Semua Bab 元夫の結婚式を、私が担当することになりました: Bab 111 - Bab 120

170 Bab

第111話 一緒に暮らすということ

蓮司は、紗月の家から車で7分ほどの場所に小さなマンションを借りた。桐生が所有する建物でも、ペントハウスでもない。湊が歩いて行ける場所を探していくと、候補に残ったのは、ごく普通の店舗併設マンションだった。「どうしてお引っこしするの?」何もないリビングを走り回りながら、湊が尋ねた。「湊たちの家の近くに住みたくて」「ぼくのおうちに来ればいいのに」蓮司と紗月は、同時に息子を見た。湊はそんな2人を気にも留めず、部屋のドアを開けた。「ここ、パパひとりでねたら、こわいよ」「パパはひとりでも眠れるよ」「ぼくは、ときどきこわいけど」紗月は窓の鍵を確かめた。蓮司が近くに引っ越すことは、2人で話し合って決めた。いきなり同じ家で暮らすのではなく、生活圏を近づけて、湊が行き来できるようにしようと。マンションは蓮司個人の名義で契約し、桐生の援助は受けていない。紗月の家と同じ敷地や、同じ棟は避けた。近くに暮らしても、偶然を装って立ち寄ったり、窓を見張ったりはできない距離が必要だった。湊が蓮司の家に泊まるのは、月2回から始めた。子供部屋は用意したが、高価な家具で一度に埋めることはせず、湊が使っていた毛布と本を数冊だけ運んだ。新しい物を与えて、ここにいたいという気持ちを買わないためだった。けれど湊は、もうその先を考えていた。「一緒に暮らしたい?」紗月が尋ねた。「うん。パパ、カレーも作れるし」「お掃除は?」「パパがする」「どうして?」「パパのおうち、きれいだもん」蓮司が慎重に口を開いた。「湊の意見はわかりました。でも、ママもそうしたいと思わないとね」「パパは?」「俺も、一緒に暮らしたいよ」紗月は彼を見た。遠回しな言い方ではなかった。「だからといって、今すぐ押しかけるつもりではありません」「わかってます」
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第112話 もう一度、付き合いましょう

3か月のお試し期間は、大きな出来事もなく過ぎた。だからこそ、紗月には見えたことが多かった。蓮司は忙しい日も、訪問を取りやめる連絡を秘書に任せなかった。湊が駄々をこねても何でも買い与えず、紗月が怒っているときに、いきなり解決策を差し出すこともしなかった。一度、大きなけんかをした。桐生系列のホテルからルミエールに優先契約の話があり、利益相反の審査を通した蓮司が、提案書を持ってきたときのことだった。紗月は、なぜそもそも、自分への特別扱いと受け取られかねない契約を検討したのかと怒った。蓮司は、会社にもルミエールにも利益があると説明した。話が長くなるほど、2人の声は大きくなった。以前なら、蓮司は「合理的な選択だ」と押し切り、紗月は話すことを諦めていただろう。今度は、蓮司が立ち止まった。「今は、お互いに同じことを繰り返しています」「だから?」「1時間後に、改めて話したいです。逃げるのではなくて、資料もなしに自分の判断だけが正しいと言い張るのをやめたいんです」紗月は怒ったまま、うなずいた。1時間後、蓮司はルミエールとの直接契約ではなく、公募入札に切り替える案を持ってきた。紗月は、桐生の審査員から蓮司とその特別関係者を外す条件を加えた。ルミエールは入札に参加し、最終的には落選した。評価表では、ルミエールの企画点が最も高かった。だが、全国の拠点を運営する人員が不足していた。紗月は審査員に抗議するのではなく、公表された減点理由を社員たちと検討した。「蓮司さんの会社だから、かえって厳しく見られたんじゃありませんか?」宮瀬真帆にそう聞かれ、紗月は外部監査委員の評価まで確認した。ほかの会社にも、同じ人員基準が適用されていた。「だったら、次の入札までに私たちが補うべきところね」蓮司は落選したことを紗月から聞いたあと、担当部署へ個別に問い合わせることはしなかった。私的な関係を持ち込まないという条件は、不利な結果を受け入れるときに、よりはっきりと意味を持った。
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第113話 お客様ではなく

「代表ご自身の結婚式は、どなたが担当されたんですか?」シャンパングラスを置きかけた一ノ瀬紗月は、向かいの花嫁を見た。最終試食を終えたばかりの顧客は、ケーキのスポンジよりも、その質問の答えに興味があるようだった。隣の新郎も、さりげなく身を乗り出す。「私が担当しました」「ご自分で?」「当時も、プランナーでしたから」紗月は笑って、メニュー表をめくった。「今日は先に、お2人の結婚式のお話を済ませましょう。ご両親向けの和食のコースは、キノコのアレルギーについてだけ、もう一度確認すればよさそうですね」顧客は名残惜しそうにうなずいた。ところが打ち合わせを終えてエレベーターに乗ると、宮瀬真帆が待ち構えていたように尋ねた。「じゃあ、2回目は?」「何の?」「社長の2回目の結婚式です」紗月はボタンに伸ばした手を止めた。「仕事はないの?」「今、退勤してるところですけど」「だったら、退勤に集中して」ドアが開くと、宮瀬真帆はくすっと笑って先に降りた。「会長は集中していらっしゃるみたいですけどね」「何に」「指輪のお店のサイト。先週から、ブラウザーのいちばん上に固定されてます」紗月は答えなかった。真帆と別れて地下駐車場へ向かう間も、その言葉が耳に残った。桐生蓮司は約束どおり、オフィスまでは上がってこなかった。駐車場の端にある来客用スペースに車を止め、その横で湊と待っていた。2人はトランクを開けたまま、平たい箱と格闘していた。「こっちが上だって」「パパがさっき上って言ったところ、下だったじゃん」「説明書の絵が逆に印刷されてるんだ」「説明書のせいにしちゃだめって、ママが言ってたよ」近づいてきた紗月を先に見つけたのは湊だった。駆け寄ってくる。「ママ、本だな買ったよ」「俺が買ったわけじゃないよ」箱を下ろしながら、蓮司が訂正した。
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第114話 私たちの結婚式の条件

翌日の夜、食卓には契約書ではなく、黄色いメモ用紙が置かれていた。桐生蓮司はペンを持ち、真剣な顔でまず見出しを書いた。『結婚式の条件』結婚そのものの条件は、前日にそれぞれ書いてきていた。財産は原則として分け、養育費と生活費は現在の合意を維持する。婚姻届を出したあとも、ルミエールの持ち分と経営に桐生は関与しない。蓮司が持つ桐生の株式が、自動的に湊へ引き継がれる仕組みも作らないことにした。再婚後の姓についても、ふたりで話し合った。湊の名前は変えず、蓮司が一ノ瀬の姓を名乗る。仕事で使ってきた桐生の名は、そのまま通称として残すことにした。2人は法律相談を受けて、婚前契約の草案を作る予定だった。愛情を信じていないからではない。お金や権限が、自分たちの気持ちの代わりに物事を決めてしまわないよう、境界をはっきりさせるためだった。今日のメモは、それよりも小さくて、だからこそ2人にはまだ慣れない、結婚式の条件だった。向かいに座った一ノ瀬紗月が眉を上げた。「本当に書くんですか?」「漏れがあったら困るだろう」「取締役会の会議でもないのに」「だから、余計に大事なんだ」湊は2人の間で頬杖をついていた。ママが結婚の話を始めてから、部屋へ戻るつもりは少しもないらしい。紗月は指を1本立てた。「会社の宣伝に利用しないこと」蓮司が書き込んだ。「記事の配信も、写真の独占掲載もなしです」「わかった」「グランド・キリュウ・ホテルのパッケージプランにすることも、考えないでくださいね」「それは考えてもいなかった」「昔のあなたなら、考えそうだったので」蓮司は言い訳をせず、次の行を空けた。「2つ目は?」「両家の大人が主役になる結婚式は嫌です。誰がどの席に座るかとか、どちらの家が先に入場するかとか、そういうのも」「じゃあ、親族席をなくそう」湊が勢いよく手を挙げた。「ぼくは、家ぞくのおせきにすわるよ」
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第115話 小さな会場

ルミエールの会議室の画面には、都内の最高級の結婚式場が12か所、並んでいた。グランド・キリュウ・ホテルのグランドボールルーム、ホテル・オルヴィエのスカイラウンジ、東京湾に浮かぶ水上バンケットまで。宮瀬真帆が最初の写真を映した。「収容人数は1,200名、天井高は15メートルです。花の設営だけで3日間使えます」紗月はすぐに首を横に振った。「招待客は30人なのに、どうして1,200人分の場所が必要なの?」「会長のほうだけでも、出席したい方を絞って30名は超えると思いまして」会議テーブルの端から、蓮司が言った。「招待しないよ」社員たちの視線が集まった。「今回の結婚式を、挨拶回りの場にするつもりはない。仕事上、お祝いを伝えなければならない人には、会社に送ってもらえばいい」宮瀬真帆はグランド・キリュウ・ホテルの写真を閉じ、次の会場を映した。「では、こちらは? 東京湾の夜景がきれいで、全館貸し切りも可能です」「船に乗るの?」湊が尋ねた。「ううん。水の上に浮かんでいる建物だよ」「ぼく、よっちゃう」2つ目の会場も、候補から外れた。12か所すべてを見ても決まらず、小森杏奈が遠慮がちに手を挙げた。「小さくてもよろしければ、1か所、知っている場所があります」画面に、古いガラス張りの温室が映った。都心から1時間ほど離れた川沿いの植物園にある、寄付金で修繕された小さな温室だった。壁の片側はツタに覆われ、中にあるのは長いテーブルが4つだけ。「こもれび温室といいます。もともとは市民の庭園で、週末だけ小規模な結婚式を受け入れています。最大40名で、食事は外部のケータリングを利用する必要があります」杏奈は会場費、キャンセル規定、バリアフリーに関する資料も映した。温室の入り口には緩いスロープがあるが、トイレまでの道は一部が砂利になっている。招待客に杖を使う人がいるため、仮設の通路板を借りる必要があった。「きれいなだけの場
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第116話 湊が選んだ花

花の打ち合わせは、湊が幼稚園から帰る時間に合わせて入れられた。ルミエールのサンプルルームの床には、チューリップ、ラナンキュラス、バラ、フリージアが、低いバケツに分けて並んでいた。湊は靴を脱ぐなり、花の間を歩き回った。紗月はサンプルボードを作らず、苦手な色とアレルギーだけを書き出した。最終的な組み合わせは、ルミエールのフローリストに任せることにしていた。「触る前に、聞いてね」紗月が言うと、息子は両手を背中に隠した。「においだけ、かぐ」フローリストが笑って、黄色いフリージアを1本渡した。「これは大丈夫ですよ」湊は花を鼻先に近づけると、すぐにママのところへ持ってきた。「これにして」「どうして?」「ママ、これを見たら笑ったから」紗月自身も気づいていなかった。花を見た瞬間に、口元が緩んだらしい。「黄色だと、春らしすぎませんか?」小森杏奈が尋ねた。式は晩秋だった。最初に用意されたボードは、白いバラと深い緑の葉で、落ち着いた雰囲気にまとめてあった。蓮司はボードではなく、紗月を見た。「君が好きなら、使おう」「全部、黄色い花にするわけじゃないですしね」「じゃあ、湊が持つ花だけフリージアにしようか」湊が勢いよく首を横に振った。「ぼくのじゃなくて、ママの」紗月は花を1本、指の間でゆっくり回した。「ブーケに、少し入れてください」フローリストは、晩秋はフリージアの入荷が安定しない場合があると説明した。同じ色の季節の花に変わる可能性もあり、前日までに確保できなければ、ブーケ全体を組み直す必要があった。湊はフリージアでなければ嫌だと言ったが、紗月は、必ず用意できると約束できる花ではないのだと説明した。「お花も、その日にぐあいが悪くなるの?」「遠くから来る途中で傷んだり、来られなくなったりすることもあるの」「じゃあ、にてるのにして」息子
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第117話 招待したい人

結婚式の1週間前、招待者リストは32人から増えることはなかった。蓮司の秘書室は、最後まで招待客を増やすよう求めた。「せめて主要系列会社の代表だけでも、ご招待いただくべきです。会長のご結婚なのに何の案内もないと、かえって余計な憶測を招きます」蓮司は報告書を閉じた。「会社への憶測を防ぐために、結婚するのではありません」「それでも、株主の皆様には――」「婚姻の事実は、登記や開示が必要な範囲で処理してください。式は、私的な場です」秘書はそれ以上、何も言わなかった。昔の蓮司なら、会社と私生活を分けられなかったというより、分ける必要を感じていなかっただろう。今は、紗月が引いた線を、自分の言葉で守っていた。同じ日の午後、ルミエールに見覚えのない即日配送の荷物が届いた。小さな箱の中には、高価なカメラレンズと、現金入りの封筒があった。カードには、結婚式の写真を数枚もらえればよい、という文句と、差出人の名を伏せた連絡先が記されていた。宮瀬真帆は箱を見るなり手を離し、法務担当に連絡した。法務担当は配送プラットフォームに、発送者の決済記録と集荷場所の保存を要請し、警察立ち会いのもとで箱を開けた。紗月は、このことを招待客に隠さなかった。写真を買い取ろうとする働きかけがあったことと、撮影ルールを守ってほしいという案内を、招待した全員に送った。不安であれば出席を取りやめてもよい、とも書き添えた。「社員を買収しようとしたんですね」紗月は封筒を開けずに、証拠保管用の袋へ入れた。「配送員の移動経路から確認して。社員には、個人の携帯電話では1枚も撮影しないよう、もう一度伝えて」「携帯電話を封印するポーチを用意しますか?」「無理に取り上げないで。同意をもらって、嫌なら会場の外のロッカーを使ってもらう」湊がいる場所でカメラを持つのは、写真担当者1人だけにした。招待客が自分の家族を撮りたい場合は、温室の外の指定された場所を使えばよかった。撮影禁止は、支配を見せつけるためではない。子供や招待客が、どこまで自
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-11
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第118話 立ち止まれるリハーサル

リハーサルの日は、雨だった。ガラスの屋根をたたく雨音は、思っていたより大きかった。温室の中ではマイクなしでも互いの声が聞こえたが、言葉が途切れると、その隙間を雨音が埋めた。入り口には滑り止めマットを敷き、暖房器具は招待客の手が届かない壁際へ移した。宮瀬真帆が入り口の動線を確認し、小森杏奈は椅子の間隔を測っていた。湊は小さな指輪の箱を持ち、通路をもう3往復もしていた。「ゆっくり歩いて」蓮司が声をかけると、湊が振り向いた。「パパのほうが、きんちょうしてる?」「少しね」「ぼくは、してないよ」そう言った途端、息子はカーペットの端に足を引っかけてよろけた。箱は落とさなかったが、みんなが笑った。紗月も一緒に笑ってから、通路の入り口に立った。ただの練習だった。ドレスも着ていないし、招待客もいない。白いシャツに黒いパンツで、手には何も持っていなかった。それなのに、一歩踏み出した瞬間、昔のホテルの廊下の匂いがよみがえった。最初の結婚式の日も、雨だった。ドアの外では司会者が時間を急かし、桐生雅子は紗月の手首をつかんで姿勢を正した。蓮司は経営陣からの電話に出ていて、控室には来られなかった。――笑いなさい。誰かが、そう言った。紗月の足が止まった。呼吸が浅くなり、指先が冷たくなった。紗月はカウンセリングで練習したとおりに、目に見えるものを1つずつ口にした。ガラスのドア、黄色い傘、空いた椅子、濡れたカーペット。今いる場所を確かめると、ホテルの廊下の記憶と温室が、少しずつ別のものになった。宮瀬真帆は水を持ってきたが、飲むようには急かさなかった。小森杏奈も花を片づけようとはしなかった。それぞれに原因を推測して解決しようとせず、紗月が話すまで待った。宮瀬真帆が音楽を止めようとしたとき、蓮司が先に手を挙げた。「皆さん、少し外していただけますか」「会長、動線だけでも一度――」「今日は、ここまででも構いません」
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-11
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第119話 2度目の誓い

結婚式の日、温室の入り口には会社名も、2人の肩書もなかった。小さな木の看板に、名前だけがあった。一ノ瀬紗月、桐生蓮司。そしてその下に、湊が描いた黄色い恐竜が1匹。招待客は入り口で携帯電話を封印用のポーチに入れた。誰も文句を言わなかった。藤堂怜奈は黒いパンツスーツ姿でいちばんに到着し、朝比奈璃子と瀬名圭介は、手作りの小さなケーキを持ってきた。温室の外の記者たちには、非公開の式であるという案内文だけを渡した。公開する写真に、湊の顔は写っていなかった。宮瀬真帆は紗月が花の配置を確認しようとするたび、体を張って視界を遮った。「社長は、今日はお客様です」「あっちの燭台、間隔が違うように見えるんだけど」「見えません」「真帆」「湊企画チーム長」湊がすぐに駆けてきた。「ママ、お仕事しちゃだめ」紗月は両手を挙げた。「わかった。見ないよ」控室に使う小さな物置には、鏡が1枚と椅子が2脚あるだけだった。紗月は装飾のほとんどないアイボリーのドレスを着た。髪にはベールの代わりに、黄色いフリージアを3輪挿していた。湊がドアを開けて入り、くるりとひと回りした。「ママ、きれい」「パパは?」「パパ、さっきからお水を飲んでる」「緊張してるのかな」「コップ3ばい飲んだよ」紗月は笑いながら、鏡の中の自分を見た。笑っているのは、口元だけではなかった。ドアの向こうから、小さなノックが聞こえた。「どうぞ」桐生雅子がひとりで立っていた。濃いグレーの服を着て、装身具もほとんどつけていなかった。敷居の内側には入らず、頭を下げた。「おめでとう」紗月はしばらく彼女を見つめた。「来てくださって、ありがとうございます」「約束した席にだけ、いさせてもらうね」桐生雅子の視線が湊に向いたが、手は伸ばさなかった。
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第120話 帰ってくる場所

結婚式のあとの月曜日、桐生蓮司は卵を2つ失敗した。1つ目は黄身が割れ、2つ目はフライパンに貼りついた。湊は食卓でその一部始終を眺めてから、言った。「スクランブルエッグって言えばいいよ」「最初から、そのつもりだった」「うそだ」紗月は玄関で片方の靴を探しながら、キッチンを見た。「2人とも、朝からけんかしないでください」「ママ、パパがたまごに負けたよ」「卵が強かったんだ」蓮司は諦めずに、3つ目の卵を割った。式のあと、長い新婚旅行には行かなかった。湊の幼稚園の予定があり、紗月には今週始まるホテルのウェディング企画があった。その代わり、金曜の夜から2日間、近くの海辺へ出かけることにした。紗月には、そのほうがよかった。人生を止めて出かける旅よりも、帰ってきてもそのまま続いていく暮らしが必要だった。「ママのくつ、ここにあったよ」湊が靴箱の下から、靴を片方取り出した。「どうして、そこにあるの?」「パパがおそうじして、押しちゃったんだよ」蓮司はフライパンを持ったまま、心外だという顔をした。「押したのは、ロボット掃除機だよ」「説明書もロボットも、パパに謝らなきゃいけなくて大変ですね」紗月は笑いながら、靴を履いた。食卓には、透明なファイルに入れた婚姻届が置かれていた。結婚式の日に2人で署名したが、提出は今日、一緒にすることにしていた。湊の姓は、変えなかった。婚姻届の「婚姻後の夫婦の氏」には、妻の氏を選んでいた。湊の名前を変えるのではなく、蓮司が一ノ瀬の姓を名乗る。仕事では、これまでどおり桐生の名を使うつもりだった。届けを出す前に、3人はそのことを、もう一度湊にわかる言葉で話した。「パパが、いちのせになるの?」「うん。パパのほうが変わるんだ」「じゃあ、ぼくが書きかた、おしえてあげる」蓮司が笑ってうなずくと、湊は紙に一度、自分の名
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