تسجيل الدخول聖女エララは「運命の番」であるルシアン王太子に妹を選ばれ、偽りの罪で火刑に処された。最期に彼女を抱いたのは、敵国の呪われた竜皇ケイルだった。「次は俺を選べ」という声とともに一年前へ戻ったエララは、今度こそ王太子を自ら拒絶し、竜皇へ契約結婚を申し込む。愛さないはずの夫は彼女の傷を急かさず、触れるたびに許しを求め、やがて誰より激しく彼女を守り始める。しかし二人の結びつきは、教会が隠してきた“運命の番”の偽造を暴き、世界を揺るがす戦いを招いてしまう。これは捨てられた聖女が、与えられた運命を壊し、自分の意思で愛と王冠を選び直す物語。
عرض المزيد火刑台の上から見下ろした王都の広場は、まるで秋の収穫祭でも始まるかのように人で埋め尽くされていた。
ただし、露店から漂ってくるのは焼き菓子や香辛料の匂いではなく、聖女を清めるという名目で薪へ振りかけられた月桂油の甘ったるい香りだった。罪人の恐怖を和らげる効果があると司祭は説明していたが、実際には火の回りを早め、燃え上がる炎を白く美しく見せるためのものだと、エララは地下牢で聞かされていた。
美しく死ぬことまで求められるのだから、聖女という役目は最後まで面倒だった。
両手首を縛る銀鎖が動くたび、皮膚へ食い込んだ棘が魔力を吸い上げた。治癒の力さえ封じられていなければ、火に焼かれながら傷を治し続け、普通の人間より何倍も長く苦しむことになる。そのための慈悲だと司祭は言ったが、その顔には慈悲を施す者の苦しさなど欠片もなかった。
「罪人エララ・ヴェイルは、月の聖女という尊い地位にありながら、その恩寵を己の欲望のために用い、王太子妃ミレル殿下を毒殺しようとした。さらに敵国ノクサール帝国へ王国の機密を売り渡し、月神より授かった聖印を偽造した。本人の署名による自白も得られており、罪状に疑いの余地はない」
大司教の代理を務める老司祭が、よく通る声で判決文を読み上げた。広場のあちらこちらから罵声が飛んだが、エララの耳には水の底から聞こえる遠い音のようにしか届かなかった。
彼の手にある自白書の末尾には、確かにエララ自身の署名があった。
地下牢へ連れてこられたミレルの泣き声を聞かされ、妹の指を一本ずつ折ると告げられた夜、エララは自分から羽根ペンを取った。ミレルが本当に隣の部屋へ拘束されていたのか、それとも声だけを似せた幻術だったのか、今となっては確かめようもない。それでも、あのとき署名しなければよかったとは思えなかった。妹への憎しみは消えなかったが、だからといって、二十年間守ってきた相手が苦しむ声を平然と聞き続けられるほど、エララは器用な人間ではなかった。
「最後に、申し開きはありますか」
老司祭は形式どおりに尋ねた。無実を訴えれば、罪を悔い改めない悪女として処刑後の遺骨まで砕かれる。罪を認めれば、慈悲深い王家によって遺骨だけはヴェイル家へ返されることになっていた。
生きている娘を見捨てた家族が灰を欲しがるとは思えなかったが、それでもエララは群衆の中から父の姿を探した。
ヴェイル公爵は、処刑台から最も近い貴族席に立っていた。黒い喪服を着ていたものの、あれは娘の死を悼むためではなく、罪人を出した家の当主として反省を示すための衣装だった。幼いころ、熱を出したエララの額へ不器用に手を置き、亡き母に似てきたと笑った同じ人が、今は固く唇を結んで足元だけを見ている。
「お父様」
呼びかけるつもりはなかったのに、声が出た。
父の肩がわずかに震えた。それでも顔は上がらなかった。
「一度だけでよいのです。こちらを見てください。助けてほしいとは申しませんし、私を信じてほしいとも言いません。ただ、娘がどのような顔で死んだのかくらいは覚えていてください。お父様の中からまで私が消えてしまえば、私は本当に何も残せなくなります」
「エララ、そのようなことを言って、これ以上家名を汚すな」
父はようやく答えたが、視線は最後まで石畳へ落ちたままだった。
「お前が罪を認め、静かに刑を受け入れれば、ヴェイル家は取り潰しを免れる。ミレルにも、お前の罪を背負わせずに済む。お前は姉なのだから、最後くらい妹のために正しいことをしなさい」
最後くらい、と言われて、エララは笑いそうになった。
幼いころから、何度その言葉を聞いただろう。姉なのだから我慢しなさい。聖女なのだから民を優先しなさい。王太子妃になるのだから泣いてはいけない。役目を果たせば愛されると信じて、望まれるたびに自分を差し出してきたが、差し出したものは一度も返ってこなかった。
「そうですか。私が死ねば、お父様は立派な父親のままでいられるのですね」
「言葉を慎め。私はお前を救うために、できる限りのことをした」
「何をしてくださったのですか」
「王家へ嘆願書を出した。処刑だけは取りやめ、北の修道院へ生涯幽閉するよう願い出たのだ。しかし、お前が敵国へ通じた証拠がある以上、それも認められなかった。私には家と領民を守る責任がある。お前一人のために、何千人もの生活を危険へさらすことはできない」
「それなら、そう仰ればよかったのです。私より家と領民を選ぶと、初めから正直に言ってくだされば、私はお父様が苦渋の決断をしたのだと思えました。けれど、お父様は今も、私を救おうとした善い父親でいようとなさる。私が死ぬことより、ご自分が薄情な父親に見えることのほうが、ずっと怖いのでしょう」
父の顔が怒りで赤くなった。反論を待ったが、彼は何も言わず、やがてエララへ背を向けた。
その隣には、蜂蜜色の髪を白いヴェールで覆ったミレルがいた。
毒を盛られて死にかけた悲劇の王太子妃として、妹は国中の同情を集めている。けれど、半年前まで細かった頬はふっくらとしており、血色も悪くない。エララが投獄された日に始まったという原因不明の高熱も、今日に限っては姿を見せていないらしかった。
ミレルは泣いていた。
昔から、妹は泣くのが上手だった。嘘泣きという意味ではない。本人はそのたび本当に悲しく、本当に自分が傷つけられたと信じているからこそ、周囲の人間も放っておけなくなるのだ。
「お姉様、ごめんなさい。私、こんなことになるなんて思っていなかったの。本当に、死んでほしかったわけではないのよ。ルシアン様にも、お父様にも、せめて命だけは助けてくださるようお願いしたの。でも、教会が決めたことだから、私にはどうすることもできなくて……」
「こちらを見て言って、ミレル」
「見ているわ」
「いいえ、私の肩のあたりを見ているだけよ。昔、あなたが母上の首飾りを壊したときも同じだった。私に謝りながら、決して目だけは合わせなかった。私の怒った顔を見れば、自分が悪いことをしたと認めなければならなくなるからでしょう」
ミレルの瞳が揺れた。すぐに大粒の涙がこぼれ、彼女は隣に立つ男の袖へ縋りついた。
王太子ルシアン・アルブレヒトは、反射的にミレルの肩を抱いた。その動作があまりにも自然で、エララは胸の奥に残っていた最後の何かが、音もなく崩れるのを感じた。
十年間、彼の隣に立つために学んだ。彼が嫌う香りを避け、彼が失敗した外交文書を夜通し修正し、彼が民衆の前で慈悲深く見えるよう、救貧院の訪問順序まで整えた。婚約者なのだから支えるのは当然だと言われ、感謝を求める自分のほうが浅ましいのだと思い込んでいた。
しかし、ルシアンがエララへ向けたことのない柔らかな手つきでミレルを抱く姿を見れば、認めるしかなかった。彼は愛情の示し方を知らなかったのではない。ただ、エララには示す必要がないと思っていただけなのだ。
「エララ、ミレルを責めるのはやめろ。彼女も被害者だ。姉を失う悲しみに耐えながら、それでもお前の名誉を守ろうとしている」
「私の名誉は、今日ここで身体と一緒に焼かれるそうです。いったい何を守ってくださったのですか」
「お前がそのような態度を取り続けたから、誰も嘆願を聞き入れなかったのだ。私だって、何度も考え直す機会を与えた。罪を認めてミレルへ心から謝罪し、聖女の力を教会へ返すと誓えば、処刑を避けられたかもしれない。それなのに、お前は最後まで自分の正しさに固執した」
「私の心臓を取り出し、死ぬまで運命織機の部品にすることを、処刑を避けるとは申しません」
「命は残るだろう」
「言葉を話すことも、歩くことも、自分で食事をすることもできなくなって、それでも心臓だけが動いていれば生きていると仰るのなら、殿下が代わってください。私は遠慮いたします」
貴族席の一部から、押し殺した笑いが漏れた。ルシアンの顔に屈辱の色が浮かび、その直後、彼は傷ついたように眉を寄せた。
この人はいつもそうだった。自分が相手を追い詰めたときでさえ、相手の反撃で傷ついた自分のほうを先に憐れむ。
「私は、お前を愛していた」
ルシアンの声が低くなった。
「少なくとも、お前と国を支えていくつもりだった。だが、お前はいつも完璧で、私が何を言っても正しさで押し返してきた。お前の隣にいると、自分がどれほど足りない人間なのかを見せつけられているようで息が詰まった。ミレルは違う。彼女は私を必要としてくれた」
「私も必要としていました。ただ、殿下がいなければ何もできない女のふりをしなかっただけです」
「今さら、そのようなことを言われても遅い」
「ええ、本当に遅すぎました。殿下にも、私にも」
エララが微笑むと、ルシアンは責められたときよりも苦しそうに目を逸らした。
その横顔を見ても、もう戻りたいとは思わなかった。ただ、もっと早く諦められていたなら、これほど多くの年月を、自分を愛さない人に捧げずに済んだのにという悔しさだけが残った。
老司祭が杖で石床を打ち、私的な会話を終わらせた。
「罪人エララ。申し開きがないのなら、月神の御名において浄化の刑を執行する」
「申し開きなら、もう十分にいたしました」
「罪を認め、悔い改めますか」
エララは広場を見渡した。
治癒院で救った子どもの母親が、怯えた顔で俯いていた。冬ごとに食料を届けた貧民街の老人も、国境で傷を癒やした騎士たちもいる。誰もがエララを憎んでいるわけではない。ただ、庇えば自分や家族まで教会に目をつけられるから、黙っているのだ。
その弱さを責めることはできなかった。エララ自身も、父やルシアンや教会の顔色をうかがい、誰かが傷つくより自分が耐えればよいと考え続けた結果、ここへ立っている。
「私は、していない罪を悔い改めることはできません。けれど、自分を傷つける人々に愛されようとして、自分自身を粗末に扱い続けたことは後悔しています。もし月神が本当におられるのなら、私の罪ではなく、その愚かさを裁いてください」
「火を入れよ」
老司祭が命じ、四方に立つ執行人が松明を落とした。
月桂油を吸った薪は、呻き声のような音を立てて一気に燃え上がった。白い炎が足元を包み、熱風が衣服の内側へ入り込む。痛みは少し遅れて訪れた。初めは皮膚を細い針で刺される程度だったものが、次の瞬間には肉の内側へ熱した刃を差し込まれたような激痛へ変わった。
悲鳴だけは上げたくないと思っていた。
けれど、そんな見栄は最初の数秒で消えた。喉が裂けるほど叫び、鎖を引きちぎろうともがいた。人間は、死ぬ間際まで美しくはいられない。父にも妹にもルシアンにも、この無様な姿を見せてやればよい。自分たちが選んだ結末を、一生忘れられないほど目に焼きつければよいと思った。
煙で広場が見えなくなる直前、エララは三人の姿を探した。
父は背を向けていた。ミレルはルシアンの胸へ顔を埋め、ルシアンは片手で妹を抱きながら、もう片方の手で自分の目を覆っていた。
結局、誰もエララを見ていなかった。
その事実のほうが、炎よりも痛かった。
せめて一人くらい、最後まで自分を見ていてほしかった。助けられなくても、信じられなくても、死んでいくエララがここにいたのだと覚えてくれる人が欲しかった。
そのとき、王都の空を覆う教会の結界が、巨大な雷鳴とともに砕けた。
広場に悲鳴が上がり、群衆が一斉に空を見上げた。白煙の向こうから現れたのは、夜そのものを鱗へ閉じ込めたような黒竜だった。両翼を広げれば大聖堂の屋根さえ覆い隠す巨体が、砕けた結界の破片をまといながら急降下してくる。
「黒炎竜だ!」
「ノクサールの竜皇が攻めてきたぞ!」
騎士たちが剣を抜き、司祭たちが防壁を張った。しかし黒竜は、彼らを殺そうとはしなかった。黄金の瞳が見ているのは、火刑台の上で燃えるエララだけだった。
黒竜の咆哮が王都を揺らした。
翼が巻き起こした風で炎が一瞬だけ倒れ、次の瞬間、火刑台を囲んでいた神官たちが吹き飛ばされた。黒い爪が処刑台の石柱を砕き、銀鎖ごとエララの身体をすくい上げる。
恐ろしいほど巨大な爪だったが、その動きは信じられないほど慎重だった。
「なぜ……」
声になったかどうか、自分でも分からなかった。
黒竜は返事をする代わりに、エララを抱えたまま大聖堂の中庭へ降りた。黒い炎がその巨体を包み、やがて火の中から一人の男が現れる。
長い黒髪と、燃える金の瞳。戦場で何千人もの命を奪った黒炎竜、ノクサール帝国の竜皇ケイル・ドラヴェンだった。
敵国の皇帝である彼と会ったのは、国境会議の一度きりだった。負傷した捕虜を敵味方の区別なく治していたエララへ、ケイルは「お前の国は、その優しさにどれほどの値をつけている」と尋ねた。エララが、聖女の務めに値段はありませんと答えると、彼はひどく不機嫌そうな顔で「ならば、お前自身が値を決めろ」と言った。
あの言葉の意味を、エララは今になって理解した。
ケイルは焼けた外套を脱ぎ、エララの身体を包み込んだ。彼の両腕も結界を破った際に傷つき、血が流れていたが、本人は気づいていないようだった。
「エララ、目を開けろ。俺を見ろ」
「命令……なさるのですね。敵国の、聖女にまで……」
「好きなだけ不敬を働け。だから眠るな。今、治癒師を呼ぶ」
「無理です。自分の身体ですから、それくらいは分かります」
「分かったような口を利くな。お前はいつもそうやって、他人が諦める前に自分から諦める」
叱りつける声なのに、エララの頬へ触れる指は震えていた。
ケイルは恐れられることには慣れていても、誰かを失うことには慣れていないらしい。その不器用さが少しおかしくて、エララは焼けた喉でかすかに笑った。
「ずいぶん……遅い、お迎えですね」
「ああ、遅かった」
ケイルは言い訳をしなかった。
「国境で教会の部隊に阻まれた。王都の結界を破るのにも時間がかかった。だが、そんなことは理由にならない。俺がもっと早く動いていれば、お前はここにいなかった」
「私の国の人たちは、誰も自分が悪いとは言いませんでした。あなたは敵なのに、おかしな方ですね」
「敵ではない」
「ソルメア王国から見れば、十分に敵です」
「俺が否定しているのは国の話ではない。少なくとも俺は、お前の敵になった覚えはない」
エララは、ケイルの胸元をつかもうとした。けれど指にはもう力が入らず、黒い衣を撫でるだけになった。
「私の無実を、知っていたのですか」
「お前が流したという軍事情報は、三年前に失効した古い配置図だった。毒を用意した商人も、教会の金で国外へ逃げようとして俺の兵に捕らえられた。証拠は持ってきた。お前を連れ出した後で、すべて公にするつもりだった」
「また、遅かったのですね」
「ああ。何度でも責めろ」
「責めるほどの力が残っていません。ですから、代わりに一つだけお願いがあります」
「聞く」
「私を燃やした人々を、皆殺しにはしないでください。父も、妹も、ルシアンも許せませんが、私のために国を焼かれたら、死んだ後まで彼らの面倒を見なければならないようで腹が立ちます」
ケイルはすぐに答えなかった。
沈黙が長すぎたので、エララは薄く目を開けた。竜皇は、冗談の通じない厳しい顔で彼女を見下ろしていた。
「約束してください」
「努力はする」
「そこは嘘でも約束すると仰るところです」
「死にかけた女へ嘘をつけば、後で目を覚ましたときに責められる」
「私は、もう目を覚ましません」
「ならば、なおさら嘘はつかない。お前が最後に聞いた言葉が嘘だったなど、俺が耐えられない」
身勝手な男だと思った。
けれど、誰もエララの死を見ようとしなかった中で、この男だけは目を逸らさなかった。焼け崩れた顔も、震える身体も、口にできなかった未練も、全部引き受けるように見つめている。
「一度だけ、お会いしただけなのに……なぜ、ここまでしてくださるのですか」
「一度ではない」
「いいえ。国境会議の一度だけです」
「お前は覚えていない。十年前、俺がまだ皇太子だったころ、正体を隠してソルメアへ入ったことがある。呪いが暴走し、路地裏で死にかけていた俺を、小さな聖女が見つけた。お前は俺が竜人だと気づいていたのに、兵へ引き渡さず、朝まで祈り続けた」
忘れていたわけではなかった。銀色の雨が降った夜、黒髪の少年を救った記憶は残っている。ただ、名も告げずに消えた彼が、敵国の竜皇になったとは知らなかった。
「お前は言った。生きて帰りたい場所があるなら、諦めてはいけないと。俺はその言葉で生き延びた。それなのに、お前が帰る場所を失っていたことに、俺は気づかなかった」
「私にはもう、帰る場所などありません」
「ならば、俺が作る」
「皇帝が、死にかけた女へ軽々しく言う言葉ではありません」
「軽く言ったつもりはない。俺はこの十年、何度もお前を迎えに来ようとした。そのたびに、お前には王太子という番がいて、俺が奪えば戦争になると自分へ言い聞かせた。お前が望んでそこにいると思い込むほうが、俺には都合がよかった」
ケイルは血に濡れた手で、エララの頬へ張りついた淡い金髪を払った。
「間に合わなかった。すまない」
その謝罪を聞いた瞬間、エララの目から涙がこぼれた。
父にも、妹にも、ルシアンにも、ずっと言ってほしかった言葉だった。言い訳をせず、自分も苦しかったのだと話をすり替えず、ただ間に合わなかったことを詫びてほしかった。
「次があるなら……私は、誰も選びません」
「それでもいい」
「一人で生きます。聖女にも、王太子妃にも、誰かの役に立つ娘にもなりません」
「そうしろ。お前が望むなら、俺は邪魔をしない」
「あなたも選びませんよ」
「それは困る」
あまりにも真顔で言うので、エララはもう一度だけ笑った。
「先ほど、それでもいいと仰ったばかりでしょう」
「一人で生きることは認める。俺を選ばないことまで、喜んで認めるとは言っていない。次があるなら、俺はお前が拒むたびに理由を聞き、嫌われるたびに態度を改め、それでも駄目なら、お前の隣に立てる男になるまで何度でもやり直す」
「皇帝とは、もっと潔くなければ務まらないものだと思っていました」
「国なら潔く諦めることもある。お前については無理だ」
ケイルの顔が近づいた。
口づけられるのかと思ったが、彼は唇ではなく、焼け残ったエララの額へ自分の額を重ねた。所有を示す印も、運命を縛る誓いも結ばず、ただそこにいると伝えるような触れ方だった。
「次の人生では、俺を先に選べ」
「命令ですか」
「願いだ。ひどく身勝手な願いだ」
「それなら……考えておきます」
エララが答えると、ケイルは初めて泣きそうな顔で笑った。
遠くで騎士たちの声が聞こえた。大聖堂の鐘が狂ったように鳴り、黒い炎が空へ立ち上っていく。けれど、エララにはもう何の音も届かなかった。
最後に感じたのは、自分を抱く男の腕の強さと、ひどく速い心臓の音だった。
ああ、この人は本当に、私が死ぬことを悲しんでいる。
そう思えたことだけが、灰になる聖女へ与えられた最後の救いだった。
次に目を開けたとき、エララは柔らかな寝台の上にいた。
焼けたはずの喉から悲鳴が迸り、身体を起こそうとして絹の掛布を床へ落とした。両手を見れば、銀鎖に裂かれた傷も、炎に焼かれた痕もない。寝台脇の鏡には、処刑前の痩せた顔ではなく、頬にまだ健康な丸みを残した自分が映っている。
窓の外では、春を告げる白い花が咲いていた。
「エララ様、どうなさいました。お身体の具合が悪いのですか」
若い侍女が慌てて部屋へ入ってきた。彼女はエララが投獄された日に解雇され、故郷へ帰る途中で行方不明になったはずの少女だった。
「リナ……あなた、生きているの?」
「もちろん生きております。縁起でもないことを仰らないでください。それより、早くお支度をなさらないと間に合いません。今日は王太子殿下との番選びの儀式です。ミレル様も、先ほどからお姉様と一緒に大聖堂へ行きたいとお待ちになっています」
エララは震える手で卓上の暦を引き寄せた。
記されていたのは、彼女が火刑に処される、ちょうど一年前の日付だった。
第55話 王妃の罪と告白銀鎖へ流れ込んだ力は、火ではないのに王妃セラフィナの肌を焼いていた。首の輪から流れた血が白い夜着を汚し、胸元へ食い込んだ鎖の下では、皮膚が青黒く変色している。王都中から集められた祈りは持ち主へ返ったはずなのに、祭壇へ残された歪みだけが消えず、十七年前に最初の承認を与えた王妃へ集中していた。「母上から離れろ!」石床へ叩きつけられたルシアンは、よろめきながら立ち上がり、アウレリウスへ向かって駆けた。護衛隊長が止めるより早く、アウレリウスの杖が振り下ろされる。床に刻まれた紋様から黒い光が噴き上がり、ルシアンの正面へ壁を作った。彼は腕で顔を庇ったものの、再び弾き飛ばされ、祭壇の端へ肩から落ちた。エステルが駆け寄ろうとしたが、ルシアンは起き上がりながら片手で制した。「僕より母上を診てくれ」「診るために近づけないから困っているのよ。あなたまで骨を折ったら、患者が一人増えるでしょう!」「骨は折れていない」「医者でもない人間が勝手に診断しないで!」怒鳴り返したエステルの声には、恐怖がにじんでいた。王妃の鎖へ触れられない以上、医者としてできることがほとんどない。その無力感を振り払うように、彼女は薬鞄から布と止血薬を取り出し、いつでも駆け込める体勢を整えた。ケイルはエララの前に立ち、王妃へ流れ込む力を見据えていた。黒い炎が両腕を覆っているものの、それを放つことはできない。炎で鎖を焼けば、行き場を失った力がセラフィナの身体を内側から貫く。「外から壊せないなら、内側からほどくしかない」「ですが、王妃様はあれだけの力を受けています。今、心へ触れれば、私まで引き込まれるかもしれません」エララが答えると、ケイルは彼女を振り返った。「できないと言っているのか。それとも、一人では危険だと言っているのか」問われて、エララは言葉に詰まった。以前の自分なら、危険だと分かっていても黙って手を伸ばしていただろう。できるかどうかではなく、やらなければならないと思い込み、倒れたあとで周囲を悲しませても、それは仕方のな
第56話 その王冠はいらない白い帯が腰へ食い込んだ瞬間、エララの足元から感覚が奪われた。花嫁椅子から伸びる帯は布ではなく、過去に彼女が口にした誓いを細く撚り合わせたものだった。振りほどこうと力を込めるたび、懐かしいはずのない声が耳の奥によみがえる。――私は生涯、王太子殿下を支えます。まだ運命という言葉を疑うことさえ知らなかったころ、エララ自身が口にした言葉だった。周囲から求められ、期待を裏切れば愛されなくなると怯えながら、それでも最後には自分の声で誓った。そのため、誰かに押しつけられた命令よりも厄介だった。ケイルが帯をつかむと、黒い炎が激しく弾けた。帯の表面に浮かぶセラフィナの告白が、炎を拒む壁となっている。「触らないでください。ケイルまで取り込まれます」「お前に巻きついているものを見ながら、手を放せと言うのか」「力で引けば、私の過去の誓いまで裂けます。何が起きるか分かりません」「では、どうすればよい」苛立ってはいるが、ケイルは勝手に炎を強めなかった。帯をつかんだまま、エララの答えを待っている。その指先から伝わる熱は激しいのに、力のかけ方だけは慎重だった。答えを探そうとしたエララの耳に、苦しげな息が届いた。ルシアンは自分の喉へ両手をかけ、指を食い込ませていた。護衛隊長が背後から腕をつかんでいるものの、胸の印から流れ込む命令のほうが強く、引き剥がすことができない。「殿下、手を開け! 聞こえているなら返事をしろ!」「き、こえて……いる」「だったら力を抜け!」「できるなら……やっている!」顔を赤黒くしながらも、ルシアンは怒鳴り返した。手首を結ぶ黒い炎が青白く燃え、彼の意識が奪われかけていることを告げている。エステルが鎮静薬を取り出したが、すぐには使わなかった。「今、薬で意識を落とせば、身体の主導権を印に渡すかもしれない。ルシアン、自分で呼吸を止めないで。少しずつでいいから息を吐きなさい」「喉を&h
第55話 王妃の罪と告白銀鎖へ流れ込んだ力は、火ではないのに王妃セラフィナの肌を焼いていた。首の輪から流れた血が白い夜着を汚し、胸元へ食い込んだ鎖の下では、皮膚が青黒く変色している。王都中から集められた祈りは持ち主へ返ったはずなのに、祭壇へ残された歪みだけが消えず、十七年前に最初の承認を与えた王妃へ集中していた。「母上から離れろ!」石床へ叩きつけられたルシアンは、よろめきながら立ち上がり、アウレリウスへ向かって駆けた。護衛隊長が止めるより早く、アウレリウスの杖が振り下ろされる。床に刻まれた紋様から黒い光が噴き上がり、ルシアンの正面へ壁を作った。彼は腕で顔を庇ったものの、再び弾き飛ばされ、祭壇の端へ肩から落ちた。エステルが駆け寄ろうとしたが、ルシアンは起き上がりながら片手で制した。「僕より母上を診てくれ」「診るために近づけないから困っているのよ。あなたまで骨を折ったら、患者が一人増えるでしょう!」「骨は折れていない」「医者でもない人間が勝手に診断しないで!」怒鳴り返したエステルの声には、恐怖がにじんでいた。王妃の鎖へ触れられない以上、医者としてできることがほとんどない。その無力感を振り払うように、彼女は薬鞄から布と止血薬を取り出し、いつでも駆け込める体勢を整えた。ケイルはエララの前に立ち、王妃へ流れ込む力を見据えていた。黒い炎が両腕を覆っているものの、それを放つことはできない。炎で鎖を焼けば、行き場を失った力がセラフィナの身体を内側から貫く。「外から壊せないなら、内側からほどくしかない」「ですが、王妃様はあれだけの力を受けています。今、心へ触れれば、私まで引き込まれるかもしれません」エララが答えると、ケイルは彼女を振り返った。「できないと言っているのか。それとも、一人では危険だと言っているのか」問われて、エララは言葉に詰まった。以前の自分なら、危険だと分かっていても黙って手を伸ばしていただろう。できるかどうかではなく、やらなければならないと思い込み、倒れたあとで周囲を悲しませても、それは仕方のな
第54話 祈りを返す鐘歪んだ月冠がルシアンの頭上へ降り始めた瞬間、祭壇を囲む神官たちが一斉に祈りの言葉を唱えた。それは神へ捧げる祈りというより、何度も同じ文句を繰り返すことで、別の考えを押し流そうとする命令に近かった。銀鏡でつながれた王都各地の礼拝所からも声が重なり、老若男女の区別を失った巨大な響きとなって祭儀場を揺らす。「我らは月冠を戴く王を認めます。我らは月の聖女との婚姻を認めます。我らの願いを王へ預け、王の願いを我らの願いとして受け入れます」月冠とルシアンの間に、黒い糸が次々と結ばれていく。ルシアンは両足を踏ん張り、胸元を押さえながら耐えていた。王冠そのものへ手を伸ばせば、印に命じられて自ら戴冠を受け入れた形にされると分かっているのだろう。指先を強く握り込み、爪が掌へ食い込んでも、頭上を見ようとはしなかった。「ルシアン殿下、下を向かないでください」エララが声をかけると、彼は苦しげに顔を上げた。「君は僕に、あれをよく見ろと言うのか」「目を背ければ、大司教は『受け入れる覚悟ができた』と解釈します。睨みつけてでも構いません。あなたが何を拒んでいるのか、ご自分の目で確かめてください」「相変わらず、優しいのか厳しいのか分からないことを言う」「以前の私なら、代わりに拒んであげようとしたでしょう。でも今は、それをしてはいけないと分かっています」ルシアンは乾いた笑いを漏らし、それでも顔を上げた。降りてくる月冠を正面から見据えた途端、胸の印が黒く輝き、膝がわずかに折れる。その身体を支えようと護衛隊長が踏み出したが、ルシアンは片手を上げて止めた。「まだ立てる。僕が助けを求めるまでは、手を出さないでくれ。何もかも一人で背負うつもりはないが、立つことまで誰かに任せたくはない」護衛隊長は不安を残したまま足を止めた。命令だから従ったのではない。ルシアンがようやく自分の望みを口にしたから、その選択を尊重したのだ。アウレリウスは二人のやり取りを眺め、慈悲深い笑みを崩さなかった。「言葉で抗う姿は美しいものです。ですが、個