All Chapters of 地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。: Chapter 51 - Chapter 58

58 Chapters

51話「ちゃちい対抗心」

 伊依が在籍するステラ・トレーディング株式会社、情報システム部。顧客データや社内の情報共有システムを一括管理する、いわば会社の神経網とも呼べる部署だった。 部長の綾部鷹彦は、常々、部下たちにこう説いていた。「協調こそが、会社を守る盾だ」 チームで動くこと。個人プレーに走らず、皆で知恵を出し合うこと。それが、綾部の信条だった。実際、その方針のもと、情報システム部は、長年にわたって安定した運用を続けてきた。 だが最近、その「協調」に、綾部自身が違和感を覚え始めていた。「また、システムが変わってる」 朝、出社した綾部は、モニターを前に、思わず声を漏らした。社内の情報共有システムの一部、これまで手を焼いていた処理速度の遅延が、いつの間にか改善されていた。「これ、誰がやったんだ」「分かりません。部内の誰の作業ログにも、該当する記録がないんです」 部下の一人が、困惑した様子で答えた。 最初のうちは、些細な改善だった。ちょっとしたレイアウトの調整。エラー処理の最適化。だが、それが一度や二度ではなく、繰り返し起きるようになると、話は変わってきた。「今度は、データベースの検索速度が、大幅に改善されてる」 綾部は、報告を受けるたびに、複雑な感情を抱いていた。悪化しているわけではない。むしろ、明らかに良くなっている。だが、それが誰の手によるものか、部内の誰にも分からなかった。「上からは、褒められてるんですけどね」 部下の一人が、苦笑しながら言った。「システムが改善したって、経営陣は喜んでます」「だよな」 綾部は、頷いた。だが、その喜びを、自分たちの手柄として、素直に受け取ることができなかった。「全然、面白くない」 綾部の中で、モヤモヤとした感情が、日に日に大きくなっていった。誰かが、無断で自分たちの領分に手を入れている。しかも、それが常に「改善」であるという事実が、余計に始末が悪かった。「これが改悪だったら、まだ分かりやすいんだが」 綾部は、ため息交じりに呟いた。もし何か問題が起きていたら、犯人を突き止め、対処すればいい。だが、良くな
last updateLast Updated : 2026-10-28
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52話「梅干し令嬢と酸っぱい大富豪」

 フードコートのテーブルで、緋音は、いつになく複雑な表情を浮かべていた。伊依は、ラーメンをすすりながら、その様子に気づいた。「どうしたんですか?」「伊依さん……私、やらかしちゃったかもしれない」 緋音は、両手で顔を覆いながら答えた。伊依は、箸を置き、少し身を乗り出した。「詳しく」「ハーリドさんがね」 緋音は、渋々といった様子で話し始めた。「前回の来日で、日本食を食べてないって言ってたのね」「まぁ、ビジネスで来てますからねぇ」 伊依は、頷いた。ハーリドの視察は、あくまで仕事目的だった。観光や食事を楽しむ余裕など、なかったのだろう。「だから、好きな食べ物は何ですか、って聞いたら、意外なことを言い出したの」「意外?」「あっちの国では、甘いものはとことん甘くて、胃もたれするんだって」 緋音は、続けた。「だから、酸っぱいっていう概念がなくて、興味があるって言ってたの」「なるほど」 伊依は、興味深そうに相槌を打った。中東の菓子文化を、伊依もどこかで聞きかじったことがあった。蜂蜜やシロップをふんだんに使った、濃厚な甘さが主流だという話は、確かに納得できるものだった。   「だから私」 緋音は、少し声を小さくしながら続けた。「ハーリドさんに、送っちゃったんだ」「何をですか」 伊依は、少し身構えながら尋ねた。緋音は、恥ずかしそうに答えた。「紀州産の、最高級の梅干し」「ぶっ」 伊依は、思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。「wwww」 テーブルに突っ伏しながら、伊依は、笑いを堪えきれなかった。「だよね、笑うよねww」 緋音も、諦めたように笑いながら続けた。「お兄ちゃんに呆れられた」「わ、私が笑ったのは」 伊依は、涙目になりながら、なんとか言葉を絞り出した。「バカにしてるんじゃなくて、可愛いなって思ったんですよ」「そっちの方が恥ずかしいよ! 一周回
last updateLast Updated : 2026-10-29
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53話「地下の女王の意外な(?)趣味」

 社員食堂で、来々が定食を頬張りながら、ふと尋ねてきた。「伊依さんは、休日は何をしてるんですか?」「読書したり、映画を見たり、ゲームしたり。買い物に行ったりかな」 伊依は、味噌汁を飲みながら、当たり障りのない答えを返した。もちろん、FXやAngelusの仕事のことは、話に出さない。「わぁ〜。大人の普通の休日って感じで、素敵です!」 来々は、目を輝かせながら言った。伊依は、少し首を傾げた。「来々の、大人の普通ってどういう基準なの」「なんとなくです!」 来々の答えに、伊依は思わず苦笑した。    その日の夕方、荘園の家に帰った伊依を、玄関先で待ち構えていたのは、大量の段ボール箱だった。「伊依〜」 ジョフィの声が、リビングから響いてくる。伊依は、荷物の山を前に、少し気まずそうな顔をした。「はい」「また大量に届いたんだけど?」 ジョフィの声には、隠しきれない呆れが滲んでいた。伊依は、視線を逸らしながら答えた。「えへ、アパートじゃなかなかできないからさぁ」「だからって、大量注文、大概にしなよ?」「家広いから、いいじゃん」 伊依は、開き直ったように言い返した。「そうじゃない」 ジョフィが、真剣な声で続けた。「緋音や聖が知ったら、ドン引きするよ」 伊依の意外な隠れ趣味。それは、ぬいぐるみ作りだった。 地下の部屋にいた頃から、伊依はこっそり、この趣味を続けてきていた。手芸店で買い集めた、様々な色や質感の布地。詰め物用の綿。小さなガラスの目玉パーツ。荘園の家に移り住んでからは、その注文量も、これまで以上に増えていた。「別に、悪いことしてるわけじゃないでしょ」 伊依は、段ボールを開けながら、少し不満げに言った。「悪いことじゃないけどさ」 ジョフィが、苦笑しながら続けた。「伊依のイメージと、ぬいぐるみ作りって、ちょっと結びつかないっていうか」「うるさい」 伊依がこの趣味を始めたきっかけは、はっきりとは覚えていなかった
last updateLast Updated : 2026-10-30
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54話「祝福の鳥」

 地下の部屋に、Angelusの新規注文が届いた。伊依は、いつも通り、注文者の情報に目を通した。「これ……」 差出人の名前に、伊依は思わず手を止めた。総務課の事務職、名前だけは、社内で何度か見かけたことのある男性社員だった。「知り合い?」 ジョフィが、尋ねる。伊依は、首を振った。「名前くらいしか知らない」 注文内容を確認すると、そこには婚約指輪の依頼が記されていた。伊依は、少し考え込んだ。「うちの事務職の給料で、頑張ったなぁ」 伊依は、注文の予算欄を見ながら、静かに呟いた。決して安くはない金額だった。「無理してない?」 伊依は、少し心配になり、ジョフィに確認を頼んだ。「大丈夫」 ジョフィが、すぐに調べを進めた。「愛美の時とは違う。ちゃんとこつこつ貯めて、支払ってるね」「ほう」 伊依は、その報告に、静かな安堵を覚えた。愛美のように、借金をしてまで無理をしているわけではない。地道に、大切な時のために、コツコツと積み立ててきたお金だった。 ブライダル関連の注文は、通常の販売ルートとは、別の流れで進められる。伊依はYORとして、注文者と直接、チャットでやり取りをしながら、デザインのイメージを詰めていく。「どんな形がご希望ですか」 伊依は、丁寧なメッセージを送った。「あの、ちょっと変な形なんですが、可能でしょうか」 注文者からの返信には、少し戸惑いが滲んでいた。「どのようなデザインですか」「彼女、子供の頃から可愛がっていたインコがいまして」 注文者は、少し言葉を選びながら、続けた。「そのインコが、最近、天国に行って、落ち込んでるんです」「なるほど……」 伊依は、その一文を、静かに読み進めた。画面の向こうで、彼が、大切な人のために、どれほど心を込めて、この贈り物を考えているかが、伝わってくるようだった。「だから、鳥をモチーフにしてほしいんです」 注文者は、続けた。「できますで
last updateLast Updated : 2026-10-31
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55話「たまには失敗もする」

地下の部屋に、伊依の悲鳴が響いた。「しまったぁぁぁ」モニターを見つめたまま、伊依は両手で頭を抱えていた。「あ」ジョフィの声にも、珍しく戸惑いが滲んでいた。「FX損失出したぁ」伊依は、椅子に沈み込みながら、力なく呟いた。ドル円のポジションが、予想外の急落に見舞われ、含み損が一気に膨らんでいた。   「大丈夫」ジョフィが、すぐに切り替えるように答えた。「株で取り返す。ちょうどタイミング的にいい銘柄がある」「ありがとう、ジョフィ」伊依は、少しだけ肩の力を抜いた。長年の付き合いの中で、ジョフィの分析力には、絶大な信頼を寄せていた。「しかし珍しいね」ジョフィが、続けた。「伊依が失敗するなんて。疲れてる?」   伊依は、しばらく考え込んだ。「疲れてるかも」正直な答えだった。ここ最近、ハーリドとの攻防、ジョフィを狙ったハッキング事件、そして日々の業務の合間を縫っての、Angelusとブライダル注文の対応。振り返れば、休みらしい休みも、あまり取れていなかった。「うーん」ジョフィが、少し考えるような間を置いてから、提案した。「伊依、旅行に行かない?」   「旅行」伊依は、その言葉を、口の中で転がしてみた。「一人旅かぁ」「うん」「有名どころは嫌だなぁ」伊依は、少し顔をしかめた。人気の観光地は、それだけ人目につく可能性も高い。荘園の生活に慣れてはいても、伊依はまだ、大勢の視線に晒される場所を、本能的に避ける癖が残っていた。   「いい温泉地があるよ」ジョフィが、すぐに提案した。「隣の県になるんだけど、鳴沢温泉っていう、人が少ない穴場」「まじか」伊依は、少し身を乗り出した。「いいねぇ」「観光地化されてなくて、宿の数も少ない。静かに過ごすには、ぴったりだと思う」   「調べて」伊依は、指示を出した。ジョフィは、すぐ
last updateLast Updated : 2026-11-01
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56話「温泉地にて」

 疲れた時は、身体を癒すに限る。伊依は、鳴沢温泉に足を運んでいた。 この温泉地で最も大きく、最も歴史のある旅館、「伊勢谷旅館」。木造の趣ある建物が、山あいの静けさに、しっとりと馴染んでいた。「和久井様、ようこそいらっしゃいませ」 玄関先で迎えてくれたのは、和装の女性だった。「女将の伊勢谷清子です。何なりとお申し付けください」「お世話になります」 伊依は、丁寧に頭を下げた。「こちらの自慢は、温泉巡りになっております。色んな種類のお風呂がありますので、ぜひご堪能くださいね」「はい」    部屋に案内され、荷物を解きながら、伊依はふと気づいた。 しもた、背中の火傷の跡……。 温泉に入るということは、当然、背中を晒すことになる。伊依は、一瞬、躊躇いを覚えた。だが、ロビーで見た限り、この時間帯の宿泊客は、それほど多くなかった。「まあ、大丈夫だろう」 伊依は、自分に言い聞かせるように呟いた。    夕方、伊依は大浴場の露天風呂へと向かった。木々に囲まれた開放的な湯船、湯気が、山の冷たい空気の中に、静かに立ち昇っている。「あぁ〜、生き返る」 湯船に浸かった瞬間、思わず声が漏れた。連日の疲労が、じんわりと溶けていくようだった。「ふふ、分かります」 突然、隣から声がかかった。伊依は、驚いて振り返った。「疲れが一気に抜けますよね」    品の良さそうな年配の女性が、少し離れた場所で、湯船に浸かっていた。「申し訳ございません、騒いでしまって」 伊依は、慌てて頭を下げた。「いいのよ」 女性は、穏やかに笑いながら答えた。「不思議なものでね、このお風呂に浸かってると、心が素直になって、言葉に出ちゃうのよ。私も初めて来たときなんて、あなたより大声出しちゃったわ」「ははは……よく来られるんですか?」   「月一は、静養に来るのよ」 女性は、湯面に視線を落としな
last updateLast Updated : 2026-11-02
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57話「しあわせねこ」

 荘園から会社に戻った伊依は、久しぶりに、いくつか土産を持参していた。「これ、鳴沢温泉のお土産です」 伊依は、地下の倉庫近くで顔を合わせた同僚たちに、小さな紙袋を配って回った。中身は、「しあわせねこ」という名前のついた、可愛らしい猫の焼印が施されたお饅頭だった。「ふーん、地味な温泉行ったんだ」 秀一が、袋を受け取りながら、鼻で笑った。「私も別に興味ないけど」 沙織も、そう言いながら、しっかりと饅頭を受け取っている。伊依は、その様子を見て、内心で苦笑した。 バカにしながらも、ちゃっかりもらうあたりが、バカらしいところだった。「うわぁ、可愛い!」 来々は、饅頭の包装を見て、目を輝かせた。「これ、猫さんですか?」「うん」 伊依は、頷いた。「でも、なんで″しあわせねこ″なんですか?」 来々が、興味津々に尋ねる。伊依は、少し思い出しながら答えた。「なんでも、昔、温泉が枯れた時に、一匹の黒猫が、新しい温泉の場所を見つけ出したって伝説があるんだって」 「黒猫さん、可愛い〜」 来々は、饅頭を大事そうに両手で持ちながら、頬を緩めた。「でも、鳴沢温泉って、マイナーな温泉ですよね」「そうだね」 伊依は、頷いた。「名物は、″しあわせねこ″の置物とか、グッズみたい」「へぇぇ! 興味あります! 行ってみたい!」 来々は、興奮気味に声を上げた。伊依は、その反応に、少し驚きながらも、笑みをこぼした。    数日後、来々は、愛美を誘って、鳴沢温泉の観光案内所へと足を運んでいた。「初めまして。鳴沢温泉観光課の、御門ナツキいいます」 案内所で対応してくれたのは、まだ若い男性職員だった。関西訛りの、少し柔らかな口調が印象的だった。「ステラ・トレーディング株式会社の営業の、浜内です」「同じく、近藤と申します」 愛美が、丁寧に頭を下げた。「急な問い合わせ、ご対応いただきありがとうございます」
last updateLast Updated : 2026-11-03
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58話「複雑な気持ち」

 地下の部屋、伊依はモニターに映る損益データを確認していた。「FXも株も安定してる」 ジョフィが、静かに報告する。「収入は微増。これだと、この前の失敗は取り返せるね」「あの時、ほんとに疲れてたんだなぁ」 伊依は、椅子にもたれながら、あの温泉旅行の前後を思い返した。鳴沢温泉での静養が、心身のリフレッシュに、確かな効果をもたらしていた。「判断力が鈍るからね」 ジョフィが、続けた。「ところで」「どしたの」「気になる噂を聞いたんだけど」 ジョフィの声に、少し慎重な響きが混じった。伊依は、少し身構えた。「何?」「会社の女子社員が、バカ1号と伊依の関係について話をしてた」「今更!?」 伊依は、思わず声を上げた。 「だってさ」 ジョフィが、説明を続けた。「普通の社員から見たら、バカ1号がバカ2号とくっついて、伊依はその煽りを食らって、地下に流された構図じゃない?」「流されたって言い方、やめて」 伊依は、少しむっとした様子で言い返した。「私は、自分が好き勝手できる場所が欲しかったの」「伊依目線ではね」 ジョフィは、あっさりと答えた。「でも、立場が違うと、そう見えるって話」「和久井さんは、復讐とかしないのかな、とか話してたよ」 ジョフィが、続けた。「期待されてるみたい」「しないよ」 伊依は、はっきりと即答した。「めんどくさい」「まぁ、伊依なら、そうだよね」 ジョフィの声には、少しの可笑しみが滲んでいた。  「そんなん、時間の無駄」 伊依は、モニターに視線を戻しながら、続けた。「ただね……」「ただ?」 ジョフィが、興味深そうに尋ねる。伊依は、少し考えながら答えた。「あのバカ達を見てると、何かしてやりたくなる気持ちは、ないことはないよ?」「する?」「しないよ」 伊依は、き
last updateLast Updated : 2026-11-04
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