Todos os capítulos de 娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない: Capítulo 31 - Capítulo 40

104 Capítulos

第31話 写真の隅

 真帆は次の画像をタップした。  それも、古いフィルム写真をスマホで撮り直した画像だった。  観覧車の前での一枚。  悠人がその少女をたかだかと抱き上げ、沙耶が横で笑っている。  次はレストランでの一枚。  誕生日ケーキを前に、三人が肩を寄せ合っている。  真帆の背筋を、耐えがたい寒気が駆け抜けた。  これらの古い写真の場所、構図、立ち位置、子どもの服、髪留め――。  それらはすべて、先ほど真帆が目にした、この二年余りの間に撮られた「悠人・沙耶・七海」の写真と、寸分違わず一致していたのだ。  その並びの最後に、ほかとは少し違う一枚があった。古い写真館らしい室内。革張りのソファの中央に少女が腰掛け、膝の前で両手を重ね、少しだけ首を左へ傾けている。右には悠人、左には沙耶。行楽地の写真よりも改まった、きちんとした家族写真だった。◇ 水族館の大水槽。観覧車の前。レストランのケーキ。  現在の写真と、古い写真。  二つの時代に撮られた写真が、まるで同じ型抜きで作られたかのように、完璧に重なり合っていた。  ただ、中央にいる子どもだけが違っている。  現在は、七海。  過去は、真帆の知らない、あの女の子。  真帆には、沙耶がただ悠人と関係を持ち、七海を手なずけて家庭を奪おうとしているだけではないように思えた。  あの子と同じ服を、なぜ七海に着せるのか。なぜ同じ場所で写真を撮るのか。  七海を見る目で、別の子どもを見ているのではないか。  そう考えた瞬間、真帆の胃の奥が冷たく縮んだ。  真帆の胸の奥で、ドクン、ドクンと激しい心拍音が響いた。  恐ろしい。  不倫の裏切りに対する怒りを超えて、人間が持つ執着と狂気の深さに、喉の奥がカラカラに乾いていく。  あの女は、何をしようとしているのか。  写真の中の少女は、今どこにいるのか。なぜ、新しい写真には七海が立っているのか。  引き出しの絵本にあった一行が、脳裏に浮かんだ。 『八歳のお誕生日まで、あと少し』  真帆は震える指先で、さきほど見た写真館の画像をもう一度呼び出し、画面を極限まで拡大した。  古い写真の台紙、右下の白い余白の部分。  そこには、年月の経過で少し色褪せた黒い油性ペンの文字で、古い日付とともに手書きのメモが残されていた。  光の反射を避けるように、画面の
last updateÚltima atualização : 2026-09-08
Ler mais

第32話 夫を尾ける

 トースターが小さくチンと音を立てた。 日曜日の朝の光は、恐ろしいほど均一にリビングへ降り注いでいた。レースのカーテンを透過した白光が、拭き上げられたフローリングに長方形の光の枠を作っている。 真帆は、自分の手がトーストにバターを塗る動作を、まるで他人事のように眺めていた。昨夜、七海のピンク色のタブレットで目にしたあの画像――青い水槽の前で並ぶ三人、そして古いフィルム写真の隅に書かれた『莉央、7歳』の文字。それらが脳裏の裏側に焼きつき、まぶたを閉じるたび、黒い残像となって浮かんできた。「真帆、悪いんだけど、今日ちょっと会社顔出してくるよ」 洗面所から戻ってきた悠人が、アイロンの利いた薄青のシャツの袖ボタンを留めながら言った。「日曜なのに?」 声を絞り出す。喉の奥がカラカラに乾いていたが、意識していつものトーンを作った。「うん。週明けのプレゼン資料、部署のサーバーに置き忘れてね。30分くらいで済むから、午前中には戻るよ。七海と買い物でも行く予定あった?」「ううん。特には」「そっか。じゃ、さくっと行って帰ってくるね」 悠人はテーブルの上のコーヒーを一口飲み、満足そうに微笑むと、真帆の肩にそっと手を置いた。温かく、少しカサついた掌。その接触に、真帆の背筋が冷たく収縮した。「行ってくるよ。七海、パパちょっとお仕事行ってくるね」「はーい、お土産買ってきてねー」 子ども部屋から七海の無邪気な声が返ってくる。 悠人はいつものように玄関で革靴を履き、スマートキーのラッチを鳴らして外へ出た。パタンとドアが閉まり、静寂が降ってくる。 真帆は皿の上にトーストを残したまま、立ち上がった。 問い詰めることはしなかった。『昨日の写真は何?』『莉央って誰?』と問い詰めたところで、悠人はまた完璧な論理を用意しているはずだ。仕事の関係だ、遠い親戚の思い出だ、お前が混乱すると思って黙っていたんだ――そうやって真帆を「ヒステリックで過剰反応する妻」に仕立て上げ、曖昧な言葉の霧の中に閉じ込めてしまうだろう。 自分の目で見なければならない。 真帆は玄関へ走り、いつも着ている地味
last updateÚltima atualização : 2026-09-08
Ler mais

第33話 もうすぐ八歳

 滑り込んできた三両編成の各駅停車に、悠人が乗り込む。真帆は二つ隣の車両のドアから乗車し、車両の繋ぎ目にあるガラス窓越しに悠人の様子を伺った。 悠人はつり革に捕まることもなく、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。その横顔には、嘘をついて出かけている人間の焦りや警戒心など一切なかった。休日の散歩を楽しむ男の、あまりにも穏やかな顔つきだった。 電車はガタゴトと音を立てて走り、三つ目の駅で停車した。 悠人が降りる。真帆も乗客の波に紛れてホームへ降り立った。 改札を出ると、そこは大きな商業施設もなく、昭和の面影を残す個人商店や古い戸建てが並ぶ閑静な住宅街だった。坂道の多い街並みを、悠人は迷いのない足取りで進んでいく。何度も通い慣れている人間の歩き方だった。 角を曲がり、細い路地に入る。真帆は息を殺し、壁に身を寄せながら角から覗き込んだ。 通り沿いに、一軒の小さなカフェがあった。 木製の低い垣根に囲まれた、古い民家を改装したような店だった。『Café Mon’t』と書かれた小さな真鍮の看板が、入り口の横にひっそりと掲げられている。 悠人は迷うことなく扉の取っ手に手をかけ、中へと消えていった。◇ 真帆は数分間、路地の陰で心臓の激しい鼓動を抑えながら待った。 手のひらが冷や汗で湿っていた。コートのポケットの中で、指先が強張っている。 深呼吸を一つし、真帆はカフェへ向かって歩き出した。木製の扉を押すと、カウベルがカラランと乾いた高音を鳴らした。 店内は薄暗く、焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いと、古い木材の匂いが満ちていた。奥に長い作りの店内で、店内には数組の客しかいない。真帆は入り口近くの、観葉植物の大きな鉢植えの陰になる小さなテーブル席へ身を滑り込ませた。 メニューを開いて顔を隠しながら、奥の席へと視線を走らせる。 店の最奥、庭の見える大きな窓際の席に、悠人が座っていた。 そして、その向かい側には――。 水城沙耶がいた。 沙耶は、真帆がアトリエで見た時と同じ、几帳面にまとめられた黒髪と、控えめな佇まいをしていた。白
last updateÚltima atualização : 2026-09-09
Ler mais

第34話 今度こそ

 沙耶が呟いた。その声には、震えるような悲痛さが混じっていた。 「ええ。もうすぐ八歳だ」  悠人が頷く。その瞳には、真帆が見たこともないような、静かで確固たる光が宿っていた。 「……今度こそ、間に合わせたいんだ」 「今度こそ……」  沙耶が口元を歪め、涙をこらえるように目を閉じた。 今度こそ。もうすぐ八歳になる。  真帆の頭の中で、昨日見たあの写真とメモが交錯した。 『莉央、7歳』。  七海は今、七歳十一か月。八歳まで、あと三週間足らず。  少なくとも、ただの不倫だけでは説明がつかない。  沙耶の「もうすぐ八歳」という声を聞くと、写真の隅にあった『莉央、7歳』の文字が、妙に気になった。  では、悠人は何に「間に合わせたい」のか。なぜ七海の八歳を、あんな目で待っているのか。  全身の血が引いていく感覚があった。指先が凍りつき、胸の奥が冷たい刃物でえぐられるような痛みが走る。  真帆には、まだ分からなかった。  ただ、二人が七海の八歳を、普通の誕生日とは違う何かとして待っている。そのことだけが、たまらなく恐ろしかった。◇ 悠人が立ち上がった。  伝票を持ち、ポケットから財布を取り出す。  真帆は咄嗟にメニューで顔を完全に覆い、体を小さく丸めた。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく打ち鳴らされる。足音が近づき、真帆のテーブルの横を通り過ぎ、カウベルの音とともに悠人が店を出て行った。  真帆はしばらく動けなかった。  冷や汗が額を伝い、膝がガタガタと震えていた。  悠人は去った。これで自分も店を出て、悠人より先に家に帰らなければならない。  真帆がゆっくりとメニューを下ろし、立ち上がろうとした時だった。 奥の窓際側の席に残っていた沙耶が、ゆっくりと顔を上げた。  そして――まっすぐに、真帆の方を見つめた。  真帆は固まった。  観葉植物の影になり、顔もメニューで隠していたはずだった。  だが、沙耶の視線は迷いなく、真帆の瞳を捉えていた。最初から、真帆がそこにいることを知
last updateÚltima atualização : 2026-09-09
Ler mais

第35話 莉央の名前

 その日の午後、別の喫茶店の窓硝子を、正午過ぎの強い日差しが斜めに透かしていた。 テーブルの中央に置かれた白い陶器のカップから、薄い湯気が一本の細い糸のように立ち上り、クーラーの微風に揺れて消える。真帆は、氷が溶けて水滴を帯びたグラスを、両手で包み込むように握りしめていた。手のひらから伝わる冷たさだけが、頭の中の煮え立つような混乱をわずかに冷ましてくれた。 悠人より遅れて帰った家では、七海がテレビを見ていた。昼食のあと、真帆は一人で散歩をすると言って、また家を出てきた。今度は悠人が七海と一緒にいる。 向かいの席に座る女性――水城沙耶は、紺色のシンプルなワンピースの袖口を両手で軽く整え、静かに伏せ目になっていた。 帰りの電車で、スマートフォンの画面に届いた二行の文章。『話したいことがあります。悠人には言わないで。私は、あの人の前の妻です』 その文字を目にした瞬間から、真帆の時間は止まったようだった。午前中のカフェで悠人と沙耶が交わしていた沈黙の重さ、写真の中に写っていた古いフィルムの画像、そして『莉央、7歳』というメモ。すべてのピースが、最悪の形で噛み合おうとしていた。「……わざわざお時間を作っていただいて、ありがとうございます」 先に口を開いたのは、沙耶だった。 その声は低く、室内を流れるクラシック音楽の陰に溶け込みそうなほど穏やかだった。だが、真帆に向ける眼差しには、隠しきれない緊張と、どこか深い痛みを耐えるような陰りが宿っていた。「驚かれたと思います。いきなりあんなメッセージを送って」「……当たり前です」 真帆は声を絞り出した。自分の声が、喉の奥でカサカサと乾いた音を立てる。「前の妻って、どういう意味ですか。悠人は……私と結婚するとき、前婚のことは聞いていました。でも、ほんの数年で性格が合わなくて別れただけで、子どももいなかったって……」「嘘です」 沙耶は静かに、だが迷いのない口調で言った。「悠人さんは、あなたにそう説明されていたんですね」「嘘&hellip
last updateÚltima atualização : 2026-09-10
Ler mais

第36話 隠されていた娘

「七海のタブレットを見ました」 真帆は隠さずに言った。「非表示のアルバムに、あなたと悠人と七海が三人で写っている写真が、何十枚もありました。そしてその一番奥に、古い写真が何枚か混ざっていた。『莉央、7歳』って手書きで書かれた写真が」 沙耶は顔を覆うように、ゆっくりと両手を額にあてた。 細い肩が、かすかに揺れている。「……悠人さん、まだ持っていたんですね。あの写真を……」「質問に答えてください、水城さん」 真帆は身を乗り出し、テーブル越しに沙耶の顔を覗き込んだ。店内には静かなジャズが流れ、隣の席では老夫婦が穏やかに談笑している。その日常の風景の中で、自分たちのテーブルだけが、異様な空間のように冷え切っていた。「莉央さんって、誰ですか。あなたと悠人の間にいた、お子さんなんですか」 沙耶はゆっくりと手を下ろした。その目には、薄い涙の膜が張っていた。「……はい。私と悠人さんの、娘です」◇ やっぱり、そうだったのだ。 真帆の胸の中で、嫌な予感が確信へと変わり、重い塊となって胃の底に落ちた。 悠人は、真帆に対して「前の妻との間に子どもはいなかった」と明確に嘘をついていた。それも、偶然言い忘れたのではなく、真帆と出会ってからの八年間、一度もその存在を匂わせることなく完璧に隠し通してきたのだ。「なぜ……悠人は私に黙っていたんでしょうか」「それは……」 沙耶は言葉を濁し、視線を泳がせた。「分かりません。私たちが別れてから、あの人が何をどう話していたのか、私は知りません。ただ……莉央のことを、いなかったことみたいにされていたのは、少し……」 沙耶の声が途切れた。 真帆は答えを待ったが、沙耶はそれ以上続けなかった。 目の前の女が何を知り、何を知らないのか。真帆にはまだ見分けがつかなかった。 ただ、悠人が自分に「子どもはいな
last updateÚltima atualização : 2026-09-10
Ler mais

第37話 七歳で止まった

「七海ちゃんに初めて会った時……驚きました」 沙耶は震える声で続けた。「目元も、笑った時の癖も、莉央にそっくりで。いけないと思ったのに、もう一度会いたいって思ってしまったんです」 真帆は何も言わなかった。「悠人さんから写真を見せられた時もそうでした。でも、実際に会ったら、もっと……。工作をしている時の手つきまで似て見えてしまって」 沙耶はバッグを抱く両手に、ぎゅっと力を込めた。「最初は教室で会うだけのつもりでした。そこから先は……私が、止められなかったんです」 止められなかった。 午前中のカフェで悠人が言っていた『今度こそ、間に合わせたい』という言葉が、真帆の脳裏に蘇った。 少なくとも、真帆の目には、あの二人がただの不倫関係ではないことだけは明らかだった。 沙耶が七海に莉央の面影を重ねていることは、もう否定できないように思えた。けれど、写真に写っていたあの子が今どうしているのか、沙耶はまだ話していなかった。 ただ、真帆には一つだけ分からなかった。沙耶がそこまで危うくなっていたのなら、悠人はなぜ七海を会わせ続けたのか。 その理由だけは、沙耶の話を聞いてもまだ見えてこなかった。 目の前にいる女性は、夫の不倫相手という単純な侵入者とは違うのかもしれない。悠人から再び連絡を受け、七海に莉央を重ねてしまった――その先を考えかけて、真帆は目の前の沙耶へ視線を戻した。「七海は……莉央さんじゃない」 真帆は低く、拒絶の意を込めて言った。「あの子は私の娘です。篠宮七海です。莉央さんの代わりにされる筋合いなんて、どこにもありません」「わかっています……分かっているんです……」 沙耶は涙をこぼしながら、何度も頷いた。「でも、止まらないんです。七海ちゃんを見るたび、あの子が八歳になる日が近づくたび、胸が締め付けられる……」「八歳…&helli
last updateÚltima atualização : 2026-09-11
Ler mais

第38話 沙耶からの連絡

 玄関のドアを閉めた瞬間、鍵が噛み合う金属音が重く足元に響いた。 夕方のリビングには、西日が長く斜めに差し込んでいた。ダイニングテーブルの上には、真帆が今朝出がけに淹れたコーヒーの残りが、冷え切ったマグカップの底で黒く淀んでいる。 真帆はバッグを床に置き、自分の両手を見つめた。 手袋を脱ぐように指先をさすってみても、冷たさは消えなかった。喫茶店で沙耶が零した言葉――『莉央も、七歳で止まったんです』という声が、耳の奥でずっと鳴り響いている。 十六年ほど前の結婚。七年余りの婚姻生活。そして、九年前に七歳で亡くなった異母姉・莉央の存在。 悠人はそれらをすべて塗り潰し、「短い結婚歴はあったが、子どもはいなかった」と真帆に語り続けていた。真帆と過ごした八年間、何食わぬ顔で良き夫、良き父親を演じながら。 パタパタという足音が聞こえ、廊下の向こうから七海が顔を出した。「あ、ママ、おかえりー! パパとね、お買い物行ってたんだよ」 七海の手には、スーパーのポリ袋が握られていた。その奥から、悠人がゆっくりと姿を現す。エプロンこそ着けていないが、袖を肘まで捲り上げたシャツ姿は、休日を家庭に捧げる理想的な父親そのものだった。「おかえり、真帆。どこ行ってたの? 散歩にしては長かったね」 悠人は買い物袋をキッチンカウンターに置きながら、何でもないことのように微笑んだ。その目元には、真帆を心配するような温かな光すら宿っている。 真帆は息を詰めた。 この男は、いま自分が何を抱えて帰ってきたのかを、何一つ分かっていない。あるいは、分かっていてなお、この完璧な日常の仮面を剥がそうとしないのだ。「七海」 真帆は自分の声をできる限り落ち着かせようとしたが、喉の奥が引き攣って擦れた音になった。「お部屋で、買ったもの整理してくれる? ママ、お父さんと少しお話があるの」 七海は真帆の顔色と、悠人の佇まいを交互に見つめ、小さな肩を少しだけ竦めた。大人の間に流れる不穏な空気を感じ取った時の、あの癖だ。「……うん。分かった」 七海がポリ袋を抱えて子ども部屋へ去り、ドアがカ
last updateÚltima atualização : 2026-09-11
Ler mais

第39話 会わせたくなかった

 真帆はスマートフォンを取り出し、画面を開くことなく握りしめた。「話があるって。……全部、聞いたよ」 悠人は静かに冷蔵庫のドアを閉め、ゆっくりと真帆の向かい側の椅子を引き寄せて座った。テーブルの上に両手を置き、真帆の目をまっすぐに見つめてくる。「何を聞いたの?」「全部」 真帆の声が震えた。膝がガタガタと打ち震えそうになるのを、全身に力を込めて抑え込む。「あなたが、十六年ほど前に沙耶さんと結婚していたこと。七年余り一緒に暮らしていたこと。……そして、二人には莉央さんという娘さんがいて、九年前に七歳で死んだこと」 リビングの空気から、一切の音が消え去った。 悠人は表情を変えなかった。眉根を寄せたり、口元を強張らせたりすることもなく、ただ静かに真帆の言葉を受け止めていた。その瞳は澄んでおり、罪悪感の影すら見当たらない。 悠人はゆっくりと息を吐き出し、深く頷いた。「……そうか。沙耶さん、そこまで話したんだね」「『そこまで』って何? 悠人、あなた私に何て言ってた? 子どもはいなかったって……短い結婚だったって、そう言ってたじゃない!」 真帆の声が上がり、自分でも驚くほどヒステリックな響きを帯びた。 だが、悠人は穏やかなトーンを崩さなかった。むしろ、感情的になる真帆を可哀想なものでも見るかのように、優しく、宥めるような手つきでテーブルの上の手を伸ばしてきた。「真帆、落ち着いてくれ。声を大きくすると、七海が心配するよ」「落ち着けるわけないでしょう! 八年間も私を騙していたのよ!?」「騙していたわけじゃない」 悠人の口調は、どこまでも論理的で、冷静だった。「君に話さなかったのは、話す必要がなかったからだ。……それに、君を傷つけたくなかったんだよ」◇「傷つけたくなかった……?」 真帆は自分の耳を疑った。「前妻との間に子どもがいて、その子が死んでい
last updateÚltima atualização : 2026-09-12
Ler mais

第40話 壊れた前妻

「沙耶さんが、壊れてしまったからだよ」 悠人は低く、苦しげな声を漏らした。その表情には、過去の悲劇を背負った男の重々しいリアリティがあった。「九年前……莉央が死んだのは、事故だったんだ。沙耶さんの運転する車が、湖畔のカーブでガードレールを突き破って崖下に落ちた」 湖畔。 真帆は、悠人の口元を見つめた。沙耶から、亡くなった場所までは聞いていなかった。「僕は助手席にいた。沙耶さんは運転中に僕と口論になって取り乱し、急ハンドルを切ったんだ。……莉央は即死だった。沙耶さんは重傷を負って助かったけれど、それ以来、精神の均衡を失ってしまった」 悠人はゆっくりと首を横に振った。「事故の後、彼女は自分を責め続け、僕に酷く執着するようになった。『莉央を返して』『もう一度やり直させて』って……。僕は彼女を支えようとしたけれど、とても夫婦として生活を続けられる状態じゃなかった。だから離婚したんだよ」 悠人は言葉を詰まらせることなく、話し続けた。 沙耶が運転し、取り乱し、事故を起こして娘を死なせた。そして精神を病み、悠人に執着した。 だから離婚したのだと。「離婚した後も、彼女は僕を追いかけ続けた。命日になれば連絡が来たり、僕の行き先に現れたり……。そんな時に、七海が生まれたんだ」 悠人は真帆の顔をまっすぐに見つめた。「三年前、沙耶さんが街で僕と七海を見かけたんだよ。そこから彼女の執着が再発したんだ。『莉央にそっくりだ』『一度だけでいいから会わせてほしい』って。断っても、断っても、彼女は僕の会社や自宅の周りをうろつくようになってね……」「嘘……沙耶さんは、あなたが写真を送ってきたって言ってたわ」「彼女の言うことを真に受けちゃだめだ、真帆」 悠人の声に、明確な制裁の響きが混じった。「彼女は病んでいるんだよ。自分の罪悪感から逃れるために、僕が誘ったんだと思い込もうとしている。……僕はね、彼女が哀れ
last updateÚltima atualização : 2026-09-12
Ler mais
ANTERIOR
123456
...
11
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status