All Chapters of 地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。: Chapter 11 - Chapter 20

58 Chapters

11話「謎のコラボ?」

 企画会議の議事録が、社内共有フォルダに上がっているのをジョフィが見つけたのは、月曜の午後だった。 「伊依さん、ちょっとこれ見て」  スマホの画面に、議事録のPDFが表示される。伊依は在庫チェックの手を止め、目を通した。 「今話題のジュエリーブランド、Angelusとのコラボレーションを提案いたします」  発言者の欄には、沙織の名前が記されていた。  伊依は数秒、画面を凝視した。聞き間違いかと思い、もう一度読み返す。文字は変わらない。沙織が、Angelusとのコラボを企画会議で発言していた。 「……はい?」  声が思わず漏れた。ジョフィが笑いを含んだ声で続ける。 「議事録によると、結構反応良かったみたいだよ。部長も乗り気だったって」 「なんで」 「知らないよ。でも面白いことになりそう」      数日後、YOR宛に一通のメールが届いた。差出人は伊依の勤める会社の広報部だった。件名は「コラボレーションのご提案」。伊依は思わず苦笑した。自分の勤め先から、自分自身が経営するブランドへの提案が来るという奇妙な構図。  添付されていた企画書を開いた瞬間、伊依の表情が固まった。  タイトルページには、Angelusのロゴを模した稚拙なデザインが貼り付けられている。伊依が丁寧に作り込んだロゴタイプとは似ても似つかない、フォントを適当に組み合わせただけの代物だった。  ページをめくる。コンセプトの欄には、こう書かれていた。 「若い女性に人気の高級ジュエリーブランドとして、当社の新商品ラインとコラボし、ノベルティグッズとして展開する」  続くページには、想定される商品案が並んでいる。会社のロゴ入りキーホルダー、社名を刻印したストラップ、そして極めつけに、Angelusのモチーフを勝手に流用した安っぽいイラストの入った、ノベルティ用の紙製ブックカバー。 「これ、ノベルティって、無料配布ってこと?」  伊依は思わず声を上げた。 「そうみたい。しかも配布先、駅前のティッシュ配りと同じ扱いになってる」  ジョフィの声にも呆れが滲んでいた。伊依はページをさらにめくった。想定価格の欄
last updateLast Updated : 2026-09-19
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12話「意外な友人」

 帰宅して玄関を開けた瞬間、伊依は靴を脱ぎながら、もう溜息をついていた。 「めんどいな」  誰に言うでもない呟きだった。荘園の広い玄関ホールに、その声が小さく反響する。伊依はコートを脱ぎ、寝室に向かった。姿見の前で背中を向け、シャツを脱ぐ。皮膚の引き攣れた跡が鏡に映る。市販のものより高価な、皮膚シートを丁寧に貼っていく。 「そんなにめんどくさいなら会わなきゃいいのに」  スマホのスピーカーから、ジョフィの声が飛んできた。伊依はシートの端を指で押さえながら答えた。 「そうも言ってられんでしょーよ。唯一の友人だから」 「僕にはわからないなぁ」 「大人の事情だ。分からんでよろしい」  伊依はシートを貼り終えると、クローゼットを開けた。会社で着ているような地味な服とは違う、仕立ての良いネイビーのスーツを取り出す。化粧品も、会社に持っていくものとは別の一式だった。鏡の前で丁寧にファンデーションを重ね、眉を整え、口紅を引く。仕上がった顔は、会社の伊依とはまるで別人だった。 「相変わらず変身早いね」 「慣れてるから」  伊依はスマホを鞄に入れ、玄関を出た。荘園のエントランスで待たせておいたリムジンサービスに乗り込む。運転手は無駄口を叩かない、この地区専属の人間だった。    *  市内の高級会員制バー、その最奥にある個室に通されると、すでに一人の女性がソファに腰掛けていた。年齢は五十代半ばだろうか。上品な着物姿に、控えめな真珠のネックレス。伊依が入ると、女性は軽く手を振った。 「お待たせ」  伊依は向かいのソファに腰を下ろした。 「元気そうね。地下異動を自分から志願したって? やるわね」 「まぁね。好き勝手やらせてもらってる」  伊依は軽く肩をすくめた。ボーイが運んできたグラスに、女性が口をつける。 「Angelusとコラボの話が出た時は面食らったけどね」 「あれは参った」 「まぁうちとしては富裕層向けにコラボするのはありなんだけど」  女性の口調は軽やかだったが、伊依はすぐに首を振った。 「やめて。私
last updateLast Updated : 2026-09-20
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13話「猟犬」

 週刊時報の記者、荒木誠太郎は、編集部の自席でモニターに向かっていた。画面に表示されているのは、ジュエリーブランド「Angelus」の公式サイトだ。ここ半年で急速に知名度を上げたブランドで、海外の富裕層を中心に人気が広がっている。一点数十万から数百万円という価格帯にもかかわらず注文は絶えない。だが、デザイナーの正体だけは公表されていなかった。 「YOR……」  性別も年齢も国籍も分からない。分かっているのは、その名前だけだった。荒木はそこに記者としての嗅覚を刺激されていた。週刊誌の売上は年々落ちている。芸能人のスキャンダルは出尽くし、政治ネタも以前ほど読者の反応がない。だからこそ、正体不明の人気ブランドを追う企画は、久しぶりに編集長の目を輝かせた。 「荒木、これ本当に取れそうなのか」 「調べてみます。絶対何か尻尾は掴めるはずです」  荒木は自信を持って頷いた。      調査は取引記録から始まった。会社登記を調べても、表向きの会社は実態の見えないペーパーカンパニーに近い。代表者の名前も曖昧だった。それでも荒木は手を止めなかった。配送業者、決済代行会社、契約している弁護士事務所。周辺にある情報を一つずつ拾い集める。  注文の発送先を地域ごとに並べ、同じ業者が繰り返し使われていないか確認する。小さな数字の偏りも見逃さない。そうして数週間かけた末、荒木は一つの手がかりに辿り着いた。Angelus の製品が頻繁に発送されている地域が、朝凪市に集中している。 「朝凪市……ここに本拠地があるのか」  地図アプリを開く。航空写真には高級住宅街の榛名地区も映っていた。荒木の勘が、そこに何かあると告げていた。    *  荒木の動きは、伊依の側にも筒抜けだった。 「伊依さん、ちょっとまずいかも」  地下の部屋でパソコンに向かっていた伊依は、ジョフィの声に手を止めた。 「何」 「週刊時報の記者がAngelus の正体を追ってる。かなり本気だよ」 「どこまで掴んでる?」 「配送データから朝凪市が拠点だってところまでは辿り着いてる。まだ榛名地区までは特定できてない。でも時間の問題かも
last updateLast Updated : 2026-09-21
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14話「敵に塩を送る」

 地下の部屋に、ジョフィの声が緊張を帯びて響いた。 「伊依、緊急」 「何」  伊依は在庫のリストから顔を上げた。 「秀一、また営業先でやらかした。しかも今回、レベルが違う」 「どういうこと」 「取引先の役員相手に、契約条件を勝手に変更する約束をしたらしい。しかも書面じゃなくて口頭。会社に持ち帰って稟議を通す前に、先方には確約したことになってる」  伊依は眉をひそめた。営業の初歩を無視した振る舞いだ。 「それ、会社としては通せないやつじゃない」 「通せない。しかも先方、その口約束を前提にもう社内稟議を通しちゃってる。今さら覆すって言ったら大問題だ」 「取引先、どこ」 「北条物産。うちの主要取引先のひとつ。年間契約額、億単位」  伊依は息を吐いた。北条物産といえば、会社にとって上位五社に入る大口取引先だ。そんな相手との信頼関係を、秀一は独断の口約束ひとつで崩しかけている。 「これ、社内でどうなってる?」 「もう役員会に話が上がってる。始末書どころじゃないよ。自主退職を促す方向で調整に入ってる」  ジョフィが社内メールを画面に表示した。人事部長から役員宛の報告書には、今回の件による会社への損害は看過できず、当該社員に自主的な退職を促すことも視野に入れるべきだと記されている。     「どうする? 見捨てる?」  ジョフィが尋ねた。伊依はしばらく黙って画面を見つめた。 「見捨ててもいいんだけど」 「だけど?」 「今回は助けてあげよう」 「は? なんで?」  ジョフィの声に、素直な驚きが混じった。伊依はデスクの上で指を組んだ。 「バカ一号とバカ二号には、私を貶め続けてもらいたいの。そうすることで、社内の私の立場が安定するから」 「……つまり?」 「周囲だって、あの二人のバカさ加減には薄々気づいてるでしょ」 「腹黒っ」 「何とでも言え」  伊依は肩をすくめた。 「マウントも利用させてもらう。それが私のスタイル」  だが、秀一を助けるには北条物産との関係を修復しなければ
last updateLast Updated : 2026-09-22
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15話「見える傷、見えない傷」

 月に一度のこの日は、朝から気分が重かった。伊依はカレンダーのアプリを開き、赤い印のついた日付を見つめた。今日は皮膚の修復治療の日だ。 「憂鬱そうだね」  支度をしながら、伊依はイヤホンに向かって答えた。 「うん。行きたくない」 「でも行かないと」 「分かってる」  鏡の前で背中を確認する。皮膚シートを剥がすと、引き攣れた跡が露わになった。初めてこの傷を見た日から十年以上が経っている。それでも慣れることはない。鏡から目を逸らし、伊依は新しいシートを手に取った。 「毎月これやるの、面倒だよね」 「僕が代わってあげられたらいいんだけどね」 「無理でしょ」 「うん。だから応援だけしてる」  伊依は小さく笑った。    *  病院は都心から少し離れた場所にある専門クリニックだった。志津子が紹介した施設で、一般の患者は入れない完全予約制になっている。治療費はすべて志津子が負担していた。 「毎回悪いね、志津子さんに」 「志津子さんはいいって言ってるじゃん」 「分かってるけど、なんか気まずい」  伊依は車窓へ顔を向けた。厚意に甘えているような気がして、素直に割り切れない。  受付を済ませて診察室へ向かう途中、伊依は何度か足を止めそうになった。治療そのものが怖いわけではない。ただ、毎月ここへ来るたびに、自分の過去と向き合わされるような感覚があった。今日も同じだった。廊下の白い壁を眺めながら、伊依は小さく息を吐いた。  診察室では、主治医の高橋がいつもの穏やかな表情で迎えた。伊依の傷を最初に診た医師であり、事件の直後から身体だけでなく心のケアにも関わってきた人物だ。 「調子はどうですか」 「別に、普通です」 「シートの張り替えは」 「ちゃんとやってます」 「痛みは?」 「特にないです」  高橋は背中を確認しながら、ふと手を止めた。 「最近、眠れてますか」 「普通に眠れてます」 「そうですか」  高橋はそれ以上追及しなかった。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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16話「ジョフィの誤算」

 深夜、伊依がAngelusの売上データを眺めていると、ジョフィが切り出した。 「ねえ、伊依。メンズ向けのアクセサリーも展開したら?」 「急に何」 「顧客データ見てて思ったんだけど、女性客の連れの男性からの問い合わせ、地味に増えてるんだよね。自分用も欲しいって人がいる」  伊依は画面をスクロールした。問い合わせフォームには男性向けを望む声があり、もう少し重厚感が欲しいという意見もあった。 「男性向けって、需要あるのかな」 「試してみる価値はあるよ」 「……やってみるか」  伊依はタブレットを引き寄せ、白紙に線を引いた。直線的で骨太なフォルム。ブラックシルバーも使う。形を画面へ落としていった。 「これ、伊依の趣味全開だね」 「うるさい。かっこいいでしょ」 「うん」 「HolyNight」  深い夜の静けさと、その中にある一筋の光。伊依はその名前を気に入った。Angelusとは違う方向性で、リング、カフス、ネックレスを用意する。ロゴも無骨な意匠へ作り替えた。      HolyNightの発表から一ヶ月。反応は予想を大きく超えた。 「これ、めちゃくちゃ拡散されてる」  ジョフィの声に、伊依はモニターへ目を向けた。海外のセレクトショップから取り扱い依頼が届き、著名な俳優がSNSにHolyNightのカフスを着けた写真を投稿したことで、名前が一気に広がった。 「あの俳優、勝手に着けてくれたの?」 「うん。伊依が作ったものが誰かの手に渡って、勝手に評判を呼んでる。理想的な広がり方だね」  スポーツ選手や経営者たちの間にもHolyNightは広まった。最初は試作品として数を絞っていた商品まで在庫が追いつかなくなり、伊依は製造ラインの調整に追われることになった。予想していなかった反響に戸惑いながらも、画面に並ぶ注文数を見れば悪い気はしない。 「メンズ、正解だったね」 「うん、いい提案だった」      だが、ジョフィの計算にはなかった展開が、その先に待っていた。 「伊依、変な問い合わせ来てる」 「変って?」
last updateLast Updated : 2026-09-23
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17話「地下の世界の向こうで」

 その頃、伊依が送信したメールは、海を越えたわけでもないのに、まるで別世界へ届いていた。  久遠聖の書斎は、都心を見下ろす高層階にある。窓の外に広がる夜景を背に、聖はノートパソコンの画面を眺めていた。表示されているのは、YORとのメールのやり取りだった。 「YOR……」  聖は最後に届いた文章を、もう一度読み返した。 『次のコレクション、もう少しで完成します。先にお見せします』  短い文章だった。だが、聖にはそこに書かれていないものの方が気になった。  丁寧なのに距離がある。質問にはきちんと答えるのに、自分自身のことになると一歩引く。こちらが踏み込もうとすれば、決して拒絶はしないまま話題を戻してくる。  それでいて、作品について尋ねると返事が早い。 「……ものを作ることは、好きなんだな」  聖は椅子の背にもたれた。  YORの性別すら、公表されていない。だが、これまでの文面や言葉の選び方から考えると、女性である可能性が高いように思えた。もちろん確証はない。単なる勘だ。  次に気になったのは経歴だった。これほどの規模のブランドを一人、あるいは少人数で運営しているなら、普通はどこかで本人の痕跡が残る。業界のパーティーや展示会に姿を見せなくても、取引先との接点から何かが漏れるはずだ。  だが、YORにはそれがない。 「顔も出さない、声も出さない。どこにいるかも分からない」  聖は画面を指先で軽く叩いた。 「それで、これだけの富と名声を築いている」  普通ではない。  聖はこれまで、多くの経営者や起業家と関わってきた。自分を売り込む人間も、逆に表へ出ることを嫌う人間も見てきた。それでも、ここまで徹底して自分を隠す人物には出会ったことがない。  しかも、匿名でいることそのものを楽しんでいるようには見えない。必要だから隠れている。そんな印象があった。  聖の推理は、少しずつ形を成していった。  これほど徹底して姿を隠す理由。単なるビジネス戦略にしては、あまりに一貫している。聖の経験上、こういう振る舞いの裏には、大抵ひとつの共通点がある。 「傷を負った人間か」
last updateLast Updated : 2026-09-25
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18話「Near-miss」

 会社の創業パーティーは、都心の一流ホテルの宴会場で開かれることになっていた。全社員参加の通達が出てから、社内は少し浮ついていた。  伊依は自宅のクローゼットを開けた。 「地味なやつ、あったよね」 「あるよ。背中まで隠れる、シンプルなネイビーのやつ」  ジョフィの返事を聞き、伊依は奥から一着のドレスを取り出した。レンタルする必要などない。以前から持っていたものだ。装飾は少なく色も控えめで、華やかな会場にいても目立たない。 「これならいいか」 「地味担当としては完璧」 「褒めてないでしょ」  伊依は鏡の前でドレスを合わせた。背中が隠れることを確認する。 「メイクも髪型も、いつも通りでいい」 「うん、地味担当で行こう」    * 「念のため、これ」  伊依はスマートウォッチのベルトを締めながら、ジョフィに確認した。 「文字盤に、ジョフィのメッセージが出るように設定した?」 「してある。何かあったら、すぐ伝える」 「コサージュの方は」 「カメラ、仕込み済み。花びらの陰に隠れてるから、まず気づかれない」  伊依は胸元にコサージュをつけた。花の中心の小さなレンズが、ジョフィと同期する。 「準備万端」 「うん。今日は大人しくしててね」 「それ、私じゃなくて秀一と沙織に言って」  伊依は鏡の中の自分を見て、小さく息を吐いた。    *  会場に足を踏み入れると、シャンパングラスを片手にした社員たちの声で満たされていた。伊依は人目を避けるように、会場の端を歩く。 普段の地下とは違い、どこを見ても人がいる。笑い声やグラスの触れ合う音が重なり、伊依は無意識に肩をすくめた。こういう場所は苦手だった。誰かに話しかけられる前に、できるだけ端へ逃げておきたい。  スマートウォッチの文字盤を確認する。ジョフィからの通知はない。少なくとも今のところ、目立った問題は起きていないらしい。伊依は小さく息を吐いた。 「あ、和久井さんだ」  振り返ると、秀一と沙織がいた。二人とも普段より着飾っている。沙織は伊依の服装を上から下
last updateLast Updated : 2026-09-26
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19話「矢面に立っても」

 地下の部屋で在庫の確認をしていると、パソコンの画面が突然、勝手に切り替わった。 「ちょっと、何これ」  伊依が驚いて声を上げると、ジョフィがすかさず答えた。 「自宅のテレビ、リモートで繋いだ。今から見た方がいい番組やってる」 「勝手に繋ぐなって、いつも言ってるでしょ」 「文句は後で聞くから、まず見て」  画面に映し出されたのは、見覚えのあるスタジオセットだった。派手なテロップと共に、番組タイトルが表示される。 「セレブのお宅拝見スペシャル」  司会者の明るい声と、芸能人ゲストたちの笑い声が、地下の静かな部屋に響き渡った。 「え、これ」  伊依が画面に釘付けになったのは、次の瞬間だった。カメラが切り替わり、都心を見下ろす広々としたリビングが映し出される。そこに、見覚えのある男の姿があった。 「聖さん……」  久遠聖が、カジュアルなセーター姿でソファに腰掛け、レポーターの質問に応じていた。    * 「本日は久遠聖さんのご自宅にお邪魔しています。すごい眺めですね」  レポーターの声に、聖は柔らかい笑みで応じた。 「ありがとうございます。夜景がお気に入りなんです」  リビングの様子が、ゆっくりとカメラで捉えられていく。シンプルで洗練されたインテリア、大きな窓から見える都市の景色。伊依は画面越しに、初めて見る聖の生活空間を、じっと見つめていた。 「久遠さんといえば、若くしてテック業界で成功された方として有名ですが、プライベートではどんな時間を過ごされているんですか」 「基本的には仕事中心ですね。休日も、事業のことを考えている時間が多いです」 「意外とストイックなんですね」  レポーターが軽く笑う。聖もそれに合わせるように微笑んだ。伊依はその様子を見ながら、地下の椅子の上で身を固くしていた。 「最近、お気に入りのアクセサリーがあるとか」  レポーターの一言に、伊依の心臓が跳ねた。 「やばい」  思わず声が漏れる。ジョフィも画面を見つめたまま、緊張した様子で黙っていた。 「そうなんです」  聖が答えた。
last updateLast Updated : 2026-09-27
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20話「大人しく、動くな」

 監視カメラの映像を眺めていた伊依は、思わず頭を抱えた。 「まずい、まずいって」  画面に映っているのは、営業部のデスクでスマホを凝視している沙織だった。何度も同じサイトをスクロールしている。その画面を拡大すると、Angelusの公式サイトが表示されていた。 「なんで」  ジョフィが呑気な声を出す。伊依はこめかみを押さえた。 「うちの商品、バカ2号が買える額じゃない。バカ3号の二の舞になる」  愛美が借金までしてブレスレットを買った一件は、まだ記憶に新しい。あの時も散々な騒ぎになった。今度は沙織が同じことをすれば、秀一との間までこじれる可能性がある。 「止めなくてもいいんじゃない?」 「それは困る!」  伊依は即座に画面を指差した。 「バカ2号が暴走してバカ1号と破局とかなったら、私が上に戻される!」 「あー……」  ジョフィもようやく事情を理解した。 「バカだけど、仕事だけは出来るもんね。あの子」 「そう。そこが一番困るの」 沙織が仕事に支障をきたすような騒動を起こせば、当然、周囲の目は今より厳しくなる。地下の平穏な生活が崩れる可能性を、伊依は本能的に察知していた。 「あー……バカだけど、仕事だけは出来るもんね、あの子」 ジョフィが妙に納得したように言った。沙織は伊依への当たりこそきついが、営業事務としての実務能力は決して低くなかった。そのバランスが崩れれば、部署全体に波及する。 「全力で阻止するわよ!」      まずは情報収集だった。 「沙織、番組見てから完全にハマってるみたい」  ジョフィがSNSの画面を表示する。聖の番組の切り抜き動画。プロフィールをまとめた記事。そこには沙織のコメントがいくつも並んでいた。 「久遠聖に会いたい、とか書いてる」 「うわあ」  伊依は顔をしかめた。 「これ、Angelus買うの時間の問題だね」 「だから阻止する」 最初に試したのは、価格表示の心理的ハードルを上げる作戦だった。沙織のアクセス履歴を辿り、彼女が閲覧している商品ページに、あえて詳細な価
last updateLast Updated : 2026-09-28
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