Todos os capítulos de 娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない: Capítulo 41 - Capítulo 50

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第41話 君も同じ

「ほら、いまの君を見てごらんよ」 悠人は両手を広げ、真帆の全身を指し示した。「僕が少し過去の話をしただけで、こんなに取り乱して、僕を犯人扱いして、ヒステリックに叫んでいる。君に話したら、こうなることが分かってたから黙っていたんだよ。君は昔からそうだ。自分のキャパシティを超える問題が起きると、感情的になって周りが見えなくなる」 真帆は息を呑んだ。 自分の喉が詰まり、言葉が出なくなる。「僕はね、家族を守りたかっただけなんだ。君が仕事に集中できるように、七海が健やかに育つように、僕が一人で全部の調整を引き受けてたんだよ。それなのに……君は僕の努力を踏みにじるんだね」 悠人の言葉が、冷たい楔となって真帆の胸に打ち込まれた。 自分が感情的だから。 自分が過剰反応するから。 だから悠人は隠さなければならなかったのだと――すべての責任が、真帆の「不安定さ」へとすり替えられていく。 真帆は自分が間違っているのかという激しい眩暈に襲われた。 悠人は嘘をついていたが、それは「家族を守るための善意」だったのかもしれない。沙耶という危険な女から、真帆と七海を庇うための、彼なりの秘密だったのかもしれない。「……分かってくれたかい、真帆」 悠人は真帆の頬を優しく撫でた。「もう二度と、沙耶さんには会わせない。学童の件も、僕からもう一度確認しておくよ。僕が責任を持って、彼女との関係を完全に断ち切る。だから……もうこんな騒ぎ方はやめてくれ。僕を信じてくれよ」 悠人の瞳は、どこまでも澄んでいた。 真帆はその顔を見つめ返したまま、うなずくことも、拒絶することもできずに硬直していた。◇ 夜の九時過ぎ。 家の中は静まり返っていた。 悠人は「疲れちゃったろ。先にお風呂入りなよ」と言い、真帆を風呂へ促した後、リビングで書類の整理をしていた。 真帆は風呂から上がり、湿った髪をタオルで拭きながら、七海の部屋のドアをそっと開けた。 部屋の中は、常夜灯の淡いオレン
last updateÚltima atualização : 2026-09-13
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第42話 九年前の記事

 朝の光がカーテンを透かし、寝室の畳の上に淡いオレンジ色の四角い影を作っていた。 真帆は七海の額に手のひらを当てた。前夜の熱は下がり、肌は少し汗ばんでいた。すやすやと規則正しい寝息を立てる娘の頬を撫でると、七海はうーんと小さく身悶えし、掛け布団を胸元まで引き上げた。「ママ……」「なぁに。気分はどう? 頭痛くない?」「ん……だいじょうぶ。お腹すいた」 七海が目をこすりながら起き上がるのを見て、真帆は胸の奥で小さな息を吐き出した。 昨日の昼間、悠人が出先から誰かに電話し、「真帆には内緒にしておくから大丈夫だ」と話していたのを、七海は聞いていた。大人たちの嘘と、崩れゆく家庭の空気を敏感に感じ取り、幼い体に無理を重ねていたのではないか。熱に浮かされた七海を見ながら、真帆にはそう思えてならなかった。 キッチンの方向から、トースターの跳ね上がる軽快な音が聞こえてきた。「真帆、七海起きた? スープ温まったよ」 廊下に顔を出した悠人は、いつものようにアイロンの利いたシャツの袖を捲り上げ、穏やかな笑みを浮かべていた。昨日、過去の隠蔽を問い詰められ、真帆を「ヒステリックで過剰反応する妻」と位置づけた男の顔には、罪悪感の影など微塵もなかった。「今日、七海は学校休ませようか。念のため家でゆっくりさせた方がいい」真帆が言った。 悠人は七海の頭を優しく撫で、テーブルの上のマグカップに温かいコーンスープを注いだ。「そうだね。僕も今日は直行直帰にして、なるべく早く帰ってくるよ。真帆も無理しないで」「……ありがとう」 真帆は乾いた声で答えるのが精一杯だった。 悠人の親切さと優しさは本物に見える。だからこそ、真帆には余計に分からなかった。なぜこの人は、あれほど自然に矛盾する説明を重ねながら、何事もなかったように家族を気遣えるのか。 悠人が仕事へ出かけ、七海がリビングのソファでアニメのDVDを見始めたのを確認すると、真帆は自室のデスクに向かった。 ノートパソコンを開き、在宅勤務の業務画面の裏で、ブラウザの検索ウィン
last updateÚltima atualização : 2026-09-13
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第43話 莉央、七歳の事故

 スクロールする指が震えた。 水城莉央(みずき・りお)、七歳。 水城沙耶、27歳。 水城悠人、29歳。 真帆の知らない名前と、見慣れた夫の名前が、一つの古い事件記事の中で明確に結ばれていた。記事では悠人も『水城』姓で記されている。前婚時の姓まで、真帆はこの時初めて知った。 事故があったという話は、記事でも確かめられた。 九年前、確かに沙耶がハンドルを握る車が事故を起こし、七歳の娘が亡くなり、沙耶自身も大怪我を負っていた。 だが、記事を読み進めるうちに、真帆の胸の中に新たな違和感が生じた。 事故が起きたのは7月10日。 真帆は卓上カレンダーに視線をやった。 七海の部屋の引き出しにあった絵本。そこに書かれていた筆跡――『八歳のお誕生日まで、あと少し』。 真帆は画面を戻し、莉央の情報を探した。沙耶の教室の古いブログに、娘を亡くして一年が経ったと綴った短い文章が残っていた。その中に、誕生日について触れた一節があった。『七月六日に七歳になった莉央を、四日後に失いました。誕生日を祝う旅行の帰りでした』 事故が起きたのは、莉央の7歳の誕生日から、わずか4日後だった。そして7月10日は、七海の誕生日でもある。 誕生日祝いを兼ねた家族旅行の帰り道。 その途中で、車は事故を起こし、莉央は8歳を迎えることなく、7歳でその人生を終えていたのだ。◇ 真帆は画面を見つめたまま、自分の膝の上で両手を強く握りしめた。 7歳。誕生日。家族旅行。 すべてが、いま自分たちの周りで起きている出来事と気味悪いほど重なっていた。 沙耶が七海に与えていた青い髪留め、絵本、そして「もうすぐ8歳になる」という言葉。 沙耶は、莉央が到達できなかった「8歳」という年齢を、七海の上に重ね合わせているのではないか。死んだ娘の続きを、異母妹である七海に見ようとしているのではないか。真帆には、そうとしか思えなかった。 その文章から、莉央が生前に参加した造形コンクールの広報PDFへリンクが張られていた。真帆はそれを開いた。 そこに、小さ
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第44話 翠ヶ湖

 夕方になり、外の空気が薄紫色に染まる頃、悠人が帰ってきた。「ただいまー。七海、熱はどう?」 玄関で靴を脱ぐなり、悠人は手にしたビニール袋を掲げてリビングに入ってきた。「ゼリーと、柔らかいプリン買ってきたよ。真帆、七海の様子は?」「うん、昼間はずっと寝てたから、熱も下がったよ」 真帆はキッチンで夕飯の味噌汁を温め直しながら、努めて平静な声を返した。 悠人はソファに座る七海の隣に腰掛け、そのおでこに自分の熱いおでこをコツンと当てた。「よし、熱ないね。えらかったな、七海」「パパ、プリンたべたい」「いいよ。真帆、器借りるね」 悠人は立ち上がり、手際よく引き出しからスプーンを取り出し、七海の前にプリンを並べた。 その佇まいは、どこからどう見ても、娘を心から愛する優しい父親だった。 昼間見た九年前の事故記事の記述――『同乗していた夫の水城悠人さんは軽傷』。 彼は一度、家族を失っている。 莉央を亡くしたあと、どんな暮らしをしてきたのだろう。さっき読んだ記事からは、そこまでは分からなかった。 目の前の悠人は、プリンの蓋を丁寧に剥がしている。その指先を見ていると、真帆は何を尋ねればいいのか分からなくなった。「真帆」 悠人がプリンのカップをゴミ箱に捨てながら、真帆の方を振り向いた。「来月の七海の八歳の誕生日だけどさ」 真帆の手が、味噌汁のおたまの上で止まった。「……誕生日?」「うん。八歳の誕生日は特別だろ? 七海も二年生になって頑張ってるし、久しぶりに家族三人で小旅行に行かないかと思ってさ」 悠人は胸のポケットから、畳まれた観光パンフレットを取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。「一泊二日で、静かなところで温泉でも入って、美味しいもの食べてさ。仕事の都合も早めに調整するから、真帆も予定空けておいてよ」 悠人の顔には、純粋な善意と家族愛の笑みが浮かんでいた。 真帆は息を殺し、テーブルの上のパンフレットに視線を落とした。「旅行…&
last updateÚltima atualização : 2026-09-14
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第45話 同じ場所、同じ服

 朝の光がリビングのフローリングに細長く伸びていた。 悠人は出勤の準備を整え、鏡の前で襟元を微調整していた。七海は登校前の忙しない時間にもかかわらず、自分の部屋から出してきたお絵かき帳に夢中になっている。「真帆、今日のお昼はちゃんと食べてね。昨日の夜もあまり喉を通っていなかったみたいだし」 悠人が鞄を片手に、真帆の肩へ優しく手を置いた。 指先から伝わる温もり。その皮膚の奥にあるものが、ただの善意なのか、それとも狂気的な支配なのか、真帆には判別がつかない。「……大丈夫。気をつけて行ってらっしゃい」「うん。七海、パパ行くよ。車に気をつけて学校行くんだよ」「はーい、いってらっしゃい!」 七海が顔を上げずに声を張る。重い玄関ドアが閉まり、ラッチの噛み合う金属音が静寂を連れてきた。 七海を登校させた後、真帆は一人、静まり返ったリビングに立ち尽くした。 昨夜、悠人が机の上に何気なく置いていった観光パンフレット。そこに印刷されていた『翠ヶ湖ハイランドリゾート』の文字が、脳裏から離れない。 九年前、七歳の莉央が命を落とした場所。 悠人は、七海の八歳の誕生日に、その同じ湖へ行こうと提案してきたのだ。偶然の一致として処理するには、あまりにも出来過ぎていた。 真帆は自室へ向かい、仕事用のノートパソコンと、七海のピンクのタブレット端末をデスクの上に並べた。 端末のロックを解除し、先日見つけた非表示アルバムを開く。 そこには、この二年余りの間に撮られた「悠人・沙耶・七海」の三人写真と、アルバムの最深部に隠されていた九年前の「悠人・沙耶・莉央」の古いフィルム写真が収められている。 真帆はパソコンに自分のスマートフォンを接続し、デジタルカメラで撮影した七海の日常の写真や、過去の外出時のデータを一覧表示させた。 二つの画面を交互に見比べながら、真帆の指先がマウスのホイールを静かに転がす。 一枚目。 二年前の秋、都内にある大型水族館の大水槽前で撮られた写真。青い光に照らされた水面を背景に、悠人と沙耶が七海を挟んで並んでいる。
last updateÚltima atualização : 2026-09-15
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第46話 沙耶への警告

 午後四時過ぎ。 玄関のドアが開き、七海が「ただいまー」と元気に帰ってきた。「おかえり、七海。手と顔、洗っておいで」「はーい」 七海が洗面所へ向かう背中を見つめながら、真帆は胸の奥で渦巻く感情を押し殺した。 七海がリビングに戻ってくると、真帆はクローゼットからあらかじめ出しておいた「あの服」をテーブルの上に広げた。 深いネイビーの、綿ジャガードのワンピース。 胸元に白い丸襟がつき、小さな刺繍が施された一着。「七海、ちょっとおいで」「なぁに、ママ?」 七海がトコトコと歩み寄ってくる。真帆はその服を指差し、できる限り柔らかな声を出そうと努めた。「この服ね、覚えてる?」「うん。お気に入りのお洋服」「これ、パパと沙耶ママと一緒に買いに行ったって言ってたよね」「うん」「どこで買ったか、覚えてる?」 七海は首をかしげ、小さな指先をあごに当てた。「うんとね……おっきいデパート。沙耶ママが『これ、莉央ちゃん……あ、七海ちゃんに似合うよ』って言ったの」 真帆の心臓がドクンと嫌な音を立てた。「……いま、なんて言ったの?」「え?」「沙耶先生、なんて言ってその服を選んだの?」 七海は言い間違えたことに気づいたのか、少し口をすぼめて真帆の顔色を伺った。「……『りおちゃん』って、間違えて呼んだの。でもね、すぐに『七海ちゃん』って言い直したよ?」 真帆の喉の奥がカラカラに乾いた。 やっぱりそうだ。 沙耶は、買い物の最中ですら、七海を死んだ自分の娘の名前で呼んでいたのだ。「七海……青い髪留めも、沙耶ママが選んでくれたの?」「うん。星のやつでしょ?『七海ちゃんは青が似合うね』って言って、つけてくれたの」 タブレットの中に残されていた、九年前の莉央の写真。 莉央が髪につけていたのは、七海のものとよく似た、
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第47話 届いたスクリーンショット

 画面が切り替わり、送信完了の表示が出る。 真帆は荒い息を吐き出しながら、画面を見つめ続けた。 だが、五分経ち、十分が経過しても、返信は来なかった。画面上の表示は「送信済み」のままだった。 真帆はスマートフォンをテーブルの上に置き、冷えた水をグラスに注いで一気に飲み干した。 言いたいことはすべて言った。 これ以上、あの女が七海に接触してくるなら、今度こそ公的な手段に出るつもりだった。悠人が「波風を立てたくない」と言おうが関係ない。我が子の安全と精神を守ることが、母親である自分の最優先事項だ。 夕飯の準備を進め、七海と一緒にハンバーグを食べた。 悠人は「今夜は接待で遅くなる」と連絡を入れてきていた。 夜九時を過ぎ、七海をベッドに寝かしつけた後も、家の中には重苦しい静寂が満ちていた。 真帆はリビングのソファに腰掛け、テレビをつけることもなく、ただ暗い窓の外を見つめていた。 テーブルの上で、スマートフォンが短くブッと震えた。 真帆はハッとして手を伸ばした。 画面を点灯させると、画面には沙耶からの返信が表示されていた。 時刻は十時四十二分。 画面に踊る文字を目にした瞬間、真帆の思考が凍りついた。 送信者:水城 沙耶『あなたがそう言うなら、もう会いません。でも、私を責める前に、一度ご自身の胸に手を当ててみてください。 あなたが私に送ってきた、あの酷い言葉を忘れたのですか?』 酷い言葉……? 真帆は眉をひそめた。今日送った言葉は覚えている。七海には近づかないでほしい。その理由も書いた。ほかに、何を送ったと言うのだろう。 真帆が戸惑っていると、続けて沙耶からもう一通届いた。画像を開くためのリンクが添えられていた。『あなたが私に送ってきた文面です』 リンクを開くと、スマートフォン画面のスクリーンショットが表示された。上下が切り取られ、日付は見えなかった。 メッセージアプリの会話画面が写し出されている。 送信者の名前には『篠宮 真帆』と
last updateÚltima atualização : 2026-09-16
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第48話 ママはいなくなるの?

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ダイニングテーブルの上に置いた真帆のスマートフォンの画面を白く反射させていた。 前夜、沙耶から送られてきたスクリーンショットの画像。そこに並んでいた冷酷な言葉の数々が、真帆の網膜の裏側にこびりついて離れなかった。『七海には近づかないでください。あなたに任せるつもりはありません』『二度と私たちの前に姿を見せないでください』 何度読み返しても、自分が書いた文章ではなかった。 だが、前夜の画像だけでは、いつ、誰が、どの端末から送ったのかまでは分からない。 沙耶が何かを隠している可能性も捨てきれなかったし、別の誰かが真帆を装った可能性もある。 真帆は冷え切った自分の指先を包み込むようにさすった。 キッチンからは、トースターの跳ね上がる乾いた音と、コンロで湯が沸く静かな汽笛のような音が聞こえていた。悠人はいつも通りの手つきでマグカップにコーヒーを注ぎ、真帆の向かい側の椅子へと運んできた。「真帆、顔色が悪いよ。昨日の夜、あまり眠れなかったの?」 悠人の声には、微かな濁りすら混ざっていなかった。 シャツのボタンを一番上まで丁寧に留め、アイロンの利いた袖口を少し捲り上げた姿。妻の体調を気遣う眼差しは、どこまでも澄み切っている。「……ううん。少し、考えごとをしてただけ」「仕事のこと? 来週、新しいキャンペーンのリリースだって言ってたよね。無理しちゃだめだよ。家事のことは僕がやるからさ」 悠人は真帆の手元に視線を落とし、柔らかく微笑んだ。 悠人は、いつも通りだった。その顔を見ていると、昨夜の画像と目の前の朝食が、まるで別々の世界の出来事のように思える。真帆は何かを問いかけようとして、やめた。「ママ」 パジャマ姿の七海が、廊下から静かに足音を立ててやってきた。 抱きしめているウサギのぬいぐるみの耳を、小さな指先でぎゅっと握りしめている。「おはよう、七海。着替え持ってくるね」 真帆が立ち上がろうとすると、七海は真帆の膝の脇へ歩み寄り、ブラウスの裾をちいさく引っ張った。「な
last updateÚltima atualização : 2026-09-16
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第49話 家族のため

 呼吸が止まった。 室内を流れる空気の温度が、一瞬で数度下がったかのように肌が寒気に包まれた。 真帆はゆっくりと立ち上がった。 膝が微かに震えていたが、足に力を込め、視線をキッチンカウンターの悠人へと向けた。 悠人はコーヒーカップを手に持ったまま、静かにこちらを見つめていた。その顔から笑みが消えることはなかった。焦る様子も、言い訳を探して泳ぐ視線もない。ただ、困った生徒を優しく見守る教師のような、淡々とした表情だった。「七海、お部屋で着替えておいで」 真帆は自分の声が激しく震えるのを抑え込めなかった。「やだ……お話聞く……」「いいから、お部屋に行きなさい」 七海は真帆の鋭いトーンに口を噤み、ぬいぐるみを抱え直すと、逃げるように廊下の奥へ走っていった。子ども部屋のドアがカチャンと小さく閉まる。 リビングには、真帆と悠人の二人だけが取り残された。 真帆はダイニングテーブルを迂回し、悠人との距離を詰めた。「悠人」「ん?」「今、七海がなんて言ったか聞こえた?」「聞こえたよ」 悠人はコーヒーを一口飲み、ゆっくりとテーブルの上へカップを置いた。「何なの、あれ。私がいなくなるって、七海に何を吹き込んでいるの?」「真帆、落ち着いてくれ」 悠人は両手を胸の前で軽く広げ、宥めるような手つきを見せた。「子どもが勝手に話をつなげちゃったんだよ。そんな深刻な顔をしないでくれ」「勝手に話をつなげた……? 『ママはお仕事で遠くに行くかも』『その時は沙耶ママがいるから大丈夫』なんて言葉、七海が自分から思いつくわけないでしょう!」 真帆の指先が、怒りと恐怖でガタガタと震えた。 悠人は真帆の言葉を意に介さず、浅く溜め息をついた。その表情には、ヒステリックな妻に困惑する夫の哀愁すら漂っていた。「先週、君が出張の準備をしていただろ? あの時、七海が『ママ、どこか行っちゃうの?』って不安がっていたんだよ。だから僕は『ママはお仕事が大
last updateÚltima atualização : 2026-09-17
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第50話 絵の中の距離

「パパ……ママ……」 廊下の陰から、着替えかけのTシャツを握りしめた七海が顔を覗かせていた。 大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。「お喧嘩……しないで……っ」 七海は小さな肩を激しく上下させ、しゃくりあげた。「七海が……七海がへんなこと言ったから……っ? ごめんなさい、いい子にするから……ママ、いかないで……っ!」 大人の争いが自分の発言のせいだと決めつけ、必死に場の空気を修復しようとする子どもの習性。 七海は涙で濡れた顔を真帆の服に押し付け、必死に真帆の腰にしがみついてきた。「七海……違うの、七海のせいじゃないよ」 真帆は崩れ落ちるように膝をつき、七海をきつく抱きしめた。 七海の小さな体が、恐怖でガタガタと震えているのが伝わってくる。 向かいに立つ悠人は、胸を痛めたような顔でしゃがみ込み、七海の背中を撫でた。「ほら、七海。ママはどこにも行かないよ。パパとママがちょっとお仕事のお話しをしてただけだからね。泣かないで」 悠人の手つきは、どこまでも優しく、温かかった。 その手が七海の頭を撫でるのを見ながら、真帆は追及を止めるしかなかった。 これ以上悠人を問い詰めれば、七海をさらに追い詰めてしまう。子どもを人質に取られているような感覚だった。悠人が意図して七海を盾にしているのかどうかは分からない。それでも結果として、七海の涙が真帆の反論を止めていた。 真帆は歯を食いしばり、七海の背中をさすり続けた。 自分の足元にあったはずの「母親」という居場所が、削り取られていくのを感じながら。◇ 夕方になり、雨が少しパラつき始めた。 七海は昼間の泣き疲れもあってか、夕飯の前にリビングのソファでそのまま眠ってしまった。 悠人は「会社から急な呼び出しがあった」と言い、申し
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