LOGIN界隈では、楠瀬夏生(くすのせ なつき)はちょっとした有名人だった。もっとも、良い意味ではない。 分厚い前髪で顔の半分を覆い隠し、瓶底のような黒縁眼鏡をかけている。肌にはいつもくすんだファンデーションを厚塗りし、色の濃い口紅でわざと唇の輪郭を不格好に描く。 そんな夏生を、街ですれ違う人がわざわざ振り返って見ることはまずなかった。 けれど誰も知らない。それが夏生自らが選んだ「醜さ」だということを。 きっかけは母だった。 母はかつて評判の美人だった。父が猛烈に口説き落として嫁にしたものの、結婚して3年も経たないうちに、父が浮気を繰り返すのが日常茶飯事になっていた。悲しみは絶望に変わり、やがて心を病んだ母は、そのまま逝ってしまった。 死の床で、母はまだ10歳だった夏生の手を握りしめた。幼いながらすでに美貌の片鱗を見せ始めていた顔を見つめ、残された力を振り絞るように言った。 「夏生……っ、ママの言葉を、忘れないで。綺麗すぎる女は、男に騙されるの。不幸な末路をたどるわ……自分の身は自分で守りなさい。その顔は、隠しておくのよっ」 夏生はその言葉を胸に刻んだ。 その日を境に、彼女はわざと自分を醜く装うようになった。前髪は年々厚くなり、眼鏡のレンズは分厚くなり、選ぶ服はいつも目立たない色ばかり。 父は数え切れないほどの見合いをセッティングしたが、相手はみな夏生の外見を目にした途端、逃げるように去っていった。 100回目の見合いの日。夏生は喫茶店の席に座っていた。向かいには、仕立てのいいスーツに身を包んだ男。 男は夏生を一瞥するなり、露骨に眉をひそめた。 「楠瀬さん」 嫌悪感を隠そうともせず、男が口を開く。 「仲人からは、こんな見た目だとは聞いていませんでしたが」 夏生はうつむいたまま、何も答えなかった。 「正直に言わせてもらいますけど」 男は鼻で笑った。 「ふんっ。そんな見た目で、よく見合いの席にのこのこ出てこられますね。誰があなたと結婚したがると思うんです?」 夏生はコーヒーカップを握る手に力を込めた。 男は自分のカップを持ち上げると、突然、夏生の顔にコーヒーをぶちまけた。 「化粧が崩れたほうが、よっぽどお似合いですよ」 冷たい液体が頬を伝い落ち、崩れたファンデーションの下から、白い素肌がのぞいた。
View More夕暮れが迫る頃、駿平はようやく震源近くの小さな町の、仮設避難所に辿り着いた。すれ違う人を片っ端から捕まえては、かすれた声で尋ねた。楠瀬夏生という女性を見なかったか、背が高くて、色白で、とても綺麗で、澄んだ目をした人だ、と。大半の者は、途方に暮れたように首を振るだけだった。そんな中、埃まみれの顔をしたおばさんが、遠くの仮設医療拠点を指さした。「あそこに、すごく綺麗なお嬢さんが物資配りを手伝ってたよ」駿平の心臓が激しく打ち、すぐさま身を翻し、そちらへ駆け出した。医療拠点の前は、比較的秩序を保っていた。数人のボランティアが、ミネラルウォーターや簡易食料を配っている。駿平は一目で、夏生を見つけた。夏生は小さくすすり泣く少女の前にしゃがみ込み、手にビスケットの袋を持って、優しく何かを語りかけていた。表情は穏やかで、根気強かった。駿平は、突然その場に立ち止まった。全身の血が、この瞬間にようやく再び流れ始めたかのように、耳の奥でどくどくと鳴り響いた。失ったものを取り戻したような途方もない歓喜と、今さら押し寄せる恐怖が、津波のように彼を呑み込んだ。よろめきながら、夏生の方へと歩み寄った。夏生は少女を落ち着かせると、体を起こし、次の水のボトルを取ろうとした。振り向いた瞬間、充血した瞳で自分をじっと見つめる視線とぶつかった。夏生は、動きを止めた。突然現れた、見る影もなくやつれたこの男を見つめる。髪は乱れ、顔には泥や埃の汚れがまだらについている。高価なはずのスーツは裂け、ズボンの裾は泥にまみれ、靴はもはや元の色さえわからない。ただ、その両目だけが、ぞっとするほど明るく光っていた。そこには、読み取れない感情がいくつも渦巻いていた。驚愕、狂喜、恐怖、そして、底の見えない、焼き焦がしそうなほどの何か。駿平は夏生の前まで駆け寄り、手を伸ばし、抱きしめようとするかのように、しかし触れる直前で不意に凍りつき、宙で止まった。ただ、充血した目で、上から下へ、何度も何度も見つめながら、震えきった声で言った。「君は、無事なのか!?怪我はないか?どこか、具合の悪いところはッ?生きた心地がしなかった……夏生、本当に……」商談の席では一歩も引かず、財界では常に冷徹に決断を下してきたこの男が、今は、長い間迷子にな
拍手が再び沸き起こり、驚嘆の声が混じった。駿平は壇上に上がり、落札した作品を受け取った。慣例に従い、デザイナーと握手を交わすことになっている。駿平は夏生の前まで歩み寄った。照明が眩しかった。彼は手を差し出す。その指先は冷たく、ほとんど気づかれないほどかすかに震えていた。夏生の手は温かく、乾いていた。軽く握られ、すぐに離される。儀礼的な微笑みが、絶妙な加減で唇に浮かんでいた。「慈善活動へのご支援、ありがとうございます」夏生の声は穏やかで、丁寧で、そして、どこまでも他人行儀だった。駿平は夏生を深く見つめ、喉仏が、一度上下した。言いたいことが山ほど胸の内でせめぎ合い、燃えるように焼けついたが、最後にはただ、かすれたひと言にしかならなかった。「……君のデザインは、美しかった。おめでとう」「ありがとうございます」夏生は変わらぬ微笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。一連のやり取りが終わり、ふたりは壇を降りた。裏の通路は狭く、スタッフに案内されながら、しばらく並んで歩くことになった。駿平は、夏生から漂うかすかな、見知らぬ香りに気づいた。記憶している、どの香水とも違う匂いだった。心臓が瞬間的に締めつけられ、鈍く痛んだ。ありったけの自制心を振り絞って呼吸を整え、取り乱さずに済んだ。そして、別れて別々の方向へと歩き出すその直前。駿平はふと顔を傾け、ふたりにだけ聞こえる吐息のような声で、素早く言った。「君が元気なら、それでいい」夏生の足は止まらなかった。まつ毛一つ震えることもなかった。聞こえなかったかのように。あるいは、聞こえていたとしても、もはやどうでもいいことのように。夏生はまっすぐに、少し離れたところで待っていた、同じく若手デザイナーの友人たちのもとへ歩いていき、何か笑いながら言葉を交わすと、人混みの中へと溶け込んでいった。一度も、振り返ることはなかった。【早乙女氏、前妻の作品を大金で落札、ステージ上で束の間の握手】この場面は無数のカメラに捉えられ、瞬く間に大きく報じられ、大きな話題を呼んだ。【復縁の兆し?】【復縁への道にようやく光?】【早乙女社長、一途な想いは今も変わらず?】と、あらゆる憶測が飛び交った。夏生はSNSの通知をオフにし、町で新たに引き受けた壁
国際トップジュエリーデザインコンテストが幕を開けた。優勝者には、一流ラグジュアリーブランドとのコラボレーションの機会が与えられる。世界中のデザイナーが夢見る、またとない飛躍の舞台だった。夏生は、その公募の告知を目にした。しばらく黙って見つめたあと、画面を閉じ、やりかけの木彫りに戻った。数日後、丹念に仕上げたデザイン画を1点応募した。数ヶ月後、決勝進出者のリストが発表された。「夏至」という名前が、はっきりとそこに載っていた。その作品は、独特な東洋的意匠と現代的な再構成によって、一次審査の審査員全員を驚嘆させていた。早乙女グループ傘下のラグジュアリー投資部門は、今回のコンテストの主要スポンサーの一つだった。主催者側は再三にわたって、最大の資金提供者である駿平に、決勝と授賞式の会場へ足を運んでほしいと要請してきた。駿平は、初めは断るつもりだった。視線が決勝進出者リストを滑っていき、ある名前のところで、指がタッチパッドの上で止まった。【夏至】その二文字が、焼けた針のように目の奥へ突き刺さった。駿平は、その二文字を長い間見つめていた。あまりに長く見つめていたので、秘書が「返答はないだろう」と思い、辞退の連絡をしようとしたその時、かすれた声が聞こえた。「……俺は行く」一拍置いて、さらに付け加えた。「席は、隅の方に頼む。そして取材は、一切受けない」秘書は一瞬戸惑ったが、頭を下げて承知した。決勝当日、会場は華やかな熱気に包まれていた。夏生は出場者席に座り、シンプルな黒のドレスに身を包んでいた。その肌は、雪のような白さが際立っていた。長い髪はまとめ上げられ、なめらかな額と、優美な首筋のラインを露わにしていた。装身具は何一つ身につけていないのに、会場中の煌びやかな宝飾品よりも、なお人目を引いていた。表情は穏やかで、視線はステージに集中している。時折、隣に座る他の出場者と小声で言葉を交わし、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。駿平は、最も目立たない隅の席に、影に紛れるように座っていた。だがその視線は、貪るように、痛みを伴うほどに、その姿を追い続けていた。2年が経った。夏生は、いっそう美しくなっていた。それは容姿の変化ではなく、内側から滲み出る、静かで確かな自信の輝き
駿平はうなだれ、両手で顔を覆った。肩が、抑えようもなく震え始めた。惣太郎は目を逸らした。胸が締めつけられるようだった。これまで一度も、こんな駿平の姿を見たことがなかった。脆く、絶望し、触れれば崩れ落ちそうなほど。長期にわたる酒浸りの日々、不眠、激しい感情の起伏、加えて適切な治療を受けずに繰り返し悪化する腕の傷。ついに駿平の体は限界を迎えた。ある重要な経営会議の最中、部下の報告を聞いていた駿平は、突然、胃に激痛が走り、喉の奥に鉄錆のような血の味が広がった。次の瞬間、その場にいた全員が息を呑む中、駿平は勢いよく顔を横にそむけ、艶やかな会議テーブルの上に、暗い赤色の血を吐き出した。「社長ッ!」会議室は一瞬にして騒然となった。駿平は急いで病院へ搬送された。検査結果はすぐに出た。急性胃出血、重度の心身疲労、傷口の重度の感染による高熱と合併症。医師は眉をひそめ、カルテを見つめながら、知らせを聞いて駆けつけた一美と惣太郎に言った。「患者さんの体は、とうに限界を超えています。精神的な負担も極めて大きく、治療にもほとんど協力していません。このままでは、取り返しのつかないことになりかねません」駿平は病床で、2日間昏睡状態に陥った。高熱が続き、混濁した夢の中を漂っていた。夢の中では、脈絡のない光景が次々と浮かび、そのすべてに夏生がいた。初めて出会ったとき、慌てて顔の汚れを拭いながら、拭くほどにかえって崩れていく、あの狼狽した姿。婚姻届を出したとき、分厚い眼鏡をかけたまま、静かにサインする指先がわずかに震えていた姿。エプロンをつけて、湯気の立ちこめる台所で料理を煮込んでいた、柔らかな横顔。目を赤くしながら「私が釣り合わないと思っているんでしょう」と尋ねた姿。警察署で、かすれた声で「どうして」と問いかけた姿。冷たい海の中、意識を失いかけながら、最後に自分を見つめたあの一瞬の眼差し。やがて、そのすべての光景が砕け、渦を巻き、あの廃倉庫の光景に凝縮されていった。そして、自分を完全に地獄へと突き落とした、あの言葉。「早乙女さん、あなたの愛は、遅すぎました。それに、重すぎます。私には、受け止められません」「いや……夏生。行かないでくれ……俺が悪かった。本当に、悪かった!」病床の上で、駿平は苦しげに呻き
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