All Chapters of 魔王信長の天下布武 ~忍軍、陰陽師、法力僧が覇を争う戦国で、神殺しの織田信長は呪われた神器と天下を奪う~: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話 父の棺から這い出すもの

 もしも父の棺から、あの黒いものが這い出してこなかったなら、織田信長は衆人環視の中で抹香を投げつけるような真似をしなかっただろう。 少なくとも、後に本人はそう語った。しかし、その言葉を信じた者は多くない。尾張中から「大うつけ」と呼ばれていた若者が、父の葬儀で見せた振る舞いを正当化するため、もっともらしい怪異を作り上げたのだと笑う者もいた。 その日、萬松寺の本堂は、まだ春になり切らぬ冷気と、数え切れないほど焚かれた香の煙に包まれていた。 天文二十一年三月、尾張国内で強い勢力を築き、「尾張の虎」とまで呼ばれた織田備後守信秀が死んだ。享年四十二。流行り病による病死だと伝えられていたが、その死があまりに急だったため、毒を盛られたという者もいれば、長年争ってきた敵方の陰陽師に呪い殺されたのだと囁く者もいた。 本堂には織田一族だけでなく、家老、奉行、国人衆、商人、僧侶まで集まっていた。亡き信秀を悼むためという者もいれば、後継者を見定めるために来た者もいる。信秀という一頭の虎がいなくなった今、織田家が誰の手に渡るのか、それによって尾張の勢力図は大きく変わる。 参列者たちの視線は、姿を見せない嫡男ではなく、棺の近くに端然と座る弟の織田勘十郎信勝へ集まっていた。 信勝は兄より二つ年下ながら、礼法をよくわきまえ、穏やかな物腰を崩さない若者だった。深い悲しみを堪えるように伏せられた目も、背筋を伸ばして座る姿も、申し分のない当主の器に見える。少なくとも、腰に瓢箪や火打ち袋をぶら下げ、町の悪童どもと川で泳ぎ回る兄よりは、はるかに織田家の跡継ぎにふさわしい。 信勝の後ろには、母の土田御前が座っていた。喪の色に身を包み、目元を赤く腫らしているものの、その姿勢には織田家当主の妻として長年生きてきた女の気丈さが残っている。「兄上は、まだお越しにならぬのでしょうか」 信勝が声を落として尋ねると、近くに控えていた林佐渡守秀貞は、苦々しい表情で本堂の入り口へ目を向けた。「使いは何度も出しております。知らぬ場所におられるわけでもなく、那古野城にはお戻りになっているはずですが、御支度に手間取っているとのことでございます」「父上の葬儀よりも大切な支度が、兄上にはあるのですか」 信勝の言葉には露骨な悪意がなかった。それだけに、周囲の者たちは返答に困ったように視線を交わした。 土田御前は
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第2話 うつけ者を廃嫡せよ

 織田信長が萬松寺を立ち去ったあとも、葬儀はすぐには再開されなかった。 焼け焦げた棺の蓋には太刀で斬りつけた跡が残り、本堂には抹香と焦げた木の臭いが入り混じっていた。僧たちは火が完全に消えたことを確かめながら、互いに顔を見合わせている。信長が斬ったものも、青白い炎に焼かれた黒い百足も見えていなかった彼らにとって、先ほどの出来事は、嫡男が父の葬儀へ遅れて現れ、棺に抹香を投げつけたうえ、いきなり太刀を抜いて暴れたようにしか見えなかった。 織田信勝は立ったまま、兄が出ていった本堂の入り口を睨んでいた。 怒りのために握り締めた拳が、かすかに震えている。爪が手のひらへ食い込み、痛みを感じているはずだが、信勝は力を緩めようとしなかった。「勘十郎様、まずはお座りください。葬儀の最中でございます」 林秀貞が声を落として促したが、信勝は返事をしなかった。 父を弔うための葬儀が、兄の振る舞いによって台無しにされた。そのことが許せないのは間違いない。しかし信勝の胸を占めていたのは、怒りばかりではなかった。 棺へ向かって太刀を振り下ろしたとき、信長の目には明らかな恐怖が浮かんでいた。 見栄も体面も気にせず、何事にも怯まないように見える兄が、初めて恐怖を露わにした。その視線は棺ではなく、自分へ向けられていた。 信勝には、兄が何を見たのか分からない。ただ、あの瞬間、信長が自分を守ろうとしていたように思えてならなかった。「勘十郎」 母の土田御前に呼ばれ、信勝はようやく我に返った。「はい、母上」「今は父上をお送りすることだけを考えなさい。三郎が何を考えてあのような真似をしたのか、私にも分かりません。しかし、あの子のために葬儀を中断したままにしておけば、それこそ父上の御魂が安らげないでしょう」「兄上のために中断しているのではありません。父上の棺があのような有様になった以上、何事もなかったように読経を続けることなどできないと申しているのです」 信勝は抑えようとしたものの、語気を強めてしまった。土田御前は驚いたように息子を見たが、すぐに悲しそうな表情へ戻った。「それでは、どうすればよいのです。三郎を呼び戻して謝らせますか。あの子が素直に頭を下げると、お前は本気で思っているのですか」「思いません。兄上は誰かに頭を下げるくらいなら、その者を斬るか、自分が斬られるかを選ぶ人
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第3話 死者が歩く清洲街道

 日が西へ傾き始めた清洲街道を、織田信長と帰蝶、それに知らせを持ってきた池田恒興の三騎が駆けていた。 父・信秀の遺体が消えたと聞いた信長は、那古野城へ戻って兵を集めようとはしなかった。大勢を動かせば、父の遺体を奪った者にこちらの動きを知らせることになるうえ、家中には信長を快く思わない者が多い。信秀を失った直後である今、誰が敵と通じているのかも分からなかった。「殿、せめて那古野から二十騎ほど呼び寄せるべきではございませぬか。御屋形様の御遺体を盗んだ者が、何人いるかも分からぬのでございますぞ」 先頭を走る信長へ、池田恒興が必死に声を張り上げた。 彼は信長の乳兄弟であり、幼い頃からその傍らに仕えている。信長の奇行には慣れているつもりだったが、今日の葬儀で起きたことだけは、恒興にも理解できなかった。 信長が亡き父の棺へ抹香を投げつけ、太刀で斬りつけた姿を見たとき、恒興も周囲の家臣と同じく、いくら何でも度が過ぎていると思った。しかし、棺から遺体が消え、寺の北門から清洲街道へ奇妙な跡が続いているとなれば、信長の振る舞いにも何か理由があったのではないかと考えざるを得ない。「二十騎も引き連れて街道を走れば、敵にここへ向かっておりますと教えるようなものだ。遺体を運んでいるなら、足は速くない。先に追いついて逃げ道を確かめ、そのあとで兵を呼べばよい」「相手が待ち伏せしていたら、三人ではどうにもなりませぬ」
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第4話 蝮の娘の短刀

 父・織田信秀の亡骸を取り戻した信長たちは、すぐに萬松寺へ引き返すことができなかった。 黒い糸を断ち切った代償によって信長は立っていることさえ難しく、池田恒興も死兵の刀を受けて左肩を負傷している。帰蝶だけは大きな傷を負っていなかったものの、成人した男の遺体を抱えて街道まで運び出せるはずがなかった。 日もすでに山の端へ沈みかけている。このまま林の中にいれば、間もなく辺りは闇に包まれるだろう。信秀の遺体を奪った術者が諦めていない可能性もあり、悠長に夜明けを待つわけにはいかなかった。「殿、この林を抜けた先に、小さな村がございます。そこまで行けば、荷車と人手を借りられるはずです。私が行ってまいりますので、殿と御台様はここで御屋形様をお守りください」 恒興は傷ついた左肩を右手で押さえながら、林の出口へ目を向けた。 着物の肩口は血に濡れ、顔色も決してよくない。その姿を見た信長は眉をひそめた。「その傷で馬に乗るつもりか。途中で落ちれば、迎えを呼びに行った者まで迎えに行かねばならなくなる」「馬へ乗る程度ならば問題ございません。殿こそ、御自分の顔色をご覧になったほうがよろしいかと存じます。先ほどから立派に話しておられますが、御台様が手を離されたら、そのまま地面へ倒れるのではございませぬか」「離されぬようにつかんでいるから問題ない」
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第5話 父を盗んだ陰陽師

 池田恒興が連れてきたのは、村の若者が三人と、年老いた名主、それに牛へ引かせる小さな荷車だった。 信長たちがいる林へ入った途端、村人たちは地面に転がる五人の死体を見て足を止めた。遺体は短い時間で腐敗が進み、顔の判別さえ難しくなっている。刀傷を受けて死んだ者なら見慣れているはずの村人たちも、尋常ではない死に方をしたことだけは察したらしく、誰も進んで近づこうとはしなかった。「この方々は、山賊に殺されたのでございましょうか」 名主が怯えた声で尋ねると、恒興は少し考えてから答えた。「今のところは、そういうことにしておいてくれ。詳しいことは、那古野へ戻ってから調べる」「そういうことに、とは……」「余計なことを知れば、お前たちまで狙われるかもしれぬという意味だ。ここで見たものについては、村へ戻っても誰にも話すな。亡くなった者たちの家族へ知らせるのも、織田家から行う」 恒興は乱暴に脅すのではなく、村人たちを案じるように説明した。 その言葉に名主は何度もうなずいたものの、納得したというより、これ以上関わりたくない一心のようだった。 信長は帰蝶の肩を借りながら立ち上がり、村人たちを見た。
last updateLast Updated : 2026-09-12
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第6話 初めて斬った神

 尾張の夜空を覆った巨大な顔には、人間のような目も鼻もなかった。 あるのは、山から山まで届きそうなほど大きな口だけだった。上下に並んだ黒い牙の一本一本へ、戦や飢え、病によって命を落とした者たちの顔が浮かび、苦しげに口を動かしている。声は聞こえないはずなのに、助けを求める呻きが頭の中へ直接流れ込み、村人たちは耳を塞いで地面へ伏せた。 街道へ走った亀裂から赤黒い光が噴き上がり、その中から腕のような太い根が何本も伸びてくる。根は畑の土を引き裂き、村人たちを囲むように地面を這った。「逃げろ! 荷車を捨てて、街道の南へ走れ!」 池田恒興が叫んだが、村人たちは恐怖のあまり動けなかった。 若者の一人は腰が抜けたように座り込み、老いた名主は念仏を唱え続けている。荷車を引いていた牛だけが、つながれた綱を引きちぎろうと暴れ、その鳴き声が地鳴りに混じって響いた。「恒興、その者たちを連れて下がれ!」「殿を残して逃げられるはずがございません!」「怪我人が前に出て、何ができる。俺より先に血を流した者が、立派な忠臣のつもりで無駄死にするな!」「殿こそ、立っていることも難しい御身体でしょう!」
last updateLast Updated : 2026-09-13
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第8話 弟の祝い膳

 末森城で開かれた宴は、表向きには亡き織田信秀を偲び、乱れかけた織田家の結束を確かめるためのものとされていた。 しかし、広間の上座には信秀の嫡男である織田信長ではなく、弟の勘十郎信勝が座っている。家臣たちが祝いの品として持ち寄った太刀や鎧、織物も、すべて信勝の前に並べられていた。 誰も家督相続の宴とは口にしなかったが、この場へ集まった者たちの大半は、信勝を織田弾正忠家の次の当主として扱っている。 信勝は淡い青色の小袖に、織田木瓜の紋を染め抜いた肩衣をまとい、居並ぶ家臣たちからの挨拶を受けていた。 礼を述べる声も、杯を受ける所作も非の打ち所がない。父の死を悼む態度を崩さず、それでいて今後の織田家を背負おうとする覚悟も見せている。 林秀貞は、その姿を満足そうに見守っていた。「勘十郎様、本日集まった者たちは、いずれも織田家の行く末を案じる忠臣にございます。御屋形様を失った悲しみは消えませぬが、いつまでも立ち止まっているわけにはまいりません。清洲の大和守家も、岩倉の伊勢守家も、我らの乱れを見逃しはしないでしょう」「分かっている。父上が守ったものを失わぬため、私もできる限りのことをするつもりだ。ただし、兄上を廃する話は、まだ決まったわけではない」 信勝が答えると、林秀貞の近くに座っていた林美作守通具が難しい顔をした。
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第10話 平手政秀の諫死

 帰蝶へ毒を盛った女中の弟は、その翌朝、清洲城から少し離れた廃寺で発見された。 両手を縄で縛られ、仏堂の床下へ押し込まれていたものの、命に別状はなかった。見張りの姿はなく、残されていたのは、白い百足を描いた紙人形と、乾いた血が入った小さな壺だけだった。 平手政秀は自ら廃寺へ赴き、床や柱、土壁へ残された痕跡を調べた。 信長からは、毒へ混ぜられていた灰がどこの寺で作られたものなのか、白い百足の僧が何者なのかを突き止めるよう命じられている。信長の傅役として長年仕えてきた政秀は、武家や寺社、商人の間にも独自のつながりを持っていた。 人ならざるものを見る力はなくても、人間が残した跡を調べることならできる。 仏堂には、長い間人が住んでいた形跡がなかった。 囲炉裏に残った灰は冷たく、天井には蜘蛛の巣が張っている。しかし、本尊の前にだけ新しい蝋燭が一本置かれ、その根元へ白い粉がまかれていた。 政秀は白い粉を懐紙ですくい、鼻先へ近づけた。「これは、骨の灰か」 人や獣の骨を焼いたものに見えるが、妙に甘い臭いがした。 政秀が懐紙を折り畳もうとしたとき、粉の中から髪の毛ほど細い白
last updateLast Updated : 2026-09-17
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