「前を見て歩きなさい」 私はわざと厳しい声を出して、陽菜の顔を前へ向けさせた。 エレベーターホールの前に辿り着き、降下ボタンを何度も連打する。 指先が冷たく、小刻みに震えている。 早く。早く来て。 背後から、規則正しい革靴の音が近づいてくる。 コツ、コツ、という硬い音が、私の心拍数を強制的に跳ね上げる。 逃げられない。彼は確実にこちらへ向かってきている。 ようやく「チン」という電子音が鳴り、銀色の分厚い扉が開いた。「乗って」 陽菜を先に押し込み、私も転がり込むように乗る。「閉」ボタンを力任せに押した。 扉が両側からゆっくりと閉まり始める。 その隙間の向こうに、玲司の姿が現れた。 彼は走るでもなく、ただ静かにエレベーターの前に立ち止まっていた。ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で微かに自分の顎を撫でている。 あと数センチで扉が閉まりきる、その直前。「……父親は誰だ」 隙間を縫って届いたその声は、七年前のあの夜よりもずっと低く、どこまでも執拗な熱を帯びていた。 私は彼から視線を逸らさず、震える唇を噛み締めて答えた。「……あなたには関係ない人よ」 扉が閉じたあとも、陽菜はエレベーターの数字を一つずつ声に出して数えていた。私は返事をする余裕もなく、娘の手が痛くならない程度まで自分の力を抜くことだけに集中した。「ママ、さっきのおじさん、怒ってた?」「仕事でちょっとね」「ママが怒らせたの?」「……たぶん、お互いさま」 陽菜は難しい顔をしたあと、「じゃあ、ごめんなさいしたらいいのに」と言った。七歳児には、それで済む話に見えるらしい。私は笑えず、閉じた扉に映る自分の顔を見た。 エレベーターが下降を始める重力が、私の膝からすべての力を奪っていった。 エレベーターが一階へ到着するまでの数十秒間が、私には永遠のように長く感じられた。 金属の箱の中で、陽菜は私の固く結
最終更新日 : 2026-09-20 続きを読む