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79 فصول

第41話 新しい名前は、澄乃糀

「何をするつもりなの」  糀が投稿を開くと、もうコメントが増え始めていた。 《新しいお店ですか?》 《美咲さんのお料理、楽しみ》  さっきまで、ここで出した料理をけなし、一円も払いたくないと言っていた。それなのに今度は、澄乃を自分の店のように紹介している。  前には祖母の店へ勝手に入り、今日は糀の料理を食べ、それでも足りずに、店の名前まで自分のものにするなんて。  どこまで図々しいのだろう。  隣で煌が箸を置いた。差し出した画面を見ると、食べていた時の柔らかさが顔から消えた。 「私が止めます」 「でも、そんな」 「これも約束ですから」  糀は投稿とコメントを保存し、煌へ送った。虚偽のレビューにも動いてくれた人だ。祖母の店を守るために、今はその力を借りようと思った。  煌は車で待つ秘書を電話で呼び戻した。 「この投稿を、店の権利を確認した弁護士へ。削除要請と、今後澄乃の名を使わせないための対応を相談します。私が直接話します」  秘書が電話を取り出しながら、顔を上げた。 「社長ご自身で? こうした案件は、いつも担当にお任せになるのに」 「糀さんが作った料理を、あの女の手柄にされるのは我慢できません」  秘書が何か言いたげに糀を見た。  その視線に気づき、糀は頬が熱くなった。煌は料理のことを言っているだけなのに、秘書には別の意味まで聞こえたのだろうか。  秘書は何も言わず、通話をつないだ。  煌は差し出された電話を取った。 「ええ、その投稿です。店主は使用を認めていません」  糀の目の前で、煌が弁護士への説明を始めた。  迷いもせず、必要な相手を呼び、もう話を進めている。  なんて頼もしいのだろう。  糀は、膝の上で握っていた手をほどいた。一人で美咲の投稿を見ていたら、怒りと悔しさで何も考えられなくなっていたかもしれない。煌が隣にいてくれるから、自分がすべきことを考えられる。  なら、自分は何をしよう。  久我原が提案してくれた、料理と三席の紹介が浮かんだ。自分が黙っている間に、美咲の店だと思う人が増えてしまう。  通話を終えた煌へ、糀はスマートフォンを見せた。 「私も、店のアカウントを作ろうかな」 「それはいいですね」 「ここで誰が料理を作っているのか、私から知らせたいんです」 「ええ。あなたの料理だと分
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第42話 雨宿りの一皿

《その偽物のアカウントを、今すぐ削除して》 「まだ何も投稿していないのに……」  糀は登録したばかりの画面を煌へ見せた。  澄乃糀という名前は、今ここで決めた。久我原にも、まだ伝えていない。 「美咲さんへ、この名前を話してはいません」 「私も話していません」  煌はすぐには答えなかった。  いつもなら迷わず答える人が、今は黙って考え込んでいる。  眉を寄せ、店内をゆっくりと見渡す。カウンター、棚、厨房の奥。何かを探すような目だった。  糀もつられて見回したが、見慣れた三席と厨房に変わったものはない。 「神楽坂さん?」 「……まだ、何とも言えません」 「消したほうがいいでしょうか」 「あなたが決めた名前です。消す理由はありません」  糀はもう一度、届いた言葉を読んだ。  美咲に偽物と呼ばれたからといって、自分で選んだ名前を手放したくない。 「消さないことにします」 「ええ」  煌は帰るまで、何度か厨房の奥へ目を向けていた。  何も投稿していないアカウントを、どうして美咲が知っていたのか。その答えは出ないまま、煌と秘書は帰っていった。 ***  翌日の午後、糀は正式開店前の店で仕込みをしていた。  昨日、修司と美咲は一万二千円を笑った。それでも料理はすべて食べ、久我原は取材したいと言ってくれた。  自信がついたと言えば嘘になる。  それでも、次にこの三席へ座る人のために、手を止めたくなかった。  午後三時を過ぎると、雨が強くなった。  鍋には、玉ねぎ麹を入れた根菜の汁物がある。  大根、人参、しめじを昆布だしで煮て、玉ねぎの甘みを重ねた。  隣の網では、甘酒味噌を薄く塗った小さな焼きおにぎりを炙っている。  派手ではない。  けれど、冷えた日に食べたくなる料理だった。  ふと顔を上げると、戸口の軒下に細い人影があった。  二十代後半くらいの女性が、濡れた髪を押さえて立っている。膝のあたりまで雨に濡れ、泣きそうな顔をしていた。  糀は布巾で手を拭き、戸を開けた。 「雨宿りだけでも、どうぞ」  女性は驚いたように顔を上げた。 「すみません。すぐ出ます」 「温かいものがあります。試作でよければ」 「でも、まだ開店前ですよね」 「一人分くらい、多く作りすぎたんです」  本当は二人分あった。  昨
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第43話 あなたの投稿に、救われました

 食べ終えた椀には、汁も残っていなかった。  女性の顔は、店へ入ってきた時より明るかった。 「おいくらですか」 「今日は試作ですから、いただけません」 「それなら、次はお客として来ます」  まだ正式開店前だと伝えると、女性は一か月後の日付をスマートフォンへ入れた。 「今度は予約して、あなたの料理を食べに来ます」 「お待ちしています」  その言葉を口にすると、本当に店を開くのだという実感が湧いた。 「お名前を伺ってもいいですか」 「高森千尋です」 「私は、三浦糀です」  今度は、自分の名前を隠さずに言えた。  千尋は濡れた茶封筒を抱え直した。 「また来ます。本当に、ごちそうさまでした」  糀が戸を開けると、雨は先ほどより弱くなっていた。  千尋が何度も頭を下げ、通りの角へ消えていく。  その姿を見送ったところで、黒い傘が軒下に止まった。  煌だった。  肩を濡らし、少し息を切らしていた。 「遅くなりました」  今夜も来てくれた。  そう思った瞬間、考えるより先に言葉が出た。 「おかえりなさい」  言ってから、糀は自分の口を押さえた。  客にかける言葉ではない。  煌も一瞬目を見開いた。  けれど、すぐに目元が優しく下がり、口元に笑みが広がった。糀が見たこともないほど、柔らかな笑顔だった。  自分のひと言で、こんな顔をしてくれた。  胸がきゅんと鳴った。鼓動が一気に速くなり、頬まで熱くなる。それなのに、煌の笑顔から目をそらせない。  どうしよう。  この人が帰ってきてくれたことが、こんなに嬉しい。 「もう一度、言っていただけますか」 「え?」 「聞き間違いではないなら、もう一度」  そんなに嬉しそうな顔で頼まれたら、断れるはずがない。  糀は小さく息を吸い、今度は煌だけに向けて言った。 「……おかえりなさい」  煌は、嬉しそうに笑った。 「ただいま戻りました」  煌は、その言葉を確かめるように小さく頷いた。 「また、『ただいま』と言えて、嬉しいです」 「……また?」  前にも、「ただいま」と言ったことがあったのだろうか。
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第44話 今の私には、あなたが必要です

「どういう意味ですか」  糀が尋ねると、煌は店の三席を見渡した。 「子どもの頃、祖父に連れられて、ここへ通っていたんです」 「祖母が、料理を出していたんですか」 「ええ。食事を取れなくなっていた私に、何も聞かず温かいものを作ってくれました」  何度目かに来た時、祖母が「おかえり」と迎えた。  その時、煌は初めて「ただいま」と答えたという。 「だから、この店は私にとって、帰ってきてもいい場所でした」  それは、糀の知らない祖母の姿だった。  家族のように煌を迎えていたのなら、自分も会っていたのではないだろうか。  けれど、それを尋ねる前に、煌が空の椀へ目を向けた。 「先ほどの方は、お客様ですか」 「雨宿りをしていただけです。でも、昔の糀ごよみを読んでくれていた方でした」  糀は、千尋が味噌汁を作るようになったことや、投稿に救われたと言ってくれたことを話した。 「事情を聞く前に店へ入れて、料理とお茶を出したんですね」 「泣きそうな顔をしていたので、放っておけなくて」  煌は少し黙り、濡れた上着を握った。 「澄江さんも、同じでした」 「え?」 「あの日の私には、澄江さんが必要でした」  静かな声だった。  糀が知らない、幼い頃の煌がそこにいるように聞こえた。  煌は空の椀を見た。 「私にも、あの方と同じものを作ってください」  一人分だけ残っている。  本当は、煌が来るかもしれないと思って用意した一人分だった。  帰りを待っているようで気恥ずかしかったのに、今は残しておいてよかったと思う。  煌のための椀へ、自分の手で温かい汁物をよそえることが嬉しかった。 「すぐに温めますね」  糀は鍋へ火を入れた。  根菜の汁物を温め、甘酒味噌を塗った焼きおにぎりをもう一度炙る。  煌の前へ置くと、すぐに箸が伸びた。  汁物を飲み、焼きおにぎりをひと口食べる。いつもと同じように、箸は止まらなかった。 「祖母の味と、同じですか」  煌は椀を置いた。 「いいえ。違います」  糀の胸が少し沈んだ。 「澄江さんの料理とは違います。これは、あなたの味です」 「でも、食べられる」 「ええ。美味しいです」  その答えに、糀はほっとした。  食べ終える頃には、煌の濡れた髪から雫が落ちていた。  糀は戸棚から乾いた手拭
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第45話 ママ、怒ってる?

《話したいことがある》  蒼太から届いた文字を、糀は何度も読み返した。  すぐに返したい。  でも、何と書けばいいのか分からない。  会いたかった。  声を聞きたかった。  運動会で言われたことを、なかったことにもできなかった。  糀は短く打った。 《澄乃は、ママのお店だよ。おばあちゃんが残してくれた店を直したの》  既読はすぐについた。 《やっぱり》  それだけ届いて、しばらく返事が来なかった。 《どうして澄乃を知ったの?》  また、既読だけがつく。  聞いてはいけなかっただろうか。  修司に見つかったのだろうか。  糀がスマートフォンを握ったまま待っていると、ようやく画面が動いた。 《美咲さんが、糀ごよみで見てた》 《こんどから自分のお店になるって言ってた》  やっぱり美咲は、投稿だけで終わらせるつもりではなかった。 《澄乃は、美咲さんのお店じゃないよ》  糀が返すと、蒼太からすぐに答えが来た。 《でもパパも、そうなるって》  祖母の店を売ると言い、条件書へ勝手に入れた修司。  煌が止めなければ、あの場で糀に署名させるつもりだった。  蒼太の前でも、自分たちの店になると話しているのだ。 《ママは、澄乃を渡さないよ》  七歳の子どもに、権利の話をしても分からない。  けれど、これだけは曖昧にしたくなかった。 《パパには言わないで》  今度は蒼太からそう届いた。 《ママに言うなって言われた》 《またけんかになるからって》  修司は、自分たちが悪いとは言わない。  糀が知れば揉めるから、黙っていろと蒼太に教えている。  運動会の日と同じだった。  美咲を母親と呼んでも、糀をお手伝いさんと呼んでも、大人は誰も止めなかった。 《教えてくれてありがとう。蒼太は悪くないよ》  送ってから、少し迷った。  全部、悪くないと言ってしまっていいのだろうか。  すると、蒼太から先に届いた。 《ママ、まだ怒ってる?》  糀の指が止まった。  怒っていない、と書けば簡単だった。  そう書けば、蒼太は安心する。  でも、運動会で受けた傷まで隠したら、また同じことになる。 《お手伝いさんって言われたことは、すごく悲しかったよ》  送信したあと、胸が苦しくなった。  責めたいわけではない。  た
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第46話 糀ちゃんは厨房で料理を作ればいいわ

 翌日の午前十時。  澄乃糀《すみのか》の前に、白いワゴン車が止まった。  降りてきたのは、美咲と修司だけではない。  カメラを持った男性と、照明や箱を抱えた女性も一緒だった。  蒼太が教えてくれなければ、何も知らないまま店へ入れられていたかもしれない。  美咲は店先に立つ糀を見ると、少しだけ眉を動かした。 「どうしてここにいるの?」  美咲は、本当に不思議そうだった。 「私の店ですから」 「今日は撮影するって、修司さんから聞いていない?」 「聞いていません。それに、撮影はさせません」  糀が答えると、カメラの男性が美咲を見た。 「美咲さん。場所の許可は取れていると伺いましたが」 「取れています。身内が少し意地を張っているだけです」  美咲は笑ってごまかし、店へ入ろうとした。  糀は戸口から動かなかった。 「許可していません」 「糀ちゃん、もう告知しているの。今さら困るわ」 「私に関係なく告知したんでしょう」  修司が前へ出た。 「家族で使う店だ。お前だけのものみたいに言うな」 「私たちは、もう家族ではありません」 「家を出たくらいで、他人になったつもりか」 「ここは、瀬川家のものではありません」  糀は看板を見上げた。  澄乃糀。  祖母の名前に、自分の名前を足した店だ。 「少なくとも、あなたたちが勝手に撮影していい場所ではありません」  修司の顔が険しくなった。 「俺は修繕にも金を出した」 「出していません。修繕が必要な時は、いつも私が払いました」  美咲が苛立った声を出した。 「そんな昔の話、今どうでもいいでしょう。私が発信すれば、この古い店にも人が来るのよ」 「人を呼ぶ前に、店主へ許可を取ってください」 「あなたが店主だって、誰が認めたの?」 「この店の鍵を持って、料理をして、毎日管理しているのは私です」  撮影スタッフの女性が、抱えていた照明を車へ戻した。 「撮影場所の所有者か管理者から許可が出ないなら、今日はできません」 「待ってください」  美咲が慌てて女性を止める。 「この人は店主じゃありません。夫と離婚して、勝手にここへ住みついただけです」 「店主は私です」  糀ははっきり言った。 「澄乃糀の管理も、料理も、私がしています。美咲さんへ撮影を依頼したことはありませ
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第47話 《澄乃 店主・美咲》

「糀ちゃんは厨房で料理を作ればいいわ。店主としてお客様の前に立つのは、私だから」  本当に腹が立った。  料理を作るのは糀。名前を出し、人前に立ち、お金を受け取るのは美咲。  この人たちは、瀬川家でしてきたことを、祖母の店でも繰り返すつもりなのだ。 「作りません」  糀が答えると、美咲の笑顔が消えた。 「何を言ってるの? もう予約金も受け取っているのよ」 「受け取ったのは美咲さんです。返金してください」 「十人分よ。今さら全員に返せるわけないでしょう」  どうして返せないのだろう。  予約金を受け取ったのは、つい最近のはずだ。 「お金はどこにあるんですか」 「宣伝にも準備にもお金がかかってるの。あなたには分からないでしょうけど」  美咲は修司が運んできた箱を開け、真新しい木札を取り出した。 《澄乃 店主・美咲》  祖母の店名の下に、美咲の名前が彫られている。 「これを入口に掛けて撮るの。老舗らしくて素敵でしょう?」  美咲が戸口へ木札を立てかけた。  糀はすぐに外し、店の前から遠ざけようとした。 「勝手に外さないで」 「ここに、美咲さんの名前は掛けさせません」  修司が木札の反対側をつかんだ。 「返せ」 「私の店から出て行って!」  二人で引くと、木札がぎしりと鳴った。角が糀の手のひらへ食い込み、痛んだ。それでも離さなかった。 「やめてください。壊れます」  撮影スタッフの男性が間へ入り、修司の手から木札を取り上げた。美咲の箱へ戻し、蓋を閉める。 「撮影場所の許可が取れていない以上、これも設置できません」  修司が美咲をかばうように前へ出た。 「お前が作れば、誰も損しない」 「私は一円も受け取っていません」 「家族の仕事だと思えばいいだろ」 「もう家族ではありません」 「こんな騒ぎにしたら、蒼太まで恥をかくぞ」  また、蒼太を持ち出す。  自分たちの要求を通すためなら、息子まで使うのか。 「蒼太を脅しに使わないでください」 「脅しじゃない。母親なら、あいつの立場も考えろ」 「母親だからこそ、嘘をついた人の尻拭いをする姿は見せたくありません」  修司が黙った。  美咲が鼻で笑った。 「料理以外、何もできないくせに。それくらい協力したら?」 「その料理を、美咲さんは三十万円で勝手に売っ
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第48話 本当の店主である糀が、偽物にされていた

 美咲が呼び止めたが、男性はもう振り返らなかった。  スタッフを乗せたワゴン車が走り去る。 「糀ちゃん、なんてことするの!」  美咲が血相を変えて、糀へ詰め寄った。 「あなたが余計なことを騒がなければ、全部うまくいったのに。私の仕事までなくなるかもしれないのよ。少しは人のことを考えたら?」  他人の店と料理を勝手に売った美咲が、それを言うのか。 「嘘をついて依頼したからでしょう」  糀は自分のスマートフォンを開いた。  澄乃糀の公式アカウントに、新しい文章を打つ。 《現在、旧「糀ごよみ」で告知されている澄乃の特別コースに、澄乃糀は関与していません》 《当店では予約を受けておらず、予約金も受領していません》 「何をしてるの」  美咲が画面をのぞき込んだ。 「投稿しないで。こっちが詐欺みたいに見えるでしょう」 「みたいじゃなくて、詐欺でしょう。私の許可なく、私の店と料理を売って、お金を受け取ったんですから」  糀は証拠として、美咲の販売画面も保存した。  それから、自分の言葉で書いた告知を投稿した。  神楽坂さんに、まず話したいと思った。  助けてほしいのではない。  自分でここまでできたことを、あの人に聞いてほしかった。  そう思ったことに、糀は少し戸惑った。  予約した人を驚かせるかもしれない。  けれど、当日になって料理が出せないと分かるより、今知らせる方がいい。  払ったお金を返すのは、受け取った美咲の役目だ。  数分もしないうちに、公式アカウントへメッセージが届いた。 《先ほど、糀ごよみから三万円を支払った者です。澄乃糀さんで食事ができるわけではないのですか》  やはり予約した人は、美咲の料理ではなく、この店で出される料理にお金を払っている。 「返事をしないで」  美咲が糀のスマートフォンへ手を伸ばした。  糀は一歩下がり、画面を守った。 《当店で実施する企画ではありません。ご来店はお控えいただき、支払い先へ返金を求めてください》  予約した人に落ち度はない。  だからこそ、嘘をついたまま来週まで待つことはできなかった。  もう、黙って奪われるのを待たない。 「営業妨害だぞ」  修司が言った。 「正式な場で話してください。店の前で脅されても、取り消しません」  美咲は自分のスマートフォ
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第49話 あと七日で、最愛の人と本当の家族になります

 翌日の午後、糀は澄乃糀のカウンターに書類を並べた。  美咲が無断で売った三万円の特別コース。撮影会社へ「すべて許可済み」と虚偽の説明をしたこと。祖母の店を自分のものとして紹介した投稿。澄乃糀を偽アカウントと名指しした投稿。そして、蒼太のために考えた塩麹入り鶏つくねを含む、購入特典の「発酵レシピ十選」。  店の権利を確認した弁護士が、一枚ずつ目を通した。  糀のスマートフォンが震えた。  澄乃糀の公式アカウントを開くと、見慣れない警告が表示された。 《第三者へのなりすましの疑いがあるため、このアカウントの一部機能を制限しています》 「なにこれ。私が、私になりすましていることになっているんですか」  悔しかった。本物は私なのに。  投稿ボタンが薄い色に変わり、押しても反応しない。昨日の告知も、新しい客への返信もできなくなっていた。  弁護士が画面を確認した。 「旧アカウントの投稿と、『通報した』というコメントを記録します。運営会社へ異議を申し立てましょう」 「戻るまで、どのくらいかかりますか」 「すぐとは約束できません」  美咲は十万人のアカウントから嘘を発信できる。糀は自分の店の名前で、訂正することさえできない。  糀は唇を噛んだ。 「では、今すぐ申し立ててください。それと、無断販売をやめるよう、美咲さんへ私の名前で通知してください」  弁護士はうなずき、その場で書面を作り始めた。 「無断販売とレシピの件は、差し止めと返金を求めます。ただ、離婚とは分けて進めた方がいいでしょう」 「分けられるんですか」 「はい。アカウントが戻るまで、離婚できないわけではありません」  修司はこれまで、離婚届、蒼太との面会、糀ごよみ、祖母の店を一つにまとめ、署名を迫ってきた。  弁護士と一つずつ話すうちに、今度はこちらから出す条件が決まっていった。  慰謝料を求め、祖母の店に修司の権利がないことを確認する。糀ごよみは離婚と分け、蒼太との面会を交換条件にさせない。  けれど、親権の話になると、糀はすぐには口を開けなかった。 「親権は、私が求めます」 「分かりました」  弁護士は簡単に勝てるとは言わなかった。 「現在、蒼太さんは今の家から学校へ通い、修司さん側で暮らしています。お子さん自身の希望も確認されます」  自分が一緒に暮らし
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第50話 《愛し合う二人を邪魔するなんて、ひどい》

 あと七日で、修司と美咲が結婚するという。  糀は画面から顔を上げた。 「私がいつ、離婚したくないと言ったんですか」  弁護士が隣にいるのに、声が大きくなった。  別れたいと言ったのは糀だ。店や蒼太を条件にして、話を進めさせなかったのは修司だった。  それなのに、美咲は結婚を邪魔されてきた被害者の顔で、日付まで公表している。 「私を追い出しておいて、今度は私が二人を引き離していることにするんですね」  糀は、婚姻届の写真が載った画面を弁護士へ向けた。  弁護士は画面を読み、眉をひそめた。 「糀さんが離婚を拒んでいる、という事実はありません。ここまで断定して書かれているなら、訂正を求める材料になります」 「この投稿も、取り消して訂正するよう求めてください。私が離婚を拒んでいるというのも、澄乃が二人の店だというのも、嘘です」  弁護士は投稿を保存し、修司側へ送る文面に糀の要求を加えた。  美咲が決めた七日間のために、店も、蒼太との暮らしも諦めるつもりはなかった。 ***  二日後、糀は弁護士事務所で修司と向かい合った。  修司の隣には代理人がいる。美咲は部屋へ入れず、廊下の椅子で待っていた。  修司は挨拶もせず、スマートフォンを机へ置いた。  旧「糀ごよみ」の結婚予告には、何百もの反応がついている。 《愛し合う二人を邪魔するなんて、ひどい》 《お店まで奪おうとするなんて怖いです》 《早く離婚してあげてください》  知らない人の言葉より、修司が得意そうに見せてくることが悔しかった。八年間、誰が家族の食事と暮らしを支えてきたのか、修司だけは知っているはずだった。  糀の公式アカウントは、まだ利用を制限されている。嘘だと訂正することもできない。 「よく見ろ。これだけ言われても、まだ自分が正しいつもりか」 「私が返事をできないようにしてから、嘘だけを広めたんですね」 「負け惜しみはいい。世間は美咲の味方だ。お前の言うことなんか、誰が信じるんだよ」  修司はスマートフォンを伏せた。 「あと五日で入籍するって、もう知らせてるんだ。今さら延ばせないだろ。俺に恥をかかせるなよ」 「そんなこと、私の知ったことではありません」  修司が眉をつり上げた。 「あなたたちが勝
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