All Chapters of 娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 ただの工作の先生

 ハンバーグの表面で、甘ったるいソースがくつくつと小さな泡を立てていた。 カトラリーが皿に当たるカチャリという軽い音と、テレビから流れるバラエティ番組の笑い声が、ダイニングの温かい空気の中に溶けていく。「真帆、ソースもう少し使う? フォンドボー足して少し煮詰めたんだけど」 悠人がフライパンを手にして、真帆の顔を覗き込んだ。真帆の好きな味付けだ。玉ねぎを粗みじんにせず、じっくりと狐色になるまで炒めて肉汁を閉じ込める焼き方も、真帆が昔、何気なく言った好みを悠人がずっと覚えているからだった。「……ありがとう。すごく美味しい」「よかった。七海はどう? お肉、固くない?」「おいしい! パパのハンバーグ、だいすき!」 七海がフォークを握りしめ、口の端にソースをつけたまま弾んだ声を上げた。悠人は目元を和らげ、テーブルに置かれたティッシュで七海の口元を優しく拭い取ってやる。 前夜の雨が嘘のように、家の中には平和な日常が戻っていた。 食事の途中、七海は学校で育てている鉢植えの話を始めた。朝、水をあげたら葉っぱに小さな虫がついていたこと。隣の席の子が大声を出して先生に笑われたこと。悠人は箸を止めて一つ一つ相槌を打ち、ときどき大げさに驚いてみせる。七海はそのたびに嬉しそうに笑った。 真帆もつられて口元を緩めた。こういう時間は、確かに何年も積み重ねてきたものだった。休日に三人で買い物へ行き、帰りにアイスを買う。七海が熱を出せば悠人と交代で看病し、運動会の朝には二人で早起きして弁当を作る。疑い始める前の暮らしが、いきなり全部嘘だったわけではない。 だからこそ、真帆は余計に分からなくなった。目の前の男と、自分に隠れて娘を別の女へ会わせていた男を、同じ一人の人間としてうまく重ねられなかった。 ポストに入っていたピンク色のメッセージカードは、真帆のバッグの奥底に押し込められたままだ。『これ、パパの字を真似したみたいな字だもん』という七海の一言が、頭の片隅で鈍く引っかかっていたが、目の前で穏やかに微笑む悠人の姿を見ていると、自分の頭がおかしくなってしまったのではないかという気がしてくる。 学童のお迎え登録も、付箋
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第22話 私を知っている

 翌日。午後二時を回った頃。 真帆はノートパソコンの画面を閉じ、スマートフォンの画面に表示された地図アプリを見つめていた。 午前のミーティングが早く終わり、午後の予定までに二時間ほどの空白ができていた。 行かない理由を探すことは簡単だった。仕事のメールをチェックし、洗濯物を畳み、夕飯の下ごしらえをすればいい。だが、一度胸に芽生えた毒芽は、昨夜の温かい夕飯を経てもなお、根を腐らせてはいなかった。 画面に表示されているのは、隣町の閑静な住宅街の一角にある古民家のアドレスだった。 二ヶ月前の地域ワークショップの告知サイトから辿り着いた、個人主催の児童向けアトリエ。『アトリエ・みずき 造形と絵画の教室』 講師の名前に、水城沙耶とあった。 真帆は上着を羽織り、車の鍵を掴んだ。 自分の目で確かめなければ、息ができない。悠人の言葉を信じたい自分と、足元が崩れていく違和感を無視できない自分。その板挟みのままでは、七海の顔をまともに見ることすらできなくなってしまう。 車を走らせること二十分ほどで、ナビが目的地周辺であることを告げた。 古い木造の住宅が建ち並ぶ一角に、白壁と木目の格子が印象的な二階建ての建つ建物があった。庭には季節の花が植えられ、小さな手作りの木製看板が掲げられている。 真帆は車を近くのパーキングに止め、舗装された小道を歩いた。 足音が、やけに大きく響く。 アトリエの引き戸には「本日の未就学児クラス:お休み」と書かれた札がかかっていた。ガラス越しに中を覗くと、木製の大きな作業台や、子どもたちが作った粘土細工、色鮮やかな水彩画が壁一面に飾られているのが見えた。 真帆は意を決し、指先で引き戸をすっと滑らせた。 からからと、乾いた音があたりに広がる。「すみません……」 木製品と絵の具、それから乾燥した粘土の匂いが混ざり合った独特の空気が漂っていた。 奥の準備室と思われるアコーディオンカーテンが揺れ、靴音が近づいてきた。「はい、いらっしゃいませ。見学の方ですか――」 出てきた女性が、言葉を途中
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第23話 二つの説明

 沙耶は手に持っていた木製のへらを作業台の上にそっと置いた。その動作には慌てる様子も、動揺も見られない。ただ、薄い唇をきゅっと結び、真帆を警戒するように少しだけ顎を引いた。「ええ。悠人さんから、お写真は見せてもらっていましたから」 悠人から。 写真を見せられていた。 真帆の胸の奥で、冷たいかたまりが重く沈んだ。悠人は「単発のワークショップの講師」と言っていたはずだ。なぜ自分の写真を不倫相手――いや、ただの講師に見せているのか。「どうして、私の写真をあの人が見せるんですか」 真帆の声に、隠しきれない苛立ちが混じった。 沙耶は真帆の問いには直接答えず、作業台の脇にある丸椅子を指差した。「立ち話もなんですし、お掛けになりますか」「結構です。すぐ失礼しますから」 真帆は拒絶の意を込めて背筋を伸ばした。「単刀直入に言います。水城さん、二度と七海に近づかないでください。学童のお迎え登録も、今日帰ったらすぐに解除してもらいます」 沙耶の目元が、かすかに揺れた。 怒りや焦りではない。何か痛ましいものを見るような、あるいは酷く失望したような、複雑な色がその瞳に浮かんでいた。「……そう聞いていたんですね」 沙耶が呟いた。「え?」「悠人さんから……あなたが、そういう反応をされるだろうと、聞いていました」 沙耶の声には、真帆を侮蔑するような響きはなかった。むしろ、哀れみすら含んだ静けさがあった。それが真帆の神経を逆撫でした。◇「何を聞いているのか知りませんけど」 真帆は踏み出し、沙耶との距離を詰めた。「あなたはうちの家庭にとって部外者です。七海に勝手にプレゼントを渡したり、学校の前に立ち開いたり、家に怪しいカードを投げ込んだりするのを今すぐやめてください。警察に相談することも考えています」 一息に言い切ると、沙耶は静かに息を吐き出し、胸の前で自分の両手を重ねた。指先が白く強張っている。「私……カードなんて投げ込
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第24話 夫が話したこと

 沙耶が視線を落とし、ぽつりと漏らした。「七海ちゃんの好みも、生活のことも、私は悠人さんから教えてもらったことばかりです。ハンバーグの玉ねぎは小さく刻まないと食べないことや、寝る前に右のお耳を触る癖があることや……木曜日は真帆さんが編集会議で遅くなるから、七海ちゃんが寂しがっていること……」 真帆の足元から、すっと血の気が引いていくのが分かった。 七海の細かな癖。料理の好み。真帆の仕事のスケジュール。 真帆しか知らないはずの、家庭の内部の密やかな情報が、すべてこの女の口からスラスラと出てくる。 ストーカーが調べ上げた知識ではない。 夫が、内側から垂れ流していたのだ。「なぜ……そんなことまで、あなたに話すんですか」 真帆の声は震えていた。「あなたとあの人は……どういう関係なんですか? 不倫しているんですか?」 直球の問いかけに、沙耶の顔から感情が消えた。 彼女は真帆をじっと見つめ返し、答えない沈黙を選んだ。その拒絶が、何よりの肯定のように真帆には感じられた。◇「答えられないなら、結構です」 真帆はバッグをきつく抱え直し、身を翻そうとした。 これ以上、この場所にいたら自分がおかしくなってしまう。夫の裏切りと、目の前の女が持っている情報の重さに、吐き気がこみ上げていた。「篠宮さん」 背後から、沙耶の声が追ってきた。 真帆は立ち止まったが、振り向かなかった。「あなた……七海ちゃんに、何も聞いていないんですか?」「何のことですか」「七海ちゃんが、私のことをどう思っているか。悠人さんが、七海ちゃんに何を話しているのか……本当に、何も?」 沙耶の言葉には、どこか真帆を試すような、あるいは追い詰められた者独特の切迫感がこもっていた。「聞きません。聞く必要もありません。私は七海の母親です。あなたに家庭を壊される筋合いはありません」
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第25話 家の中にあるもの

 シンクのふちに置いた磁器のカップに、熱い湯が注がれる。 乾いた茶葉が小さく音を立てて開き、ふわりと立ち上ったのは、ベルガモットと柑橘の甘く爽やかな香りだった。真帆は湯気を見つめたまま、マグカップの取っ手に指をかけた。 アールグレイ。 我が家で紅茶を飲む人間はいないはずだった。真帆は朝も夜もドリップコーヒーを好み、悠人は仕事中に緑茶か炭酸水を口にする程度だ。七海が飲むのは麦茶か牛乳、たまのりんごジュースくらいだ。 真帆はカップの横に置かれた、紺色の丸いスチール缶を手にとった。 海外の老舗ブランドのロゴが金箔で刻まれている。数日前、キッチンの一番上の棚――真帆が滅多に開けない、製菓道具や重箱をしまってある奥の隅に、それは収まっていた。 いつ、誰が買ったものなのか。 缶の底を見返しても、賞味期限の印字があるだけで、購入店のシールやレシートの類はない。「お湯、沸いた?」 背後からかかった悠人の声に、真帆の手元がわずかに跳ねた。「……うん。コーヒー、淹れようか?」「ありがとう。あ、それ、紅茶淹れてくれたの?」 悠人はテーブルの脇に立ち、真帆の手元にあるカップを覗き込んだ。その顔には、いつものように穏やかで爽やかな笑みが浮かんでいる。「これ……いつ買ったの?」 真帆が尋ねると、悠人は一瞬だけ不思議そうに首を傾げた。「ああ、それ? 先月、会社の取引先から手土産で貰ったんだよ。真帆、紅茶も飲むかなと思って棚に入れておいたんだけど……言わなかったっけ?」「……聞いてないよ」「ごめんごめん、すっかり忘れてた」 悠人は真帆の肩に軽く手を置き、そのままキッチンカウンターの上のコーヒーメーカーに視線を移した。「いただきものだから、遠慮なく飲んでよ。美味しい?」 手のひらから伝わる夫の熱が、肩の皮膚を通してじわじわと染み込んでくる。 取引先からの貰い物。 またしても、完璧で角の立たない理由だった。疑う余地などどこにも
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第26話 三人で買った服

 夕方、帰宅した七海がリビングで図鑑を広げている脇に、真帆はそのワンピースを持ってしゃがみ込んだ。「このお洋服、どこで買ってもらったか覚えてる?」 七海は図鑑から目を上げ、ワンピースを一瞥した。「あ、それ、お気に入りのやつ」「これ……ママ、買ってないよね? お父さんに買ってもらったの?」 七海はぺらりと図鑑のページをめくりながら、何でもないことのように答えた。「ううん。パパと沙耶ママと一緒に、お買い物に行ったとき」 真帆の指先が、服の生地を強く握りしめた。「一緒に行ったとき……?」「うん。お洋服屋さんで、沙耶ママが『七海ちゃんに似合うよ』って言って、パパがお金払ったの」 はっきりとした証言だった。 悠人とあの女が、娘を連れて服を選び、与えていた。 真帆が仕事で家を空けている時間、あるいは出張と言っていた週末に、三人で家族のように買い物をしていた光景が、鮮明な映像となって頭の中に広がっていく。 真帆は息を詰めた。「……じゃあ、あのお部屋の引き出しにあった、ラベンダー色のハンカチも?」「んー……」 七海は指先をあごにあて、少し首をかしげた。「ハンカチは知らない。気づいたら入ってた」「え?」「知らないもん。パパも何も言ってなかったし」 七海の言葉に、真帆は胸の奥が冷たく凍りつくのを感じた。 七海が知っている「三人で選んだ物」と、七海すらあずかり知らぬ「いつの間にか家の中に入り込んでいる物」。 その二つが、この家の中で混ざり合っていた。◇ 夜、夕飯の準備を終えた真帆は、玄関のたたきに立っていた。 鍵かけのフックに下がった鍵の束を見つめる。 我が家の玄関は、金属製の板鍵ではなく、ディンプルキーと一体になったスマートキーを採用している。真帆の持ち歩く鍵、悠人の持ち歩く鍵、そして自宅の引き出しに保管してある予備の鍵の、計三本があるはずだった。
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第27話 消された十四分

 深夜一時。 隣で眠る悠人の規則正しい寝息が、暗い寝室に響いていた。 真帆はそっと掛け布団をめくり、ベッドを抜け出した。足音を殺して廊下へ出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。 真帆はリビングに向かい、テーブルの上に置いた自分のスマートフォンを手にとった。 画面の明かりが、真帆の青ざめた顔を白く照らし出す。 我が家の玄関には、半年前から導入されたスマートロックシステムが取りつけられている。スマホアプリと連携し、施錠や解錠の履歴がクラウドに記録される仕組みだ。暗証番号入力、鍵での解錠、アプリ操作、それぞれの履歴が日時とともに残る。 真帆はアプリを立ち上げ、「解錠履歴」のタブを開いた。 画面には、真帆と悠人の出入りが整然と並んでいる。『6/3 08:15 解錠(悠人・アプリ)』『6/3 17:30 解錠(真帆・アプリ)』『6/4 08:10 解錠(悠人・アプリ)』 過去の履歴を、指先でゆっくりと遡っていく。 真帆が仕事で終日外出しており、七海が学童にいて、悠人も「都内で終日研修」と言っていた先月の水曜日の履歴に手が止まった。 午後二時四分。『5/6 14:04 解錠(手動・鍵解錠)』『5/6 14:18 施錠(手動・鍵施錠)』 息が止まった。 午後二時。真帆は都内のオフィスで会議中だった。七海は小学校の五時間目の授業中。そして悠人は、横浜の研修会場にいるはずの時間だった。 手動・鍵解錠。 スマートフォンのアプリでも、暗証番号の入力でもない。物理的な「鍵」を鍵穴に差し込んで回し、家に侵入し、十四分後に再び鍵をかけて去っていった記録。 手がガタガタと震え始めた。 誰かが、自分たちが不在の午後に、この家に鍵を使って入ってきている。 七海のクローゼットにあった見覚えのない服。真帆の知らない紅茶。引き出しの奥にあったハンカチ。 それらは、真帆の気のせいでも、悠人の貰い物でもなかった。 本当に、誰かがこの家の中に足を踏み入れ、自分たちの生活空間を触り、物を置き、去っていたのだ。
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第28話 隠されたタブレット

 静かな部屋に、液晶画面の青白い光だけが真帆の指先を淡く照らしていた。 土曜日の午後九時を回ったところだった。七海は自分の部屋で、真帆が読み聞かせをした絵本の余韻に包まれたまま、すやすやと寝息を立てていた。悠人は「急な物件の確認が入った」と言って、夕方から外出していた。 真帆はダイニングテーブルに腰掛け、七海が学校や家で使っている学習用のピンク色のタブレット端末を開いていた。 画面には、七海がデジタルペイントアプリで描いたカラフルな花の絵や、学童の友達と撮ったぼやけた写真が並んでいる。真帆は定期的にこの端末の容量を整理し、不要なファイルやスクリーンショットを削除するのが習慣だった。 タッチパネルを指先で軽やかにスワイプし、ゴミ箱を空にしていく。 アプリの「写真」フォルダを開き、アルバムの一覧を下にスクロールしたときだった。 最下部に、見たことのないフォルダが一つ、ぽつんと配置されていた。『非表示』 小さな南京錠のアイコンが添えられている。 真帆の指が、画面の上でピタリと止まった。 七海が自分で非表示アルバムを作るはずがない。二年生の子どもが、わざわざ写真を選んで非表示にし、パスコードまで設定するとは考えにくかった。この端末を初期設定し、ペアリングやペアレンタルコントロールの管理を行っていたのは、すべて悠人だった。 真帆は画面の南京錠アイコンをタップした。『パスコードを入力してください』 キーパッドの数字が、青白い画面の上に整然と並んでいた。 真帆は一度、指を引いた。ここで画面を閉じてしまえば、何も見なかったことにできる。七海の端末を勝手に探る母親にならずに済むし、悠人の言葉をもう一度信じる余地も残せる。 壁の時計が一秒ごとに小さな音を刻んでいた。外を走る車の音が遠ざかると、家の中は七海の寝息さえ聞こえてきそうなほど静かになる。その静けさの中で、真帆は自分の指先だけが別の生き物のように震えているのを見つめた。 知らないままでいることの方が、もう怖かった。 四桁の数字を求めるキーパッドが画面に浮かび上がる。 真帆の心臓が、とんと、と重い音を立てた。
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第29話 知らない家族写真

 そこに広がっていたのは、真帆の知らない「家族」の記録だった。 画面の一番上、最新のサムネイルをタップすると、高画質な写真が画面いっぱいに拡大された。 巨大な水槽の青い光の中で、笑顔を見せる三人の姿。 中央に立つ七海。その右隣で、七海の肩を優しく抱く悠人。そして左隣で、七海の小さな手を握り、カメラに向かって柔らかく微笑んでいる女性――水城沙耶。 七海の髪には、あの透明感のある青い星の髪留めがついていた。七海が着ているのは、真帆がクローゼットで見つけた、あのネイビーの綿ジャガードのワンピースだった。 三人は肩を寄せ合い、まるで何の疑いもない、幸せに満ちあふれた一つの「家族」としてそこに収まっていた。 真帆の手から血の気が引いていく。 指先が冷たくなり、液晶画面を撫でる感覚すら麻痺していくようだった。 真帆は喘ぐように浅い呼吸を繰り返しながら、隣の写真へスワイプした。 遊園地の観覧車の前での一枚。 悠人が七海をたかだかと抱き上げ、その横で沙耶が七海の着替えや飲み物が入ったトートバッグを腕にかけて笑っている。 レストランでの一枚。 大きなバースデープレートを挟んで、三人が並んで座っている。七海の口元にケーキのクリームがつき、それを沙耶が手拭きで優しく拭ってやっている。その背後で、悠人が愛おしそうに二人を見つめている。 偶然撮れた写真ではなかった。 通りすがりの人に頼んで撮ってもらったような、構図の整った、完璧な「記念写真」の数々。 真帆は画面を上へ上へとスクロールし続けた。 枚数は十枚や二十枚ではなかった。百枚を超える写真が、その非表示アルバムの中に整然と保存されていた。 日付を確認する。 今年のものだけではない。『2025年10月14日』『2025年4月3日』『2024年11月20日』『2024年7月8日』 さらに遡っていく。『2024年6月15日』 七海が五歳、幼稚園の年長組になったばかりの頃の日付まで存在していた。 一年前。二年前。 悠人が「
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第30話 七海ではない少女

 真帆は画面をさらに遡った。 この一、二年の間に蓄積された、三人の幸せそうな笑顔。水族館、テーマパーク、公園、カフェ、レストラン。 行き先は多岐にわたっていたが、どこへ行っても三人は同じ立ち位置で、同じように微笑みあっていた。七海は沙耶にすっかり懐き、沙耶の首に腕を回して甘えている写真すらあった。 どの写真にも、真帆がいるはずの場所に沙耶が立っているように見えた。 母親の座が、自分の知らないところで少しずつ置き換えられている――真帆には、そう感じられた。 真帆は震える指で画面をスワイプし、アルバムの最古のデータまで辿り着こうとした。 どこから始まったのか。いつから悠人はあの女と通じ合い、我が子を巻き込んでこんな不潔な二重生活を始めていたのか。その原点を確認しなければ、気が狂いそうだった。『2024年5月12日』 それが、このタブレットに保存された最初の三人の写真だった。 だが――。 真帆の指が、そのさらに下に置かれた数枚の画像データで止まった。 日付の表示がない画像。 サムネイルの質感が、他の高画質なデジタル写真とは明らかに異なっていた。 画素数が粗く、全体に少し黄色みがかった色合い。画像の上部に、室内灯の白い光が丸く反射して写り込んでいる。 スマートフォンのカメラで、何か「現物の紙の写真」を撮影した画像だった。 真帆は息を殺し、その画像をタップして拡大した。 写真の中に写っていたのは、どこかの水族館の大水槽の前だった。 青い光が背景を包み込んでいる。 そこに立っているのは、三人。 中央に立つ、幼い女の子。 その右隣で、女の子の肩を抱いてカメラに優しく微笑みかける若い男――それは、今より少し髪が短く、痩せて見える、数年前の悠人だった。 そして左隣で、女の子の手を握り、幸せそうに目を細めている若い女性――少し髪が長く、今よりも幼さの残る、水城沙耶だった。 真帆の頭の中に、強烈な違和感が走った。 悠人と沙耶。そして、中央で笑う女の子。 真帆は画面に顔を近づけ、その女の子
last updateLast Updated : 2026-09-07
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