All Chapters of 一族からも契約夫からも冷遇されていた“落ちこぼれ魔女”の私、血を捧げるだけの日々にさよなら――逆襲を始めます: Chapter 21 - Chapter 30

57 Chapters

第21話

燐がサロンに潜入する日の朝、恭司は、ひとり自室の中で物思いに耽っていた。「……」ここ最近、燐の様子がどうにもおかしい。採血で具合を悪くしているわけではない。むしろ、以前よりも活動的になったと言うべきだろう。恭司にとってそれは喜ばしいことである一方、今までと違う燐の動きには、拭いきれない不穏な感覚があった。(やはり、あの晩餐会だ。あの日からずっと、燐は何かを考えて、行動している)(あの時よりも前から、二人の間には面識があったように思えるが……)(華との間に、何があった?)御堂財閥のCEOとして、長らく仕事に専念し続けてきた恭司。一日のうちに判断すべきことはあまりに多く、家のこと、妻のことまで、とてもではないが手が回らない。ゆえに、仕事以外のことについては使用人や専門家に任せ、妻のことにも口を出さないようにしていた。だが、それから二年。燐の生活は、以前よりも少し不規則になっていた。朝食の内容も簡素なものとなり、食堂で腰を据えて食べることも減った。恭司はそう聞いていた。部屋から、御堂家から出てどこかへ向かう頻度も増えた。以前にも貧血でない日に外出することはあったが、今は多少の無理を押してでも出ている。そして何より、燐は、目つきが変わった。契約結婚の当初にはあった淑やかさは勿論だが、今はその瞳で、炎のような感情が静かに燃えているようにも見える――「……」「恭司様、そろそろ家を出られる時間では」部屋で悩んでいると、恭司の秘書を務めるスーツ姿の男性が入ってきて声をかけた。時間だ。普段なら、このまま出て行くつもりだったが。この日の恭司は、すぐには行こうとしなかった。「事情が変わった。昼から向かう」「ですが、今日は午前から、企画会議が」「代わりの者を向かわせる。必要なデータと判断基準をすぐに伝える」恭司はディスプレイ
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第22話

「奥様。お食事はいかがなさいますか」サロンの潜入を終えた燐が御堂家に戻った後。離れで一息ついていると、扉の向こうから使用人の声がした。もう昼時である。しかし燐は机に向かったまま、未だ疲労の残った顔を上げずに答えて下がらせる。「後でいただくわ。……いつも通り、簡単なもので構わないから」「かしこまりました」足音が遠ざかっていく。燐は椅子の背もたれに寄り掛かって、ようやく落ち着いたように息を吐く。廊下からは何の音もしない。一人きりだった。深呼吸で頭と身体を労ってから、机の上に視線を戻す。そこにはサロンから持ち帰った品々が並んでいる。呪い返しの人形。解呪の札。ブレスレット。どれも、華のサロンが実際に販売したものだ。これでもう「販売していない」言い訳は利かない。(サロンの中の調査は、これでもう十分ね)(必要なものは集まったわ。これもあるから、もう、言い逃れもさせない――)机の上には、燐がかけていた“だて眼鏡”が置かれていた。その横にあるタブレットが先程からしきりに何かを受信している。――だて眼鏡には小さなカメラが仕込まれていたのだ。そのデータはタブレット端末に送られ、別端末でも二重三重にコピーして保存される。その待ち時間の間、燐は改めて販売されていたものに目を通した。じっと目を細めて、燐は、魔女としての自分に意識を集中させる……(昔、私が泣いていた時、お母様がよく言ってくれていたわ。私は、皆が言うような“落ちこぼれ魔女”ではないって)(本当の力を、周りの環境に抑えつけられているだけだって)(普通の魔女と同じように、魔力の流れや残り香を見て、感じ取ることができるはず、そう言って……)まだ黒鉄家にいた頃、燐は魔女としての手ほどきを母親から受けていた。しかし母親が入院してからはそれもなくなり、燐は、普通の人間として生きていく術を模索しなければならなくなったのだった。
last updateLast Updated : 2026-09-18
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第23話

約束の期限まで二週間。この日の午前、燐は住宅街で、とある一軒を訪ねていた。呼び鈴を鳴らすと、扉の向こうから、想像よりも幼い少女の声が返ってくる。「はーい」「……?」事前の話では、大人の女性が出迎えてくれるはずだった。燐が首を捻っていると家の扉がゆっくりと開く。チェーンのかかった戸の隙間から顔を出していたのは、まだ小学生にしか見えない女の子だった。燐が目を丸くする向かいで、女の子はじっと睨むように見上げると、少ししてから困惑したような顔になる。「いつもの人じゃない……?」「……ええ。初めまして、かしら」「どうしたの?」「あなたのお母さんに、聞きたいことがあったの。今日来ても良い、って言ってたんだけど……」燐はその場で両膝を揃えて背を低くし、少女と目線の高さを合わせる。女の子は戸の隙間に隠れながら小さな声で尋ねた。「お金の話……?」「お金?」「お母さんのところに来る人、いつも、お金の話ばっかり……」まるで怯えているような声色に、燐はこの家がどのような家であるかを一瞬で理解した。おそらく――燐が本来会う予定だった女性は、既に借金を背負って首が回らなくなっているのだ。「お金の話はしないわ。あなたのお母さんとは会うのが初めてだから」「ほんとう……?」「でも困ったわね。どうしようかしら……」燐が顎に手を当てて考え込んでいると、一度戸が閉まってから、カチャリとチェーンの外れる音がした。もう一度少女が現れて燐を見つめてくる。入ってよい、ということらしい。「いいの?」「はやく来て」「……わかったわ。お邪魔するわね」燐はそう
last updateLast Updated : 2026-09-19
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第24話

週刊誌の記事に書かれていたのは、現在の黒鉄家が抱える財政的な問題と、燐の“身売り”に関する報道だった。黒鉄家は古くから魔女の一族として栄えてきたが、魔女の存在を知らない一般市民にとって、黒鉄家はドラマなどでよく見る「ビジネスでうまくいっているお金持ちの名家」というイメージになっている。そのような家の中で問題が起きていて、しかもそれに他の家との結婚が絡んでいれば、ゴシップ好きの人々が食いつくだけの要素は十分だろう。傾きつつある家が、立て直しのために、落ちこぼれの娘をお金と交換した――間違ってはいないが、それだけが真実というわけでもない。このような醜聞ではあるが、それは、燐が思っていたよりもずっと速く広まっていくのだった。 *「もう、本当になんなのよ……」週刊誌報道がされてから数日、燐の周囲に記者たちの姿が現れるようになった。姿を変えて彼らの目を誤魔化していた燐は、この日、時代を感じるコンクリートの庁舎に一人でやって来ていた。(この二年間、何も音沙汰なかったのに今更話題に上がるなんて、あまりにもタイミングが悪すぎる)(まるで、私がサロンに探りを入れてから始まったように……)(……華、貴女がやったのでしょう?)(だとしたら、こちらも、最悪の事態を想定しないと)建物には『生活安全課』の木製看板が掛かっている。人の出入りは燐の他にはなく、役所の建物なのにしんと静まり返っていた。燐はその胸元に大きな茶封筒を抱えたまま、入口の前で深呼吸を一つしてから中へ入る。自動扉を潜れば、燐の視界の端で看板の文字が揺れて別の文字に――『異能管理課』に変わる。異能管理課。この社会の裏に存在する魔女たちを管理している組織。中は極めて普通の内装で、何も知らない人が見れば市役所の一区画と同じに見える。しかしその場所に漂っている空気は異なり、どこか背が伸びるような真剣さと静謐さに包まれていた。燐は受付に向かい、対面にやって来た女性へ声をかけ
last updateLast Updated : 2026-09-20
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第25話

突然の電話を受けた燐はすぐさま母のいる病院へと急行する。「はあっ……はあ……!」燐自らもそこまで強くない身体である上、そこに思いもしないトラブルがやってきたせいで、到着した頃には息が上がってしまっていた。受付で電話をもらったことを伝えれば、燐はすぐに母のいる病室へ通してもらえた。「お母様!」燐の母親はベッドの上で身体を起こしたまま本を読んでいた。そこに燐が急に現れたものだから、娘の姿を見て目を丸くする。「あら、燐じゃない。どうしたの?」「その……何か、あったの?」「何かって?」「例えば、担当の人が変わるとか――」燐がそのように尋ねれば、母親の表情は硬くなって視線が下に落ちた。そして、口の端をほんのかすかに持ち上げながら、どこか仕方なさそうな雰囲気でことの顛末を語り始める。「昨日、担当の先生がいらっしゃってね。突然の異動を命じられたらしくて、本当に驚いていた様子だったわ」「先生も知らなかったの?」「なんでも、上の方からそういう指示があったらしいの。それで、新しい先生が来て、私にこんなものを出してきて」母親が差し出したのは一枚の紙。そこには『転院同意書』の文字があった。燐の顔がさっと青くなる。何か、目に見えない巨大な影が燐たちを覆わんとしているようだった。「転院……って、どうしてお母様が?」「そのことについてはこちらから説明いたします」そう言いながら現れたのは白衣を着た壮年の男性だった。燐はその人を見たことがなかった。彼こそが例の“新しい担当医”だろう。男の眼差しは感情が籠ってないようで、燐は、内心の読めない相手に口を結んで身構える。「患者様について改めて検査を行った結果ですが、これを治療する場合、当院の設備だけでは十分ではないケースが想定されました。ですので、より体制の充実している、
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第26話

御堂財閥のCEOは非常に忙しい。財閥内の様々なグループ企業の代表と面会しては、それぞれの今後が「御堂」のブランドに則したものか判断しなければいけない。ゆえに、御堂恭司という男はそれらの仕事を捌くために、その他で必要の無いことについては自ら考えないようにしていた。自分が関与しなくても回るのであれば、そこへ判断力を費やすのは“無駄”でしかない――これは極めて合理的なやり方である。最低限、最小限、必要な分だけ。御堂恭司は冷たい機械のような男となって、一族のビジネスを成功へと導き続けたのだ。そこに失敗はなかった。不安も、不満も何一つなかった。ただし……妻である燐のことを除いては。「……」この日の晩、恭司は夕食を食堂で取ろうとしていた。とても珍しいことだった。常に時間に追われる彼は週に一度も食堂を使わないことさえあった。彼が椅子に腰掛けていると、そこへ使用人の女性が料理を順に運んでくる。恭司は、それが一人分しか来ないことに気付くと、先程からずっと空いている席に視線を向けたまま使用人へ尋ねた。「……燐は?」「奥様は今日も“簡素なもので良い”と申しております。食事の栄養面は先生のご指示にしっかりと従っております」「簡素なもの?」「近頃はずっと、部屋の中で何かをされているか、外へ出ているかのどちらかです。以前は採血の時に部屋で食事をされることもありましたが、いまは、採血のない日も食堂にはほとんどいらっしゃいません」「ほとんど来ない……?」恭司はその言葉を聞きながら、以前に燐と対面した日がいつであるかを思い出す。(最後に会ったのは……)(…………)(あの日、部屋に顔を出してからか?)(何日経った? どれくらいの間、顔を合わせていなかった……?)表だって喧嘩したわけではない。ただ、お互いに“忙しくなった”結果、このような暮らしに自然と収束した。故に、恭司は気付かなかったのだ。燐が、今の今まで簡素な食事を続けていたことに。今日この日も食堂に来ることはないと言うことに。「朝は何時頃に起きている」「普段は六時頃ですが、採血の最中は七時か八時頃に起きられることもあります」「出かけている先は?」「詳細については、奥様はあまり話したがらない様子で」「……わかった。下がって構わない」恭司が下がるよう告げると、使用人は一礼して食堂を出て行った。
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第27話

夕方の五時、駅裏の貸し会議室。安いパーテーションで仕切られただけの部屋に壁にかかった時計の規則的な音が妙に大きく響いている。燐がテーブル越しに向き合っているのは半月かけてようやく会う約束を取り付けた女性だった。テーブルにはコーヒーが出されていた。「……燐様、お時間を頂いてしまってすみません」「いいえ。こちらこそ急にお願いをしてしまって……」燐はなるべく優しい顔を作りながら、膝を揃えて座り直した。相手は髪をひとつに結んだ三十代の女性。名前は戸川と言った。薄化粧の顔はやや疲れたようにやつれ、ニットの袖口がわずかに伸びている。戸川は膝の上で指を組んだまま、まるで迂闊なことを喋ったら命でも奪われるかのように口を閉ざしていた。机の上には伏せられた書類の束がある。先程、燐がここへやって来た後に戸川が引っ張り出してきたものだ。「先々月まで、私は九条系の会社で経理をしておりました。新卒で入った時から数えればもうそろそろ十年目といったところでした。最初は何も思いませんでした。社会のことも詳しくなく、大きな会社には私の知らない世界もあるのだろうと思っていたんです」「……何を、見たんですか」「あれは入って四年目のことでした。グループ内で人事異動が告げられて、私はとあるグループ傘下の企業の経理を同僚と二人で任されることになりました。しかし同僚は適応障害を患って休職し……私は、一時的に企業の資金状況をすべて把握することになったのです」戸川は言葉を続けようとしたが、そこで突然呼吸ができなくなったかのように声が出なくなる。燐は先を促さなかった。ぬるくなったコーヒーに口を付けながら、ただ相手の呼吸が戻るのを待っていた。「大丈夫ですよ。急かしはしません」「……ある月の末日、私は、いつも同じ会社へ同じだけの金額が出ていることに気付きました。契約書はありました。決裁欄も上から下まで綺麗に埋まっていました。しかし私は、怖い思いつきに囚われたんです。私は、その会社が具体的に何を取引したのか、その代価となるものの現物を見たことがありませんでした」戸川は時に早口に、時にゆっくりと、その時々の感情と調子に従うように断続的に話し続ける。「報告書も議事録も、打ち合わせのメモすら残っていません。一度だけ先方へ電話をかけてみたことがあります。呼び出し音は鳴るのに誰も出ませんでした。上司には…
last updateLast Updated : 2026-09-24
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第28話

灰色の壁に囲まれた部屋だった。窓はなく、天井の照明だけが白く灯っている。机と椅子のほかには何もない部屋で、椅子の脚は床に固定されていて動かせなかった。ここは異能管理課の庁舎だ。しかし燐が知っている部屋ではない。燐は市役所の一区画とさして変わらない部屋までしか入ったことがなかった。扉に番号しか振られていない廊下が奥に続いていることを、燐はついさっき初めて目の当たりにした。燐は、黒々としたスーツを着た四十代程の厳格な男と机を挟んで向かい合っていた。男の斜め後ろには、もう一人の職員が壁に向かって座り、手元の記録用紙の上でペンを持ったまま燐に振り返ることさえしなかった。「黒鉄燐だな」「私が連れてこられた理由を説明してください」燐が真面目な顔でそう言い返せば、男は軽蔑の表情で息を漏らす。その目は一切笑っていなかった。「匿名の通報があった。単刀直入に言うぞ――"黒鉄燐は、魔女の力で経済を破壊しようとしている"」「なっ――」あまりにも馬鹿馬鹿しい答えが返ってきたものだから、燐はどう反論したら良いか分からず困ってしまう。頭の中でもう一度考える。魔女の力で経済を破壊――どこから否定すればいいだろう? 匿名の通報、というのも気になって仕方ない。だがこれだけは言える。誰かが、燐を貶めるために虚偽通報をしたのだ。「お前たち魔女は不思議な力を操るそうじゃないか」「冗談じゃない! 私はそのようなことは考えていないし、そもそも私の魔力量では――」「それを信じろだって? フン、捕まった魔女は皆そう言うものだ」記録係の男がペンを走らせる音が微かに響く。燐の答えがどのように書き取られたのかは分からなかった。「魔女の力で経済を破壊する、というのは……具体的に何?」「それを今から調べるんだよ。お前がゲロってくれれば話は早いがな」「……っ」男は書類を一枚抜き出し、机の上を滑らせた。燐の側からは文字の見えない角度だった。「晩餐会で言ったそうじゃないか。九条財閥の株価を、来月の終わりまでに一割下げる、と」燐の心臓が大きく跳ねた。あの夜、あの席にいたのは九条の人間と御堂の人間だけだ。通報者はそれを知っている。そして恐らく――九条の関係者だろう。「魔女が公の場で、自分の口で宣言したんだ。それを実現させるため、というのは動機としては十分すぎるな」「あの場でどのような
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第29話

魔獄。それは、重大な罪を犯した魔女を閉じ込めておくための施設。魔女の身体を拘束し、身体から魔力を吸い上げて“空の状態”にして置いておく場所――どのような力を持つ魔女であっても、ここに囚われれば最後、通常の人間と何ら変わらない力しか出せなくなる。そして魔力を吸い上げられる際には想像を絶する苦悶と屈辱を強いられるのだった。「あぁぁぁ……!」(聞こえる……)独房に入れられていた燐は、壁を挟んですぐ隣で苦しむ魔女の声を聞きながら暗い顔で俯いている。燐は罪を犯したわけでもないし、何の罪も確定していない。手続きの上で待たされているだけだが、その位置があまりにも性格が悪かった。部屋の造りそのものが「次はお前の番だ」と暗に語っているようで、燐の気分はずっと下がったままだった。(……冗談じゃないわ)燐は畳の上で身体を休ませ、毛布を引き寄せて横になった。天井の蛍光灯が切れかかっているのか、不規則な頻度で明滅して燐を落ち着かせない。目を閉じても明滅が気になるものだから頭まで毛布を被った。首には魔力封じの輪が嵌められ、触れたところが無機質に冷たい。眠ろうとしても、魔獄から漏れる女性の声がそれを妨げる。彼女はどれくらい苦しんでいるのだろう? そう思いながら思考を巡らせる内に、燐はいつしか、御堂家のあの離れを思い出す。燐が二年間を過ごしたのは窓の大きな日当たりのいい部屋だった。その環境に文句はなかったものの、二年間の殆どをその部屋のベッドで横になったまま過ごした。そのうちに腕の内側には跡が増えていって、いつからか燐は、自分はもう二度と半袖を着て生きられないのだと思うようになっていた。週の半分はベッドの上にいた。足は細くなり、階段を上がれば息が切れるようになった。採血の日の朝は起きるのが遅くなる。使用人が心配そうな顔をするから、燐は毎朝きちんと化粧をして何ともない顔で挨拶をするようにしていた。そうしていれば、この生活はまだ結婚生活の形をしていると思えた。隣の声がまた始まった。眠り
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第30話

『なに、娘が帰っていないだと?』受話口の声から聞こえた黒鉄家当主の声からは、先程までの明るさが消えていた。「警察に確認しようと思ったのですが、何しろ彼女は“魔女”です。事を大きくするよりも先に、魔女のことについて何か存じていればと」『……ひとつあるが、恭司くん。この話は直接会ってしよう』「ありがとうございます。今からそちらへ向かわせていただきます」通話を切って、恭司は上着を掴んだ。机の上の書類はそのままにして社長室を出る。警察にいる知り合いへ連絡を入れて『黒鉄家の娘』について問い合わせるも、返ってきたのは『そういう名前は聞かない』という短い答えだった。恭司はすぐに車へ乗ってハンドルを握り、そのまま御堂家を出る。街の灯りが二年分の記憶を呼び起こすが、どうしても妻の姿だけが朧気で儚いものになってしまう。恭司は密かに歯を食いしばり、アクセルを踏んだ。 *黒鉄家は都心から一時間ほど離れた高台にある。恭司はその門前へ車を止めると、今一度身なりを整え直してから正門を潜って敷地の中へ入った。砂利を踏みしめていった先で、玄関の明かりが点く。突然の訪問だったが、四十代程の女性の使用人が出てきて恭司を奥へと通してくれた。そうして和室の応接間にやってくる。恭司はこの場所を覚えていた。燐と契約結婚をする際に顔合わせを行った場所だった。襖が開き、黒鉄家の当主が入ってくる。和装の恰幅のいい男で頭髪はすっかり白かった。恭司が結婚の挨拶に来た日から一度も変わっていない姿だが、今日は少しばかりの焦りも滲んで見えている。「恭司君、よく来てくれた。まあ、座りなさい」「ありがとうございます」当主の後ろから先程の使用人が茶を運んできた。彼女は茶を置くと、そのまま部屋の隅で膝を揃えて指示を待ち始める。黒鉄家当主の男――燐の父親は、部屋の扉が閉まっていることを確認してから話を切り出した。「して、電話では"娘が危ない"と聞いたが」「今日の夕方より、家に戻らず、連絡も取れていないとのことです。弟が直前に会っ
last updateLast Updated : 2026-09-26
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