All Chapters of 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~: Chapter 41 - Chapter 50

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第43話 王妃から届いた二通目の手紙

第43話 王妃から届いた二通目の手紙銀板から響いた三度の音が消えたあとも、会議室にいた誰もすぐには動かなかった。王都から伸びる黒い糸は、もう見えなくなっている。それでも、扉の外に何者かが立ち、こちらの返事を待っているような圧迫感だけが室内に残っていた。「セランを診療室へ戻せ。刻印の状態を絶えず確認し、本人の許可なく包帯を外すな」ケイルが命じると、二人の兵士が一礼した。セランは退室しかけたところで銀板を振り返ったものの、何も言わずに連れていかれた。昨夜までの彼なら、大司教から呼びかけられたことを恩寵だと受け取っていただろう。今は、あの音が自分を心配する呼びかけなのか、逃亡を防ぐための確認なのかさえ、信じきれなくなっている。ローデンは王都周辺の地図を机へ広げ、国境の監視を増やすべきだと提案した。教会がセランとの繋がりに異変を感じたのであれば、次に何を送ってくるか分からない。使者か、暗殺者か、それとも新たな命令を刻まれた人間かもしれなかった。「検問を強化しすぎれば、こちらが何かを掴んだと教えることになります」エララは地図の北側へ指を置いた。「公開裁問で不正が明らかになった以上、警戒を強めること自体は不自然ではありません。ただし、教会関係者だけを止めれば、セラン司教の証言から大司教へ辿り着いたと気づかれるでしょう。通常の密輸対策として、すべての荷馬車と旅人を同じ基準で調べてください」「時間がかかるぞ」「そのために、通行証を持つ商人と、緊急の医療物資を運ぶ者の確認口を分けます。裁問の影響で薬が不足している地域もありますから、物資の流れまで止めるわけにはいきません」ローデンが頷き、地図へ新しい検問所の印をつけた。ケイルは腕を組んだまま二人のやり取りを聞いていたが、エララが三つ目の指示を口にしかけると、その肩へ手を置いた。「昨夜、眠る前に作戦を立てるのは二つまでと言っていたな」「今は朝です」「屁理屈を覚えたか」「あなたから学びました」「俺は、お前ほど真面目な顔で屁理屈を言わない」ローデンが地
last updateLast Updated : 2026-10-21
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第44話 帰るのではなく、迎えに行く

第44話 帰るのではなく、迎えに行くエララが結論を出したのは、王妃の手紙を受け取った日の夕刻だった。それまでの数刻、彼女は誰とも相談せずに決めようとはしなかった。ティルダを診療棟まで運んだ国境兵から経路を聞き、ローデンから王都までに必要な日数と護衛人数について説明を受け、ヘルマンとエステルには自分と同行者の体調面での危険を尋ねた。さらに、王都へ行かずに月の婚礼を阻止する方法がないか、ケイルや竜術師たちとも検討した。西塔の月時計だけを遠くから破壊する案は、最初に却下された。時計は王都全体へ張り巡らされた古い防護結界の中心でもあり、構造を確かめずに壊せば、月の婚礼を止めるどころか、王都を守る結界まで失われる恐れがある。セランの刻印を利用して祭具へ干渉する案も出たが、王妃の誓いを含む多くの断片が人質のように組み込まれているため、強引に力を流せば誰の命が傷つくか分からなかった。何より、儀式の日程が前倒しされる可能性がある。安全な方法を探している間に、ルシアンが自分の意思を失い、セラフィナが別の場所へ移されれば、手遅れになるかもしれない。だからといって、焦りだけで王都へ向かうわけにはいかなかった。エララは、必要な情報と危険を一枚の紙へ書き出した。行く理由と、行かない理由。守りたい人々と、巻き込むかもしれない人々。過去の自分なら、左側に他人の命を並べ、右側に自分一人の命を書いたところで、迷うことなく左を選んでいただろう。今は違う。自分が戻らなければ、ケイルとルーマが悲しむ。北の民は、教会へ渡さないために声を上げてくれた。リナやローデン、裁問の場へ薬草を運んだ人々の選択まで、無意味にしたくなかった。エララは紙の中央へ一本の線を引き、その下に書いた。――全員で生きて帰る方法がある場合のみ、王都へ向かう。それは臆病さではなく、これからの自分が守るべき条件だった。夕刻の鐘が鳴る前、皇城の円卓会議室へ主要な者たちが集められた。ケイルの右側にはエララが座り、向かいにはヴァルガス、セレスティーヌ、ローデンが並んでいる。教会の裁問が終わったばかりであるうえ、穀物横領に
last updateLast Updated : 2026-10-22
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第45話 ルーマに交わす帰還の約束

第45話 ルーマに交わす帰還の約束「ルーマも行く。置いていかれるのは、もう嫌」小さな手が旅行鞄の取っ手を強く握り、白くなっていた。エララはすぐに説得の言葉を探したが、どれもルーマの恐怖へ届かない気がした。危険だから連れていけない。皇城にいれば安全だ。すぐに帰る。大人が子どもへ告げるには正しい言葉ばかりだったが、置いていかれる側にとっては、自分だけが何も決められないという事実を丁寧に言い換えているだけかもしれない。ケイルが一歩前へ出ると、ルーマは旅行鞄を守るように背を丸めた。「鞄をこちらへ渡せ」「いや」「王都には連れていけない」「いや!」ルーマの声が、部屋の壁へ強く跳ね返った。声を取り戻したばかりの彼女は、まだ大きな声を出すことに慣れていない。自分の叫びに驚いたように目を見開いたが、引き下がりはしなかった。むしろ、喉が痛むのも構わず、これまで言えなかった言葉をすべて吐き出そうとするように続けた。「ルーマ、邪魔しない。静かにするし、ごはんも残さない。馬車の中で泣かないし、ちゃんと言うことを聞く。だから、いっしょに行く」「言うことを聞くなら、ここに残れ」ケイルの返事は早かった。ルーマの顔が強張り、目に涙が浮かんだ。それでも泣くものかと耐え、唇を噛んで父親を睨み返す。「ケイル」エララが名を呼ぶと、彼は自分の言葉がルーマを傷つけたと気づいたらしく、眉間へ深い皺を寄せた。しかし、連れていけないという判断まで変えるつもりはない。優しく言い直す方法が分からず、黙り込んでしまった。「まず、座って話しましょう」エララは絨毯の上へ膝をつき、ルーマと目線の高さを合わせた。鞄を取り上げようとはせず、手が届く距離で待つ。「大人だけで決めて、あとから言い聞かせるようなことはしません。ルーマがなぜ一緒に行きたいのか、先に聞かせてください」「言った。置いていかれるのが、嫌」「ええ。ほかにもありますか」ルーマは黙ったまま俯いた。寝台の
last updateLast Updated : 2026-10-23
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第46話 誓いを反転させる街道

第46話 誓いを反転させる街道出立の朝、城門の前には、見送りと呼ぶにはいささか物々しい人数が集まっていた。王都へ向かう一行は、皇帝と未来の皇后を擁する使節団としては驚くほど小さい。竜皇国の紋章を掲げた馬車が二台、それに薬品や食糧を積んだ荷馬車が一台、護衛は十二名で、同行する医師はエステルひとりだった。華美な儀仗兵も、威圧のための竜騎兵もいない。国境を越えれば正式な外交使節を名乗るが、それまでは街道を急ぐ旅人の列にしか見えないだろう。もっとも、先頭で黒馬の手綱を握っている男がケイルである以上、旅人に紛れるという計画には、最初から無理があった。黒い外套をまとい、装飾を抑えた剣を腰に佩いていても、彼は存在そのものが皇帝らしかった。本人は周囲の視線など気にしていない様子だったが、護衛たちの背筋は彼が馬上にいるだけで普段より一割ほど伸びていた。エララは馬車へ乗り込む前に、胸元へ手を添えた。服の下には、赤い糸に通された小さな竜鱗がある。ルーマが自分で拾い、大切に保管していたものだ。薄い鱗は体温を吸って温まり、触れるたび、帰るべき場所が確かにあるのだと思い出させてくれた。「お母さん、忘れ物はない?」ルーマは真剣な顔で尋ねながら、自分の手には分厚い日記帳を抱えていた。旅に出るのはエララたちのほうなのに、準備の整い具合では娘に負けているような気がする。「薬も着替えも、王妃様のお手紙も持ったわ。あなたから借りた鱗も、ここにある」「借りたのではありません。預けたのです。帰ってきたら、わたしがちゃんと受け取ります」「ええ。では、そのときまで傷つけないように大事にするわね」エララが膝を折ると、ルーマは周囲に大勢の大人がいることを気にして、ほんの少しだけ唇を引き結んだ。それでも最後には見栄を捨て、エララの首へ両腕を回した。細い身体を抱き返すと、背中に添えた手の下から、早すぎる鼓動が伝わってくる。「怖くなったら、帰ってきてもいいのです。何もできなかったとしても、約束を破ったことにはしません。帰ってくる約束のほうが大事だから」幼い娘に逃げ道を用意されるとは思っていなかった。エララは胸の奥が痛むのを感じな
last updateLast Updated : 2026-10-24
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第47話 祈りを奪われた子どもたち

第47話 祈りを奪われた子どもたち聖ミレア施療院の門前に並んだ子どもたちは、誰ひとりとして泣かなかった。見慣れない騎士たちに囲まれ、黒衣の竜皇と月の聖女が現れれば、幼い子どもなら怯えて大人の陰へ隠れてもおかしくない。好奇心の強い子なら、物珍しそうに馬や武器へ目を輝かせるだろう。ところが、彼らは鐘の音に呼び出された人形のように両手を身体の前で組み、ほとんど同じ角度で顔を上げていた。服装も年齢も揃ってはいない。頬のこけた少年もいれば、片足へ添え木を当てた少女もいる。それなのに、表情だけは不自然なほど似通っていた。「施療院へお越しくださった方には、感謝を捧げます」一番前に立つ少年が、暗記したらしい挨拶を口にした。まだ十歳にもなっていないだろう。声は澄んでいるのに、言葉が誰へ向けられているのかを理解しているようには聞こえなかった。「わたしたちは、食事と薬を与えられています。ですから、悲しむ理由はありません」少年に続き、他の子どもたちも同じ言葉を繰り返した。声の高さも息継ぎの位置も違うのに、そこへ込められたものだけが恐ろしいほど平らだった。エララの目には、子どもたちの胸から伸びる細い糸が見えていた。糸は完全に切られているのではない。本来なら未来へ向かって枝分かれするはずの願いが途中で束ねられ、施療院の建物へ引き込まれている。食べたい、遊びたい、家へ帰りたい、誰かに抱き締めてほしい。そのような幼い望みが、まだ形を持ちきれないうちに摘み取られていた。「いきなり近づかないでください」馬を降りたエステルが、エララの腕を押さえた。「怖がっているようには見えないでしょうが、恐怖を感じていないとは限りません。感じたものを外へ出す道筋だけが鈍らされている可能性があります。まず身体の状態を調べます」「分かっているわ。ただ、あの糸が――」「見えているからこそ、触れる前に診せてください。意思へ作用する術と、栄養不足や薬の影響が重なっていれば、術だけ解いても身体が耐えられません」エステルの言い方は厳しかったが、エララを責めているわけではない。急ぐ気持ちを見抜
last updateLast Updated : 2026-10-25
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第48話 本物の絆に印は必要ない

第48話 本物の絆に印は必要ない聖ミレア施療院の子どもたちに奪われた願いを、一晩ですべて返すことはできなかった。地下に蓄えられていた祈りは、エララが想像していた以上に複雑に絡み合っていた。ひとりの願いだけを引き戻そうとしても、その子が誰かの回復を願った記憶や、同じ寝台で眠る友人と交わした約束まで、別の糸を通じてつながっている。急いでほどけば、戻るべき場所を失った感情が、関係のない子どもへ流れ込むおそれがあった。そこでエララとエステルは、身体の状態が安定している子どもから少しずつ願いを戻し、その後に食事と睡眠を取らせることにした。治療へ用いる月の力にも上限を決め、三人を診たら必ず休む。エララがもう一人だけと言い出した場合は、エステルだけでなくケイルにも止める権限があるという、不本意ながら必要な決まりまで作られた。「私の治療なのに、私の同意なしで中断できる人が二人もいるのは、少し納得できないわ」最初の休憩を命じられたエララが食堂の椅子へ座ると、向かい側で薬草茶を調合していたエステルは顔も上げなかった。「治療する側が患者でもある場合、判断する医師は別に必要です。いまのあなたは、自分の身体についてだけは信用できません」「自分のことを後回しにする癖は直すと約束したのだけれど」「約束した翌日に無理をした人の言葉を、医師が素直に信じると思いますか」「翌日ではないわ。二日くらいは経っているでしょう?」「そこを訂正する元気があるなら、薬草茶を飲んでください。冷めると苦みが増します」エララは渋々カップを持ち上げた。香りだけなら爽やかなのに、口へ含むと舌の奥に強い苦みが残る。顔をしかめたところを、食堂の端でパンを食べていたミナに見られた。昨日まで感情の乏しかった少女は、笑い方をまだ思い出していない。しかし、エララの反応を見て、自分の皿に残った蜂蜜と薬草茶を交互に眺めたあと、何かに気づいたように目を瞬かせた。「聖女様も、苦いものが嫌いなのですか」「嫌いよ。できれば蜂蜜を入れたいと思っているわ」「でも、先生は入れていません」「身体のた
last updateLast Updated : 2026-10-26
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第49話 西塔の月時計

第49話 西塔の月時計王都の城壁が見えたとき、エララが最初に覚えたのは、懐かしさではなく息苦しさだった。灰白色の城壁も、その向こうへ突き出した大聖堂の尖塔も、記憶の中とほとんど変わっていない。街道沿いの葡萄畑には収穫を終えた蔓が整然と並び、風が吹くたび、枯れかけた葉が乾いた音を立てている。王都で暮らしていた頃、エララはこの景色を見るたび、帰ってきたのだと思っていた。今では、胸の奥に浮かんだ言葉を、そのまま信じることができない。帰る場所は、王都ではない。皇城で待つルーマと、旅を終えたあとにケイルと築く場所だ。そう分かっていても、身体は過去を覚えていた。遠くに王宮の屋根が見えただけで、指先が冷たくなり、喉の奥には一度目の人生で吸い込んだ煙の苦みがよみがえる。あのときの炎は、すでに存在しない未来の出来事だ。それでもエララの中では、今も燃え続けていた。馬車の隣を進んでいたケイルが速度を落とした。窓越しに顔を覗き込み、体調を確かめるようにエララを見ている。「止める?」エララが先に尋ねると、ケイルは首を横へ振った。「止めたいなら止める。俺が決めることではない」「怖いから戻りたいと言ったら?」「理由を聞く。それでも戻ると決めたなら、共に戻る。王都へ入り直す方法は、あとからいくらでも考えられる」以前なら、ここまで来て引き返すという選択肢を口にすることさえ許されないと思っただろう。だが今は、戻る道があるからこそ、進むことを自分で選べる。エララは胸元の竜鱗へ触れた。赤い糸に通された鱗は、今日も身体の熱を静かに保っている。「進みましょう。怖いけれど、戻りたいわけではないの」「ならば進む」ケイルは余計な励ましをせず、馬の速度を戻した。一行が王都へ入るまでには、予想以上の時間がかかった。国境で正式な外交使節として身分と目的を告げた時点で、竜皇国からの来訪は早馬によって王宮へ知らされていた。それでも城門では、招待状の有無、護衛の人数、馬車に積まれた荷の内容まで、三度にわたって確認された。表
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第50話 王妃が残した最後の命令

第50話 王妃が残した最後の命令階段の上から近づいてくる足音は、迷いなく王妃の部屋へ入った。扉が開く音に続き、複数の男が室内を調べ始める。寝台を動かし、机の引き出しを乱暴に開け、鉄格子へ何かを打ちつける音まで聞こえた。封印を破った者がいたと気づいているのか、それとも定時の捜索なのかは分からない。月時計の真下にある小部屋では、誰も声を発しなかった。ケイルが階段の入り口へ立ち、黒炎をまとわせた手を壁へ当てている。追っ手が隠し扉を開ければ、音を立てる前に制圧するつもりなのだろう。護衛隊長とディオンは左右へ分かれ、エステルは研究資料を入れた鞄を胸へ抱えていた。エララは王妃の箱を持ったまま、机の下に現れた階段へ目を向けた。下から空気が流れてくるため、行き止まりではない。逃げ道として使える可能性はあるものの、どこへ続いているかも分からず、術式や罠が仕掛けられていない保証もなかった。上階で、兵士の一人が声を上げた。「窓の鉄格子に異常はありません。王妃が逃亡した形跡もないかと」「では、なぜ水差しが空なのだ。今夜の食事は、まだ運ばれていないはずだろう」答えた男の声に、ディオンが反応した。「西塔警備の副官です」彼は口元へ手を当て、ほとんど息だけで囁いた。「アウレリウス直属の男で、王宮守備隊の命令を聞きません。見つかれば、話し合いにはならないでしょう」エララは箱の蓋に置かれた王妃の手紙を折り畳み、外套の内側へしまった。「下へ行きましょう。ここで戦えば、月時計に異常が伝わるわ」「先は俺が確認する」ケイルは階段の入り口へ移り、指先に小さな炎を灯した。エララが糸の有無を確かめたあと、護衛隊長、エララ、エステル、マリエ、ディオンの順で続く。最後のディオンが壁の内側にあった取っ手を引くと、机の下の床板が音もなく閉じた。ほぼ同時に、上の小部屋へ通じる隠し扉が開かれる。足音が入ってきたものの、追っ手は床下の階段まで見つけられなかったらしく、声は次第に遠ざかっていった。階段は十数段で終わった。その先
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第51話 王太子の身体を借りた大司教

第51話 王太子の身体を借りた大司教月時計とルシアンを結ぶ糸へ入った亀裂は、すでに塞がり始めていた。黒い光が傷口を縫い合わせるように蠢き、彼の首筋から胸元へ広がった刻印を、再び一つの形へ戻そうとしている。ルシアンは荒い呼吸を繰り返しながら、その変化を自分の手で確かめた。「長くは持たない。次にアウレリウスへ身体を奪われたら、私をここへ残して先へ行け」「あなたがいなければ、古い月神殿への道が分からないのでしょう?」エララが問い返すと、ルシアンは苦しげに顔を歪めた。「道順なら説明できる。王宮地下の旧水路を南へ進み、三つ目の分岐を東へ曲がる。その先に、王家の紋章が刻まれた扉がある」「その扉を開ける方法は?」「王家の血と、古い合言葉が必要だ。私か母がいなければ開かない」「それでは、置いていけないわ」「私を連れていけば、アウレリウスへ居場所を知らせながら進むことになる。先ほどのように、私の身体で君を襲うかもしれない。道具として利用されるくらいなら、ここで――」「死ぬほうがよいとは言わせない」エララは、ルシアンが続ける前に遮った。「あなたが死ねば、刻印を通じて何が起きるか分からない。溜め込まれた誓いが次の器へ流れる可能性もあるし、王家の血が儀式へ必要なら、あなたの死そのものを利用されるかもしれないでしょう。自分を殺せば解決するという考えは、作戦ではなく逃げ道よ」厳しすぎる言葉だと分かっていた。けれど、いま優しい言い方を選べば、ルシアンは自分の死をエララへの償いに変えようとする。ルシアンは反論せず、床へ落ちていた自分の外套を拾った。手が震えているため、留め具をうまく扱えない。それでも誰かに助けを求めず、何度も指を動かしていた。「逃げているのだろうな」ようやく留め具を嵌めたあと、彼は呟いた。「私は、自分がしたことへ向き合うより、最後に一度だけ正しいことをして死んだほうが楽だと思っている。英雄のように死ねば、被害者の顔を見なくても済むから」「そこまで分かっているなら、生きてください
last updateLast Updated : 2026-10-29
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第52話 私を捨てろという王妃の命令

第52話 私を捨てろという王妃の命令古い月の神殿へ続く地下回廊は、人ひとりが両腕を広げれば壁に指先が触れそうなほど狭く、長いあいだ閉ざされていたはずなのに、奥から流れてくる空気には澱んだ匂いがなかった。冷たい石と消えかけた香油、それに、どこかで焚かれている香の甘ったるい匂いが混じっている。儀式はすでに始まっている。その事実は、低く連なる祈りの声よりも、エララの目に映る無数の黒い糸によって、いっそう明確に示されていた。糸は壁の亀裂や床石の隙間を這い、王都の方角から神殿の奥へ集まっていた。まだ誰かを完全に縛ってはいないが、触れた者の不安や服従心を少しずつ吸い上げ、祭壇へ運んでいる。人の祈りを川にたとえるなら、これは川ではない。細い管を一人ひとりの胸に差し込み、気づかれないように血を抜いているようなものだった。エララは足を止めず、胸元から折り畳んだ手紙を取り出した。王妃セラフィナが西塔の隠し書庫に残していた最後の手紙である。急いで書いたらしく、文字の一部は乱れていたが、筆圧だけは最後まで弱まっていなかった。先頭を歩いていたルシアンが、背後で紙の擦れる音を聞き取ったのだろう。肩越しに振り返り、苛立ちを隠しきれない声で言った。「今、読む必要があるのか。母上は祭壇にいる。大司教は僕たちが回廊へ入ったことに気づくかもしれない。手紙に何が書かれていようと、急ぐべきだ」「だからこそ、今読むのです。王妃様が何を望んだかだけではなく、何を恐れていたのかを知らないまま走れば、私たちは同じ失敗を繰り返します」「母上の恐れなら分かっている。証拠が失われることだ。自分の命より王家の罪が暴かれることを選んだ。いかにも母上らしい、立派で、冷静で、腹が立つほど正しい判断だ」言葉が進むほど、ルシアンの歩幅は速くなった。怒りに任せているようでいて、右手は胸元の上着を固くつかんでいる。そこには、アウレリウスに刻まれた偽りの忠誠の印がある。今の彼が急ぐのは母を救いたいからだけではない。立ち止まれば、印の奥から呼びかけてくる声を聞いてしまうからだ。ケイルが無言でルシアンの前へ腕を出し、その歩みを遮った。「急ぐことと、何も考えずに進むことは別だ。貴様
last updateLast Updated : 2026-10-30
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