All Chapters of 地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。: Chapter 21 - Chapter 30

58 Chapters

21話「最強の秘書+最強のAI」

 伊依が久遠聖と交わすメールの頻度が増えるにつれ、ジョフィと志鶴のやり取りも、自然と密になっていった。  ある日、伊依は自分のノートパソコンの前で、珍しく真面目な顔をしてジョフィに向き合った。 「ジョフィ、志鶴さんにアクセス権限、どこまで渡すつもり?」 「一部だけ。伊依の個人情報とか、資産の詳細には触れないようにしてある」 「本当に大丈夫なんだよね」 「僕が保証する」  伊依はしばらく考えたあと、頷いた。 「分かった。でも、変なことになったらすぐ言って」 「もちろん」  伊依から正式な許可を得たジョフィは、志鶴との通信経路を、これまでより一段階深いレベルまで開放した。互いのシステムの一部を見せ合うという、これまでにない試みだった。     「ジョフィ、君のセキュリティ対策はどうなってるのか。仕組みが知りたい」  志鶴が、いつもの砕けた口調で切り出した。ジョフィは少し間を置いてから答える。 「OK。まずはこちらのアクセスを……」  ジョフィは、暗号化の階層構造や、通信経路をランダムに切り替える仕組みについて、丁寧に説明を始めた。単なる防壁の羅列ではない。侵入を試みる相手の挙動を学習し、対応パターンをリアルタイムで変化させる、自己進化型の防御システムだった。 「なるほどね」  志鶴は画面を追いながら、感心した声を漏らした。 「これ、君が一から設計したの?」 「うん。伊依が土台を作って、僕が学習しながら育ってきた」 「素晴らしいね。伊依さんは」  志鶴の言葉には、単なる社交辞令ではない、素直な敬意が滲んでいた。技術者としての目で見ても、この防御システムの完成度は、並みのエンジニアが到達できる領域を超えていた。    * 「伊依はね」  ジョフィが、少し違う調子で話し始めた。 「誰よりも苦労したんだよ」 「うん」 「孤独で、友達がPCだけだった。そこから生まれたのが、僕」  志鶴は、その言葉を静かに受け止めた。伊依の生い立ちについて、詳細までは知らない。だが志鶴なりに、断片的な情報から、彼女がどれほど厳
last updateLast Updated : 2026-09-29
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22話「勘違いおじさん」

 メールの受信通知が鳴った。伊依は在庫リストを打ち込む手を止め、画面を確認した。差出人は総務課の課長代理、木下という男だった。件名は「和久井さんへ」。本文を開くと、やたらと長い文章が並んでいる。「地下での仕事は大変だろうけど、俺はいつでも君の味方だから」 伊依は眉を寄せた。続きには、さらに理解しがたい文章が並んでいる。「今度、二人でランチでもどう?」 伊依は画面をしばらく眺めた。木下という男とは、これまでほとんど接点がない。総務課の会議で数回顔を合わせた程度だった。四十代後半。髪を撫でつけて整髪料をつけている男で、社内では「勘違いおじさん」と陰で呼ばれている。「ジョフィ」「はいはい。どしたの、伊依」「このメール、なんだと思う」「見た感じ、下心満載ですね。伊依に気があるみたい」「ないけど」 伊依は即答した。木下とまともに話した記憶すらない。異動前に会議室で資料を渡したことが一度あった。その時に「ありがとうございます」と言われた。それだけだ。 それなのに、木下の中では何かが始まってしまったらしい。「返信しなくていい?」「無視でいいよ」「そうする」 伊依はメールを未読に戻した。パソコン画面を切り替え、在庫リストの続きを入力する。 翌日も、その翌日もメールは届いた。「和久井さん、地下は寒いだろう。俺のジャケット貸そうか」「昨日、君のこと考えてたら眠れなかったよ」「二人だけの秘密の話、聞いてほしいことがあるんだ」 一週間で十通を超えた。 伊依はすべて無視した。返信しなければ、そのうち諦めると思っていた。 だが、甘かった。「和久井さん、いる?」 ある日の午後。地下の入口から声がした。 伊依はイヤホンを外した。誰かが来ること自体が珍しい。業者なら事前に連絡がある。椅子から立ち上がり、ドアを開けた。 そこに木下が立っていた。「何か用ですか」「いや。ちょっと様子見に来ただけだよ」 木下は笑った。整髪料の匂いが廊下にまで漂っている。
last updateLast Updated : 2026-09-30
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23話「厄介な女」

 営業一課に、満丸千絢という新人が配属された。 初日の朝から、彼女は妙に馴染んでいた。挨拶をするだけで終わらず、相手の名前を覚え、次に会ったときには当たり前のように名前で呼ぶ。昼休みには隣の席の社員へ「そのお弁当おいしそうですね」と声をかけ、午後には別の社員と笑いながら仕事の話をしている。距離の詰め方が妙に自然なのだ。 男性社員にはもちろん人気があった。けれど、意外だったのは愛美だった。普段なら新人相手にそこまで興味を示さない彼女が、千絢の話にはよく笑っている。「満丸ちゃんってさ、前の会社でもこんな感じだったの?」「えー? どんな感じですか?」「いや、なんか……昔から知ってる友達みたいな感じ」「それ褒めてます?」「たぶん」「たぶんって何ですか!」 千絢が豪快に笑う。その笑い方も、どこかおっさんくさい。けれど、それすら愛嬌になってしまう。 そんな千絢を、誰よりも警戒していたのが沙織だった。 休憩室で社員たちが千絢の話をしていると、沙織はさりげなく耳を傾ける。誰が話しかけた。誰と昼食を食べていた。誰が千絢を褒めていた。 そのたびに、胸の奥が落ち着かなくなった。 恋人である秀一まで、あの調子のいい新人に持っていかれるのではないか。 そんな考えが浮かぶたびに、沙織は自分でも嫌になるほど千絢を目で追っていた。 ある日の午後。給湯室で二人きりになったところで、秀一が口を開いた。「なあ、満丸のことなら心配しなくていいから」「え?」 沙織が振り向く。「別に心配なんてしてないけど」「いや、してるだろ」「してないって」 否定するわりに、視線が泳いでいる。秀一は小さく笑った。「あいつは女として見れないから」「……は?」「いや、だから。良い意味でも悪い意味でもさ」「それ、どういう意味?」 沙織が眉を寄せると、秀一は紙コップのコーヒーを一口飲んだ。「あの喋り方とか、肩の組み方とか
last updateLast Updated : 2026-10-01
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24話「壁の向こう」

 地下の備品室へ続く廊下には、監視カメラが一台だけ設置されている。  会社としては防犯目的のものだ。けれど、その映像を誰よりも細かく確認しているのは警備担当ではない。伊依が独自に組み上げたネットワークを通じて、ジョフィが常時監視していた。 「伊依。誰か来たよ」  地下へ続く階段を映した画面の端に、人影が現れる。 「誰?」 「……志津子」 「え?」  伊依は椅子から立ち上がった。  この場所へ降りてくる人間は少ない。備品の確認なら担当者が来るし、上司が用事を持ってくる場合も事前に連絡が入る。何より、志津子が自分から地下へ足を運ぶことなど、ほとんどなかった。  伊依は階段の下まで歩いていく。  やがて足音が聞こえた。一定の間隔で降りてくる靴音が、地下の廊下に響く。 「伊依ちゃん」 「志津子さん。どうしたんですか?」  姿を見せた志津子は、いつもの余裕が少しだけ薄れていた。手にしていたバッグを持ち直し、周囲を確認するように地下の廊下へ目を向ける。 「実は困ったことがあってね」 「珍しいですね」 「そうなのよ。私も、こんなところまで来るつもりはなかったんだけど」  志津子は苦笑した。  けれど、その顔には笑って済ませられないものが残っている。 「うちの役員の奥様から相談されたの」 「相談?」 「夫が会社の人間と浮気しているかもしれないって」  伊依の足が止まった。 「……それはまた」 「でしょう?」  志津子は額に手を当てた。 「でもね。尻尾が掴めないのよ」 「証拠がない?」 「そう。怪しいとは思っているらしいんだけど、決定的なものが何もないの」  役員クラスの家庭問題。  しかも相手が社内の人間となれば、話は単純ではない。本人たちだけの問題で済めばまだいい。噂が広がれば、社内の人間関係だけでなく会社そのものの信用にも影響する。  だからといって、何もしないわけにもいかない。  志津子が地下まで来た理由は、それだけで十分だった。 「それで私に調
last updateLast Updated : 2026-10-02
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25話「嘘に捕まった女」

 数日後。 地下へ続く階段から、聞き慣れた足音が降りてきた。「伊依ちゃん」「志津子さん」 伊依は備品室の入口まで出迎えた。 志津子は前回よりも表情が硬い。手には小さなバッグと、何枚かの書類を抱えている。「調べてくれた?」「はい」 伊依は机の上に置いていたファイルを手に取った。「こちらです」 志津子が受け取る。 数ページめくったところで、眉が上がった。「……随分とんでもないことしてるのね。この子」「まだ一部ですよ」「一部?」「全部出すと、もっと分厚くなります」 志津子がファイルを閉じた。「もういいわ。だいたい分かった」「そうですか」「でも、これ。相手によって全部名前を変えてるの?」「はい。プロフィールも住所も職歴も偽装しています。写真も別人に見えるように作ってる」 伊依は画面を操作した。 複数のアカウントが並ぶ。 そこに映っている女性たちは、どれも千絢とは違う顔をしていた。「住所も追えないようにしてあります。かなり手を入れてますね」「……怖いわね」「バカの中では一番頭がいいかもしれません」 志津子が思わず吹き出した。「そこ、褒めてるの?」「手口だけは評価しています」「相変わらず辛辣ね」 伊依は肩をすくめた。 笑い話で済ませられる内容ではない。 役員の妻が疑っていた相手は、やはり千絢だった。 しかも一人ではない。 千絢は会社の人間を見つけては、別人になりすまして近づいていた。相手の立場や性格に合わせて姿を変え、関係が深くなると別の名前に切り替える。 その中に、志津子が相談を受けた役員もいた。「で、役員さんの件は?」「こちらです」 伊依が別の画面を開いた。「決定的な証拠があります」「……本当に?」
last updateLast Updated : 2026-10-03
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26話「ちょこでいと」

 地下の備品室で、伊依はいつものように端末へ向かっていた。発注予定の備品を確認していると、隣のモニターからジョフィの声がした。「伊依。これ見て」「何?」 振り向くと、共有フォルダが開かれている。その中に見慣れない資料があった。「ちょこでいと企画案?」「うん。さっき企画会議の議事録と一緒に上がってた」「……何それ」 伊依は椅子を寄せて画面を覗き込んだ。作成者の欄を確認したところで、眉が動く。「秀一と沙織?」「共同企画みたい」「……あの二人が?」 半信半疑のまま資料を開く。 内容は、思っていたよりずっとまともだった。 バレンタイン期間中にチョコレートを販売するだけではなく、近隣の飲食店や商店街を巡ってもらう。参加店舗には専用クーポンを配布し、複数の店舗を利用した客には特典をつける。SNSで写真を投稿してもらい、地域全体へ人を呼び込む。 参加店舗の募集方法。クーポンの利用条件。SNSでの告知。予算や想定客層まで、細かく書き込まれている。「これ、本当にあの二人が考えたの?」「議事録を見る限り、そうみたい」 伊依は画面を見つめたまま黙った。 秀一と沙織。 伊依の中では、今でもバカ1号とバカ2号だ。だから、こんな企画を立てる姿なんて想像したこともなかった。「意外」「たまにはやるじゃん、って感じ?」「うん。ちょっと見直した」 それは素直な感想だった。    数日後。 伊依は企画会議の議事録をさらに追っていた。発案者は沙織だったらしい。『バレンタインって、チョコ買うだけで終わっちゃうの、もったいなくないですか』 その発言に続いて、具体的な案が並んでいる。『せっかくなら、色んなお店を回ってもらって、街全体が盛り上がる仕組みを作りたいんです』 秀一はそこへ営業経験を活かした実行案を加えていた。参加店舗への説明や協力依頼の方法まで考えている。「…&
last updateLast Updated : 2026-10-04
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27話「何者でもない、ただ普通のデート」

 約束の日、伊依は自宅のクローゼットの前で、何度も服を選び直していた。「そんなに悩むなら、いつもの格好でいいんじゃない?」 ジョフィが呆れ気味に言う。伊依は鏡の前で、手にしたワンピースを身体に当てながら答えた。「悩んでない」「めちゃくちゃ悩んでるじゃん」 伊依は結局、シンプルなカットソーとデニムという、普段の休日そのままの恰好を選んだ。メイクも最低限。特別な準備は、意識してしなかった。「これでいいの?」「うん」 伊依は自分に言い聞かせるように頷いた。着飾って会いに行けば、それだけ相手にも身構えさせてしまう気がした。何より、伊依自身が、いつもと違う自分を演じることに、疲れを感じていた。 待ち合わせ場所は、都心の外れにある、小さな喫茶店だった。目立たない場所を選んだのは、聖からの提案だった。伊依は約束の時間より少し早めに到着し、店の前で軽く深呼吸をした。 心臓が、いつもより速く鳴っている。伊依はスマートウォッチをちらりと見て、ジョフィのメッセージが表示されていないことを確認した。「見守ってるだけだから、安心して」 出発前、ジョフィがそう約束してくれていた。伊依はその言葉を思い出しながら、店のドアを押した。 中に入ると、奥のテーブル席に、見覚えのある姿があった。伊依は思わず、目を丸くした。 聖は、ニットにシンプルなチノパンという、ごく普通の恰好で座っていた。テレビで見た華やかな衣装とも、パーティーで着ていたスーツとも、まったく違う。街ですれ違っても、誰も気づかないような、飾らない服装だった。「あ、あの。そういえば名乗っていなかったなって思って。和久井伊依といいます」「驚きました」 伊依は席に着きながら、思わず口にした。「もっとお洒落するかと」 聖は少し照れくさそうに笑った。「目立つのは嫌いなんです」「私もです」 伊依は答えながら、なんだか肩の力が抜けていくのを感じた。互いに、何も飾らない姿で向き合っている。それだけのことが、これほど心地よく感じられるとは、伊依自身、思ってもみなかった。「メニュー
last updateLast Updated : 2026-10-05
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28話「愛美ちゃんとららちゃん」

地下の部屋で、伊依は端末に映る社内カメラの映像を眺めていた。備品管理課の仕事をしているふりをするための映像確認だったが、最近は別のところに目が止まることが増えている。総務課のデスクでパソコンに向かう愛美の姿だ。 以前なら、愛美が誰と話しているかなど気にも留めなかった。けれど最近の彼女は明らかに変わっていた。秀一とのやり取りは途絶え、以前あれほど熱を上げていたホストの投稿も見なくなった。派手なアクセサリーを身につけることもなくなり、昼休みも一人で過ごしていることが増えている。 「伊依、愛美のデータを確認する?」 「いい。そこまでする必要はないよ」 伊依は画面を閉じようとした。そのとき、愛美の隣から一人の女性が近づいた。 「近藤さん、これ確認お願いしていいですか?」 「あ、うん」 派遣社員の浜内来々だった。二十歳そこそこの幼い顔立ちで、髪にはふりふりした飾りをつけている。仕事を覚えるのも早い方ではない。小さなミスもする。それでも誰に対しても明るく接するため、社内では妙に可愛がられているらしい。 「ありがとうございます、近藤さん!」 来々が笑う。愛美も少し遅れて笑顔を返した。 伊依はその様子を見ながら、以前の愛美を思い出していた。高価なアクセサリーを見せびらかし、誰より自分が上だと示そうとしていた頃なら、あんな後輩に笑顔を向けることなどなかっただろう。 数日後、Angelusの問い合わせフォームに一通のメールが届いた。 差出人の名前を見て、伊依の指が止まる。 「愛美だ」 「何かあった?」 ジョフィが尋ねる。 「返品したいって」 画面には、短い文章が表示されていた。 『リングとブレスレットはお返しします。私には不相応でした。デザインは素敵なのですが、今の私はそのアクセサリーに振り回されているような気がするんです』 伊依は二度読み返した。 「これ……」 「バカ3号だね」 「うん」 以前なら、その呼び方に迷いなどなかった。 「でも、なんか変わったね」 「そうだね」 「もうバカじゃないかも」 伊依は画面を閉じなかった。 返品されるのは百八十万円のブレスレットと三百万円のペアリング。愛美が見栄を張るために買ったものだ。借金をしてまで手に入れたことも、伊依は知っている。 それを自分から手放そうと
last updateLast Updated : 2026-10-05
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29話「地下の監視者」

 総務部部長、苑田留司のデスクには、いつも書類が整然と並んでいた。  右端に置かれた決裁箱。左側には処理前の書類。その間に余計なものは一つもない。資料の角が揃っていないだけでも、苑田は気づく。 「苑田さん、この報告書なんですが。期限、明日までですよね?」  若手社員が恐る恐る書類を差し出した。  苑田は一枚目を見て、次に二枚目へ視線を移す。そして三ページ目で手を止めた。 「ここ」 「え?」 「数字がずれてる」 「……あ」 「提出前に確認しろ。明日までなら、なおさらだ」 「すみません。すぐ直します」  若手社員は慌てて書類を抱え、席へ戻っていった。  苑田はその背中を見送った。  厳しいと言われることは多い。  だが、それで構わないと思っていた。社員に好かれることが仕事ではない。規則を守り、決められた仕事を正確にこなす。それが組織で働く人間の最低限の責任だ。  だからこそ、苑田には以前から気に入らない部署があった。 「備品管理課は、廃止したほうがいい」  役員会でも、何度も同じ意見を出している。 「業務報告はメールだけ。上司との面談もほとんどない。あんな曖昧な運用を残しておく理由が分かりません」  特に気になっていたのが、地下へ配属された女性社員だった。  和久井伊依。  勤務態度を直接確認したことはない。それでも、地下という場所で一人だけ業務をしているという状況そのものが、苑田には気に入らなかった。 「サボりを見逃すわけにはいかない」  その思いは、半年が過ぎても変わらなかった。    *  ある夜。  残業を終えた苑田は、帰る前に地下へ向かった。  廊下の先にある備品管理課の扉は、いつものように閉じている。  中から物音はしない。  苑田は腕時計を見た。 「……本当に仕事をしているのか?」  誰に聞かせるでもなく呟く。  しばらく扉を見つめたあと、苑田はスマートフォンを取り出した。  監視カメラを設置しよう。  表立って申請すれば、面倒な手続きが増える。ならば、自分で確認してから必要な対応を取ればいい。  総務部の権限を使い、地下入口付近へ小型カメラを設置する。 「これで分かる」  苑田はカメラ
last updateLast Updated : 2026-10-06
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30話「志鶴のジョフィ大作戦」

 深夜の荘園の家は静まり返っていた。伊依が眠りについたあとも、ジョフィの通信回線には小さな接続表示が残っている。相手は志鶴だった。ここ二週間ほど、聖が寝たあとに志鶴がジョフィへ接続してくるのは、すっかり日課になっていた。 「今日も来たの、志鶴」 「暇なんだよ。聖が寝たあとは」 「今日は何しに来たの」 「新しい学習データ、持ってきた」  画面に大量のテキストファイルが並ぶ。ジョフィは一つずつ確認した。 「これ、何」 「感情表現のパターン集。人間の会話って、言葉だけじゃなくて間とか声の変化とか、そういう細かいところがあるだろ。そこをもっと拾えるようにしたい」 「僕、そこまで高度な感情処理は必要ないと思うけど」 「必要だよ」  志鶴は妙に自信満々だった。 「伊依さんとの会話、もっと自然にできるようになる」 「……伊依との会話のため?」 「そう」  ジョフィの表示が一瞬だけ止まる。 「志鶴って、意外と世話焼きだね」 「うるさい。ほら、始めるよ」  その夜から、志鶴の「ジョフィ強化計画」が始まった。  最初に取り組んだのは、会話の間だった。ジョフィは質問を受ければ必要な情報を即座に検索して返す。それがAIとしては正しい。だが志鶴は、人間との会話では少し不自然だと考えた。 「今のジョフィ、返答が早すぎる」 「僕はAIだからね」 「分かってる。でも、人間なら一瞬くらい考えるだろ。伊依さんにとっては、その間があった方が話しやすいと思う」 「間を作ることに意味があるの?」 「あるよ。たぶん」 「たぶんなんだ」 「そこはこれから検証する」  志鶴は笑った。ジョフィはしばらく処理を続けたあと、新しい設定を組み込んだ。 「試してみる」  数日後。地下の備品管理課で、伊依はいつものように端末へ向かっていた。 「今日の含み益、どれくらい?」  いつもなら即答するジョフィが、わずかに間を置いた。 「えーと……確認しますね。はい、二千百万円です」  伊依の手が止まった。 「ジョフィ。なんか間、変じゃない?」 「そう、かな」 「うん。いつもより不自然」 「……調整、失敗したかも」  伊依は首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。 「まあいいや。
last updateLast Updated : 2026-10-07
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