All Chapters of 『追放された聖女と呪われた竜王の契約結婚』: Chapter 31 - Chapter 40

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第30話 元婚約者から届いた手紙を、今の夫と一緒に読みました

『俺は最近、自分が君を追放した日の記憶に、明らかに存在しないはずの空白があることに気づいた。』その一文を声に出して読み終えたところで、ミオは次の行へ進むことができなくなった。机の上には、人間王国から届いた数枚の便箋が広げられている。白い紙に並んだ筆跡は、三年間も婚約者として隣にいたミオが見間違えるはずもなく、間違いなくアドリアン本人のものだった。以前なら、その字を見るだけで嬉しくなった時期もあったし、追放された直後であれば怒りや悲しみが先に立っただろう。しかし今のミオの胸にあるのは、懐かしさでも未練でもなく、この手紙の中に自分の召喚や追放、人間神殿の企みに繋がる何かが隠されているのではないかという、妙に現実的な緊張だった。隣にはカエルが座っている。向かい側ではなく隣に座ったのは、彼からそうしたいと言い出したわけではなく、ミオが「一緒に読んでほしい」と頼んだからだった。カエルはそれを断らず、だからといって勝手に手紙を覗き込むこともせず、ミオが読み始めるまで黙って待っていた。そのことが、少し前までの彼を思えば、ずいぶん大きな変化のように感じられた。「……続き、読めそう?」カエルが静かに聞いた。ミオは手紙から目を離さないまま、少し考えてから頷いた。「読めます。ただ、この書き方が気になるんです。もし『あの日のことを何も覚えていない』って書いてあったなら、私はたぶんもっと簡単に疑えたと思います。でも、殿下が書いているのは『空白がある』なんですよね」「追放したこと自体は覚えている、という意味か?」「たぶん、そうだと思います。婚約を破棄したことも、私に『もう必要ない』と言ったことも覚えている。でも、その前後のどこかだけ、自分でも説明できないところがあるんじゃないでしょうか」カエルの表情がわずかに険しくなった。「私は、その男を許すつもりはない」「はい。それは分かっています」「ただ、何かされた可能性まで否定するつもりもない。私があの男を嫌いだからといって、事実まで都合よく決めれば、神殿が何をしたのか見誤る」思っていたより冷静な答えに、ミオは少し驚いて横を見た。「今日はずいぶん落ち着いてますね」「君が隣にいるからだ」「私がいなかったら?」「使者をもう一度呼び戻して、知っていることを全部話すまで帰さなかったかもしれない」「それは全然落ち着いてませ
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第31話 初代聖女が残した『夫へ』という手紙

初代聖女アリサが、少なくとも自分たちがこれまで考えていた意味では完全に死んだと断定できない可能性が出てきた翌朝、ミオは目を覚ましてもしばらく寝台から起き上がる気になれなかった。昨夜はザラに「ここから先まで続けたら、疲労で都合のいい結論へ飛びつくから終わり」と半ば強制的に調査を打ち切られたため、それなりに眠ることはできた。それでも目を開けた途端、人間王国から届いたアドリアンの手紙と、王家秘録から浮かび上がった「肉体停止」「魂」「灰門」「眠り」「人の国」という断片が、待っていたように頭の中へ戻ってきた。七百年前にこの世界へ召喚された可能性が高い女性。故郷へ帰りたいと願い、母を思い、それでも最後には当時の竜王ゼルドを選んだと記録されている女性。その人物のものかもしれない棺が、今も人間神殿の地下に存在している。もし本当に、そこにアリサが眠っているのなら。会ってみたいかと聞かれれば、答えはもう決まっていた。会いたい。帰還門のことを知りたいからだけではない。どうして帰らなかったのか。帰ることができると知ったとき、どれほど迷ったのか。この世界で誰かを大切に思うようになったあとも、日本へ帰りたいという気持ちは残っていたのか。もし残っていたのなら、その二つの気持ちをどう抱えて生きたのか。ミオ自身が、今まさに答えを出せずにいることばかりだった。「同じだったのかな……」誰もいない部屋で呟いてから、ミオは枕元へ視線を向けた。そこには、これまで何度も書き足してきた「やってみたいこと」の紙が置いてある。日本へ帰る方法を自分で確かめること。怖くても、自分で選ぶこと。できれば一人で決めないこと。帰るか残るか分からなくても、今いる場所を楽しむこと。そして少し下には、「カエルと海へ行く」と書いた一文もある。そこを見ると、どうしても口元が緩んだ。「少なくとも、まだ海にも行ってないんですよね」人生の大きな答えを急いで決めようとすると、今やりたい小さなことまで全部「そのあと」に回してしまいそうになる。それは、もうやめたい。そう思って、ミオはようやく寝台から出た。朝食室へ向かうと、カエルはすでに席についていた。珍しいことに、手元には書類がない。その代わり、ミオが扉から入った瞬間から、ずっとこちらを見ている。「おはようございます」「おはよう。眠れた?」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第32話 七百年前の竜王は、妻を人間の国へ返していました

初代聖女アリサがゼルドへ残した私信が見つかった翌日、封鎖書庫では朝から古い記録箱がいくつも開かれていた。アリサの手紙には、「門を閉じたあと、私は人の国へ戻る」「あなたは来てはいけない」「私はあなたの妻であることをやめない」という、どう考えても簡単には両立しそうにない言葉が残されていた。日本へ帰る道が開いたにもかかわらず帰還を選ばず、それでも夫である竜王のもとにも残らず、人間側へ戻った理由については肝心な部分が損傷しており、読めるのは「封じる」「眠り」「門」「私でなければ」という単語だけだった。そのためザラは、今度はアリサ本人の記録ではなく、ゼルド王側の記録を探すべきだと判断した。「夫が妻を送り出したのなら、本人側に何か残っているはずよ。少なくとも、七百年前の竜王が『妻がいなくなりました、以上』で済ませたとは思えないわ」机いっぱいに広げられた目録をめくりながらザラが言うと、隣で古文書を確認していたカエルが不満そうに眉を寄せた。「その言い方だと、竜王なら必ず妻を追いかけると言っているように聞こえる」「あなたなら追いかけるでしょう」「当然だ」「だから言ってるのよ」ミオは向かい側で記録番号を書き写しながら、思わず苦笑した。「でも、アリサは『来てはいけない』って書いていたんですよね。ゼルド王がその約束を守った可能性もあるんじゃないですか?」「私なら守れない」カエルが即答する。「そこは少しくらい迷ってくださいよ。相手が本気で『来ないで』と言っているのに、追いかけたらそれはそれで困るでしょう」「危険な場所へ一人で行くなら追う」「だから、本人が一人で行く必要があると言っていたら?」「近くまで行く」「来るなって言われているのに?」「見つからないところまで」ミオは手を止めた。「それ、ものすごく怒られるやつですよ」「無事なら怒られてもいい」ザラが額を押さえた。「あなたたち、まだ一行も新しい史料を読んでないのに、もう夫婦喧嘩の予行演習を始めないでくれる?」「まだ夫婦喧嘩じゃありません」「契約夫婦でしょう」「そこを毎回拾わなくてもいいです」「最近ミオ自身があまり否定しなくなってきたから、面白くないのよ」「何が面白くないんですか」「からかい甲斐が減る」「友達ってそういうものなんです?」「私の場合はそう」ザラはしれっと答え、再び目
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第33話 竜王様、私の店で皿洗いをしないでください

『ミオの食卓』四日目の朝、ミオは開店前から小さな問題に直面していた。正確には、小さいのは問題そのものではなく店の規模である。十席しかない食堂なのだから、普段であればミオとバルム、ノア、接客を手伝ってくれるリュナが揃えば十分に回せる。しかし今日は、朝からリュナが王城の侍女長に呼ばれ、急きょ午後まで城へ戻らなければならなくなったうえ、ノアまで厨房へ向かう途中で足を捻ってしまった。幸い、ノアの怪我は大したものではない。ザラの診療所で診てもらったところ、骨にも靱帯にも問題はなく、一日休めば明日からは仕事へ戻れるだろうと言われたらしい。それは良かった。本当に良かったのだが。「つまり今日は、接客が私で、厨房がバルムと私……ということになりますよね」開店前の店内で、ミオは腕を組みながら五つの卓を見渡した。向かい側ではバルムが大鍋の火加減を確かめている。「俺一人でも料理は出せる」「分かってますけど、注文を取って、料理を運んで、食器を下げて、会計して、その間に私も厨房へ戻って盛り付けをして……ってなると、たぶん最初の二回転くらいで何かやらかします」「なら今日だけ席を六つに減らせ」「それが一番現実的ですよね」昨日まで十席だったところを、今日は三卓だけ使って六席にする。売り上げは落ちるだろうが、無理に十席を回して料理や接客が雑になるよりいい。そう決めかけたところで、店の外から聞き慣れた声がした。「人手が足りない?」ミオは嫌な予感を覚えながら振り返った。開店前だというのに、扉の向こうにカエルが立っている。しかも今日は客として来たときの簡素な黒衣ではなく、王城で執務をしていたらしい正式な服装のままだった。その後ろにはセバンまでいる。「……どうしているんですか」「昼前に一度戻る途中で、店の前を通った」ミオは無言でセバンを見る。セバンは穏やかな微笑を浮かべた。「陛下が『市場の様子を確認する必要がある』と仰いましたので」「本当の理由は?」「ミオ様のお店の前を通りたかったのだと思われます」「セバン」「事実でございます」カエルがわずかに眉を寄せた。ミオは思わずため息をついた。「今日は人が足りないので、席数を減らそうとしていただけです。大ごとじゃありません」「誰が足りない?」「リュナが城へ呼ばれて、ノアが足を捻りました。怪我は軽いので心配し
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第34話 ミーナが初めて「お父さんに怒ってる」と言えました

ミーナの体調が目に見えて安定し始めたのは、『ミオの食卓』を開いてから四日目の夕方だった。以前は少し長く話しただけでも息が上がり、顔色が急に悪くなることがあったが、最近は診療室の中をゆっくり歩けるようになり、食事も一度に食べられる量が少しずつ増えている。ザラによれば、人間神殿から渡されていた薬に含まれていた呪術的な依存作用が《聖卓》の影響と治療によって弱まり、身体そのものも新しい薬に慣れてきたらしい。ただし、良くなっているからといって、もう何も心配がないわけではなかった。「今日はこれだけ食べられたんですよ」診療室へ顔を出したミオに、ミーナは小さな皿を得意そうに見せた。そこには、月蜜菓子を四分の一ほどに切ったものが、ほんの少しだけ残っていた。「ほとんど食べられたじゃないですか」「うん。でもね、最後のひと口はお腹いっぱいだったから、無理しなかった」「それが一番偉いです。全部食べることより、自分のお腹がもういいって言ってるのを分かるほうが大事ですから」ミーナは少し嬉しそうに笑った。「ザラ先生も同じこと言ってた」「でしょう?」「でもザラ先生は、『無理して吐いたら私の仕事が増えるからやめなさい』って言った」「……言いそうですね」奥の机で薬草を整理していたザラが、顔も上げずに言い返した。「間違ったことは言ってないでしょう」「もう少し子供向けの言い方ってあると思うんですけど」「ミーナはちゃんと意味を理解してるからいいのよ。それに、私は優しい医者を演じるつもりはないわ」「ザラ先生、怖くないよ」ミーナがさらりと言った。ザラの手が一瞬だけ止まる。ミオはその変化を見逃さなかったが、何も言わなかった。「お薬、苦いけどね」「そこは我慢しなさい」「うん」ザラは何でもない顔で作業を続けたが、ほんの少しだけ口元が柔らかくなっていた。ミオはミーナの隣へ腰を下ろした。「今日はお父さんと会う日でしたよね」その言葉を聞いた瞬間、ミーナの笑顔が少しだけ曇った。ラシュとの面会は、彼が正式に拘束されてからこれで三度目になる。最初の面会では、ミーナはほとんど父親の顔を見られなかった。二度目は少し話せるようになったものの、「大丈夫だよ」「お父さん嫌いじゃないよ」と、父親を安心させようとする言葉ばかりだった。七歳の子供が、罪を犯した父親を慰めようとしていた
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第35話 『聖女の母』と呼ばれるもの

翌朝、ミオが封鎖書庫へ入ると、ザラはすでに机の上へ十冊近い古文書を積み上げ、そのうち二冊を同時に開きながら、片手で別の資料へ印を付けていた。普段から研究に集中すると周囲が見えなくなる人ではあるが、今日はいつにも増して様子がおかしい。紫色の長い髪は後ろで適当に束ねられ、机の端には冷めきった茶が置かれたままになっている。どう考えても朝食をまともに取っていない顔だったので、ミオは挨拶をするより先に、その茶を見て眉を寄せた。「ザラ、朝ご飯は食べました?」「食べたわよ」「何を?」「干し果実」「それは朝ご飯じゃありません」「昨日の残りが三つあった」「個数の問題でもありません」ザラは面倒そうに顔を上げた。「あなた、最近バルムみたいになってきたわね」「誰かが言わないと、そのうち本当に資料だけ食べて生き始めそうだからです」「紙は消化に悪いから食べないわよ」「そういう話じゃありません」言い合っているところへ、後ろからカエルが入ってきた。彼は当然のように朝食を済ませており、しかもセバンから持たされたらしい小さな籠まで手にしている。「ザラ」「何よ」「セバンから」机の端へ置かれた籠の中には、黒麦パンと薄切りの燻製肉、それに果実が入っていた。ザラは露骨に嫌そうな顔をした。「何で私の食事事情まで侍従長に管理されてるのよ」「昨日の夜、書庫から出たのが遅かったからだろう」「研究していただけよ」「食べないなら、セバンが昼に直接来ると言っていた」ザラは数秒黙り、諦めたようにパンへ手を伸ばした。「……あの老人、本当に面倒ね」「心配されてるんですよ」「分かってるから余計面倒なの」ミオは少し笑った。人間関係は、本当にどこへ行っても似たようなものらしい。ザラが遅い朝食を取り始めたところで、ミオは本題へ入った。「昨日の『白き母』のこと、何か分かりました?」「少しだけ。ただし、思ったより厄介」その言葉だけで、ミオの表情が引き締まる。昨夜、ラシュの追加供述から出てきた「眠れる白き母」という言葉。人間神殿の神官たちは、ミーナへ薬を渡す際、何度かその名を口にしていたという。しかも、これまで見つかった初代聖女関連の記録には、「第一の器」「白き眠り」「始まりの女」という表現が残っている。偶然にしては近すぎる。けれど、だからといって「白き母は初代聖女
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第36話 竜王様と初めて、何もしない休日を過ごしました

翌朝、ミオが目を覚ますと、枕元の小机に置いていた予定表の上へ、一枚の紙が重ねられていた。昨日の夜、自分で書いた覚えはない。何だろうと思って手に取ると、そこにはセバンの整った文字で、たった一行だけ書かれていた。『本日、ミオ様には何もなさらないことをお勧めいたします。』「……何ですか、これ」思わず声に出してしまった。予定表には、本来なら午前中にザラと「白き母」に関する追加資料を確認し、昼前から『ミオの食卓』へ向かい、閉店後には翌日の材料費を計算するつもりで書き込んであった。それらすべての上に、堂々と「何もするな」と置かれている。しかもセバンが、こんな妙な冗談を自分から書くとは思えない。となれば、犯人はだいたい想像がつく。着替えを済ませて朝食室へ向かうと、予想どおりカエルがいた。今日はいつもの執務服ですらなく、黒い簡素なシャツに動きやすそうな濃灰色のズボンという、王城の中ではかなり珍しい服装をしている。髪もきっちり整えておらず、少しだけ寝癖が残っていた。その姿を見た瞬間、ミオは何となく嫌な予感を覚えた。「おはようございます」「おはよう」「カエル、今日仕事は?」「ない」「国王なのに?」「セバンに聞いたら、急ぎのものは昨日までに終わっていると言われた」「じゃあ、あの紙は?」「見た?」「見ました。『何もするな』って、ものすごく雑な指示が置いてありましたけど」カエルは少しだけ得意そうな顔をした。「今日は休もう」「私は店があります」「ない」「ありますよ」「バルムに昨日聞いたら、『一日くらい来なくても店は潰れねえ』と言っていた」ミオは思わず目を見開いた。「いつの間にバルムとそんな話したんですか?」「昨日、君が店から帰ったあと」「勝手に店の勤務予定を相談しないでください!」「休めと命令したわけではない。今日来なくても困らないか確認しただけだ」言い方が妙に理屈っぽい。しかも、以前のカエルなら「疲れているから今日は休め」と決めていたところを、今回は店側の事情まで先に確かめたらしい。成長している。成長しているのだが、だからこそ少し腹が立つ。「ザラとの調査は?」「ザラにも聞いた」「そこも?」「『一日くらい調査しなくても初代聖女は逃げない』と言っていた」「みんなで私を休ませようとしてません?」「そうだと思う」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第37話 人間の聖女リリアから、秘密の手紙が届きました

何もしない休日を過ごした翌朝、ミオはいつもより少し軽い気持ちで目を覚ました。一日休んだからといって、人間神殿の謎が解けたわけでも、初代聖女アリサが眠っているかもしれない「棺」の正体が分かったわけでもない。それでも、頭の中に詰まりすぎていた考えが少し整理され、今すぐ答えを出さなければならないという焦りだけは薄くなっていた。だからこそ、朝食後にセバンから「ミオ様宛てに、少々扱いの難しい書状が届いております」と告げられたときも、以前のように反射的に身構えることはなかった。ただ、その差出人を聞いた瞬間、さすがに手が止まった。「リリアさんから?」「はい。正式な外交文書ではなく、個人的な書状として届けられております。ただし、通常の郵便経路ではございません」セバンが差し出した封筒は、小さく折り畳まれた薄い灰色の紙に包まれていた。人間王国の王家紋章も神殿の印もなく、表にはただ、少し震えた文字で「相沢美緒様へ」とだけ書かれている。ミオはそれを受け取りながら聞いた。「どうやって届いたんですか?」「人間王国とヴァルディアの中継市場を行き来する中立商人が、国境守備隊へ預けたそうです。その商人自身も差出人とは直接会っておらず、『王都の宿で、信頼できる者へ渡してほしいと頼まれた』とのことでした」「かなり遠回りしてますね」「神殿や王宮の正式な経路を避けたかったのでしょう」隣にいたカエルの表情が険しくなる。「開ける前にザラへ見せる」以前なら、そこで「読むな」と続いたかもしれない。けれど今回は、カエルはそれ以上何も決めなかった。ミオも頷く。「そうですね。アドリアン殿下の手紙は普通の封蝋でしたけど、今回は秘密の経路で来てますし、念のため確認してもらいましょう」「私も一緒に行く」「仕事は?」「午前の会議は一刻後だ」「じゃあ、それまでですね」「嫌?」「嫌じゃありません。むしろ、いてください」カエルの肩に黒金色の魔力がうっすら浮かび、ミオはすぐに眉を上げた。「まだ読んでもいないのに光らないでくださいね」「君がいてくれと言った」「そうですけど、毎回そこまで大喜びされると、私のほうが言いづらくなります」「なら少し抑える」「お願いします」封鎖書庫へ着くと、ザラはまだ朝の資料整理をしているところだった。昨日ミオを休ませた手前、自分も徹夜をしてはいけない
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第38話 もう一人の聖女は、私の代わりではありませんでした

リリアへ返事を送った翌朝、ミオは『ミオの食卓』の開店準備をしながら、自分でも驚くほど何度も店の入口へ目を向けていた。もちろん、昨日出したばかりの手紙に今日返事が届くはずはない。そもそも正式な外交便を使わず、中立商人を何人か経由して人間王国へ戻す以上、無事にリリアの手元まで届くかどうかすら分からない。それでも、自分から彼女へ言葉を返したことで、それまで一方的に「自分を追い出したあとに現れた聖女」として記憶の中に置いていた存在が、急に現実の一人の女性として近くなったように感じられていた。「ミオ、さっきから入口ばっかり見てるぞ。今日、誰か来る予定でもあんのか?」厨房からバルムに声をかけられ、ミオは慌てて鍋へ視線を戻した。「誰も来ませんよ。ちょっと考え事をしていただけです」「それなら手ぇ止めんな。考え事しながらでも根菜は切れる」「料理人って厳しいですね」「包丁持ってる奴がぼんやりしてたら怖えだろうが」「それは確かに」素直に認め、ミオは月白根と呼ばれる淡い色の根菜を小さく切り分けていった。今日は鳥肉ではなく、豆と刻んだ香草を使った軽い煮込みを出す予定で、月蜜菓子は昨日より少し数を増やしてある。足を捻っていたノアも、今日はほとんど普通に歩けるところまで回復していた。ただしバルムから「治ったつもりで走るな」と何度も釘を刺され、厨房内での移動は普段より慎重にしている。リュナは客席の卓を拭き終え、開店札を出しながらミオのところへ戻ってきた。「今日の列、昨日よりちょっと短いですよ」「それはそれで心配になりますね」「昨日は昨日で『多すぎる』って言ってませんでした?」「言いました」「じゃあ、何人なら安心するんですか?」「分かりません」即答すると、リュナが笑った。「ミオ様って、店を始めてから前より面倒くさくなりましたよね」「最近みんな私にそれ言いません?」「陛下と一緒にいるから移ったんじゃないですか?」「それは本人に聞かせないでください。たぶん『似てきたのか』って喜びますから」「喜びそうです」二人で笑い合いながら準備を続けているうちに、開店の時間になった。今日の最初の客は、南市場で革を扱っているダンだった。初日の営業でカエルと相席になり、東通りの補修工事について直接話すことになった男である。「おはよう、ミオさん。今日は陛下はいないのか?」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第39話 地下聖堂の棺が、一度だけ開いていました

リリアが王宮記録庫への閲覧申請を出したという報告がヴァルディアへ届いたのは、それから三日後のことだった。ただし、知らせを持ってきたのはリリア本人ではない。最初に届いたのは、人間王国側で独自に調査を続けていたアドリアンからの追加報告だった。その朝、ミオは『ミオの食卓』の仕込みを終えたところで、王城から急ぎの使いが来たと聞かされた。何か事件が起きたのかと一瞬身構えたが、迎えに来たリュナによれば、北塔で再び異常が起きたわけでも、ミーナの容体が悪化したわけでもないらしい。「ザラ様が、『昼営業の前に見せたいものがあるけど、店を休ませるほどじゃない』って言ってました」「その言い方、すごくザラらしいですね」「あと、『陛下が勝手にミオ様を連れてくる前に、正式に呼んでおく』とも」「カエル、何かしました?」「まだ何も。でもザラ様は、『あの人ならする』って」「信用があるんだかないんだか分かりませんね」リュナと笑いながら店を出ると、王城までは馬車を使った。午前中だけ書庫へ顔を出し、昼前には戻って営業へ参加する予定である。以前のミオなら、「重要な情報が出たのだから今日は店を休もう」と自分から決めていたかもしれない。しかし最近は、一つの謎が見つかるたびに生活全部を止めて追いかけることをしなくなった。調査も大切。店も大切。どちらか一つだけが、本当の自分ではない。その感覚が少しずつ身についてきていた。封鎖書庫へ入ると、ザラとアルク、セバンのほかにカエルもすでに待っていた。「やっぱりいる」ミオが言うと、カエルが少し不満そうに眉を寄せた。「私がいてはいけない?」「そういう意味じゃありません。ザラの予想どおりだったなと思っただけです」「何を予想した?」「気にしなくていいです」「気になる」「あとでザラ本人に聞いてください」向かい側で資料を広げていたザラが、面倒そうに手を振った。「その話はどうでもいいから座って。人間側から二系統、かなり近い内容の報告が届いた」ミオはすぐに表情を引き締めた。「二系統?」「一つは王太子アドリアン側。もう一つは、おそらくリリアから」「おそらく?」「本人名義じゃないの?」ザラは一枚の薄い紙を持ち上げた。「前回とは違う経路を使っている。差出人名もない。ただ、本文に『白炎の娘より』とだけ書いてあって、筆跡が前回の手紙と
last updateLast Updated : 2026-09-22
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