All Chapters of 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~: Chapter 11 - Chapter 20

55 Chapters

第11話 愛さないための契約

第11話 愛さないための契約「俺の婚約者へ剣を向けたな、王太子」ケイルの低い声が鏡の間へ響いた瞬間、広間を飾るすべての鏡に、牙を剥いた黒竜の姿が映し出された。それは実体ではなかったが、幻と呼ぶにはあまりにも生々しい。鏡のなかの竜は、怒りに燃える金色の目でルシアンを睨み、巨大な翼でエララを包み込むように広げていた。大理石の床を這う黒い炎が、抜き放された剣の切っ先へ触れる。鋼が赤く染まり、甲高い音を立てて溶け始めた。ルシアンは驚いて手を放した。剣が床へ落ちるより早く、ケイルは片足で柄を踏みつける。黒い炎は剣身だけを灰に変え、床にも絨毯にも傷ひとつ残さなかった。力の差を見せつけるために、広間を焼く必要さえないのだ。「剣を抜いた理由を聞こう。俺を殺すためか、それとも、自分の意思で婚約を選んだ女を斬るためか」「どちらでもない。エララを保護するためだ」ルシアンは震える右手を握りしめながら答えた。「黒竜皇に脅され、正常な判断ができなくなっている。反逆の疑いもある以上、王太子として彼女の身柄を拘束し、神殿で事情を確かめる必要がある」「神殿へ送ると言えば、女へ剣を向けても保護になるらしい。便利な国だな」「我が国の法に口を出すな!」「ならば、その法を読み上げろ。成人した貴族の女が、王家の承認なしに外国人と婚約してはならないという条文と、違反した者へ王太子が自ら剣を向けてよいという条文だ。今ここで示せるなら聞いてやる」ルシアンの顔が強張った。そのような条文は存在しない。貴族の婚姻には家や王家の承認が慣例として求められるが、それは領地や爵位の継承、家同士の利益を調整するための制度であって、王太子が気に入らない婚姻を剣で止めてよいという意味ではなかった。「私は王太子だ。法の解釈について、お前に指図される筋合いはない」「法を知らない者ほど、身分を名乗りた
last updateLast Updated : 2026-09-21
Read more

第12話 王太子の所有物ではない

第12話 王太子の所有物ではない「愛しても言わないことなら約束しよう」ケイルの言葉が、夜明け前の小会議室へ静かに落ちた。徹夜の疲れで目を赤くしていた宮廷書記官も、難しい顔で契約書を見つめていた法務官たちも、一斉に口を閉ざした。窓辺へ立っていたレオニスだけは聞かなかったふりを貫いていたが、外套の襟を直す指がわずかに止まったため、動揺していることは隠せていなかった。エララはケイルの金色の瞳から目を逸らせなかった。まだ愛していないと言ったのは、つい数時間前のことだ。互いに利益を差し出し合う一年間の契約に、愛情など必要ないと確認したばかりでもある。それなのにケイルは、いつか感情が変わる可能性まで否定しようとはしなかった。「言わなければ、愛していないことと同じになるのではありませんか」エララが尋ねると、ケイルは少しだけ眉を寄せた。「同じではない。言葉にしなくても、相手を守ろうとしたり、傷つけば腹を立てたり、他の男の隣にいる姿を不愉快に思ったりすることはあるだろう。感情は言葉にしなければ存在しないという考え方なら、お前は随分と不器用な人間しか知らずに育ったらしい」「陛下御自身も、十分に不器用に見えます」「初対面の男へ、よくそこまで言えるな」「先ほど、陛下に異論を申し上げる権利を契約へ加えていただきましたので」ケイルは返す言葉を探すようにエララを見つめたあと、諦めたように息を吐いた。「契約が有効になる前から権利を行使するつもりか」「権利は、使わなければ失われます。私の国では、そうでした」冗談のつもりで言ったわけではなかった。そのため、言葉の終わりには自分でも驚くほど苦い響きが残った。ケイルの表情からも、わずかに浮かんでいた笑みが消える。「ならば、第十九条はこのままにする。愛情を理由に契約外の義務や同等の感情を要求してはならない。ただし、愛情
last updateLast Updated : 2026-09-22
Read more

第13話 花嫁馬車への襲撃

第13話 花嫁馬車への襲撃王都を覆っていた金色の結界が崩れ落ちると、夜明けを告げる鐘よりも早く、王宮中で警鐘が鳴り始めた。廊下には半分眠ったまま飛び出してきた侍女や文官があふれ、近衛兵たちは命令もないまま窓を閉め、門を固め、武器庫へ走った。何が起きたのか理解していない者ほど大声で指示を出し、事情を知る者ほど青ざめて黙り込んでいる。小会議室の窓から空を見上げたエララには、消えた結界の残滓が見えた。細かな金色の欠片は朝日に溶けながら、雪のように王都へ降り注いでいる。一見すれば美しい光景だったが、そのひとつひとつが、十二年間にわたって自分から奪われた生命力なのだと思うと、胸の奥に鈍い痛みが生まれた。後悔しているわけではない。けれど、解放されたからといって、喜びだけで満たされるわけでもなかった。「すぐに結界を戻しなさい」王妃の声が震えていた。「今ならまだ間に合うでしょう。契約を完全に破棄したわけではなく、一時的に術式が途切れただけだと教会へ説明すれば、再接続の儀式を行えるはずです」「再接続なさるおつもりですか」エララが尋ねると、王妃は一瞬だけ言葉を失った。「あなたを犠牲にしたいと言っているのではありません。ただ、王都には数十万の民が暮らしているのです。魔物の群れが結界の消失に気づけば、外壁だけで防ぐことはできません。新しい防衛術式を用意するまで、ほんの数日だけ力を貸してほしいとお願いしているのです」ほんの数日。その言葉に、エララは苦い笑みを浮かべそうになった。教会も王家も、いつも同じ言葉を使った。ほんの一度だけ、今日だけ、民のために少しだけ我慢してほしい。そう言われるたびに断れず、気づいたときには十年以上が過ぎていた。「私の力を、私自身の同意を得たうえでお貸しすることならできます。ですが、再びあの契約へつながれることには同意いたしません」「方法を選んでいる場
last updateLast Updated : 2026-09-23
Read more

第14話 あなたの呪いが見える

第14話 あなたの呪いが見えるケイルの胸から噴き出した漆黒の炎は、倒れていた暗殺者たちの身体を避けることも、彼を守ろうと駆け寄った騎士たちを見分けることもしなかった。炎は意思を失った獣のように峡谷を駆け、雪を一瞬で蒸発させながら岩肌を黒く焼いた。熱風に煽られたエララの髪が大きく舞い、剥き出しになった頬へ焼けるような痛みが走る。「皇后陛下、お下がりください!」レオニスがエララの前へ立ち、黒い盾を構えた。盾の表面には竜の鱗を模した紋様が刻まれていたが、ケイルの炎に触れた部分から赤く変色していく。このままでは長く持たない。「陛下、聞こえますか。炎をお収めください!」レオニスが呼びかけても、ケイルから返事はなかった。彼は片膝をつき、胸を押さえたまま、浅い呼吸を繰り返している。襟元から覗く肌には黒い鱗が急速に広がり、首筋を這うように頬へ達しようとしていた。右目は苦痛に歪んで閉じられているが、左の瞳は黄金に輝き、細く裂けた瞳孔には人間らしい意識がほとんど残っていない。「誰も近づくな」ようやく絞り出された声は、獣の唸り声が混じったように低かった。「俺から離れろ。早くしなければ、全員焼ける」「では、陛下御自身で炎を止めてください。いつもは、あれほど器用に扱っておられるではありませんか」レオニスの声は強かったが、その背中は小刻みに震えていた。恐怖だけではない。長く仕えてきた主を失うかもしれないという焦りが、平静を奪っているのだ。「止められるなら、とっくに止めている」「それでしたら、なおさら置いていくわけにはまいりません。私は陛下の近衛です。主君が自分の炎に焼かれているのを眺めながら逃げたとなれば、帝都へ戻ったところで一生笑いものにされます」「命と体面を比べるな」「体面ではございません。私が私でいる
last updateLast Updated : 2026-09-24
Read more

第十五話 北の城に歓迎はない

第十五話 北の城に歓迎はない「お前は、母親がお前の名を呼ぶ声を失ったのだな」 エララは息をするのも忘れ、粗末な寝台に横たわるケイルを見つめた。 夜明け前の光が、崩れかけた監視所の窓から細く差し込んでいる。薪のはぜる音も、隙間風が石壁を撫でていく音も聞こえているはずなのに、その一瞬だけは、世界中の音が遠のいたようだった。「どうして、それを……」「お前が俺の呪いに触れたとき、聞こえた」 ケイルは胸元に置いていた手をゆっくりと下ろした。黒炎に焼かれた痕は残っているものの、昨夜のような禍々しい熱はもう発していない。けれど金色の瞳には、痛みよりも深い怒りが宿っていた。「俺を縛っている契約の糸を、お前は一本だけ緩めた。その瞬間、お前の中から何かが引き抜かれ、代わりにこちらへ流れ込んできた。意味までは分からなかった。ただ、女の声がお前の名を呼んだ。それを聞いたお前が、泣きたいほど安心したことも伝わった」 忘れたはずのものを他人の口から告げられるのは、奇妙な感覚だった。そこにあったことだけは分かるのに、手を伸ばしても輪郭に触れられない。自分の胸の一部がきれいに切り取られ、その欠片だけがケイルの中へ落ちたようで、エララは無意識に両手を握り締めた。「母は、どんなふうに私の名を呼んでいましたか」 尋ねた途端、ケイルの表情が険しくなった。「聞かないほうがいい」「どうしてです。もう私には思い出せないのですから、あなたが覚えているなら教えてください。声そのものが戻らなくても、せめて、どんな調子だったのかくらいは……」「俺の声で真似をすれば、お前はそれを母親の声の代わりにしようとするだろう。違う声だと分かっていながら、失った穴へ無理に押し込む。それを何度も繰り返せば、最後には本当に覚えていたものと、俺が語ったものとの区別がつかなくなる」「それでも、何もないよりはましです」
last updateLast Updated : 2026-09-25
Read more

第十六話 噛みつく小さな竜姫

第十六話 噛みつく小さな竜姫 白狼は、アルブレヒト王家を象徴する獣だった。 深紅の寝具に横たえられた白い胴体からは首が切り離され、その隣へ、まるで眠っているかのように頭部が置かれている。血はほとんど寝具へ染み込んでおらず、鉄に似た臭いも弱い。この部屋で殺されたのではなく、別の場所から運び込まれたのだろう。「触らないでください、お嬢様。こういうものには毒が塗られていると、昔読んだ物語に書いてありました」 短剣を構えたまま、リナがエララの前へ腕を伸ばした。「物語の知識なのね」「物語に出てくる悪党が考えつくことなら、現実の悪党も考えつきます。だいたい、人間というものは、自分だけが思いついたつもりで似たような卑怯なことをするものです」「それは否定できないわね。けれど、これを置いた相手の目的は、私を毒殺することではないと思う」 エララは寝台から二歩ほど距離を取り、白狼の周囲に漂う黒い糸を見つめた。 それは偽りの契約を示す糸とは少し違っていた。誰かが心の中で固く誓った悪意が、実行されたことによって残した痕跡に近い。糸は白狼の首へ絡まり、寝具を這い、開け放たれた扉の外まで伸びている。「殺すつもりなら、わざわざ警告などしないはずよ。これは、私に何かを見せたい人の仕業だわ」「自分ならいつでも殺せると伝えたいのでしょう。十分に物騒ではありませんか」「ええ。だから、ここを動かさずに人を呼びましょう。扉を閉めて、誰も出入りさせないで」 リナが廊下の衛兵を呼ぼうと振り返った、そのときだった。「エララ」 硬い声とともに、ケイルが寝室へ入ってきた。 先ほどまでの正装ではなく、黒い上着を羽織っただけの姿だった。傷を負っているとは思えないほど足取りは速かったが、動くたび、左胸を庇うように肩がわずかに強張っている。「どうしてここにいるのです。お部屋で休んでくださいと申し上げたはずですが
last updateLast Updated : 2026-09-26
Read more

第十七話 竜の婚礼

第十七話 竜の婚礼 紙の裏側に描かれていたのは、切り落とされた白狼の首を抱え、北塔の扉へ手を伸ばす黒い外套の人物だった。その指には、翼を広げた金色の竜をかたどる指輪がある。 ノクサル皇族だけが所持を許される紋章だと知った瞬間、エララの胸に浮かんだのは、犯人へ近づいたという喜びではなかった。 これをケイルへ見せれば、彼は皇族全員を疑わなければならなくなる。イゾルデへ見せれば、ルマが厳しい尋問を受けるかもしれない。だからといって隠せば、白狼を運び込んだ者を野放しにするだけでなく、自分を信じて絵を残した少女の勇気まで無駄にしてしまう。「朝から難しいお顔をなさっていますね。せっかく謝罪を受け取ったのですから、最初くらいは素直に喜んではいかがですか」 リナは寝台脇へ湯の入った器を置き、エララの手から絵を受け取った。表側を見たときには目元を和らげていたものの、裏返した途端、その表情が引き締まる。「これは、陛下の指輪と同じものですか」「形は似ているけれど、細部までは分からないわ。ルマがどれほど正確に描いたのかも分からないし、犯人の指にはめられていたのが本物だという保証もない。絵だけを根拠に、誰かを犯人扱いすることはできないわ」「けれど、黙っているわけにもいきませんね」「ええ。ケイルと皇太后陛下へ見せます。ただし、その前にルマが自分の意思で描いたものだと確かめたいの。誰かに描かされた可能性も、考えておかなければならないから」「また噛まれるかもしれませんよ」「今度は手を出さないわ」「昨日も最初はそのおつもりだったはずです。お嬢様は用心するとおっしゃりながら、目の前に傷ついた人がいると、ご自分から近づいていくのですから信用できません」「そんなに信用がないの?」「ございます。ただ、お嬢様がご自分の安全を最優先するという点だけは、まったく信用しておりません」 リナの言葉には遠慮がなかったが、その手はエララの右手を取り、包
last updateLast Updated : 2026-09-27
Read more

第十八話 口づけの前に

第十八話 口づけの前に 始祖竜の石棺が、内側から大きな音を立てた。 祭殿を囲んでいた貴族たちが一斉に後ずさり、何人かは腰の剣へ手を伸ばした。しかし、死者を収めた石棺から現れる何かに剣が通用するのか分からないらしく、抜き放つまでには至らない。 エララの手を握るケイルの指に力がこもった。守らなければならない危険がどこにあるのか判断できないため、彼はエララを自分の背後へ隠すこともせず、ただ、いつでも抱き寄せられる距離を保っている。 重い石の擦れる音とともに、石棺の蓋がわずかに持ち上がった。 中から溢れ出したのは死者でも黒い炎でもなく、目を開けていられないほど眩い金色の光だった。光は祭殿の天井へ昇り、翼を広げた巨大な竜の姿を描いたあと、エララとケイルの胸に現れた誓紋へ吸い込まれていく。 すべての光が消えると、石棺の蓋は何事もなかったように元の位置へ戻った。「今のは、何だったのですか」 エララが尋ねても、老司祭は答えなかった。答えを拒んでいるのではなく、自分でも理解できないのだろう。血の気を失った顔で始祖竜の石棺を見つめ、震える指を何度も組み直している。「始祖の間が開かれたのは、先帝陛下の即位以来、二十九年ぶりでございます。しかし、あのときは祭壇の炎が一度だけ高く燃えたにすぎません。石棺そのものが応じるなど、神殿に残る記録でも読んだことがございません」「記録にないことばかりではないか」 ケイルの声には苛立ちがにじんでいた。「金色の誓紋も、石棺の反応も、何一つ分からないまま、祖霊の奇跡だとでも言って民を納得させるつもりか」「軽々しく奇跡と断じることはできません。ただ、始祖竜が拒絶を示したのであれば、祭殿の炎は黒く燃え、婚姻を結ぼうとした者を外へ押し出します。今回の反応が拒絶ではなかったことだけは確かです」「では、祝福だったのですか」 エララが重ねて問うと、老司祭は長い沈黙の末に首を横へ振った。
last updateLast Updated : 2026-09-28
Read more

第十九話 夫婦で踊る理由

第十九話 夫婦で踊る理由 始祖の祭殿を出てから祝宴会場へ向かうまで、ケイルは一度も口を開かなかった。 彼はエララの手を離さず、歩調も婚礼衣装の裾に合わせている。けれど、頬へ触れた口づけについて問い返すこともなければ、金色の誓紋や始祖竜の石棺について話すこともない。普段の彼なら沈黙していても不機嫌なのか考え込んでいるのか見分けられたが、今は驚くほど表情が乏しかった。「怒っているのですか」 長い回廊を半分ほど進んだところで、エララは我慢できずに尋ねた。「何に対してだ」「私が、勝手に頬へ口づけたことです」「怒ってはいない」「それなら、困っているのですか」「困ってもいない」「では、なぜ黙っているのです」「何を言えばいいのか分からない」 戦場では何千もの兵に命令を下し、宮廷では気難しい貴族たちを短い言葉で従わせる男が、頬へ一度口づけられただけで何を言えばよいか分からなくなっている。その事実が妙に可笑しく、同時に、エララの胸をくすぐったくさせた。「感想を言えばよいのではありませんか」「感想とは、どのようなものだ」「私に聞かないでください。口づけられたのは、あなたでしょう」「温かかった」「もっとほかにありませんか」「短かった」「もう少し言い方を考えてください」「もう一度してほしい」「それは感想ではなく要求です」「ならば、どのように頼めばいい」「それもご自分で考えてください。私は先ほど、お願いの仕方を考えてから尋ねてほしいと申し上げました」「考えた結果、もう一度してほしいと頼んだ」「考える時間が短すぎます」「要求が単純だから、長く考える必要がない」
last updateLast Updated : 2026-09-29
Read more

第二十話 鎖につながれた皇帝

第二十話 鎖につながれた皇帝 ケイルの背中から噴き上がった黒炎が、天竜の間の天井へ届いた。 翼を広げるように燃え上がった炎は、銀細工の竜を包み込み、華やかな祝宴会場を一瞬で灼熱の牢獄へ変える。悲鳴を上げた貴族たちが出口へ殺到し、倒れた椅子や割れた食器が床へ散らばった。「走ってはなりません。扉は三つあります。身分に関係なく、近い場所から順番に退出なさい!」 イゾルデの声が響く。 息子が黒炎に呑まれかけているにもかかわらず、皇太后は取り乱さなかった。護衛へ指示を出し、楽団員や給仕たちまで逃げ遅れないよう、貴族を壁際へ誘導させている。 それでも、命じる声の合間に一度だけケイルへ向けられた視線には、母親としての恐怖が隠しきれずに浮かんでいた。「陛下、こちらへ」 近衛兵たちが黒い外套を広げ、ケイルを取り囲んだ。 外套には銀色の呪文が刺繍されており、黒炎に触れても燃えない。兵士たちは慣れた動きでケイルの姿を人々から隠し、祝宴会場の奥にある通路へ誘導しようとする。 しかし、ケイルの足は床へ縫い止められたように動かなかった。 彼は炎の向こうから、エララだけを見ている。 金色だった瞳は中心から黒く濁り、瞳孔は獲物を見つけた獣のように細くなっていた。その表情には苦痛と恐怖が浮かんでいるのに、誓紋を通して伝わってくるものは、それだけではない。 飢えだった。 ケイルの意思とは無関係に、彼の内側にいる黒竜が、エララの血と鼓動を求めている。「エララ、下がれ」 唇から押し出された声は、まだ人間のものだった。「近衛兵と一緒に北塔へ戻れ。今夜は部屋から出るな」「その前に、月蝕がなぜ予定より早く始まったのか説明してください。本来は三日後だったのでしょう」「今、話している余裕はない」「三日後なら、あなたは準備をしてい
last updateLast Updated : 2026-09-30
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status