやっているんです。十万人のフォロワーがいて。よかったら、私の料理も」 「結構です」  差し出しかけたスマートフォンが止まった。 「作り手を目の前で踏みにじる方に、うちの誌面で料理を語っていただくつもりはありません」  美咲の顔が赤くなった。  糀は名刺を両手で受け取った。知らない客にも、自分の料理が笑われる。そう覚悟していたのに、この人は箸を止めてまで怒ってくれた。 「ありがとうございます」  糀が頭を下げると、修司が椅子を蹴るように立った。 「行くぞ。こんな店、二度と来るか」  煌は空の椀に押し込まれた伝票を見た。 「召し上がったなら、お支払いを」 「うるさい。夫婦のことだ」  煌は丸められた伝票を取り出し、金額を確かめた。 「二名分、二万四千円です」  美咲が彼へ詰め寄る。 「この人に恥をかかされたんです。こんな接客で、お金なんか取れるわけないでしょう!」 「取れます」  糀は自分で会計のトレーを出した。 「予約の時にも、食べる前にも料金はお伝えしました。無料にはしません」 「払わねえよ。文句があるなら、家に取りに来い」 「ここで、お支払いください」  修司がトレーを払おうとした。煌がその手首を掴む。 「彼女に、あなた方の食事代を出させるつもりはありません」  修司の手が下がると、煌はすぐに離した。 「警察へ連絡を」  煌が秘書へ告げた。 「料金を知らせたうえで召し上がり、支払いを拒んでいます。店での対応が難しいと伝えてください」
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第38話 ただし、澄乃を煌くんに任せてはいけません

「この店を、次号で取材させていただけますか」  久我原の言葉に、糀はすぐ返事ができなかった。  料理を認めてもらえたことは嬉しい。けれど、取材となると怖かった。  糀ごよみも、最初は自分の料理を見てもらいたくて始めた。  大切に育ててきたのに、今は美咲が自分のもののように使っている。  澄乃まで、また誰かに取られたら。 「ありがたいです。でも、まだ……」 「料理に?」 「料理もですし、店をやっていけるのかも分かりません」  糀は、そこで言葉を止めた。 「ほかにもありますね」  久我原に言われ、糀は数日前の朝を思い出した。  瀬川家の玄関前に出されていた、段ボール二つと布団袋。  秘書が回収してくれたが、八年暮らした家では邪魔なものだった。 「私の料理を載せていたアカウントを、夫とあの人に取られました」 「それで、店まで人に知られるのが怖いんですね」 「はい。自分の名前で作ったものでも、取られるんだって分かりましたから」  久我原は、少し考えてから言った。 「料理には、もっと自信を持っていいと思います。ただ、常連を作るという点では、今の澄乃には足りないものがあるかもしれません」  認めてもらえたと思った直後で、糀は聞き返した。 「足りないものって、何ですか」 「一度食べて驚くだけでは、客は続きません。またこの席に座りたいと思う理由が必要です」 「また来たいと思う理由……」 「それが何かは、私もまだ分かりません」  久我原は店内を見回した。 「ですから、取材は急ぎません。まずはSNSで、料理と三席だけを少しずつ紹介するのはどうですか」 「SNS、ですか」 「店のページを作っただけでは、まだ届かない人もいます。でも、最初から店のすべてを見せる必要もないでしょう」 「どうして、そこまでしてくださるんですか」 「応援したいんです。いい店ですから」 「でも、それだけで?」 「私にも、澄乃には思い入れがあります。昔、取材を申し込んで、断られたんです」 「祖母が断ったんですか」 「ええ。だから今度こそ、この店を残したい。それに、こういう店が私の雑誌にも必要なんです。派手な新店ばかりでは、読者は飽きます。本当にまた来たい店を、雑誌も一緒に育てていきたいんです」  取材は怖い。でも、SNSからなら始められるかもしれな
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第39話 幻の七皿と、彼の秘密

《ただし、澄乃を煌くんに任せてはいけません》  糀は、もう一度その一行を読んだ。 「どういうことですか」  煌は、すぐには答えなかった。  久我原が便箋を確かめた。 「手紙に書かれているのは、そこまでです」 「理由は?」  糀が尋ねると、久我原は首を横に振った。 「私も聞いていません。ただ、澄江さんは『澄乃七献』のことを気にかけていました」 「すみのしちこん?」 「『幻の七皿』とも呼ばれています。澄江さんが完成を目指していた、七つの料理です」  祖母の店で育ったのに、糀はその名を聞いたことがなかった。味を託すというのは、その七皿のことだろうか。  久我原は、煌へ目を向けた。 「神楽坂さんは、この警告の理由を聞いていますか」  煌は便箋の文字を確かめ、眉を寄せた。 「いいえ。私にも、理由は話されていません」  糀は煌へ向き直った。 「祖母とは、いつからのお付き合いだったんですか」  煌は湯飲みに手をかけたが、持ち上げなかった。 「昔の話です」 「私と、どこかで会ったことがありますか」  糀が重ねて尋ねると、煌は口を開きかけ、一度唇を結んだ。 「……ありません」  以前、車の中で尋ねた時と同じ答えだった。 「では、どうして祖母が、あなたに味を託したんですか」  煌の指が湯飲みから離れた。 「それを話すには、私自身のことから話さなければなりません」  糀は便箋を持つ手に力を入れた。 「聞かせてください。私の祖母のことでもあります」  煌は糀を見たが、声を出すまでに間があった。 「……まだ、その話をする覚悟がありません」  いつもの迷いのない言い方ではなかった。糀は次の問いを飲み込んだ。けれど、納得したわけではない。  糀は煌へ尋ねた。 「私に黙って、この店で何かするつもりですか」 「しません」  今度は、煌がすぐに答えた。 「澄乃はあなたの店です。店に関することを、あなたの許可なく進めるつもりはありません」 「本当ですか」  糀が念を押すと、煌は頷いた。 「約束します」  久我原は二人を見比べた。 「味なのかしら。それとも、それ以外?」 「何がですか」  糀が聞き返すと、久我原は煌へ顔を向けた。 「あなたが澄乃の味以外に、これほど執着するのは初めて見ました」  煌はすぐには言い返さな
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第40話 完全に胃袋を掴まれていますね

「私も、一緒にですか」  糀は、煌が見ている椅子を見た。  料理を出す側なら、何をすればいいか分かる。けれど、隣へ座るように言われると、急に落ち着かなくなった。 「はい。まだ食べていませんよね」 「私は、片づけが終わってからでも」 「糀さんの分も、今作ってください」  煌は隣の椅子の背に手を添えた。糀があとで一人で食べる、という返事では済ませてくれないらしい。  そんなに一緒に食べたいのだろうか。糀は椅子から目をそらした。 「お腹が空いていたんですか」 「ずっと、いい匂いがしていたので」  煌は真顔で答えた。久我原が声を立てて笑い、糀もつられて笑ってしまった。 「完全に胃袋を掴まれていますね」  久我原が煌へ言うと、返事はすぐだった。 「そうです」  糀は封筒を落としそうになり、持ち直した。  否定もしない。冗談にして逃げる様子もない。祖母との過去にはあんなに言葉を選んでいた人が、今は糀を見ている。 「だから、ここへ来るんです」  煌が言うと、秘書は手帳を閉じた。 「それでは、私は車で待っております。社長、お帰りには明日の予定を確認させてください」 「わかりました」  秘書は糀と久我原に会釈をして、店を出た。 「私も、そろそろ失礼します。ごちそうさまでした」  久我原も食事を終えていた。会計を済ませると、糀へ向き直った。 「SNSの件は、改めてご連絡しますね」 「ありがとうございます」  久我原を見送って戸を閉めると、糀は残った煌と目が合った。  二人きりになるのは初めてではない。それなのに、一緒に食べようと誘われたあとなので、目を合わせるだけで意識してしまう。 「少し待っていてくださいね」  糀は封筒をしまい、厨房へ戻った。  まかない用のご飯は、まだ温かい。小鍋でだしを温め、大根に火が通ったところで味噌を溶いた。卵を溶く手にも、いつもより力が入る。 「何を作っているんですか」  煌がカウンター越しに尋ねた。 「卵焼きです。甘酒を少し入れます」 「甘酒ですか」  煌が卵焼き器へ目を落とした。何かを思い出すように、目元が少し和らいだ。 「祖母が、寒い朝によく焼いてくれたんです。風邪をひかないように、ちゃんと食べていきなさいって。砂糖の代わりに入れると、ほんのり甘くなるんですよ」  学校へ行く前
last updateآخر تحديث : 2026-09-09
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