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All Chapters of 愚直の恋: Chapter 1 - Chapter 10

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001

 神津司は嫌味にならない程度の外国車のハンドルを切り、割り当てられた撮影所の駐車場に愛車を停車させる。 今日から自分が入る現場は来期放映予定の新規ドラマの撮影現場だ。いわゆる典型的な学園ドラマ作品で、神津は幽霊が見える主人公を導く教師の役を演じることになっている。(主演は確か、新人とか言ってたな) いわゆる演技の素人を相手にしなければならないことに、神津はハンドルに腕を乗せてその上に自分の頭を乗せると、それはそれは深い溜め息を吐いた。(巻きとは言わないから、押すのは勘弁してほしなぁ) と、神津は助手席に無造作に置いたスマートフォンを取り上げて画面を開く。立ち上げるアプリは緑のメッセンジャーアプリだ。神津は上から数えて七番目の女の画面を開く。そして、「仕事が上がり次第行く」と淡泊なメッセージを送る。 幼少期から芸能界に身を置いている神津は、世間様とは随分と感覚がずれた生活を送るようになっていた。その最たる例が今のメッセージだ。 神津には今、ベッドを共にする女性が七人いる。それぞれ曜日で分けていて、人肌が恋しい時は相手の予定などお構いなしにマンションに押し掛ける。女たちが文句ひとつも言わず神津を迎え入れているのは、互いが互いを牽制してのことだ。どの女性も皆、自分が頭一つ抜きん出て神津の寵愛を得たいと考えているのはわかっている。神津の持つ人脈の恩恵を受けたいからだ。それを逆手に取っている神津の来訪を、彼女たちは断るなど考えたこともない。「さて。夜の約束もしたことだし、現場に行くか」 車内で伸びをした神津は助手席に置いた黒のボディバックを肩から掛けると滑るように車を降りて撮影現場へと向かうことにした。 神津はとにかく見目が良い。カラスの濡れ羽色のような黒髪に、漆黒の瞳。肌色は健康的で、適度に鍛えているので威圧感を与えない程度の体格を維持している。 用意された控室に荷物を置くこと暫く。神津専属の女性のスタイリストたちが部屋にやってくる。皆気心の知れたスタッフなので、神津は愉しくもない雑誌をペラペラとめくりながらセットされていくままに身を任せる。すると、ヘアメイクの女性が話を振ってきた。「神津さん。連ドラするの久々じゃないです?」「ん? ああ。最近舞台ばかりやってたからな」「そのままご実家の家業を継ぐんじゃないかって、噂になってたの知ってます?」
last updateLast Updated : 2026-08-31
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002

 今日の撮影は教室で神津が初めて奏多と顔合わせするシーンだ。(何が何でも奏多にカッコいいところを見せたい!) 教壇に立った神津が、自分の受け持ちクラスの生徒たちと同席するシーン。そこで、顔色が悪い奏多に気が付き、気に掛けるところから話が始まる。奏多は新人と聞いているので、演技のレベルはわからない。けれど、どれだけ大根役者であったとしても、それを補う準備は神津には出来ていた。(どんな君でも、俺は受け入れる準備はできているよ!) 担任教師との初めての顔合わせ。神津はいかにも知的で元気の良い若手教師を演じた。一方の奏多は顔色が悪いまま、陰湿な生徒を演じる。――この、奏多の役は、周囲に『居る』亡霊の類が見えていて、クラスメイトに取り憑いているそれらに気分を悪くしている――と言う、設定だった。(うん、上手に出来てる) この亡霊たちは、実は神津の役柄も見えていて、最初の頃から休みがちになる奏多を、神津が救いの手を差し伸べ、いつしか奏多も教師を目指す、と言うものだった。(絶対惚れさせる! それ以上のことも、する!) 奏多を自分に惚れさせる気でいる神津の脳内は煩悩でいっぱいだ。(こんなにバカになったのは、高校生のガキの頃以来かも) それぐらい、たった数時間で神津は奏多に夢中だ。そんな奏多は教室でクラスメイトがいる中で、神津に顔色の悪さを指摘され、保健室行きを促されるが、それを拒絶する。(必死な表情も、良いな) 完全に頭の中でお花畑が展開している神津は、この撮影が終わったら、絶対に奏多を食事に誘うと心に誓った。 助監督からのカットの声が掛かり、映像チェックに入る。そこに神津も奏多も顔を並べた。もちろん、奏多が隣りにいるので、神津の心臓は早鐘を打っている。が、それを隠すのはお手の物だ。 その間にも確認映像は流れていて、監督を中心に真剣な眼差しを向けている。「うん、いいんじゃないか?」 とは、監督の判断だ。彼は助演の神津を仰ぎ見て、意見を訊ねる。その神津は、「うん、俺もそう思う」と同意を示した。すると監督は、次のシーンのセットを組むようにスタッフに指示する。その間、演者陣は休憩になるので、神津、奏多、陸奥の三人は前室に下がった。 前室は撮影エリアの隅に作られた簡易の休憩スペースだ。そのため、長机が三つ並べられて、周辺にパイプイスが乱雑に置かれている。
last updateLast Updated : 2026-08-31
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003

 それ以来、目に見えて奏多の神津に対する態度は塩対応となった。いや、それならまだ良い方で、演技中以外は神津を「いないもの」として扱うようになった。 自分が撒いた種とは言え、奏多の徹底した態度に堪えられなくなった神津は、自分の事務所社長の冴子に泣き付いた。「冴子さん……。助けて……」 事務所社長室にて。完全に憔悴している神津は、冴子と対峙していた。黒革張りのイスに座っている冴子は、余裕な態度で神津の要件を訊く前に、条件を提示した。「神津。わかっていると思うけど、この私に直接ものを頼むと言うことは、それなりの対価を支払う用意は出来ているんだろうね?」 冴子が右手の親指と人差し指を繋いで輪を作る。それが何を意味するのか充分わかっている神津は、一度首を縦に振った。 これで契約成立と判断した冴子は、組んだ腕を解いて黒檀製の机に置いた上で、改めて神津に訊ねた。「さて、神津。今回は何をしでかしたんだい?」 冴子の問い掛けに、神津は自分が奏多にしでかしてしまった失態のいきさつを要点をまとめて伝えた。それを聞いた冴子は、再び腕を組み、あごを引いてしばし思案する。そして、「神津はどうしてその新人俳優にこだわるんだい?」 と、核心を突く質問をした。神津は一瞬たじろいだがすぐに観念し、「一目惚れ? しちゃったんだよね」 と、自分の本心を冴子に教えた。それを聞いた冴子が驚いた表情をしたのは言うまでもない。そしてとてつもなく悪だくみを企んでいる顔に変化した。「へぇ、神津がねぇ。そうなんだ。だから愛しの君との間に入ったヒビを修復したいと」「そう言うこと。お願いできる?」「ウチのドル箱俳優のお願いだからね。仲直りの場所はセッティングするけど、後は自分が誠心誠意謝ることだと私は思うけれど……。神津はどうだい?」 冴子の提案に、神津が頷く。神津も奏多との全ての関係修復を冴子に任せる気はなかった。(結局は、「媚びは売らなくて良いけど、仲良くしないと潰すよ」って言う脅しになるからねぇ) 奏多が所属している事務所は零細プロダクションだ。業界大手の神津の事務所が圧力を掛けたとしたら、すぐに潰れてしまうだろう。それは神津の望むところではない。(表面だけの従順が欲しいわけじゃないんだ) 叶うなら、奏多と相思相愛になりたい。(側に一緒にいるだけで、幸せなんだろうな) だ
last updateLast Updated : 2026-08-31
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004

 冴子の言う通り、会食の席は一週間後にセッティングされた。セッティングの音頭を取ったのは共演者の陸奥で、奏多には「俺のおごりだ」と言って金銭面での不安を払拭して、奏多に首を縦に振らせた。それでも高級店は気後れするだろうと、個室のある中華料理店を予約したと、奏多に伝えた。 ただ――そこに神津が参加することはあらかじめ言ってはいなかった。 そのため、今、奏多の顔は能面のようになっており、目が完全に座っていた。「どうしてここに、神津さんがおられるんですか?」 敬語を使うことは忘れずに。ただそれが一層冷ややかさを増長させている。奏多は無言で席を立ち、「ごめん、陸奥。俺、帰るわ」 と、私物のリュックサックを手に取り、出て行こうとする。 そんな奏多を止めたのは、神津だった。「君と、仲良くしたいんだっ!」 奏多の手首を掴んで、まるで縋り乞うような神津に、奏多は辺りを逡巡してから小さく溜め息を吐いた。「わかりました。食事だけは、させていただきます」 神津の必死さに絆された奏多は、神津に手を離すように言うと、荷物を元あった場所に置き直して席に戻った。内心ヒヤヒヤしていた陸奥はホット胸を撫で下ろし、呼び鈴で従業員を呼ぶと、あらかじめ頼んでおいたコースの給仕開始をお願いする。最初に食前酒が運ばれてきたが、陸奥と奏多は未成年を理由にノンアルコール飲料のものを代替で用意してもらった。 それを皮切りに、頃合いを見て料理が運ばれてくる。どれも絶品な味でとても美味しい。――けれど、場の空気は最悪で、会話らしい会話もなく、食器と箸とが当たる音が室内に響く。それにいたたまれなくなった陸奥が、柄にもなく奏多に話題を振った。「なぁ、宮城。お前がこの業界に入ったきっかけって、何だったんだ?」 陸奥の素朴な疑問に、奏多海老のチリソースを口に運んで咀嚼して飲み込んだ後、「スカウト? かな?」と答えた。 以下は奏多が語った詳細だ。 両親はすでに他界し、祖父に育てられた奏多は、中学を卒業した時、高校には進学せずに働きに出た。とは言え、中卒で働き口が多くあるわけではない。家庭の事情もあり、早く仕事に就きたかった奏多は、道路の狭い下町を専用自転車で回る宅配便の配達員のアルバイトを始めた。元気と健康が取り柄の奏多にとって、配達員は適性があったらしく、遠距離は運べないものの近隣は卒なく仕事
last updateLast Updated : 2026-08-31
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005

 奏多と仲直りをした神津は、それからは精力的に仕事をこなした。(冴子さん、俺のこと過労死させる気!?) 奏多との仲をとりなしてもらったため、冴子に貸しを作った神津は、ドラマの単話ゲストからバラエティ番組のゲストまでの幅広い仕事をこなした上で、奏多と共演しているドラマの撮影もしていた。それでも、奏多に無視されていた時よりも神津の心身は充実していた。 それほど神津のひたむきな愛を受けている奏多はと言うと、ドラマ撮影の待ち時間で、サランラップに包んだ手作りおにぎりを食べていた。差し入れコーナーには無かったそれ。気になった神津がスッと奏多の側に寄った。「奏多。何食べてるの?」「ん? おにぎり」「うん、それはわかるんだけど、今食べてるソレ、差し入れコーナーに無いものだよね?」 言葉をそのまま素直に受け取ることができるのは奏多の良いところだが、天然な返事になることも多い。神津の問い掛けに、奏多はぐるりと思考を巡らせてから、「家から持ってきた。撮影中に腹鳴らしてNG出したくないし」 と、答えた。それに神津が内心で大きな反応をする。(奏多の手作りおにぎり! 食べたい!) 奏多が作ってきたと言うおにぎりは、ふりかけを混ぜて作ったもののようで、大きさも市販のおにぎりよりひと回り以上だ。神津は、奏多の手にある半分ほど残っているおにぎりに、身を乗り出す形で、上からかぶり付いた。「へ!?」 びっくりした奏多を置いて、神津は口の中のおにぎりを咀嚼する。そして良き頃合いで飲み込むと、「今度から、俺の分のおにぎりも作ってきてよ」 内心で「美味い! 美味い!」と歓喜の踊りをしながら、数々の女性たちを落とした笑みを浮かべる。それに奏多がどう思ったかはわからないが、一瞬だけキョトンとした表情をした後、「いいよ! 神津さんの好きなおにぎりの具材、教えてよ」 「作ってくるから」と、それは神津が溶けてしまいそうな笑顔を向けて、応じてくれた。 もちろん、神津が内心で歓喜の踊りパートツーを踊ったのは言うまでもない。 その約束通り、奏多は神津とドラマ撮影のある日は、神津の分のおにぎりを握って持参してくれるようになった。そのため撮影の待ち時間になると、現場の隅で二人そろっておにぎりを食べている姿が日常風景となった。「ねぇ、奏多」「はい?」 今日も今日とて二人並んで間食のお
last updateLast Updated : 2026-08-31
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006

 そうして迎えた、訪問当日。 神津は姿見の前で、自分の服装や身だしなみのチェックを何度もしていた。「セッティング等良し!」 堅すぎず、それでいてルーズにならないような服装を選んだ神津は、自分の両頬を軽く叩いて気合を入れると、いそいそとマンションを出て行った。 地下駐車場の愛車の後部座席には、芸能界において美食家で通っている親友から紹介してもらったお米の美味しさを売りにしている飲食店から融通してもらった米をかなりの量、積載している。ハンドルは少し重いが、神津の心は羽根が生えたように軽かった。(やっとココまで漕ぎ着けたんだ。ミスのないようにしないと) 一度はどん底まで堕ちた心証を、やっとの思いでここまで持ち上げてきたのだ。神津としては、なんとしてもここで距離を縮めたいと思うのは仕方のないことだろう。 そんなことを考えながら、あらゆるシミュレーションをしていた神津は、カーナビゲーションに従って、下町情緒が残る住宅街にたどり着いていた。「え? この辺り?」  高級住宅街にある高層マンションに住む神津にとって、あまりにも馴染みがない場所柄に、神津は困惑を隠せない。すると、ナビゲーションは「もうすぐ目的地です」と告げる。見渡せば、目の前には外付け階段が付いた、お世辞にも綺麗とは言えないアパートがあった。「え?」 まさかここに住んでいるはずはないと、思考の片隅で思いながら、神津は聞き出して一度も掛けたことにない携帯電話番号の通話ボタンを押した。 コール音が鳴り響くこと数回。突然、奏多の声が聞こえた。「もしもし? 神津さん? もう着いたんです?」「奏多に教えてもらった住所近くまで来てるんだけど、奏多の家ってどこ?」 指定の住所には二階建ての木造アパートしかない。(いや、まさかな……) などと神津が疑っていると、一階中央の部屋から、奏多がひょっこりと顔を出した。「え? ほんとに?」 神津がうっかり声に出してしまったのも無理はない。芸能人は『みられること』が仕事で、私生活を守るためにはそれなりのセキュリティがあるところに住むのが常だ。しかし、奏多が住んでいるアパートはそれが皆無に等しかった。「ダメダメダメダメ。奏多に何か遭ったら、俺が憤死する!」 事が起こってからでは遅いのだが、神津が奏多にこっ酷く拒絶された金銭援助を受けてもらえない以上、今
last updateLast Updated : 2026-08-31
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007

 そこからは、奏多が台所に立ち、神津はちゃぶ台前であぐらをかいて、その後ろ姿を眺めていた。(いいなぁ……、こう言うの……) 奏多が背中を向けていることを良いことに、神津は舐めるように奏多を見つめていた。その間に、デミグラスソースの良い匂いが漂ってくる。「おまたせ。できたよ」 そう言って、奏多がちゃぶ台の上にメインの平皿を置いてから、炊き立てのごはんとコンソメスープを並べる。「家庭の味だから、神津さんの口に合えば良いけど」「奏多の作ったおにぎりが、今の俺のごちそうだから、大丈夫」「ん? うん?」 自分が言ったことは理由になっていない気がするが、奏多は上手く騙されてくれたようだ。神津主導で手を合わせると、奏多もそれに倣った。「ん! 美味い!」 神津はハンバーグを箸で切り分けて、一切れを口に運ぶ。神津のひと言にホッとした表情をした奏多を見て嬉しくなった神津は、食べ終わるまで「美味い、美味い」を繰り返した。 そして再び奏多が台所に立って洗い物をしている後ろ姿を、神津がちゃぶ台に片肘を置いて眺めると言う構図ができ上がった。(こんな日々が、毎日続いて欲しいな) 神津は奏多と一緒に住むことを夢想していた。ただ、同棲したい理由は邪なものだけではなく、セキュリティが皆無に等しいこのアパートに、奏多独りを置いておけないと思ったからだ。(ドラマ放映が始まったら、奏多は間違いなく有名人になるからなぁ) 本人は気付いていないが、奏多は天性の輝きを持っている。見る者を惹き付ける輝きが。それ故に、悪い方向に事が進むことは十二分にあった。――脅迫行為や、ストーカーなど。(こんなところに住んだままだと、君が傷付けられるかもしれない) そんなことは、神津には耐えられなかった。けれど、金銭援助を奏多は受けてはくれない。(……よし) 神津は心を決めると立ち上がり、シンク前の奏多に歩み寄った。「奏多……」 神津は名前を呼ぶのと同時に、奏多を背中から抱き締めた。奏多の身体が瞬時に硬直する。蛇口から流れる流水音が、やけに大きく聞こえた。「奏多……。俺は、君を大事にしたいと思ってる。俺の提案に、耳を傾けてくれないか」 神津は自分の大きい心音が奏多に伝わっていないことを願いながら、続きを話す。ありがたいことに、奏多に抗う素振りはなかった。「この部屋は、奏多を外からの
last updateLast Updated : 2026-08-31
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008

 そんなことがあっても、奏多の神津に対する態度は変わることはなかった。奏多はいつものように神津におにぎりを渡し続けていたし、会話もそれまでと変わらず気さくにしてくれている。 けれど、神津の心にはポッカリと穴があいてしまっていた。芸能界は長いので、取り繕うことには慣れていて、他人に気取られない自信はある。事実、誰一人神津の虚無に気が付く人間はいなかった。 そしてドラマ撮影が佳境に差し掛かったところで、地上波での放送が始まった。深夜枠での放送だったが、神津をはじめとした人気俳優が出演していることもあり、世間で噂になるぐらいには人気作となっていった。その状況で、新人とは言え主演の奏多も一気に人気俳優のスターダムをのし上がっていった。「ぷはー! 参ったー!」 と、撮影現場で奏多はかぶっていたキャップと口元のマスクを外した。「なんか、有名人になった気分」 奏多のセリフに目を丸くした神津は、次の瞬間、吹き出して笑った。「何言ってるの、奏多。「有名人みたい」じゃなくて「有名人」なの」「うーん……。そう言われても、実感がない」 奏多にしてみれば、無理もない話だろう。俳優の卵がふ化した瞬間なのだから。卵の感覚が抜け切らないに違いない。 神津は奏多の頭のてっぺんをポンポンと優しく叩くと、「すぐ慣れるよ。――それよりね」 と、神津は一つの懸念を奏多に問うた。「奏多は、あのアパート……引っ越す気はないの?」 安全管理皆無の奏多のアパート。奏多のことなのでゴシップなどないだろうが、他人からの劣情と悪意は本人だけの話ではない。神津の心配はもっともだった。問われた奏多はと言うと、少し困った顔をして、「生活の質を上げると、下げられないって言うじゃん。……ずっと売れ続けるわけじゃなし、今のままで良いよ」「――でもね、奏多」「心配してくれてるんよね。ありがとう。でも、大丈夫だから」 神津の言葉じりを奪った奏多が、頼りなく笑って見せた表情が、どこかかげって見えた気がした神津だったが、自分の勘違いだと――この時は思った。 ――それを神津が後悔したのは、それからすぐのこと。とある週刊誌が、奏多の醜聞をすっぱ抜いたことだった。 その朝。神津は自分のマンションの寝室で目を覚ました。奏多と出逢ってから以降、神津はセフレ関係にある女性たちのマンションに全くと言って寄り付かな
last updateLast Updated : 2026-08-31
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009

 東京都郊外で行われている撮影現場は表面上こそ和やかであったが、ある一角だけ、空気がとても重かった。――奏多の周辺だった。「奏多」「……神津さん?」 奏多の表情は疲れ切っている上に困惑が広がっている。それはそうだろう。今日は神津の撮影は入っていないからだ。「どうしてここに?」「時間があったから、撮影を見に来た」「……そう……なんだ……」 奏多の表情が警戒に変わる。(まるで手負いの獣のようだ) 奏多の態度で、疑惑が限りなく黒に近いと察した神津は、奏多の警戒を解くために、奏多の頭をいつかのようにポンポンと叩いた。「大丈夫だから」 神津は優しい笑みを浮かべてそれだけ言うと、周囲にあいさつをしながら現場を後にした。そして次に向かったのは、所属事務所の本社ビルだった。「やぁ、神津。ちょうど良かった。今、連絡しようと思っていたところだよ」 事務所のマネージメント課にいた冴子が、やってきた神津の姿を見つけて声を掛けてくる。その手には、マチがついたマニラ封筒がある。おそらく、その中身は神津が頼んだ案件の資料だろう。「冴子さん、どうも。――社長室で?」 神津が右手を上げて応答する。冴子は「そうだね。そうしよう」と応えると、動いてくれた社員を労ってから、神津と連れ立って部屋を移動した。 冴子の執務室は業界の人間みならず、様々な経営者などが訪れてくるため、広く絨毯張り上に黒革張りの応接セットも用意されている。神津は自分がドアに近いソファに座り、冴子は奥の自分の定位置に腰を下ろした。「おおよそ見当は付いていると思うけれど、結論から言うと、黒だったよ」 そう言って、冴子は封筒の中から証拠となる書類やDVDパッケージを取り出す。複写された契約書類には奏多のフルネームが直筆でサインされており、DVDのジャケットにはマスクで口元は隠しているが、間違いなく奏多が学生服をはだけさせた状態で写っていた。「発行元は男女関係なく未成年者が出演していることを売りにしたアダルトビデオを作成して販売を繰り返してる。一回の出演料は三十万ぐらいだそうだ」「……たった、三十万で……」「お前にとってはな。彼ら彼女らにとっては大金だよ」 冴子に諭されて、神津は口惜しそうに口を歪める。その視線の先には、契約書に署名した奏多の名前があった。 目を細めた冴子が足を組み直し、神津を視
last updateLast Updated : 2026-08-31
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010

 ちょっとしたクレジットの後から始まる映像。黒のマスクで口元を隠した奏多が、複数人の男たちに良いように弄ばれる内容は、観ていて気持ちの良いものではない。ただ、このビデオ、局部部分は少し広めのモザイク処理が施されていた。画面の中の奏多が、二人の男に身体を押さえられた上でマスクを剥ぎ取られ、三人目に無理矢理犯されている。それは次々と相手が代わっていき、途中で奏多は抵抗する気も失せてなすがままになっていく――と言うものだった。(胸糞悪い……) 自分以外の見知らぬ男たちに良いようにされていることが、どうにも腹立たしくて仕方がない。(俺だったら、泣かせたりなんかしないのに) 神津は忌々しく思いながら停止ボタンを押すと、天井を仰ぐようにしてソファに身体を預け、そのまま眠ってしまった。神津が次に目を覚ましたのは、外がすっかり闇に落ちた頃。来訪者を告げるインターフォンの音で起きた。応答に出れば、カメラ越しに奏多の姿がある。伊達メガネにキャップを被っている奏多の表情は、やはりどこか昏い。「今、開ける」 と、神津がエントランスの自動ドアを開ける。奏多がマンションに入って、エレベーターに乗り込み、神津の部屋の前に到着するまでおよそ五分程度。気が急いている神津は玄関前でスタンバイし、ドアベルが鳴ると同時に迎え入れたい衝動を抑えて、一呼吸置いてから玄関ドアを開けた。「いらっしゃい、奏多。待ってたよ」 努めて明るい声で迎え入れたつもりだった神津だったが、奏多の曇った表情が明るくなることはなかった。(まぁ、仕方ないよね) 奏多の心情を考えれば、無理からぬこと。神津は奏多に部屋に上がるよう促し、奏多は素直にそれに従った。 神津の住む部屋は、広いリビングにダイニングが併設され、別室に本人の寝室と衣装部屋、客間を一つ持っている。 リビングに入った奏多は帽子とメガネを外し、神津に促されるままに長ソファに座った。神津は少し間隔を空けて、同じ長ソファに座った。「……」 しばしの沈黙の後、神津から話を切り出した。「今、世間を騒がせてる、奏多の疑惑のことなんだけどね」 と、前置きして、神津はローテーブルの隅に置いていたマニラ封筒を引き寄せ、そこから無言で中身を奏多の前に広げた。ヒュッと奏多が息を呑んだのがわかる。神津はわずかに目を細めた。「暴くようなことをして、ごめんね。―
last updateLast Updated : 2026-08-31
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