All Chapters of 地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。: Chapter 31 - Chapter 40

58 Chapters

31話「見られてないと思ってる泥棒」

 荘園の家。  夜も遅くなり、リビングには伊依とジョフィだけが残っていた。伊依はソファに座り、膝の上にノートパソコンを置いている。Angelusのデザイン画を確認していたところ、画面の端に赤い警告が表示された。 「伊依。今すぐ見て」 「何?」  いつもの軽い声ではなかった。  伊依は手を止めた。 「地下のカメラ」  ジョフィが画面を切り替える。  映ったのは、地下の備品倉庫だった。  時刻は深夜。  照明の消えた倉庫の中を、非常灯だけがぼんやり照らしている。その奥で、人影が動いた。 「……誰?」  伊依が身を乗り出す。  女だった。  周囲を何度も確認しながら棚へ近づき、段ボールを開けている。取り出したのは、未開封のコピー用紙。そして、その隣にあった新品のトナーカートリッジ。 「盗んでる」  ジョフィの声が静かに落ちた。  伊依は画面を凝視した。 「これ、いつの映像?」 「今」 「……今?」 「リアルタイム」  伊依は時刻表示を確認した。  間違いない。  今この瞬間、誰かが地下倉庫から備品を持ち出そうとしている。 「苑田さんのカメラ?」 「そう。僕が伊依に見せる映像は差し替えてあるけど、カメラそのものの録画機能は生きてる。だから本物の映像がこっちに流れてきてる」 「なるほど」  伊依は画面を見つめたまま呟いた。 「……こんなこと、今までなかった」  備品の在庫数は、伊依が毎週確認している。  コピー用紙。  トナー。  文房具。  その他の消耗品。  数字が合わなければすぐに分かるよう、伊依は自分なりの管理表まで作っていた。  これまで、大きな食い違いはなかった。 「誰?」 「調べる」  ジョフィが社員データを検索する。  数秒後、画面に名前が表示された。 「経理部の派遣社員
last updateLast Updated : 2026-10-08
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32話「価値と結果」

 給湯室で、秀一と沙織がいつものように話し込んでいた。「伊依、また地下でサボってんじゃねぇの」 秀一が、コーヒーを片手に軽口を叩く。「あの人、地下でしか生きられないタイプだよね。友達もいないし」 沙織が続けて笑う。二人にとって、伊依の話題は、いつもの気軽な暇つぶしだった。「ホント、あの人といると何のプラスにもならないよね。仕事もろくにしてないっぽいし」「まあ、俺らに勝てるわけないもんな」 そのとき、給湯室の入口から声がかかった。「あの、それ違うと思います」 振り返ると、来々が立っていた。手にはマグカップを持ったまま、少し緊張した面持ちで、二人の会話に割り込んでいた。「え?」 秀一が、意外そうな顔をする。「和久井さん、この前更衣室でお話ししたんですけど、すごく優しい方でしたよ。それに、色々考えてる感じがしました」 来々は、はっきりとした口調で続けた。「勝ち負けとか、そういうのじゃなくて、私、和久井さんのこと、素敵な人だなって思ってます」 秀一と沙織は、一瞬、言葉を失った。まさか、入ったばかりの派遣社員から、こんな風に言い返されるとは思っていなかった。「な、なんだよ、急に」 秀一が、少し動揺した様子で言う。来々は、真っ直ぐな瞳で、二人を見返した。「私、まだ入ったばかりですけど。人のことをよく知らないまま、悪く言うのは良くないと思います」 沙織が、苦笑いを浮かべながら取り繕った。「まあ、来々ちゃんは知らないから、そう思うのかもね」「そうかもしれません。でも」 来々は、はっきりと言い切った。「私が実際に話した和久井さんは、二人が言ってるような人じゃなかったです」 その一言に、給湯室には気まずい沈黙が流れた。秀一と沙織は、それ以上何も言えず、そそくさとその場を後にした。 廊下に出た秀一が、ぼそりと呟いた。「なんだよ、来々ちゃん。急に生意気になったな」「まあ、若いから正義感強いんじゃない」 沙織が答える。だが二人とも、来々の言葉が、心のどこか
last updateLast Updated : 2026-10-09
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33話「天使」

 荘園の家、リビングのソファに座り、伊依はタブレットの画面を見つめていた。ジョフィが構築した匿名の通信網を通じて、聖とのメッセージのやり取りが続いていた。名前も声も、直接には伝わらない。それでも、伊依は不思議と、聖との距離を近く感じていた。 「あの、変なこと言っていいですか」  聖からのメッセージが届く。伊依は少し身構えた。 「はい?」 「Angelusって、天使の意味ですよね」  伊依は少し肩の力を抜いた。単純な質問だと思った。 「あんまり深く考えてつけたわけじゃないんですけどね」  正直な答えだった。ラテン語で天使を意味する言葉。響きの美しさに惹かれて選んだだけで、そこに深い理由はなかった。 「実は……怒らないでもらえますか」  続くメッセージに、伊依は画面を見つめたまま、動きを止めた。 「話が全然見えないんですけど」  伊依は正直に返した。聖にしては珍しく、回りくどい前置きだった。 「そうですよね。すみません」  聖からの返信が、少し間を置いて届く。 「実は最初にお会いしたパーティーの時、濡れてしまったあなたのドレスの背中を見てしまったんです」  伊依は、その一文を読んで、静かに息を吐いた。あの夜のことを、思い出さない日はなかった。ビールをかけられ、透けたドレスの下に露わになった、火傷の跡。あの瞬間の記憶は、伊依の中に、鮮明なまま残っていた。 「ああ、火傷の跡のことですね」  伊依は、あえて淡々とした調子で返信した。動揺を、文字に乗せたくなかった。 「あれを見て思ったことをお伝えしたくて」  伊依は、その先の言葉を、少し身構えながら待った。 「?」 「失礼だったら本当に申し訳ありません」  聖のメッセージが続く。 「あの背中を見た時に、天使の羽が見えたような気がしたんです」  伊依は、その言葉を、しばらく画面の中で見つめていた。 「天使……」  短く返信する。頭の中では、様々な感情が渦を巻いていた。これまで、伊依の背中の傷を見て、そんな風に表現した人間は、一人もいなかった。醜い、可哀想、痛々しい。伊
last updateLast Updated : 2026-10-10
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34話「人は思ったより」

 朝、荘園の家を出るとき、伊依の頭の中には、まだ昨夜のやり取りの余韻が残っていた。 「天使の羽、か」  通勤のリムジンの中、伊依はぼんやりと窓の外を眺めながら、聖の言葉を反芻していた。あなたの傷は、天使の羽に見えた。その一言が、伊依の心の奥に、まだ柔らかく残っている。 「伊依、今日どうしたの。ぼーっとしてる」  ジョフィが声をかける。伊依は我に返った。 「別に、なんでもない」 「絶対嘘だ」  伊依は答えず、視線を窓の外に戻した。ふわふわとした気分のまま、地下鉄の駅を降り、会社へと向かう。エレベーターに乗り込み、地下へと降りていく途中で、伊依はふと、自分の鞄の中を確認した。 「あ」  声が漏れた。 「どうしたの」 「制服……忘れた」      いつもは寝る前に確認する制服が、今朝に限って鞄に入っていなかった。昨夜、聖とのやり取りに気を取られ、準備がおろそかになっていたらしい。 「困ったね」  ジョフィが軽い調子で言う。伊依は頭を抱えた。 「今から荘園に戻ってる時間もない」  業務が始まるまで、あと二十分ほどしかなかった。伊依は慌てて、志津子にメッセージを送った。 「制服、忘れちゃった。予備、持ってたりする?」  志津子からはすぐに返信が来た。 「あら、伊依ちゃんらしくない。予備、更衣室のロッカーに置いてあるから使っていいわよ」      更衣室に駆け込み、伊依は志津子のロッカーから借りた予備の制服を取り出した。サイズは少し大きめだったが、贅沢は言えなかった。伊依は手早くブラウスを脱ぎ、着替えを始めた。  誰もいないはずの更衣室。そう思い込んでいた伊依の背後で、突然、声が響いた。 「わーっ!」  すっとんきょうな声に、伊依は思わず身を強張らせた。振り返ると、そこには浜内来々が立っていた。目を丸くして、こちらを見ている。  伊依の心臓が、一気に跳ね上がった。背中の傷を、見られた。とっさに、伊依はブラウスを引き寄せ、背中を隠そうとした。     「はじめまして!急に声をあげてごめんなさい!」
last updateLast Updated : 2026-10-11
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35話「疑うもの」

 久遠家の屋敷、リビングでは、緋音がソファに寝そべりながら、スマホの画面を睨みつけていた。 「お兄ちゃん、また誰かとやり取りしてる」  独り言のように呟く。久遠緋音、聖のかなり歳の離れた妹だった。高校二年生とは思えない鋭い観察眼と、正義感の強さで、家族の中でも一目置かれている存在だった。 「緋音、また探偵ごっこか」  リビングに顔を出した聖に、緋音は即座に食ってかかった。 「探偵ごっこじゃないもん! お兄ちゃんの彼女になる人は、きちんとした品のある人じゃないとダメ! 今までの人は品がなかった」 「彼女なんていないって、何度も言ってるだろ」 「絶対いる。最近、メール打つときの顔が違うもん」  聖は思わず口をつぐんだ。図星を突かれた気まずさが、表情に出てしまったらしい。 「ほら、やっぱり!」  緋音は勝ち誇ったように立ち上がった。      それから緋音は、独自に「調査」を始めた。聖のスケジュールを盗み見たり、志鶴に探りを入れたり、あの手この手で、聖の交際相手の正体を突き止めようとした。 「志鶴、お兄ちゃんの彼女、知ってるでしょ」 「さあ、僕は何も」 「絶対知ってる顔してる」  志鶴は、涼しい顔でかわし続けた。緋音の追及は、志鶴の徹底したガードの前に、何度も跳ね返された。 「何よ、表に出れないほど後ろめたいことがあるっていうの?」  緋音は、自室のベッドの上で、頬を膨らませていた。会ったこともない相手に、勝手に不信感を募らせていく。その様子を見て、聖は頭を抱えるしかなかった。 「あいつ、なんでそんなに敵対心むき出しなんだ」 「妹さんなりに、聖のこと心配してるんだと思うよ」  志鶴が苦笑しながら言う。聖はため息をついた。 「心配のベクトルが、ちょっとおかしい気がするけどな」  緋音の追及は執拗だったが、伊依の正体に辿り着くことは、当然できなかった。伊依はYORとして、徹底した匿名性を保ったまま聖とやり取りしている。高校生の妹が、独自の調査で突き止められるような、甘い相手ではなかった。 「なんなの、あ
last updateLast Updated : 2026-10-12
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36話「派手にしたくない休日と、派手になってしまった正義感」

 休日の朝、伊依は珍しく早起きをしていた。荘園の家のクローゼットを開け、いつも通りのシンプルな服を選ぶ。派手な柄も、目立つ色も、伊依の好みではなかった。全年齢対象の、どこにでもあるようなブランドの、飾らない服が一番落ち着く。「今日は何買うの?」 スマートウォッチ越しに、ジョフィが尋ねる。「ジーンズ。前のやつ、そろそろ穿き潰した」「了解。ショッピングセンター、混んでるみたいだから気をつけて」 伊依は軽く頷き、荘園を出た。今日はリムジンではなく、あえて地下鉄を使うことにした。人混みに紛れて、ただの買い物客として過ごす休日。それが伊依にとって、数少ないリラックスできる時間だった。    目当てのショッピングセンターに着き、伊依はエスカレーターを降りて、ジーンズの売り場を目指していた。フロアの中央、人の流れが少し滞っているのに気づく。「あっ」 声が上がったのと同時に、伊依の視界の端で、車椅子に乗った高齢の女性が、段差につまずいて倒れ込んだ。 伊依の身体は、頭で考えるより先に動いていた。駆け寄り、膝をつく。「大丈夫ですか」 女性は顔をしかめながら、伊依の腕にすがった。「足が……車椅子に戻れなくて」 周囲には、人だかりができ始めていた。だが誰も、手を差し伸べようとはしない。中には、スマホを構えて、この様子を撮影している者もいた。女性の身なりは、決して裕福には見えなかった。着古した服、色褪せた車椅子。それが、周囲の反応を鈍らせている理由なのだと、伊依は瞬時に察した。「何スマホ構えてんのよ! そんな暇あったらあの人みたいに助けなさいよ!」 鋭い声が、フロアに響き渡った。声のした方を見ると、制服姿の女子高生が、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくるところだった。彼女は迷いなく駆け寄り、伊依と共に女性の車椅子を起こした。「お姉さん。おばあさん、怪我してる?」「怪我自体はありません。だけど足を元々悪くされていて、車椅子に戻れないみたいですね」 伊依が答えると、女の子は頷いた。「分かった。女性でも二人なら、支えられるよね」
last updateLast Updated : 2026-10-13
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37話「たられば、もしも」

 深夜、志鶴とジョフィの通信回線が、いつものように静かに繋がっていた。 「ねぇジョフィ」 「何」 「もしもの話だよ。仮定の話ね」 「分かった。その前提で聞く」  志鶴は、少し慎重な口調で切り出した。 「聖が伊依さんをヘッドハンティングしたいって言ったら、どうする?」  ジョフィは、少しの間、沈黙した。データを整理するような、思考の間だった。 「難しいと思うよ」  やがて、ジョフィが答えた。 「まず、表立っての伊依の久遠グループへの貢献度が不透明。それが伊依が望んでいることなのか、意図してないのかは、僕には分からない」 「そうだよね」 「もし久遠さんがヘッドハンティングを正式に出したら、伊依の今の立場が不安定になる」  志鶴は、その回答を、静かに受け止めた。 「やっぱりそうなるよね」 「ひとつ聞いていい?」  ジョフィが尋ねた。 「何」 「志鶴は、久遠グループに伊依が必要だと思ってる?」  志鶴は、少し間を置いてから答えた。 「思ってる」  その答えには、迷いがなかった。 「でも、接点がない。聖と伊依さんが正式に恋人にならない限りは」 「それは、もっと難しい」 「だよね」  志鶴は、苦笑するような口調で続けた。伊依と聖の関係は、まだ匿名のやり取りと、数回の偶然の出会いの上に成り立っているだけだった。恋人という段階には、遠く及ばない。 「久遠グループで、伊依が自由に動ける環境が整った前提で言うなら」  ジョフィが、続けた。 「今の会社を伊依が退職したいと仕向けることは可能だよ」 「え」 「伊依が望むなら、僕は行動することができる」  志鶴は、少し驚いた様子で、その言葉を聞いていた。ジョフィの言い方には、単なる可能性の提示以上の、確かな実行力の裏付けがあった。この規格外のAIならば、それは決して大げさな話ではないのだろうと、志鶴は察した。 「だけど」  ジョフィが、続けた。 「志津子さんが心配するだろうね」 「社長夫人の取
last updateLast Updated : 2026-10-14
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38話「守りたいこと、たくさん」

 荘園の家、伊依はソファでくつろいでいたところに、ジョフィから緊急の連絡を受けた。 「え、今から?」 「うん。詳しい状況、説明するね」  ジョフィは、久遠家で行われているパーティで令嬢がYORと交流があるという嘘と、聖の妹の緋音が抱いている失望について、手短に説明した。伊依は、その話を聞きながら、次第に表情を引き締めていった。 「それは……放っておけない」  伊依は、YORとしてのイメージを守るために、そして何より、緋音の気持ちを裏切りたくないという想いから、すぐに協力を決めた。 「どうすればいいの」 「アバターを作る。ホログラフで、その場に登場させる」 「アバターって、そんなことできるの」 「できる。伊依の顔は隠したまま、YORとしての姿だけを、リアルタイムで再現する」  ジョフィは、瞬時にシステムを構築していった。伊依の身体の動きをモーションキャプチャーで読み取り、目の上までを隠す仮面と、優雅なドレスをまとったデジタルアバターに投影する仕組みだった。音声も、リアルタイムで変換され、伊依本来の声とは、まったく別の響きになる。 「準備できた」  ジョフィが告げる。伊依は、鏡の前で、少し緊張した面持ちで立っていた。 「本当に、うまくいくかな」 「大丈夫。伊依の言葉なら、ちゃんと伝わる」  伊依は、深呼吸をひとつして、頷いた。  会場の中央、突如として、淡い光が浮かび上がった。 「え……」  招待客たちが、次々とざわめき始める。光の中から現れたのは、目元を優雅な仮面で覆った、ドレス姿の女性のホログラフだった。 「初めまして」  落ち着いた、しかし聞き覚えのない声が、会場に響いた。 「Angelus・HolyNightのデザイナー、YORです」  その一言に、会場全体が息を呑んだ。 「このような場ですが、急遽お話したいことがございまして、参上させていただきました」  令嬢は、突然の登場に、明らかに動揺していた。 「え、あの……」  伊依のアバターは、涼香の方へ、静かに視線を向けた。 「先ほど、そちらの
last updateLast Updated : 2026-10-15
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39話「地下の女王の休日」

 荘園の家、朝の光がリビングに差し込む中、伊依はゆっくりと目を覚ました。休日特有の、何にも縛られない空気が、部屋いっぱいに満ちている。 「おはよう」 「おはよう、伊依さん」  ジョフィの声が、いつもより柔らかく響いた。伊依はキッチンへ向かい、簡単なトーストと目玉焼きを用意した。地下の部屋で食べる見切り品の弁当とは違う、自分のペースで作る朝食は、それだけで贅沢な時間だった。  午前中、伊依はソファに深く沈み込み、サブスクで映画を再生した。特に予定を立てず、気の向くままに選んだ作品だった。難しいことは考えず、ただ画面を眺める時間が、心地よかった。 「これ、伊依の好きそうな展開だね」  ジョフィが、時折コメントを挟む。 「うるさい、静かに見せて」  伊依は苦笑しながら、リモコンの音量を少し上げた。  映画が終わると、次は読書だった。分厚いミステリー小説を手に取り、ページをめくっていく。誰にも急かされず、自分の速度で物語を追う時間は、伊依にとって数少ない安らぎのひとつだった。      午後になると、伊依の休日は、少し違う顔を見せ始める。 「よし、始めよっか」  伊依は、大型モニターの前に座り、専用のゲーミングチェアに腰を下ろした。キーボードとマウスを手に取り、目つきが一気に鋭くなる。 「今日は何人狩る予定?」  ジョフィが、いつもより低く、参謀のような口調で尋ねた。 「今日は絶好調のはず」  伊依は、FPSゲームを起動した。ログイン画面に表示されるハンドルネームは「Melinoe」。ギリシャ神話に登場する、地下の女神の名前だった。伊依が自分でこの名前を選んだのは、単なる好みだけではなかった。誰にも姿を見せず、地下深くで静かに力を蓄える存在。そのイメージが、今の自分の生き方と、どこか重なっているような気がしたからだった。 「敵、右側から二人来てる」  ジョフィが、リアルタイムで戦況を分析しながら伝える。伊依の指先が、正確に反応した。 「了解」  マウスの動きは、迷いがなかった。伊依はキャラクターを物陰に隠しながら、慎重に狙いを定めていく。 「今」
last updateLast Updated : 2026-10-16
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40話「聞きたくなったら」

 その日の夜、荘園の家で、伊依はソファに座ったままタブレットを眺めていた。仕事はもう終わっている。ジョフィからの報告もない。それなのに、なぜか落ち着かなかった。  理由は分からない。昼間に緋音と顔を合わせたことくらいしか、思い当たることはなかった。いつも通り笑っていたし、会話も普通だった。ただ、別れ際の緋音が、ほんの少しだけ何かを考えているように見えた。 「ジョフィ」 「なに?」 「先週、緋音ちゃんと話したよね」 「うん。フードコートで話したよね。確か今週も会うんだよね」 「そうなんだけど、何か変じゃなかった?」  ジョフィは少し黙った。伊依は画面から顔を上げる。 「変というほどじゃないかな。ただ、いつもより伊依のことを見てた」 「私を?」 「そう。何度か確認するように見てたよ」  伊依は首を傾げた。緋音とは、もう友達と呼んでもいいくらいの関係になっている。見られること自体は不思議ではない。それでも、ジョフィがわざわざ気にするくらいなのだから、何か引っかかるものがあったのだろう。 「何か聞かれた?」 「特には。伊依について直接的な質問はなかったよ」 「そっか」  伊依はタブレットを置いた。考えても答えは出ない。緋音が何か悩んでいるのなら、いつか本人から話してくれるだろう。今はそれでいいと思った。 先週に会った時の緋音の様子を思い出した。  普通に話す。笑うし、冗談も言う。それなのに、ふとした瞬間に伊依を見る目が妙に真剣になる。 「伊依さん」 「ん?」 「……いえ。なんでもないです」  何度目かのそれに、伊依は思わず緋音の顔を見返した。 「何か言いたいことがあるなら、言っていいよ?」 「本当に大丈夫です!」  少し声が大きかった。  緋音自身も気づいたらしく、頬を赤くして口元を押さえる。 「ご、ごめんなさい」 「いや。別に怒ってないけど」 「なら、よかったです」  緋音は笑った。その笑顔はいつもと変わらない。けれど、何かを隠している人間の顔にも見えた。  伊依は
last updateLast Updated : 2026-10-17
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