第53話 偽りの戴冠式が始まる神殿へ続く扉を抜けた途端、回廊の造りが変わった。荒く削られた石壁は白い月石の化粧板に覆われ、床には銀糸を思わせる細い溝が幾何学模様を描いている。かつて王族が月神の前で戴冠の誓いを立てた場所なのだろうが、今はその荘厳さが、逃げ道のない檻のように感じられた。銀色の溝には黒い光が流れていた。王都中から集められた祈りが床下を巡り、祭壇へ注ぎ込んでいる。次の鐘が鳴れば、この流れは一気に強まり、祈りという名を借りた服従が婚姻の証人にされる。ルシアンは胸元を押さえながら先頭を走っていた。手首に巻かれた黒い炎は、青白く変わっては戻ることを繰り返している。そのたびに足取りが乱れるものの、彼は止まらなかった。「この先に小礼拝堂がある。そこを抜ければ、祭壇の北側へ出られる。戴冠式で王族が入場するときに使う道だ」息を切らしながら説明する声に、エステルが眉をひそめた。「あなた、胸が痛むなら正直に言いなさい。祭壇へ着いた瞬間に倒れられたら、運ぶ手間が増えるのよ」「心配ではなく、手間の話なのか」「心配している相手に『無理をしないでください』と優しく頼めば、素直に聞く人だと思う?」「少なくとも、君に優しく頼まれるよりは、大司教に命令されるほうが現実味があるな」「口が回るなら、まだ倒れないわね」エステルはそう判断すると、走りながら薬鞄から小さな包みを取り出し、ルシアンへ投げた。中には苦みの強い乾燥薬草が入っているらしく、受け取った彼が匂いを嗅いだ途端、露骨に顔をしかめる。「噛んで。心臓の薬ではないけれど、呼吸は少し楽になるわ。ただし、さっきの鎮静薬がまだ残っているから、追加で勝手な薬を飲んだら殴るわよ」「君は医者なのか、脅迫者なのか、どちらなんだ」「命を粗末にする患者に対しては、両方よ」不満そうにしながらも、ルシアンは薬草を口へ入れた。あまりの苦さに目元を歪めたが、吐き出すことはなかった。そのやり取りを聞いていた護衛隊長が、わずかに口元を緩めた直後、前方へ拳を上げた。全員が足を止める。曲がり角の向こうから、鎧の触
Last Updated : 2026-10-31 Read more