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ブサイクの仮面、真実の顔と届かぬ愛

ブサイクの仮面、真実の顔と届かぬ愛

By:  夏日Completed
Language: Japanese
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界隈では、楠瀬夏生(くすのせ なつき)はちょっとした有名人だった。もっとも、良い意味ではない。 分厚い前髪で顔の半分を覆い隠し、瓶底のような黒縁眼鏡をかけている。肌にはいつもくすんだファンデーションを厚塗りし、色の濃い口紅でわざと唇の輪郭を不格好に描く。 そんな夏生を、街ですれ違う人がわざわざ振り返って見ることはまずなかった。 けれど誰も知らない。それが夏生自らが選んだ「醜さ」だということを。 きっかけは母だった。 母はかつて評判の美人だった。父が猛烈に口説き落として嫁にしたものの、結婚して3年も経たないうちに、父が浮気を繰り返すのが日常茶飯事になっていた。悲しみは絶望に変わり、やがて心を病んだ母は、そのまま逝ってしまった。 死の床で、母はまだ10歳だった夏生の手を握りしめた。幼いながらすでに美貌の片鱗を見せ始めていた顔を見つめ、残された力を振り絞るように言った。 「夏生……っ、ママの言葉を、忘れないで。綺麗すぎる女は、男に騙されるの。不幸な末路をたどるわ……自分の身は自分で守りなさい。その顔は、隠しておくのよっ」 夏生はその言葉を胸に刻んだ。 その日を境に、彼女はわざと自分を醜く装うようになった。前髪は年々厚くなり、眼鏡のレンズは分厚くなり、選ぶ服はいつも目立たない色ばかり。 父は数え切れないほどの見合いをセッティングしたが、相手はみな夏生の外見を目にした途端、逃げるように去っていった。 100回目の見合いの日。夏生は喫茶店の席に座っていた。向かいには、仕立てのいいスーツに身を包んだ男。 男は夏生を一瞥するなり、露骨に眉をひそめた。 「楠瀬さん」 嫌悪感を隠そうともせず、男が口を開く。 「仲人からは、こんな見た目だとは聞いていませんでしたが」 夏生はうつむいたまま、何も答えなかった。 「正直に言わせてもらいますけど」 男は鼻で笑った。 「ふんっ。そんな見た目で、よく見合いの席にのこのこ出てこられますね。誰があなたと結婚したがると思うんです?」 夏生はコーヒーカップを握る手に力を込めた。 男は自分のカップを持ち上げると、突然、夏生の顔にコーヒーをぶちまけた。 「化粧が崩れたほうが、よっぽどお似合いですよ」 冷たい液体が頬を伝い落ち、崩れたファンデーションの下から、白い素肌がのぞいた。

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Chapter 1

第1話

夏生が顔を上げ、席を立とうとしたその瞬間――

ドンッ、と鈍い音が響いた。

すっと伸びた手が横から割り込み、男の手首を掴んで容赦なくひねり上げる。

「うわああっ!」男が悲鳴を上げた。

「謝れ」

低く、凍りつくような声だった。

振り向いた夏生の視線の先には、仕立てのいいスーツを纏った男が立っていた。

すらりとした長身、まっすぐに伸びた背筋、彫りの深い目元に筋の通った鼻。薄い唇はきつく結ばれ、全身から研ぎ澄まされた気品が漂っている。今その手は男の手首を握りしめたまま、男へ氷のように冷ややかな視線を向けていた。

「な、なんだよお前!」

男がもがく。

「謝れ」

早乙女駿平(さおとめ しゅんぺい)はもう一度、同じ言葉を繰り返した。声量は変わらないのに、圧倒的な威圧感が確かにそこにあった。

その気迫に呑まれた男は、震える声で「す、すみません」とだけ絞り出すと、逃げ去っていった。

駿平は手を離すと、内ポケットからハンカチを取り出し、夏生に差し出した。

「これで拭きなさい」

夏生は、ぼんやりとそれを受け取った。

「女性が、こんな理不尽な扱いを受ける筋合いはない」

駿平は静かな眼差しで夏生を見つめた。

「次にこんなことがあったら、迷わず警察を呼べばいい」

言い終えると、駿平はそのまま踵を返して立ち去った。

夏生はその場に立ち尽くしたまま、彼のまっすぐな背中が喫茶店の入り口の向こうへ消えるのを見送った。心臓がうるさいほど鳴っていた。

夏生は、彼のことを忘れなかった。

家に戻ってから、夏生はすぐに駿平のことを調べ始めた。

名前は早乙女駿平。早乙女グループ史上最年少の後継者で、現在26歳。3年前から一族の企業を率い、その手腕は冷徹かつ卓越している。財界では「完璧な男」として名を馳せている。

そして、何より珍しいのは、私生活が徹底してストイックであること。浮いた噂ひとつなかった。

夏生の心は、大きく揺れ動いた。

だが、どう近づけばいいのか考える間もなく、駿平の方が先に夏生のもとを訪れた。

「楠瀬さん」

リビングに腰を下ろすなり、駿平は前置きもなく切り出した。

「君との結婚を考えています」

夏生は言葉を失った。

「……どうして、私なんですか?」

ようやく口にできたのはそれだけだった。

「私、こんな見た目ですよ」

駿平は、静かで揺るぎない眼差しで夏生を見つめた。

「外見なんてどうでもいい。君が、ちょうどいいと思っただけだ」

ちょうどいい。

ロマンチックとは程遠い、素っ気ない言葉だった。それなのに駿平の口からその言葉がこぼれた瞬間、夏生の胸は高鳴った。

母は言っていた。綺麗すぎる女は男に騙されると。

けれど自分は、わざと醜く装っているのに。それでも駿平は、こんな自分を妻にしたいと言う。

この人こそ、探していた相手なのかもしれないと、夏生はそう思った。

結婚してから3年、駿平はずっと夏生に優しかった。

夏生の容姿を疎んだことは一度もない。それどころか夏生の外見を陰で笑う者がいれば、そっと手を握って言うのだ。

「夏生。君はそのままでいい」

夏生がデザインを好きだと知れば、迷わずアトリエ開業の資金を出してくれた。

胃が弱いと知れば、苦手な食べ物まできちんと覚えてくれて、接待の帰りには決まって温かいうどんを買ってきてくれた。

誕生日には、どれほど仕事が立て込んでいても全て後回しにして、一日中そばにいてくれた。

ある時など、夏生が事故に遭い、乗っていた車が横転して側溝に落ち、いつ爆発してもおかしくない状況の中、駿平はなりふり構わず駆けつけ、素手で歪んだドアをこじ開け、夏生を車内から救い出してくれた。

車から10メートルも離れないうちに、車は爆発した。

駿平は自分の体で夏生を庇い、爆風と炎を浴びて重度の火傷を負った。

病院で目を覚ました夏生が、真っ先に看護師に尋ねたのは「夫は!?夫は無事なんですか!?」だった。

「ご主人の背中の火傷はかなり重いですが、命に別状はありません」

看護師はそう答えた。

「隣の病室にいらっしゃいますよ」

夏生はすぐさま点滴の針を引き抜き、よろめきながら隣の病室へと向かった。

扉に手をかけようとしたその時、中から声が聞こえてきた。駿平の母、早乙女一美(さおとめ かずみ)の声だった。

「駿平!あんな不細工な女を嫁にして、一族の笑い者になっただけじゃ足りず、今度は彼女のために命を危険に晒すなんて!いつまでこんな馬鹿な真似を続けるつもりなの!?」

夏生の手が、ドアノブの上で止まった。

室内が一瞬、静まり返る。それから聞こえてきたのは、駿平の感情の読めない、凪いだ声だった。

「……母さん。俺が何を望んでいるか、わかっているはずです」

「あんたがそんなことをするのも、結局は都和のためなんでしょう!」

一美の声は怒りに震えていた。

「言っておくけど、あんたはうちで一番期待されてる後継者なんだからね。都和なんて絶対に認めない!どれだけ好きでも無理よ。夏生を使って私たちに当てつけたって無駄なんだから!」

夏生はその場に立ち尽くした。全身から血の気が引いていく。

今のふたりは、何の話をしていたの?

都和のため?都和って、誰?

底の見えない恐怖と絶望的な予感が、冷たい波のように押し寄せ、瞬く間に自分を呑み込んだ。

夏生は壁に手をついてよろよろと後ずさり、逃げるように自分の病室へ戻った。

しばらくして、震える手でようやくスマホを取り出し、興信所へメッセージを送った。

【早乙女駿平と、都和という名前の女について調べてください。ふたりの関係を、できる限り詳しく】

返信を待つ一分一秒が、まるで拷問のように長く感じられた。

頭の中では、一美の鋭い「あんな不細工な女」「都和のために」という言葉と、駿平の淡々とした「俺が何を望んでいるか、わかっているはずです」が、何度もこだましていた。

それらの言葉は、まるで毒を塗った刃のように、ようやく温もりを取り戻しかけていた夏生の心を容赦なく切り刻んでいく。

そして、ついに調査結果が届いた。

夏生は震える手でそれを開いた。

送られてきたのは、大量の資料と何枚もの写真だった。

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松坂 美枝
松坂 美枝
長いから復縁かと思ったわ 身代わり妻を盾に他の女と通じてたら離婚されて妻がブスを装った大美人であることに気づいた途端に猛然と追いかけられてもね… 最後の方で一途とか言われたらしいけど鼻で笑うわ
2026-10-07 10:26:50
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第1話
夏生が顔を上げ、席を立とうとしたその瞬間――ドンッ、と鈍い音が響いた。すっと伸びた手が横から割り込み、男の手首を掴んで容赦なくひねり上げる。「うわああっ!」男が悲鳴を上げた。「謝れ」低く、凍りつくような声だった。振り向いた夏生の視線の先には、仕立てのいいスーツを纏った男が立っていた。すらりとした長身、まっすぐに伸びた背筋、彫りの深い目元に筋の通った鼻。薄い唇はきつく結ばれ、全身から研ぎ澄まされた気品が漂っている。今その手は男の手首を握りしめたまま、男へ氷のように冷ややかな視線を向けていた。「な、なんだよお前!」男がもがく。「謝れ」早乙女駿平(さおとめ しゅんぺい)はもう一度、同じ言葉を繰り返した。声量は変わらないのに、圧倒的な威圧感が確かにそこにあった。その気迫に呑まれた男は、震える声で「す、すみません」とだけ絞り出すと、逃げ去っていった。駿平は手を離すと、内ポケットからハンカチを取り出し、夏生に差し出した。「これで拭きなさい」夏生は、ぼんやりとそれを受け取った。「女性が、こんな理不尽な扱いを受ける筋合いはない」駿平は静かな眼差しで夏生を見つめた。「次にこんなことがあったら、迷わず警察を呼べばいい」言い終えると、駿平はそのまま踵を返して立ち去った。夏生はその場に立ち尽くしたまま、彼のまっすぐな背中が喫茶店の入り口の向こうへ消えるのを見送った。心臓がうるさいほど鳴っていた。夏生は、彼のことを忘れなかった。家に戻ってから、夏生はすぐに駿平のことを調べ始めた。名前は早乙女駿平。早乙女グループ史上最年少の後継者で、現在26歳。3年前から一族の企業を率い、その手腕は冷徹かつ卓越している。財界では「完璧な男」として名を馳せている。そして、何より珍しいのは、私生活が徹底してストイックであること。浮いた噂ひとつなかった。夏生の心は、大きく揺れ動いた。だが、どう近づけばいいのか考える間もなく、駿平の方が先に夏生のもとを訪れた。「楠瀬さん」リビングに腰を下ろすなり、駿平は前置きもなく切り出した。「君との結婚を考えています」夏生は言葉を失った。「……どうして、私なんですか?」ようやく口にできたのはそれだけだった。「私、こんな見た目ですよ」駿平は、静かで揺
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第2話
黒川都和(くろかわ とわ)。黒川家の令嬢であり、駿平の初恋の相手だった。家柄も釣り合い、才色兼備。社交界では公認の「お似合いのふたり」として知られていた。3年前、ふたりは結婚を控えていたが、婚前健診で都和が子供を望めない体だと判明した。早乙女家ほどの名家にとって、跡継ぎは何より重い問題だ。当然、一族からは猛反対を受けた。それでも駿平は都和を強く想い、結婚の意思を貫こうとした。すると早乙女家は、黒川家の事業に徹底的な圧力をかけ始めた。やがて黒川家は圧力に耐えきれず、都和は涙ながらに駿平に別れを告げた。別れてから、駿平は次々と見合いを重ねたが、誰にも心を動かされなかった。そして出会ったのが、夏生。周囲の誰もが認める「不美人」だった。そこまで読んで、すべてが繋がった。駿平が自分を妻にしたのは、何か特別な理由があったからではない。ましてや、内面を見初められたわけでもない。ただ、見合い相手の中で一番見栄えが悪く、人前に出しにくく、早乙女家に恥をかかせることができ、両親を怒らせ、屈服させるのに最も都合のいい道具だったからだ。わざと不細工な女を妻に迎えることで一族に反旗を翻し、彼らを屈服させ、都和を迎え入れる道を作るためだった。夏生はスマホの画面に映る文字を見つめ、ふと笑った。笑っているうちに、涙がこぼれ落ちた。苦しみが巨大な網となって夏生に絡みつき、締め付けた。息の根を止められそうなほどに。母は「綺麗すぎると騙される」と言った。けれど自分はわざと醜く装っていたのに、それでも騙された。もっと徹底的に、もっと滑稽に、もっと惨めに!この3年、幸せだと思い込んでいたものは、すべて周到に仕組まれた芝居に過ぎなかった。自分はただ、駿平が一族に見せつけるための道具。都和への想いを貫くための、駒でしかなかった。光を見つけたと思っていたのに。その光は、他の誰かに向けられたものが、鏡越しに反射していただけだったのだ。夏生は部屋にひとり座り込み、長いこと泣いた。やがて涙を拭うと、スマホを手に取り、一美に電話をかけた。声は、驚くほど静かだった。「……駿平と、離婚します」電話の向こうが、数秒黙り込んだ。「な、なんですって!?」一美は信じられないといった様子で声を上げた。「あんた、自分のその顔で自分から離婚するって言う
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第3話
「ごめんなさい」都和が歩み寄ってきた。声は柔らかいのに、口調には少しも遠慮がなかった。「そのドレス、私も気に入ってしまって。先に見つけたのはあなたみたいだけど」都和は夏生の分厚い前髪と黒縁眼鏡をさっと上から下まで眺めると、口角をわずかに持ち上げた。「私のほうが、似合う気がするの。ねえ、譲ってくれないかしら?」夏生は手にしたドレスを握りしめた。柔らかな生地のはずなのに、今は棘のように手のひらに食い込んだ。「譲りません」夏生は店員に向き直った。「お会計をお願いします」都和の笑みがわずかに翳り、ドレスのもう一方の端をぐいと掴んだ。「本当に気に入ってるの。あなた、そんな見た目じゃ、何を着ても大差ないでしょう?いっそ私に譲ってくれない?」ふたりは互いに引かず、無言のまま火花の散るような空気が漂った。「どうした?」階段の方から、駿平の低い声が響いた。電話を終えて上がってきたところでこの光景を目にし、わずかに眉をひそめた。都和は駿平の姿を見るなり目を輝かせたが、ドレスを掴んだ手はそのままだった。「駿平?あなたもここに?」都和の視線が夏生と駿平の間を行き来し、やがて何かに気づいたような表情を浮かべた。「もしかして、この方が奥さん?まあ、知っていたら、無理に取り合ったりしなかったのに。このドレス、奥さんにお譲りするわ」そう言って手を離す。まるで、さっきまでの意地の張り合いが冗談だったかのように。けれど次の瞬間、駿平は夏生の手からそのシャンパンゴールドのドレスを取り上げ、都和へと差し出した。「いや、いい」駿平は都和を見つめ、さっきよりも柔らかい声で言った。「これは君に似合う。試着してくるといい」都和の瞳の奥に、かすかな勝ち誇った色がよぎった。都和はドレスを受け取ると、夏生に向かって軽く微笑み、試着室へと消えていった。夏生の手は宙で止まったままだった。指先には、まだ布を奪われた感触が残っている。夏生はゆっくりと手を下ろし、拳を握った。爪が手のひらに食い込む鈍い痛み程度では、胸の奥を鈍い刃で抉られるような痛みを誤魔化すことはできなかった。駿平がようやく夏生に向き直った。まるで、取るに足らない用事を片付けたばかりというような顔で。「夏生、さっきの人は黒川都和だ。俺の……知り合いだ。少し
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第4話
グランドハイアットの最上階、宴会場は煌びやかな光に満ちていた。駿平が夏生のために用意した誕生日パーティーは規模が大きく、この街の名士たちの半分近くを招いたかと思うほどだった。夏生は目立たない黒のドレスに身を包み、いつも通り分厚い前髪と眼鏡で顔を隠したまま、駿平の隣に立っていた。まるで、その場に馴染めない影のように。四方から突き刺さる視線を、夏生は肌で感じていた。好奇の目、探るような目、そして何より隠す気もない蔑みと忍び笑い。「早乙女社長も、いったい何を考えてあんな人を……」「見た目は、正直、言葉に詰まるわね。あれだけ優秀な方が、何が目当てなのかしら」「さあ。もしかして、好みが独特なのかも」囁くようなその声が、蚊の羽音のように夏生の耳の中に入り込んでくる。夏生は背筋をまっすぐに伸ばし、表情ひとつ変えず、何も聞こえていないかのように振る舞った。パーティーが始まってしばらくして、駿平は皆の前で夏生に贈り物を渡した。一目で高価だとわかるダイヤモンドのネックレスだった。ベルベットのケースが開かれた瞬間、周囲から小さな驚嘆と羨望のため息が漏れた。「ありがとう」夏生はそれを受け取ったが、声には抑揚がなかった。都和が到着したのは、少し遅れてのことだった。彼女が現れた瞬間、会場中の視線がそちらへ吸い寄せられた。シャンパンゴールドのドレス、完璧に整えられたメイク、優雅な笑み。まるで、今夜の主役は自分だと言わんばかりだった。「ごめんなさい、遅くなって」都和は夏生の前まで来ると、申し訳なさそうな口調で言った。「贈り物を準備する時間がなかったの。お詫びに、拙いけれど1曲弾かせてもらってもいいかしら。お誕生日おめでとう」そう言うと、都和は微笑みながら駿平に視線を移した。「そういえば駿平、あなたピアノも上手だったわよね。せっかくだから、連弾しない?奥さんのお祝いに、少し華を添えられたらと思うの」招待客たちが囃し立て始めた。「早乙女社長、1曲どうぞ!」「黒川さんと早乙女社長、本当に絵になるおふたりですね!」「本当に、お似合いだこと」駿平は都和の期待に満ちた眼差しを見つめ、ちらりと隣で黙り込む夏生に目をやると、少し考える素振りを見せた後、本当にピアノの前へと歩いていった。息の合った演奏が始まった。「エ
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第5話
駿平はすぐに視線を戻し、夏生を見つめると、いつもの落ち着いた口調に戻った。「さっきのことは気にしなくていい。俺が君を好きならそれでいいんだ。ちょっと電話をかけてくる」そう言って、駿平は慌ただしく駆け出していった。夏生はその場に立ち尽くし、誰もいなくなった戸口を見つめた。口元を歪めてみたものの、最後には自嘲の笑みすら浮かべられなかった。このパーティーに、もう一秒たりともいたくなかった。夏生は踵を返し、ホテルの車寄せまで来たところで、目の前にひとつの人影が立ちはだかった。都和だった。目元にはまだうっすらと赤みが残っていたが、表情はすでに整えられ、どこか見下すような色を宿していた。「あら、もうお帰り?」都和は夏生を見つめ、柔らかな声で、しかし言葉の端々に棘を潜ませて言った。「誕生日パーティーの主役が早々に抜け出すなんて、あまり感心しないわね。それとも、駿平が私を追いかけていったのが、面白くなかったのかしら?」夏生は相手にする気もなく、都和を避けて通り過ぎようとした。「待って」都和が手を伸ばして遮った。「ちょっと話さない?駿平のことも、あなたたちの結婚ごっこも、知っておいたほうがいいことがあると思うの」「どいて」夏生の声は冷たかった。「あら、図星?自分が本来いるべき場所じゃないところにいるって、わかっているんでしょう?」都和は引かず、一歩踏み出して夏生の手首を掴んだ。「言っておくけど、駿平は本当は……」「離して!」夏生は力任せに振り払おうとした。車寄せの脇で、ふたりはもみ合いになった。都和はハイヒールの踵が滑ったのか、小さく叫び声を上げて後ろに倒れかけ、とっさに夏生の腕にしがみついた。その勢いに引かれ、夏生も体勢を崩した。「きゃあ!」耳をつんざくブレーキ音と衝突音が、ほとんど同時に響いた。混乱の中、夏生は凄まじい衝撃に襲われ、視界がぐるりと回った。額と頬に焼けつくような激痛が走り、温かい液体があっという間に視界を滲ませていく。すぐそばで、都和の悲鳴が聞こえた。激しい痛みと眩暈に呑み込まれ、意識が朦朧とする中で、人々が駆け寄ってくる気配、ざわめく声、救急車のサイレンが遠くから聞こえるようだった。朦朧とした意識の中、駿平が慌てて駆けつけてくる姿が見えた気がした。いつも
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第6話
「触らないでッ!」夏生は鋭く叫び、痛みを堪えて逃れようとしたが、動きが一歩遅れた。男は驚くほど力が強く、片手で夏生の肩を押さえつけ、もう片方の手で病衣の襟元を乱暴に引っ張ってはだけさせた。青白い肌と包帯が露わになる。男はそれを見つめ、興奮と嫌悪が入り混じった目つきで言った。「へえ、体はまあまあじゃないか。顔はもういい、どうせ電気消しゃ同じだ」「離して!誰か!」夏生は必死にもがいた。屈辱と恐怖に、全身が震えていた。だが傍らの都和たちは、鼻で笑う者、腕を組んで見物する者、それどころか、ピンクのセットアップの女はスマホを取り出し、動画でも撮ろうとする素振りを見せた。絶望と怒りが、瞬時に理性を押し流した。夏生の視界の端に、ベッド脇のガラス製の花瓶が映った。夏生はその重たい花瓶を掴み取ると、自分に覆いかぶさる男の頭めがけて、力の限り叩きつけた!ガシャッ!鈍い音と男の悲鳴、ガラスの割れる音が同時に弾けた。ちょうどそのとき、病室のドアが開き、消毒トレーを手にした看護師が入ってきた。床一面に散らばったガラスと、頭から血を流す男、そしてベッドの上で衣服を乱し、顔色を失った夏生を見て、看護師の手からトレーがほとんど滑り落ちそうになった。「大変!何があったの!?警備員!早く警備員を呼んで!警察も!すぐに通報して!」……警察署では、夏生と都和側の一団が分けられて、事情聴取を受けた。都和側は口を揃え、夏生が故意に相手を傷つけたのだと証言した。夏生は性的暴行を受けそうになり、自衛のためにやったのだと主張した。だが、誰も信じなかった。そもそも、「不美人」が性的暴行を受けるなど、誰が信じるというのか。まもなく、駿平が弁護士を伴って現れた。署長みずから出迎えた。「早乙女社長、この件は双方の言い分が大きく食い違っています。規定の手続きに則り、結論を出さねばなりませんが、いずれも社長のお知り合いということで、その、いかがいたしましょうか……」駿平の視線は、まず夏生に向けられた。乱れた襟元と、顔に貼られたガーゼの上でその視線が止まり、眉間にわずかな翳りが差した。だが駿平はすぐに視線を逸らし、静かに座っている都和へと向けた。都和は駿平の視線を受け止めると、小さく首を振った。困り果てたような、それでいて自分も巻
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第7話
駿平は、赤く充血した夏生の瞳の奥に潜む深い絶望を見つめ、胸の奥にごくかすかな違和感がよぎったが、すぐにそれを押し流した。駿平は口調を和らげ、道理を説くような忍耐強さで言った。「貞行が手を出したのは確かだ。だが強姦となると、可能性は低い。あのとき現場は混乱していたし、君も怖くて何か誤解したんじゃないか。しばらく頭を冷やさせたのは、今回のことを反省させるためでもあり、事を収めるためでもある。放っておいたわけじゃない。留置場には話を通しておいたから、酷い目には遭わせない」話を通した?夏生はもう少しで笑い出しそうになった。だが先に、涙のほうがこぼれ落ちた。駿平は考えたことがあるだろうか。彼の愛する都和もまた「話を通し」、自分を生き地獄に叩き込んだということを!夏生は唇を噛みしめた。歯の間に血の味が広がった。その後の数日、駿平はまるでこの「道具」が機嫌を損ねるのを恐れているかのように、珍しく機嫌を取るような態度を見せた。会員制のオークションに連れて行き、目の飛び出るような値段のダイヤモンドネックレスや、アンティークのイヤリング、名画まで次々と競り落とし、すべて夏生の名義にした。だが夏生は、その冷たいダイヤモンドを見つめても、心はただ麻痺していくばかりだった。オークションが終わったあと、夏生はひとりで甲板に出て風に当たっていた。背後から、また聞き覚えのある足音が近づいてきた。またもや、都和だった。「駿平があんなにたくさん物を買ってくれて嬉しい?」都和は隣に立つと、柔らかな声で、しかし目には毒を潜ませて言った。「でもね、どれだけ高価な物をもらったところで、あなたが道具だっていう事実は変わらないでしょう。彼はあなたを使って、両親を追い詰めているだけ。もうすぐ目的も達成しそうだし、あなたがいつまで彼のそばにいられると思う?私たちが結婚するとき、忘れずに招待状を送るわね」夏生は聞きたくもなく、背を向けて立ち去ろうとした。だが都和はすかさず夏生の手首を掴んだ。「もう行くの?また図星だった?前にも本当のことを教えてあげたでしょう。駿平が愛しているのは、いつだって私。あなたはただの」「離して!」夏生は力任せに手を振り払った。船尾の手すり際で、ふたりはもみ合いになった。船体がわずかに揺れた瞬間、都和のハ
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第8話
そしてついに、衝撃の結論が投げ込まれた。【これって、早乙女家のあの「醜い嫁」の夏生じゃない!?】ネット中が沸騰した。【うそだろ!?じゃああれ、ずっと演技だったってこと!?】【この美貌。前に『不細工が早乙女社長に釣り合わない』って叩いてたの、謝るわ。早乙女社長、とんでもない拾い物してたのね!】【大どんでん返し!わざと醜く装ってたってこと?えっ?どうして?】世論は一気に反転した。驚嘆、好奇心、疑念、そして身元を探ろうとする動き。あらゆる声が飛び交った。まもなく、あるメディアが過去の出来事を掘り起こした。夏生の母はかつて名を馳せた美人であり、楠瀬家に嫁いだものの、夫の度重なる浮気に苦しみ、結婚生活は不幸なまま心を病んで世を去った。死の間際、幼い娘の手を取り「顔を隠しなさい」と言い遺していた。そこに、以後十数年にわたって夏生が頑なに醜く装い続けてきたという事実が結びつき、「美しい母は不遇の結婚の果てに散り、娘は身を守るため絶世の美貌を隠し続けた」という記事が瞬く間に出回った。細部まで丁寧に描かれ、感情に訴える内容は、たちまち大きな同情と議論を呼んだ。【うぅ。泣ける、そういうことだったのね】【お母様の言うこと、正しかったのかも。あの手の社交界だと、美しさって時に呪いになるのよね】【前に彼女を嘲ってた人たち、今どんな顔してるのかしら】【早乙女社長はこのこと知ってるのか気になる。自分の奥さんがこんなに綺麗だったって、わかってたのかな】騒動が頂点に達していた頃、駿平は本社最上階の会議室で、重要な国際M&A案件について会議を開いていた。張り詰めた空気の中、駿平はペンを指先に挟み、部下の報告に耳を傾けていた。いつも通りの、冷静で場を掌握した表情だった。そこへ、秘書がノックすらせずに慌てて飛び込んできて、タブレット端末を駿平の前にほとんど叩きつけるように置いた。「しゃ、社長!こ、これを。奥様が!」駿平は不機嫌そうに眉をひそめ、画面に目をやった。視線が、そこで止まった。画面に映っていたのは、空港で盗撮されたあの高精細な写真だった。分厚い前髪もなく、野暮ったい黒縁眼鏡もなく、くすんだファンデーションも奇妙な口紅の色もない。磁器のように白く、きめ細かな肌。絵に描いたような目鼻立ち。わずかに伏せられた
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第9話
駿平の体が、ほとんど気づかれないほどかすかに強張った。惚れた?自分が、夏生に?あの、最も都合がよく、一族を最も効果的に怒らせられる道具として妻にしただけの女に?そんなはずがない。だが心の奥底から響く、はっきりとした疼きと、この3年間、無視し続けてきた無数の細部が、今この瞬間、奔流のように押し寄せ、否定を無言のうちに突き崩していく。「……何しに来た」駿平は視線を逸らし、冷たい口調を取り戻して言った。「ああ、そうだ、忘れるところだった」惣太郎はふざけた様子を引っ込め、それでも探るような目つきのまま言った。「トレンド見て、様子見に来たんだよ。まさか本当に嫁さんだったとはな。いや、それはそれとして、こんな美人を独り占めするなよ。俺にも紹介してくれていいだろ」「何を言ってる。彼女は俺の妻だ」駿平は言葉を遮った。自分でも気づかないほどの冷たさが声に滲んでいた。惣太郎は一瞬呆気にとられ、表情が奇妙に歪んだ。「妻?駿平、まだ知らないのか?」「何をだ」惣太郎はスマホを取り出し、何度か操作すると、それを駿平の前に差し出した。「お前んとこの早乙女グループの公式サイトに、30分前、正式な声明が出てる。お前と楠瀬夏生さんが円満に離婚した、ってな」駿平はスマホをひったくった。画面には、早乙女グループ名義の正式な声明が、はっきりと表示されていた。発信元はグループの広報部だが、このレベルの権限を動かせるのは、自分を除けば、両親しかいない。「そんな馬鹿な話が……」駿平はその短い数行を見つめたまま、血が一気に頭に上り、そして急速に引いていくのを感じた。手足が冷たくなっていく。駿平はすぐに内線電話を取り、法務部長にかけた。声は氷のように冷たかった。「今すぐ調べろ。俺と夏生の離婚届は、誰が手続きを進めた?俺の署名欄はどうなってる?なんで俺が知らされていない?」電話を切ると、指先をわずかに震わせながら、別の番号にかけた。母だった。電話は、ほとんど一瞬で繋がった。「誰の許可で、あんな声明を出させたんですか」駿平の声は、恐ろしいほど低かった。ひと言ひと言が、歯の隙間から絞り出されるようだった。「俺は署名していない。離婚なんて、どういうことです!」一美は電話の向こうで一瞬黙り込んだが、すぐに声を張り上げ
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第10話
捜索は、初めから壁にぶつかった。駿平が動かせる限りのコネを使って調べたところ、判明したのは、夏生が自分の名義で有名観光都市への片道航空券を購入していたという事実だけだった。駿平はすぐさま現地へ飛んだ。だが、到着すると、そこで手がかりは途切れた。夏生は、どのホテルにも旅館にも民宿にも、自分の名で宿泊した記録がなかった。車も借りていない。まるで、あらかじめ十分な現金を用意していたかのように。一滴の水が海に溶け込むごとく、複雑な地形と古い町並みが広がる観光地の人波へと、音もなく姿を消していた。駿平の手の者たちは、その街とその周辺で考えられる宿泊先を片っ端から調べたが、何ひとつ収穫はなかった。日が、1日また1日と過ぎていった。駿平のいつもの冷静さに、明らかな亀裂が入り始めていた。彼はだんだん眠れなくなり、夜通し煙草を吸い続けるようになった。オフィスにも自宅にも、濃い煙草の匂いが立ち込めるようになっていた。会議中、ふと意識が飛び、視線が虚空のどこかに定まったまま動かなくなることもあった。秘書が業務報告をしていると、突然それを遮り、脈絡のないひと言を口にした。「彼女はひとりで、どこに行けると思う?」秘書は俯いたまま、答えられなかった。見舞いに来た惣太郎は、やつれた駿平の様子を見て舌打ちした。「本気で惚れたんだな」駿平は否定しなかった。ただ深く煙草を吸い込むと、煙が充血した目元を霞ませた。駿平は思う。都和に対して自分が抱いていたのは、これまでずっと、習慣的な独占欲と、少年時代から引きずってきた執着に過ぎなかったのかもしれない、と。都和が去っていったとき、感じたのは怒りと、納得のいかなさと、家族や運命に振り回されているという苛立ちだった。だが、夏生が姿を消した今、感じているのは、心臓を生きたまま抉り取られたような虚ろな激痛と、永遠に失ってしまうかもしれないという、底の見えない恐怖だった。この感覚は、見知らぬもので、鋭く、どうしようもなく駿平を打ちのめした。都和は電話が繋がらないのに業を煮やし、直接会社まで押しかけてきた。受付の制止も振り切り、駐車場へ向かおうとしていた駿平を待ち伏せた。「駿平!」都和は駆け寄ってその腕を掴んだ。完璧に整えられたメイクの下で、目元は赤く潤み、涙が今にもこぼれ
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