All Chapters of ブサイクの仮面、真実の顔と届かぬ愛: Chapter 11 - Chapter 20

22 Chapters

第11話

「すみません、この女性に見覚えはありませんか?」「いいえ」「申し訳ないですけど、見たことないですね」「なんとなく見覚えあるような。でも思い出せないな」3日が経っても、手がかりは何ひとつ掴めなかった。まるで大海原で針を探すような、あるいは迷路に迷い込んだような焦燥と無力感が、日に日に募っていった。夜、駿平は川沿いの小さなバーに足を踏み入れた。薄暗い店内には、ステージでギターを弾きながら懐かしい曲を歌う歌手の姿があった。駿平は隅の席に座り、度数の強い酒を頼んだが、ほとんど口をつけないまま、窓の外の川面と揺れる提灯の光を虚ろな目で見つめていた。ふと、視線が1点に釘付けになった。カウンター席に、白練色の上品なワンピースをまとった女性が座っており、その横顔がふと目に入った。背を向けて座り、長い髪をシンプルなヘアクリップでゆるくまとめ、すらりとした首筋と白いうなじを覗かせていた。夏生に間違いない!駿平の心臓は、その瞬間、ハンマーで殴られたかのように一度止まり、それから狂ったように早鐘を打ち始めた。血が頭に上り、耳の奥で鼓動が鳴り響く。駿平はほとんど倒れ込むように立ち上がり、目の前の椅子を跳ね飛ばしながら、数歩でカウンターに辿り着いた。手を伸ばし、ペンを握った夏生の手首を掴んだ。夏生の動きが止まり、ゆっくりと顔を上げた。自分を掴んだ相手を見て、その澄んだ瞳にごくわずかな揺らぎが走った。まるで静かな湖面に小石を投げ込んだように。だが波紋はすぐに消え、残ったのは冷たく、底の見えない静けさだけだった。「すみません」夏生は口を開いた。声は小さいが、はっきりと冷たく響いた。「人違いです」夏生は力を込め、手を引き抜こうとした。駿平はさらに強く握った。指先がわずかに震えていた。彼はむさぼるように、その顔を見つめた。肌のきめ、輪郭の細部に至るまで。そのすべてが見知らぬものであるはずなのに、なぜか強く心を揺さぶってくる。苦しみ、後悔、失ったものをようやく見つけた歓喜、そして自分自身にも説明のつかない、もっと深いところにある感情が、胸の内で激しくぶつかり合っていた。「……人違いなんかじゃない」駿平の声は、ひどくかすれていた。「夏生。俺だ。やっと見つけた。一緒に戻ってきてくれ。ちゃんと話し合おう」
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第12話

「お母様の言った通りですね。私が醜かった頃は、あなたたち早乙女家にとっての汚点、あなたに恥をかかせる道具だった。今の私が素顔を見せたからといって、今度は突然、あなたが自慢できる、あなたの後悔と罪悪感を埋め合わせるための所有物にでもなるんですか?」駿平の顔から血の気が引き、まるで面と向かって強烈な1撃を食らったかのように、よろめきながら半歩後ずさった。口を開いたが、声は出てこなかった。「あなたの謝罪は、受け取りました」夏生は駿平を見ることなく、キャンバス地のトートバッグを背負い直した。「でも、必要ありません。許すこともありません。もう、ついてこないでください」最後にそう言い残す声は、骨まで凍りつくほど冷たかった。「さもないと、警察を呼びます」夏生はバーの木製の扉を押し開け、その姿はすぐに外の朧げな夜の色と、さらさらと流れる水音の中へと溶け込み、消えていった。駿平はその場に立ち尽くしたまま、まるで全身の力を抜き取られたかのようだった。店内は静まり返り、あとには歌手のかすれた歌声だけが響いていた。駿平はテーブルの上のグラスを掴み取ると、琥珀色の液体を一気に飲み干した。強い酒が喉を焼いたが、心の奥底に広がる、果てのない冷たさと恐怖を、押さえ込むことはできなかった。だめだ。このまま手放すわけにはいかない。駿平は身を翻し、バーを飛び出すと、夏生が消えていった方向へと追いかけた。距離を置いて後を追うと、夏生が川沿いの、「夏至」という看板を掲げた小さな民宿に入っていくのが見えた。木格子の窓から、暖かな黄色い明かりが漏れていた。駿平は川の対岸にある宿に部屋を取った。窓は「夏至」の2階、明かりのついたある部屋にちょうど面していた。駿平はそのまま窓辺に立ち、その明かりを見つめ続けた。明かりが消え、そして空が白み始めるまで。翌日、駿平は早くに目を覚ました、というより、ほとんど眠っていなかった。夏生が早朝から出かけていくのが見えた。シンプルな麻のロングワンピースに身を包み、長い髪はシンプルなヘアクリップでゆるくまとめている。折りたたみ式のイーゼルと小さなかごバッグを手に、石畳の道を歩いて、水路沿いに立つ古い木の下までやって来た。夏生はそこでイーゼルを広げ、さらさらと流れる水路と、少し先に架かる古い
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第13話

「いや……駿平、私は」都和は駿平の眼差しに怯み、声を震わせた。「あなたが心配だったの!あの女に騙されてるんじゃないかって!あの女は腹に一物あるのよ。わざと醜く装ってあなたと結婚して、今度は素顔をさらしてあなたを誘惑してる。あの人は……」「黙れッ!」駿平は都和を遮った。これまでにないほど冷たく、厳しい口調だった。「都和。昔のよしみで、これが最後の忠告だ。今すぐ俺の前から消えろ。これ以上しつこくするなら、黒川家ごと京西市で立ち行かなくしてやる」都和は雷に打たれたように、信じられないという表情で目を見開いた。顔は紙のように青ざめていた。「あなた、何を言ってるの?あの女のために、黒川家を潰す気?早乙女駿平!どうしてそんなこと……」「連れていけ」駿平はもう都和を見ることなく、いつの間にか庭の門の前に現れていた黒服のボディーガードふたりに、冷たく命じた。ボディーガードはすぐに歩み寄り、都和の両腕を左右から取った。「いや!駿平!私にこんな仕打ちをするなんて!私こそが、あなたを一番愛してるのに!あの女は……!」都和はもがきながら泣き叫んだが、ボディーガードは容赦なく引きずるようにして連れ出し、車に押し込んだ。車はすぐに走り去り、泣き叫ぶ声も次第に遠ざかっていった。小さな庭に静けさが戻り、あとには風が葉を揺らす音だけが残った。駿平はようやく振り返り、夏生を見た。夏生は相変わらず椅子に腰掛け、わずかに目を伏せたまま、都和のハイヒールに踏み荒らされた落ち葉を見つめていた。表情は特になく、まるで先ほどの騒動が自分とは無関係だったかのようだった。「夏生」駿平は口を開いた。声は低く、すがるような響きを帯びていた。「一緒に戻ってきてくれないか」駿平は1歩前に出て、夏生の手を取ろうとした。夏生は、それをかわした。彼女は顔を上げ、駿平を見つめた。「早乙女さん」夏生は静かに言った。ひと言ひと言が、氷の粒のように冷たく響いた。「まだ、わからないんですか?」駿平の心臓が、ぎゅっと縮んだ。「問題は、都和のことだけじゃないんです。あなた自身のことです。最初から、駆け引きと嘘と侮辱ばかりだった、この結婚のこと。心に別の人がいるのに、私を都合よく妻にした、この3年間のこと。あなたのお母さんが私を
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第14話

駿平は京西市に戻った。体は戻ったが、魂だけはあの水路が巡る小さな町に置き去りになったままのようだった。惣太郎が再会したとき、ほとんど駿平だとわからないほどだった。いつもの冷静沈着な駿平は、もういなかった。その代わりにいたのは、愛のために正気を失ったギャンブラーのような男だった。駿平が最初にしたのは、黒川家を容赦なく叩き潰すことだった。わずか半月で、かつては栄華を誇っていた黒川家は傾き、破産寸前にまで追い込まれた。都和の両親はプライドをかなぐり捨てて何度も謝罪に訪れ、ついには早乙女グループのビル前で土下座までしてみせた。都和もまた涙に暮れ、冷たい石段にひざまずいて、何度も駿平の名を呼び、かつての情を訴え、慈悲を乞うた。だが、駿平は一度も会おうとしなかった。秘書を通じて、ただひと言だけを伝えさせた。「俺の大切な人に手を出せば、代償を払ってもらう」「大切な人」が誰を指しているかは、言うまでもなかった。噂はまたたく間に広まり、財界は騒然となった。かつて都和を何かと庇っていた駿平が、これほど冷酷に手のひらを返したように切り捨てるとは、誰が想像しただろうか。続いて、ある重要な経済フォーラムで、駿平の発言の番が回ってきた。駿平は壇上に上がったが、すぐには経済情勢や業界の展望を語らなかった。スポットライトの下、居並ぶ財界の名士たちと絶え間なく光るメディアのカメラを前に、珍しく、自ら私事を口にした。「この場を借りて、はっきりさせておきたいことがあります。私と、前妻・楠瀬夏生との離婚は、私の意志ではありませんでした。重大な誤解があったのです」会場は一瞬にして水を打ったように静まり返った。息を呑む音さえ聞こえそうだった。驚愕、探るような視線、信じられないという表情。無数の眼差しが駿平一人に注がれた。駿平はその視線を真正面から受け止め、言葉を続けた。ひと言ひと言が、確固たる重みを帯びていた。「ここに、あらためて宣言します。私、早乙女駿平にとって、生涯、妻と呼ぶのは楠瀬夏生ただ一人です。今、全力で自分の過ちを償おうとしています」駿平は一拍置き、そわそわと動き出したメディアの列を見渡すと、声を落として、圧倒的な威圧感を込めて続けた。「どうか、彼女の生活を乱さないでください。私にも、彼女にも、
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第15話

毎日、夏生の元にはさまざまな物が届いた。ある時は、朝露に濡れたような瑞々しい紫のアイリスの花束。カードに名前はなく、ただ短い言葉だけが印字されていた。【君に会えたことを、今でも嬉しく思っている】ある時は、一流画廊が主催するプライベートオークションへの招待状。同封された図録には、夏生が以前一度だけ目を留めたアンティークのブローチのページに、そっと付箋が貼られていた。ある時は、胃に優しい料理のレシピと、産地から取り寄せた上質な食材の詰め合わせ。作り方まで丁寧に書き添えられていた。ある時は、手書きのカードが1枚だけ届くこともあった。少し乱れた文字は、間違いなく駿平のものだった。書かれていることは、不器用なくらい素っ気ない。【今日は雨。冷えるから、上着を忘れずに】【胃の調子が悪いなら、無理して食べるな。温かいものにしろ】夏生の反応は、いつも変わらなかった。彼女は、届いたものにまともに目を通そうともしなかった。花束は宿の玄関先に置かれたまま、日に晒され、雨に打たれ、やがて枯れ落ちていった。招待状やカードは、玄関先のゴミ箱にそのまま捨てられた。食材は、隣に住むおばあさんに分けてあげた。見かねた女将は、お茶を淹れながらそれとなく夏生を諭した。「なっちゃん。あの早乙女さんって人、毎日物ばかり送ってきて、本人は一向に姿を見せないけど。あれはきっと、本当に悪かったって、後悔してるんじゃないの?」夏生はしおりに模様を描いていた手を止めず、ただ小さく「ええ」とだけ答えた。「後悔したくらいで、償える過ちばかりじゃないですから。物を送ったくらいで、癒える傷ばかりでもないですし」女将はため息をついて、それ以上は何も言わなかった。……ネットの世界も、静かではなかった。嗅覚の鋭いメディアの中には、駿平の「邪魔しないでほしい」という警告から逆に手がかりを掴み、実際に南雲町まで足を運び、「夏至」という宿を探り当て、大々的にスクープしようとする者もいた。だが記事が書き上がる前に、そのメディアには早乙女グループ法務部から厳重な警告書が届き、同時にいくつかの主要プラットフォームでは、関連する話題は表示が制限され、投稿も次々と削除されていった。また、偶然の出会いを装って夏生を盗撮し、話題に便乗しようとしたインフルエンサーたち
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第16話

駿平の顔から、血の気が一瞬にして消えた。「場所は?最後に確認された場所はッ!?」駿平の声はかすれ、ひと言ひと言が喉から絞り出されるようだった。「城西の、旧工業地区の方向です。ですが、あの辺りは脇道が多く、防犯カメラの死角も……」「動かせる人員を全て動かせ。旧工業地区の倉庫や廃工場を一つ残らず洗い出せ!」駿平は相手の言葉を遮り、恐ろしい速さで、ほとんど制御を失いかけたような凄みを帯びた声で続けた。「警察にも連絡しろ。主要道路での検問も含め、可能な限り迅速な捜査を要請するんだ!今すぐに!」電話を切ると、駿平は会議室に戻ってひと言告げることさえせず、車のキーを掴んで飛び出した。エレベーターなど待っていられず、階段を駆け下りて地下駐車場へと走る。エンジンが野獣のような咆哮を上げ、車は矢のように飛び出した。――いや、だめだ。車では遅すぎる。駿平は猛烈な勢いでブレーキを踏み込んだ。タイヤが甲高い摩擦音を立てる。彼はすかさずスマホを取り出し別の番号にかけた。極度の恐怖と緊張で、声がかすかに震えていた。「ヘリを、今すぐ、本社の屋上に待機させろ!最速で、南雲町まで飛ばせ!」会議も、仕事も、何もかもくそくらえだ!頭の中には、ただ一つの思考だけが狂ったように渦を巻き、今にも爆発しそうだった。彼女に、何かあってはならない。絶対に、あってはならない!移動中、駿平は膝の上で握りしめた手さえ、まともに止められないほど震えていた。ヘリの轟音も、狂ったように打ち続ける心臓の音を掻き消すことはできなかった。恐怖は冷たい海水のように押し寄せ、呼吸をするたびに胸の奥が軋んだ。都和という、あの正気を失った女が何をするか、考えたくもなかった。夏生がどんな目に遭わされているか、考えたくもなかった。もし夏生が……もし夏生が、本当に……駿平は思わず目を閉じ、そしてすぐに無理やり開けると、前方に広がる灰色の空をただ睨みつけた。そんなことは、あってはならない。絶対に、許さない!……廃棄された倉庫の中には、錆と埃の淀んだ臭いが漂っていた。夏生は両手を後ろ手に縛られ、冷たいコンクリートの床に投げ出されていた。都和は夏生の前に立ち、手には鋭いナイフを握っていた。刃先が、薄暗い光の中で冷たく光っていた。「
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第17話

駿平は視線ひとつ動かさず、きっぱりと言い切った。「あり得ない。彼女以外、俺は誰もいらない」「はっはっは!」都和は狂ったように笑い出した。笑いながら涙まで流していたが、その目はいっそう狂気を帯びていた。「いいわ!ずいぶん一途な愛ね!だったら先に、この女の顔を潰してやる!それでもまだ、こんな不細工を愛せるかどうか、見せてもらうわ!」「彼女に指一本でも触れてみろ」駿平は目を見開き、ひと言ひと言を歯の隙間から絞り出すように言った。「生きているより辛い目に遭わせてやるッ!」そう言いながら、駿平は表情を変えぬまま、極めてゆっくりと、じりじりと足を前に進めていた。都和の感情はすでに完全に制御を失っていた。ナイフを握る手は激しく震え、目は狂乱に満ちていた。「なら、試してみなさいよ!私にそんな度胸があるかどうか!」言い終わるより早く、都和は手首に力を込め、刃先を夏生の頬めがけて振り下ろした!「夏生!」刃が振り下ろされる瞬間、駿平は獲物に飛びかかる猛獣のごとく、驚くべき速さで前に飛び出した!ナイフを奪おうとはしなかった。代わりに、自分の体で夏生を覆い隠すように庇った。同時に、左手で都和のナイフを握る手首を、鉄の万力のように掴んだ!「ぎゃあ!」都和が悲鳴を上げた。刃の軌道は逸れたものの、それでも容赦なく振り下ろされ、夏生を庇うため前に出した駿平の右腕を深く切り裂いた!血が瞬時に噴き出し、濃い色のスーツの袖を染めていく。ぽたぽたと、夏生の傍らの地面に滴り落ちた。駿平は低く呻き、こめかみに青筋を浮かべた。激痛と失血で、顔から一瞬にして血の気が引いていく。だが、その動きは一切止まらなかった。痛みを堪えながら左手に力を込め、都和の手首を思い切りひねり上げた!ゴキッ、という乾いた音とともに、都和のいっそう凄まじい悲鳴が響き、手首の骨が無理やりへし折られた。ナイフは、カランと音を立てて床に落ちた。駿平は足でそれを蹴り飛ばすと、痛みに身をよじる都和を無事な左手で床に叩きつけ、膝で背中をしっかりと押さえ込んだ。一連の出来事は、ほんの一瞬のうちに起きた。駿平の体は、最初から最後まで夏生をしっかりと庇い続け、あらゆる危害をその身で受け止めていた。そこでようやく、駿平と共に踏み込んできたボディーガー
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第18話

駿平の体が、一瞬にして凍りついた。まるで頭から氷水を浴びせられたかのように、頭のてっぺんから足先まで冷たくなっていく。彼は信じられないという顔で夏生を見つめた。顔は、失血のせいだけでは説明できないほど青ざめていた。唇が動いたが、声は出てこなかった。「今回は腕を切られるだけで済みましたけど」夏生は駿平を見つめた。その眼差しには温度の欠片もなく、ただ何も残っていないような冷たさだけがあった。「次は?命まで私に差し出せば、それで償いになるとでも思っているんですか?早乙女さん、あなたの愛は、遅すぎました。それに、重すぎます」夏生は一拍置き、ひと言ひと言、氷の針のように駿平の心に突き立てていった。「私には、受け止められません」言い終えると、夏生はもう駿平を見なかった。自分の言葉によってわずかに震え、血を流し続けているその腕にも、目を向けなかった。夏生は冷たい床に手をつき、自分の力で立ち上がった。体についた埃を払い、裾の皺を整える。そして身を翻し、倉庫の出口へ、駆けつけてきたパトカーの赤色灯の方向へ、静かに歩いていった。背筋はまっすぐで、迷いがなかった。一度も振り返らなかった。自分のために片腕に重傷を負い、今まさにその場に凍りついたように立ち尽くしている男を。倉庫の一件のあと、夏生はそこに長居しなかった。警察の事情聴取に応じ、必要な質問すべてに答えると、「夏至」へと戻った。余分な荷物は何もなかった。わずかな着替えと、いくつかの画材、そしてずっと傍らにあったスケッチブック1冊だけ。心配して引き止めようとする女将の言葉を丁重に断り、宿代を精算すると、まだ空が明けきらないある朝、夏生は音もなく、この小さな町を後にした。来たときと同じように、静かに。駿平がその知らせを受けたのは、病院で腕のむごたらしい傷を処置している最中だった。麻酔が切れたばかりで、傷口がずきずきと痛んだが、駿平は眉一つ動かさず、ただスマホの画面を見つめ、夏生に関する何か情報が入るのを待ち続けていた。電話が鳴った。密かに夏生を護衛させていた者からだった。声には怯えが滲んでいた。「社長!楠瀬様が、いなくなりました……私たちは町の出入り口をずっと見張っていましたが、彼女が出ていくところを見ていません。もしかすると、変
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第19話

駿平はうなだれ、両手で顔を覆った。肩が、抑えようもなく震え始めた。惣太郎は目を逸らした。胸が締めつけられるようだった。これまで一度も、こんな駿平の姿を見たことがなかった。脆く、絶望し、触れれば崩れ落ちそうなほど。長期にわたる酒浸りの日々、不眠、激しい感情の起伏、加えて適切な治療を受けずに繰り返し悪化する腕の傷。ついに駿平の体は限界を迎えた。ある重要な経営会議の最中、部下の報告を聞いていた駿平は、突然、胃に激痛が走り、喉の奥に鉄錆のような血の味が広がった。次の瞬間、その場にいた全員が息を呑む中、駿平は勢いよく顔を横にそむけ、艶やかな会議テーブルの上に、暗い赤色の血を吐き出した。「社長ッ!」会議室は一瞬にして騒然となった。駿平は急いで病院へ搬送された。検査結果はすぐに出た。急性胃出血、重度の心身疲労、傷口の重度の感染による高熱と合併症。医師は眉をひそめ、カルテを見つめながら、知らせを聞いて駆けつけた一美と惣太郎に言った。「患者さんの体は、とうに限界を超えています。精神的な負担も極めて大きく、治療にもほとんど協力していません。このままでは、取り返しのつかないことになりかねません」駿平は病床で、2日間昏睡状態に陥った。高熱が続き、混濁した夢の中を漂っていた。夢の中では、脈絡のない光景が次々と浮かび、そのすべてに夏生がいた。初めて出会ったとき、慌てて顔の汚れを拭いながら、拭くほどにかえって崩れていく、あの狼狽した姿。婚姻届を出したとき、分厚い眼鏡をかけたまま、静かにサインする指先がわずかに震えていた姿。エプロンをつけて、湯気の立ちこめる台所で料理を煮込んでいた、柔らかな横顔。目を赤くしながら「私が釣り合わないと思っているんでしょう」と尋ねた姿。警察署で、かすれた声で「どうして」と問いかけた姿。冷たい海の中、意識を失いかけながら、最後に自分を見つめたあの一瞬の眼差し。やがて、そのすべての光景が砕け、渦を巻き、あの廃倉庫の光景に凝縮されていった。そして、自分を完全に地獄へと突き落とした、あの言葉。「早乙女さん、あなたの愛は、遅すぎました。それに、重すぎます。私には、受け止められません」「いや……夏生。行かないでくれ……俺が悪かった。本当に、悪かった!」病床の上で、駿平は苦しげに呻き
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第20話

国際トップジュエリーデザインコンテストが幕を開けた。優勝者には、一流ラグジュアリーブランドとのコラボレーションの機会が与えられる。世界中のデザイナーが夢見る、またとない飛躍の舞台だった。夏生は、その公募の告知を目にした。しばらく黙って見つめたあと、画面を閉じ、やりかけの木彫りに戻った。数日後、丹念に仕上げたデザイン画を1点応募した。数ヶ月後、決勝進出者のリストが発表された。「夏至」という名前が、はっきりとそこに載っていた。その作品は、独特な東洋的意匠と現代的な再構成によって、一次審査の審査員全員を驚嘆させていた。早乙女グループ傘下のラグジュアリー投資部門は、今回のコンテストの主要スポンサーの一つだった。主催者側は再三にわたって、最大の資金提供者である駿平に、決勝と授賞式の会場へ足を運んでほしいと要請してきた。駿平は、初めは断るつもりだった。視線が決勝進出者リストを滑っていき、ある名前のところで、指がタッチパッドの上で止まった。【夏至】その二文字が、焼けた針のように目の奥へ突き刺さった。駿平は、その二文字を長い間見つめていた。あまりに長く見つめていたので、秘書が「返答はないだろう」と思い、辞退の連絡をしようとしたその時、かすれた声が聞こえた。「……俺は行く」一拍置いて、さらに付け加えた。「席は、隅の方に頼む。そして取材は、一切受けない」秘書は一瞬戸惑ったが、頭を下げて承知した。決勝当日、会場は華やかな熱気に包まれていた。夏生は出場者席に座り、シンプルな黒のドレスに身を包んでいた。その肌は、雪のような白さが際立っていた。長い髪はまとめ上げられ、なめらかな額と、優美な首筋のラインを露わにしていた。装身具は何一つ身につけていないのに、会場中の煌びやかな宝飾品よりも、なお人目を引いていた。表情は穏やかで、視線はステージに集中している。時折、隣に座る他の出場者と小声で言葉を交わし、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。駿平は、最も目立たない隅の席に、影に紛れるように座っていた。だがその視線は、貪るように、痛みを伴うほどに、その姿を追い続けていた。2年が経った。夏生は、いっそう美しくなっていた。それは容姿の変化ではなく、内側から滲み出る、静かで確かな自信の輝き
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