All Chapters of 一族からも契約夫からも冷遇されていた“落ちこぼれ魔女”の私、血を捧げるだけの日々にさよなら――逆襲を始めます: Chapter 41 - Chapter 50

57 Chapters

第41話

昼休み――黒鉄キャピタルのオフィスの一角が妙な熱気に包まれていた。普段は菓子置き場になっている壁際のテーブルに、今日、真壁がシュークリームの箱を用意していたのだ。「いいですか、皆さん。この中に一つだけ“当たり”があります」箱の周りには社員たちが集まっている。皆で箱の中を覗き込めば、そこには丸いシュークリームが行儀よく並んでいた。なかなかの大きさだ!「当たりには、チョコレートのクリームをたっぷり詰めておきました。ただし見た目では分かりませんよ」「じゃあ、一個だけ違う気配のものを見つければいい、ってことですか?」新入りの芹が元気いっぱいに身を乗り出した。仲間になってまだ数日だというのにもうすっかり周りに馴染んでいて、妹のように可愛がられるポジションとなっていた。真壁は芹の方を向くと、身体の手前で腕を組んで何とも言いがたい笑みを作る。「さあ、どうでしょうね……? 社長! 社長もこっちに来てください」「私も?」燐は少し離れたところからその様子を眺めていたが、真壁に呼ばれてから、皆と同じように箱を覗き込む。「では、どうぞ。喧嘩にならないように選んでくださいね」「……一番右奥のもので」「待って、篠原さん。それは罠よ。さっきから真壁さん、そこだけ見ないようにしてるもの……」篠原に声をかけているのは、彼女と同じ最初期に入社した三枝だ。三枝はやけに忙(せわ)しそうな様子だが、これは燐が普段の仕事で度々見ている姿でもあった。「ええぇ、どれにしたらいいんですか? 分かんないです……」「榊さんは選びませんか?」芹が目をぐるぐる回している中で、集団の中にいた優真が、一人で書類整理している中年女性の方を振り返る。しかし彼女は優真の方を向くこともなく、突っぱねるような態度で黙々とページをめくって内容を確認していた。榊は自前の工房を持っているため普段はオフィスには来ず、必要な事務作業のために
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第42話

燐が優真に案内された先は、オフィスから二駅離れた路地裏にある小さなバーだった。カウンターが七席だけの店で、照明は暗く、心地よい狭さで隠れ家感のある場所だ。(こんな時間を過ごすのはいつぶりかしら。でも……)燐は丸椅子に腰を下ろしながら、心の中で小さく身構える。(なんだか、最近は彼のペースに乗せられている気がするわ)優真の前で油断したら、あっという間に心の距離を縮められて、気付いた時には絡め取られてしまいそうな気がする――面接で初めて会ったあの瞬間から、燐の中ではそんな懸念が消えなかった。何を話しても燐が欲しがるような言葉が返ってきて、話せば話すほど、彼の返事を求めて自分から近付いていってしまう。有り体に言えば……話してしまうことが、気持ちいい。そう思わせるだけの天賦の才だろうか、それが優真にはあった。「最初の一杯は、僕が選んでもいいかな」「……任せるわ」燐が隣を見れば、優真の白い前髪が照明で淡く光っている。彼がカウンターに片肘を預けた姿勢はくつろいでいるように見えるのに、だらしなさは少しも感じない。赤みを帯びた彼の瞳に捉えられると、燐は、このまま魂まで抜かれそうな気がして目を逸らす。しばらく会話はなかった。小さなバーの落ち着いた暗がりの中で無言の時間を過ごす間、燐はいつまでも心が落ち着くことはなかった。目の前に淡い琥珀色のグラスが置かれる。口に含むと、甘い香りと柔らかな苦みが身体の奥へ落ちていく。「貴女とは、互いによく知り合っておきたかったんだ」「それで呼んだの? 仕事熱心ね」「仕事だけじゃないよ。半分はそうだけど、もう半分は、僕の個人的な興味」どうしても、優真の言葉の節々からは“危険な匂い”がする――燐は平静を装いながら、何も響いてないふりをしてグラスを傾け続ける。それからは取りとめのない話をした。この店を初めて見つけた時の話、これまで転々としてきた仕事についての話……そして
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第43話

黒鉄キャピタルの規模が大きくなるにつれて、燐が為すべきことは多くなっていった。迎え入れる事業が増えるたびに、統合の審査と新しく加わる社員との面談が積み上がっていく。優真が来てもなお、燐は誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰った。むしろ一人ではなくなった分、これまで以上に他人のために動く日々が増えていた。午前の会議を終えて廊下へ出たところだった。「篠原さん、午後の用事は?」「社長、午後の面談が三件と、統合の審査の資料が――」そのとき――ふと、篠原の声が遠くなった。燐は、足元の床が傾いたような気がして思わず壁に手をつく。視界の端が白く霞み、指先から力と色が抜けていく。「社長!」たちまち崩れかけた燐。篠原が叫ぶ中、燐の身体を横から誰かが支えて止める。「……?」「社長」優真だった。燐の身体をそっと壁際へ寄せて篠原に水を持ってくるよう目で頼む。燐は優真の腕に支えられたまま、しばらく浅い呼吸を繰り返した。「急に倒れそうになって、大丈夫?」「……ごめんなさい。少し、立ちくらみがしただけ」「少しどころじゃない。顔が真っ白になっている。今すぐどこかに座るんだ……」燐はそのまま、近くの休憩室で椅子に座らされた。篠原が紙コップの水を持ってきて、燐はそれをゆっくりと飲みながら、頭と身体の感覚を徐々に取り戻していく。「社長。このところ、まともに休まれていませんよね」篠原の声は硬かった。叱るというより、怖がっているような声だった。燐が何か言い返そうとするより先に優真が口を開いた。「社長。今日の会議は任せてもらえないかな。資料は読んでいるし、この後どうするかの流れも共有している」「でも、それだと貴方に……」「僕のことは気にしないで。決まったことは必ず知らせるから」燐は手の中の紙コップを見つめた。この会社に来た人たちの話は、自分の耳で聞く
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第44話

黒鉄キャピタルの仕事は多岐にわたる。今日の依頼主はとある小さな染物工房で、内容は、取引先の大手繊維会社との値上げ交渉だった。「――つまり、仕入れの値を上げてほしい、と」相手企業の大きな会議室、テーブルの向こうで、先方の部長が手元の資料から顔を上げた。その隣では仕入れの担当者がもう一人、難しい顔で資料を睨んでいる。燐の右隣には優真が、左隣には小柄な初老の女性が座っていた。彼女こそが、山あいで小さな染物工房を営む魔女である。その背中は丸まり、緊張した面持ちが伝わってくる。「はい。勝手なお願いであることは、承知しております」燐は深く頭を下げた。隣にいた優真と工房の女性も同じく頭を下げる。「この十年で、工房の染めにかかる費用がどれだけ上がったかをまとめました。染料の仕入れ値は一・五倍、職人の手間賃も同じだけ上がっています。今の値のままでは、工房は若い職人を雇い続けることができません」「顔を上げてください……そちらの事情は分かります。ですが、うちも楽ではないんです。他の仕入れ先にも、同じ値でお願いしているものですから、一箇所の値段を上げたら他も上げないと示しがつかなくなる」部長の言い分はもっともだった。燐は頷いてから、もう一枚の資料を差し出した。「御社が今年の春に出された富裕層向けの織物が、この半年で売り上げを伸ばしていると伺いました。決算の説明会でも今後の成長の柱として挙げられていましたね」「ええ。おかげさまで」「その中には、この工房で加工された布が三つあります。染め物の質が落ちたがために、御社が作られた流れを終わらせたくはありません。これから先も同じようにお届けするために、どうかご理解いただけませんか」部長は黙って資料に目を落とした。担当者が小声で何かを耳打ちする。そこで工房の女性が、膝の上で両手を握りしめたまま口を開いた。「……こちらも、ただでとは言いません。うちの染めを十年使い続けてくださったのは御社です。もしお許しいただけるなら、御社のために新しい柄を考えさせてください。これまでと同じ
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第45話

第45話この家に戻ってくるのは二年ぶり――御堂家に嫁いで以来のことだった。「……よし」燐が覚悟を決めて黒鉄家の門を潜った頃、空は既に橙色に変わっていた。玄関で燐を出迎えたのは、よく知っている使用人の女性だった。彼女は燐の顔を見ると一瞬だけ目を大きくして、しかし何も言わずに深く頭を下げる。「お上がりください」「じゃあ……失礼するわね」家の中は何も変わっていなかった。床のどこを踏めば軋むのか、壁のどこにどんな染みが残っているか、すべてが燐の覚えていたままだ。使用人の後に続き、燐は客人として和室の応接間へ通される。そこで……黒鉄家の当主、燐の父親が、座卓の向こうに座っていた。恰幅のいい身体を和装に包み、白くなった頭髪を撫でつけている。座卓の上には、古い帳簿の束が積まれていた。「……お父様、帰りました」「座れ」出会い頭に怒鳴られるかと思いきや、父は、やけにゆっくりと落ち着いた声で燐に命じた。燐は場の空気をうまくつかめず、小さく頷きながら言われた通りに正座する。恭司との契約結婚を切り出された時のことが思い出された。あの時よりも父親は静かで、何やら言葉を選んでいるようにもうかがえる。「……家に断りなく、黒鉄の看板を勝手に会社に掲げるとは。どういうつもりだ」「…………」燐は返事に迷った。いつもなら、燐に一切の反論の隙も与えないくらいに詰めてくるはずだった。それだけ時間があったから、燐は父親の目を見ながらしっかりとした声で答えることができた。「……黒鉄は、私の名でもあります。仕事の看板に自らのルーツを示したまでです」「だが、せめて一言あっても良かっただろう」燐は少しだけ視線を落とした。家を出た日、燐は誰にも何も告げなかった。それはこの家に対し
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第46話

黒鉄キャピタルの半年間の成功を祝う会はつつがなく終わった。色々なことで悩んでいた燐だったが、この時だけは周りを心配させまいと普段通りに取り繕い、皆と談笑しながらグラスを傾けてはお互いの苦労を労った。そうして宴が終わったのは、もうすぐ日付が変わるという頃だった。社員たちが帰っていった後、オフィスには燐と優真の二人だけが残った。床には紙吹雪が散らばり、テーブルの上には空いた皿とグラスが並んでいる。燐は箒とちりとりを出して掃き掃除を始めた。「社長、僕が片付けておくよ。今日は色々あったんだから、もう帰って休んで」「いいわよ。みんなが準備してくれたんだもの、片付けくらいさせて」同じようなことを篠原も言っていたが、燐は彼女を先に帰した。宴の間、燐は“いつも通りにしていればいい”と自分に言い聞かせていた。社員たちと乾杯をして、笑って、礼を言って……優真とも、普段と変わらない顔で言葉を交わした。社員たちが優真を囲んで口々に礼を言う姿も、少し離れたところから笑って眺めていた。不自然な笑いになっていないかを気にしている自分もいた。――白銀家について警告されたことが頭から離れない。そのことを表に出さないように、燐は目の前の作業に集中する。すぐ傍にいる優真に裏の顔があると思うだけで、どうにも心苦しくなってしまう。「今夜のパーティーは、実は先週から準備していたんだよ。社長のことを驚かせたくてね、今日の夕方になって、すぐに飾り付けをしたんだ。なかなか社長が帰ってこないから連絡しようかと思っていたけれど」「そう。そういうことだったの……」せっかく皆が楽しいイベントを開いてくれたのに、それを心の底から楽しめた気がしない。燐は箒を動かしながら、壁に張り巡らされた輪飾りを見上げた。皆が仕事の合間に作っていただろう、色とりどりの紙の輪。それを見ていると胸の奥が締め付けられるようだった。「……皆には、気を遣わせちゃったわね」思わずこぼれた言葉に、優真は空いた皿を重ねる手を止めた。
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第47話

翌朝、燐が出社すると机の上にはもう一冊のファイルが置かれていた。優真は自分の席から声をかけて、いつもの柔らかな笑みを向けてくる。「今日の分、まとめておいたよ」「……ありがとう」燐は努めて普段通りの声で答えた。優真は昨夜のことは匂わせもしなかったから、燐は、自分が恥ずかしがれば負けたような気がして真面目に振る舞う。ファイルを開くと、新しく迎える予定の事業についての審査の結果が丁寧に整理されて並んでいる。売り上げの推移、借り入れの額、取引先との関係、そして統合した場合の見通し。どの数字にも明確な誤りはなく、結論も筋が通っているように見える。燐が自分で調べても、きっと同じ結論に行き着いただろう。売り上げの推移は、三年分の合計と伸び率が示されていた。先方との打ち合わせの記録には、日付と話し合った中身が整然と並んでいる。『先方担当者と協議の上、条件に合意』その一行を、燐はしばらく見つめていた。何かが、引っかかった。けれど、何が引っかかっているのかが分からない。数字は正しい。結論も正しい。必要なことは全部書いてある。それなのに……何か、大事な情報が抜けているような不安が湧いてくる。「社長、何か気になるところがあった?」顔を上げると、優真が燐の様子をうかがっていた。燐はなんでもなさそうに微笑んで心配かけまいとする。「……いいえ。よくまとまってるわ」「よかった。来週の予定も組んでおいたから、後で目を通しておいて」燐は審査の結果に承認の印を押した。だが、ファイルを閉じた後も、喉奥に小さな骨が残ったような違和感があった。その正体が何なのかを確かめる前に次の書類が机の上に積まれていく。社長席に座っている間、ぼうっとしている時間はないようだった。 *昼休み、燐が給湯室でお湯を沸かしていると芹がコンビニの袋を提げて入ってきた。「社長! お昼、ご一緒してもいいですか?」「ええ、どうぞ」二人で休憩室のテーブル
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第48話

優真が来て欲しいと送ってきたのは、オフィスから少し離れた高層ホテルの、上層の部屋だった。その建物の前に立って、燐はスマートフォンを持って思い悩んでいた。ホテルで男性と二人きりになる――それがどういうことを意味するのかわからない燐でもない。このまま入るべきか? そんなことを一人で考えてしまう。もし優真と万が一があったら……(…………)(大丈夫。聞きたいことがあるだけ、だから)(会社だと他の人に聞かれるかもしれないし……)(大事な話、だから……)何度も自分にそう言い聞かせて納得させようとしながら、燐は言われた部屋の前へ向かう。エレベーターの籠に入り、しばらく上っていき、やがて目当ての扉の前に立つも、燐はしばらくチャイムを押せずにいた。(私は……)扉一枚を隔てた向こうに優真がいると思うだけで、胸の奥がざわめいて落ち着かない。それでも行くしかなかった。このまま帰ったところで、心の中にあるモヤモヤは晴れるはずもなかった。意を決してチャイムを鳴らす。一分、二分にも感じられる待ち時間の末に、扉が内に開いた。「……燐。来てくれたんだね」優真はYシャツ姿で袖を軽くまくっていて、雰囲気の違う姿を前にした燐は思わず目を大きくしてしまう。彼は仕事の時と同じ柔らかな笑みを浮かべていたが、いつもより少しだけ低い声を聞いてからだとまた違って見える。「……来た、わよ」「うん。入って」通された部屋は、燐が暮らしているホテルの部屋よりも広かった。照明はやや暗めで、窓一面に夜の街が広がっている。遠くの高速道路を流れていく車の灯りが天の川のようだった。燐が窓際のソファに腰を下ろすと優真はその隣に座る。肩と肩の間に拳一つ分ほどの隙間があった。触れてはいないが、優真の体温が伝わってくるような気がする…&
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第49話

翌朝、燐が出社すると社内の空気がいつもと変わっていた。珍しく困惑した顔の篠原が燐に駆け寄ってきて、窓際の優真の席がきれいに片付けられているのを手で示す。「彼の姿が見えなくなっていて……机の上も、この通りに片付けられています」「……そう」オフィスの社員たちは妙に寂しそうだ。特に芹は目に見えてしょんぼりとしている。燐は彼女たちに背を向けると、今の時間は誰も来ない会議室で一人になって、スマートフォンを取り出す。一瞬、ためらう気持ちもあったが……燐は、優真の番号を呼び出した。コール、コール……『……おはよう、社長』優真はすぐに出た。まるで燐がかけてくるのを事前に知っていたかのような早さだった。「……おはよう」『僕の机は朝早くに片付けておいたよ。みんなの迷惑になってはいけないからね』「もう、来ないつもりなの」『君がどうしても戻ってほしいなら、今すぐにでもそうするけれど』あっけらかんとした態度を取られた燐は眉間へ皺を寄せる。昨晩見たもの――燐の社長解職を議題とした来月の役員会議の書類が思い出された。「私の解職は……貴方が提案したの」『君の仕事を少しでも減らしたかったからだよ』「冗談じゃない!」会議室の隅で、燐は声を抑えたまま小さく叫ぶ。「分かったわ……貴方を、今日付で相談役から解任する」『うん。構わないよ』優真から抵抗の言葉はなかった。こうなることすら織り込み済みのようだ。そして彼は最後、電話を切る前に、いつも通りの穏やかな声でこんなことを言い残す。『黒鉄キャピタルは君が作った会社だ。そこで君がどうするか……お手並み拝見と行こうじゃないか』 *あま
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第50話

翌朝、燐が最初に足を向けたのは、久我が所属している事業部の島だった。久我は自分の机で眼鏡をかけて部内の書類に目を通していたが、燐に気付くといつものようにのんびりと笑って応じた。「ああ、社長。おはようございます」「おはよう、久我さん。少しお時間をいただけますか。来月の取締役会のことで」「……話は聞いています。あの件についてですね」久我は持っていた書類を机に伏せると、燐をフロアの隅の小さな打ち合わせ机へ案内した。向かい合って座ると、彼は身を乗り出してから声を小さくして話し始める。「彼とは何度かお話ししました。相談役に事業について尋ねたことがあって、その時に……“条件”をいただいています」「条件……?」「悪くはない内容でした。新体制での地位と高給を約束する、と。ただ……私個人としては、まだどちらを支持するかは決めていません」燐を社長から下ろすために、優真は役員たちと取引さえも行っていたのだ。燐が難しい顔をしていると、久我は「んー」と低い声で唸ってから燐の目をじっと見つめてきた。優しい顔だが、そうであるが故に、一切の嘘やごまかしが利かない顔でもあった。「魔法のことや、魔女のことについてはあまり分かりませんが……私は、人柄を見て決めたいと思っていますよ。これまでに社長が何をなさってきたか、これからの一か月で何をなさるのか……」「……わかったわ。聞かせてくれてありがとう、久我さん」「がんばってくださいね、社長」久我との話は終わった。味方票が増えたわけではないが、相手の票が確定したわけでもなさそうだ。三対三、一人は保留。 *榊の茶工房は、電車とバスを乗り継いだ街外れにあった。古い木造の建物で、戸を開けると乾いた葉の匂いが鼻の奥まで入り込んでくる。籠を抱えた古株らしい職人が燐を見て、何も言わず
last updateLast Updated : 2026-10-20
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