あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

100 チャプター

第11話 父親は誰だ

「前を見て歩きなさい」 私はわざと厳しい声を出して、陽菜の顔を前へ向けさせた。 エレベーターホールの前に辿り着き、降下ボタンを何度も連打する。 指先が冷たく、小刻みに震えている。 早く。早く来て。 背後から、規則正しい革靴の音が近づいてくる。 コツ、コツ、という硬い音が、私の心拍数を強制的に跳ね上げる。 逃げられない。彼は確実にこちらへ向かってきている。 ようやく「チン」という電子音が鳴り、銀色の分厚い扉が開いた。「乗って」 陽菜を先に押し込み、私も転がり込むように乗る。「閉」ボタンを力任せに押した。 扉が両側からゆっくりと閉まり始める。 その隙間の向こうに、玲司の姿が現れた。 彼は走るでもなく、ただ静かにエレベーターの前に立ち止まっていた。ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で微かに自分の顎を撫でている。 あと数センチで扉が閉まりきる、その直前。「……父親は誰だ」 隙間を縫って届いたその声は、七年前のあの夜よりもずっと低く、どこまでも執拗な熱を帯びていた。 私は彼から視線を逸らさず、震える唇を噛み締めて答えた。「……あなたには関係ない人よ」 扉が閉じたあとも、陽菜はエレベーターの数字を一つずつ声に出して数えていた。私は返事をする余裕もなく、娘の手が痛くならない程度まで自分の力を抜くことだけに集中した。「ママ、さっきのおじさん、怒ってた?」「仕事でちょっとね」「ママが怒らせたの?」「……たぶん、お互いさま」 陽菜は難しい顔をしたあと、「じゃあ、ごめんなさいしたらいいのに」と言った。七歳児には、それで済む話に見えるらしい。私は笑えず、閉じた扉に映る自分の顔を見た。 エレベーターが下降を始める重力が、私の膝からすべての力を奪っていった。 エレベーターが一階へ到着するまでの数十秒間が、私には永遠のように長く感じられた。 金属の箱の中で、陽菜は私の固く結
last update最終更新日 : 2026-09-20
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第12話 古い友人

 ホテルから少し離れた交差点の角。 人混みの中から、スーツ姿の背の高い男性が手を振って近づいてきた。 私の大学時代の先輩であり、現在は弁護士をしている相馬 湊(そうま・みなと)だった。「湊先輩……!」 私は張り詰めていた糸が切れたように、その場に立ち止まった。 湊は小走りで駆け寄り、私の顔色を見てわずかに眉をひそめる。「どうした? 何かあったのか?」「いえ……学童が急にお休みになってしまって。先輩、わざわざありがとうございます」 七年前、逃げるように家を出た時、唯一頼ったのが彼だった。妊娠のことまでは言えなかった。ただ、家族にも高遠にも居場所を伝えたくないと頼んだ私に、住まいの契約や当面の連絡先をどうするか、一つずつ整理してくれた。 それ以来、私の希望を尊重し、彼は私の生活に深く立ち入ることはなかった。今日、彼がここにいるのは、私が「相談したいことがある」と数日前に連絡を取っていたからだ。 湊の視線が、私の足元で不思議そうに見上げている陽菜へと移る。「……初めまして。君が、陽菜ちゃん?」 湊は陽菜を見て、それから私へ目を戻した。驚きかけた顔をすぐに和らげた、そのわずかな間だけで、私は胸が詰まりそうになった。 責められたわけでもないのに、その目をまっすぐ見返せなかった。七年間、一人でやってきたことを誇りたい気持ちと、本当は誰かに「大変だったね」と言ってほしかった気持ちが、胸の中でぶつかった。 私は小さく首を振った。今は聞かないでほしい、という合図だった。湊はそれ以上何も言わず、「暑いから、まず何か飲もう」とだけ言った。 大学の展示会で、まだ仕上がっていない図案を出すよう、実行委員に急かされたことがある。兄の名前を出せば断りやすいだろうと言われ、私はますます何も言えなくなった。 その時、手伝いに来ていた湊先輩は、図案を預かった封筒を私へ返した。「出すかどうかは本人が決めるって伝えておく。理由も、それでいい?」と聞かれ、頷いた。翌日も、作品は展示されなかった。 大したことではないと先
last update最終更新日 : 2026-09-20
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第13話 七年分の空白

 彼の色素の薄い瞳が捉えているのは、雑踏の中に立つ三人の姿だ。 結。 彼女の足元にいる、自分と同じ瞳の色をした少女。 そして、その少女の靴紐を結び直している男。相馬湊。七年前、結の居場所を尋ねに行き、面会を拒まれた相手だった。 玲司の顎の筋肉が、再び強張る。 七年間。 あの夜以来、彼女の行方は分からないままだった。 海外赴任の数か月間、必死に探した。だが、彼女は家族にも行方を知らせず、完全に痕跡を絶っていた。 自分が追えば、彼女をさらに追い詰めることになる。そう判断し、一度は探すのをやめた。 だが、七年後。 グランツの改装案件で上がってきた匿名デザイナーの資料。その布地の織りを見た瞬間、理屈ではなく本能が「彼女だ」と告げた。 そして今日、ついに見つけ出した。 彼女は自分から逃げようとした。それは予想通りだ。 だが、予想外だったのは――あの少女の存在だ。 七歳前後。 明るい茶色の髪。 光の加減で緑がかって見える、ガラス玉のような瞳。 玲司は親指で、自分の人差し指の腹を強く擦る。彼が思考を深める時の、昔からの癖だった。 あの少女は、誰の子だ? 玲司の視線の先で、男が立ち上がり、結に何かを話しかけている。結が小さく頷き、三人は自然な足取りで歩き出した。 男が車道側に立ち、結と少女を庇うようにして歩く姿。 玲司には、それがすでに出来上がった「家族」の風景のように見えた。 玲司の胸の奥底で、黒くドロドロとした感情が渦を巻き始める。 あの夜、俺と関係を持った直後。 自分には居場所さえ知らせず、彼女はあの男を頼った。 そして、あの少女は――。 玲司はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルを押した。「……俺だ」 電話の向こうの秘書に、低く冷酷な声で命じる。「相馬湊の現在の事務所と、公開されている経歴を確認しろ。七年前から、結との付き合いが続いているらしい」◇
last update最終更新日 : 2026-09-21
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第14話 こわいおじさん

 私は頷き、冷めかけた料理へフォークを伸ばした。湊は陽菜にハンバーグの旗を見せられ、何が描いてあるのか真面目に考えている。 母娘だけの食卓では、食べるより先に娘の世話をしていた。自分の皿がまだ温かいことに、ふと気づいた。「……ありがとうございます」 湊がこちらを見た。私が首を振ると、それ以上は聞かず、陽菜の話へ戻ってくれた。 その時だった。 私の置かれたテーブルの脇に、ふわりとシトラスの香りが落ちてきた。 私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。「……ずいぶん、和やかな食卓だな」 頭上から降ってきたのは、氷結するような低い声。 私が顔を上げると、そこには完璧なスーツ姿の玲司が立っていた。 店内は賑わっているはずなのに、彼の周囲だけが完全に無音の真空地帯になったかのようだった。 玲司の色素の薄い瞳が、私、陽菜、そして向かいに座る湊へと、順番に突き刺さる。◇「……どうして、ここに」 私は声の震えを隠しきれず、テーブルの下で両手を固く握りしめた。 玲司は私の問いには答えず、ただ静かに湊を見下ろした。「……相馬先生。久しぶりだな」 湊が顔を上げた。笑みが消え、カップを音もなく皿へ戻す。「高遠さん」 私は二人を見比べた。初対面ではない。そのことを聞くより先に、玲司の視線が陽菜へ下りた。「彼が――」「その話は、ここではしないでください」 私はフォークを置いた。陽菜が手を止め、私と玲司を交互に見ている。 玲司は開きかけた口を閉じた。「おじさんも、ごはん?」 陽菜に聞かれ、玲司はすぐに答えられなかった。「……いや。用は済んだ」 湊が静かに告げた。「必要な話は、結さんの都合を確認してからにしてください」 玲司は湊を見たまま、一拍置いて頷いた。「邪魔をした」 店の扉が閉まる
last update最終更新日 : 2026-09-21
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第15話 鍵の傷

 その日の夕方、母娘が店を出た後。 ホテルの最上階、薄暗いスイートルームの中で、玲司はグラスの琥珀色の液体を静かに揺らしていた。 デスクの上に、数枚の写真が放り出されている。 秘書が急遽集めた、相馬湊の現在の活動をまとめた報告書。 そして、今日の午後、ファミリーレストランで談笑する三人の姿を遠くから望遠レンズで捉えた写真だ。 写真の中で、結は湊に向かって柔らかく微笑んでいる。 陽菜は湊の隣で、無邪気に笑っている。 玲司の知らない、七年間の結の姿。 調査報告と目の前の光景を並べると、玲司には、二人が七年前から関係を切らずにきたように思えた。 玲司はグラスをデスクに乱暴に置き、親指で人差し指の腹を強く擦った。「……結」 暗い部屋に、低い声が溶けていく。 彼女は、俺のモノだ。 あの夜、俺を選んだはずだ。 なのに、なぜあの男の隣で笑っている。 玲司は写真の中の、自分と同じ色の瞳をした少女を見つめる。 もし、あの少女が、本当にあの男の子だとしたら。 玲司の胸の奥で、黒い炎が静かに、だが確実に燃え上がり始めていた。◇ その頃、私は陽菜の手を引いて、自宅のアパートへ向かっていた。 夏の強い日差しはすでに傾きかけていたが、アスファルトに残る熱気がじっとりと肌にまとわりつく。 湊は「車で送る」と言ってくれたが、私は頑なに固辞した。これ以上、彼を自分の問題に巻き込むわけにはいかない。それに、玲司がどこかで監視しているかもしれないという恐怖が、私の思考を硬直させていた。「ママ、手、いたい」 陽菜の小さな抗議の声に、私はハッとして握っていた手を緩めた。「ごめんね、陽菜。痛かった?」「ううん、大丈夫。でも、ママ、なんかこわい顔してる」 陽菜が不安そうに見上げてくる。その無垢な瞳――玲司と同じ、光の加減で緑がかる瞳を見るたび、私の胸はちくりと痛んだ。「……何でもないわ。さ、早く帰ってアイス食べよっか」
last update最終更新日 : 2026-09-22
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第16話 荒らされた部屋

 玄関に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。  見慣れたはずの小さなリビングが、無惨に荒らされている。  床には陽菜が先週描いた絵まで落ちていた。クレヨンの海と、やけに大きな黄色い太陽。隅には「ままとひな」と書かれた二人の棒人間がいる。  私は反射的にそれだけを拾い上げ、折れた端を掌で伸ばした。現金より先にそれを守ろうとした自分に気づき、余計に怖くなる。犯人は、知らない誰かの家へ入ったのではない。母娘が毎日どこで座り、何をしまっているか分かる場所まで踏み込んできたのだ。  ここは広くも綺麗でもない。それでも、陽菜と二人で少しずつ作ってきた私たちの家だった。そこへ知らない手が入り込み、何を大事にしているかまで触られた。その事実に、吐き気がするほどの嫌悪と恐怖が込み上げた。 「ママ、陽菜のおえかき……」  廊下から聞こえた声に、私は慌てて絵を裏返した。「あとで直そう。今は外にいて」  引き出しという引き出しがすべて開け放たれ、中身が床に散乱していた。クッションは中綿を引きずり出され、本棚の書類はバラバラに撒き散らされている。  泥棒。  私の頭に最初に浮かんだのは、その単語だった。  しかし、床に散らばっているものを見て、私の顔色から急速に血の気が引いていく。  テレビや電子レンジなどの家電は、手つかずのまま残されている。通帳や現金が入った引き出しも、開けられてはいるが、中身はそのままだった。  狙われたのは、金目のものではなかった。  靴を脱ぎ捨てるようにして、散乱した書類を避けながらリビングの奥へ進んだ。  仕事用の小さなデスク。  そこに置いてあったはずのものが、消えている。  学生時代からずっと使っていた、古いノートパソコンだ。  現在の「YU」としての仕事は別の端末とクラウドで管理しているため、直近のデータが盗まれたわけではない。  だが、あの古いパソコンには、七年前の連絡記録と、まだ誰にも見せていない未発表のデザインアーカイブがローカル保存されたままになっていた。 「ママ……?」  玄関で立ち尽くしていた陽菜が、不安そうに声をかけてくる。 「陽菜、外に出てて!」  私は鋭く叫び、陽菜を無理やり廊下へ押し出した。  まだ犯人が部屋の中にいるかもしれない。  私は震える手でスマートフォンを取り出し、警察へ連絡しよう
last update最終更新日 : 2026-09-22
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第17話 監視と保護

「怪我はないか」 玲司は荒らされた部屋を一瞥することもなく、真っ直ぐに私の目を見た。 その声は冷徹だが、どこか焦燥感が混じっているように聞こえる。「……どうして、あなたがここにいるの」 私の問いに、玲司は答えなかった。 代わりに、彼の背後に立っていた黒服の男――警護の一人が、低い声で報告する。「社長。我々が到着した時には、すでに鍵が壊され、室内が荒らされた後でした。不審者の姿は確認できません」 私は息を呑んだ。 彼らは、私たちを尾行していたのだ。 ファミリーレストランでのあの一幕の後も、ずっと。「……監視、してたのね」 玲司は否定しなかった。その沈黙が、答えだった。 七年前、実家が経営権を奪われた時の恐怖がフラッシュバックする。自分の生活圏のすべてが、彼の支配下に置かれているという絶望。「安全を確保するためだ」 玲司は平然と言い放った。「相馬先生と別れた後の帰り道を、警護に追わせた」「ふざけないで! ここは私の家よ。勝手に調べ回って、勝手についてきて……!」 私が感情を爆発させかけた時、玲司の視線がスッと下がった。 私の足元で、陽菜が怯えたように私のスカートを強く握りしめている。「……こわい」 陽菜の小さな呟きが、二人の間に落ちた。 玲司の顎の筋肉が、再び強張る。彼はゆっくりと私から視線を外し、散乱した部屋へと目を向けた。「盗まれたものは」 その声は、先ほどよりも一段低く、冷たくなっていた。「……古いパソコンだけ。現金も通帳も残ってる」 私は陽菜の頭を撫でながら、どうにか声を絞り出した。「パソコンの中身は」「七年前の……連絡記録と、昔のデザインのデータ」 玲司の眉間が、わずかに動いた。 玲司の目が細くなった。現金も通帳も残し、七年前の記録が入った古いパソ
last update最終更新日 : 2026-09-23
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第18話 七年前を忘れろ

 玲司がそれを受け取り、ゆっくりと車へ近づいてくる。  後部座席のドアが開けられ、夏の熱気とともに、玲司の体温が車内に流れ込んできた。 「……部屋に、これが残されていたそうだ」  玲司は声を抑えて告げ、証拠品袋を私の目の前に突き出した。  そこに入っていたのは、一枚のコピー用紙だった。  中央に、太いゴシック体で短く印字されている。  ――七年前を忘れろ。  脈が、一気に速くなる。  忘れろ、と言ったのは、七年前の彼自身だ。  だが、玲司からのものとは思えなかった。少なくとも、本人がこんな紙を部屋に残す理由を、私は思いつけない。  七年前のあの夜、玲司は明らかに様子がおかしかった。あの熱と、今回部屋を荒らした人間に何か関わりがあるのだろうか。考えても、結びつける証拠は何もなかった。  ただ、「七年前」を知る誰かが、今の自分たちへ手を伸ばしている。その事実だけで、十分に怖かった。  玲司の親指が、彼自身の人差し指の腹を強く擦っているのが見えた。  玲司は証拠品袋から目を離さなかった。  私は、強張った手を押さえ込むように、陽菜の小さな身体を強く抱きしめた。  すっかり日が落ちたアパートの駐車場。  警察の現場検証が終わり、荒らされた部屋には規制線が張られていた。割られたガラスや散乱した荷物を今夜中に片付けることは不可能で、何より、あの「七年前を忘れろ」という不気味なメッセージが残された空間で眠ることなど、到底できなかった。  玲司の用意した黒い大型車の後部座席で、私は膝の上で眠る陽菜の背中を、一定のリズムでトントンと叩き続けていた。  冷房の効いた車内には、運転席と後部座席を隔てる分厚いパーティションが上がっている。この閉鎖された空間にいるのは、私と陽菜、そして対面シートに座る玲司だけだった。  駐車場を横切る車のヘッドライトが、玲司の横顔を一瞬照らして通り過ぎた。 「……警察の処理は終わった」  沈黙を破ったのは、玲司の低く落ち着いた声だった。  私はビクッと肩を震わせ、彼を見上げた。 「当面、あの部屋には戻れない。ホテルも安全ではない」  玲司は手元のタブレットから視線を上げ、淡い瞳で私を真っ直ぐに捉えた。 「今夜から、うちへ来い」  それは提案ではなく、絶対的な命令だった。  私の全身の筋肉が硬直する。 「
last update最終更新日 : 2026-09-23
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第19話 三つの条件

 コンコン、と控えめに窓ガラスが叩かれた。 私がハッとして顔を上げると、スモークガラスの向こうに湊の姿があった。 ドアロックが解除され、私は急いで窓を開ける。夏の夜の生温かい空気が、車内に流れ込んできた。「……先輩」「結ちゃん、警察の人とは話がついたよ」 湊はネクタイを少し緩めながら、私と陽菜の様子を気遣うように視線を巡らせた。そして、対面シートに座る玲司を一瞥する。「高遠さんの言う通りだ。相手は君の勤務先も、自宅も正確に把握している。急ごしらえのホテルでは、また今日と同じように尾行されるリスクが高い」 湊の言葉に、私は唇を強く噛み締めた。 唯一の味方だと思っていた彼までが、玲司の提案を支持している。「ですが、彼の家に行くなんて……」「悔しいだろうけど、今は陽菜ちゃんの安全が最優先だ」 湊は私の心情を察したように、声を一段低くした。「高遠グループのCEOが暮らすレジデンスなら、専用の直通エレベーターに二十四時間の有人警備。物理的なセキュリティレベルは、僕が手配できるものとは比べ物にならない」 反論の余地はなかった。 自分の意地を通すことで、陽菜を危険な目に遭わせるわけにはいかない。 私はゆっくりと窓を閉め、玲司に向き直った。 玲司は勝敗が決したことを確認したかのように、わずかに顎を引いた。「……分かりました。お世話になります」 私は震える声でそう告げた。だが、玲司が「当然だ」という顔をするより早く、私はバッグから仕事用の小さなメモ帳とペンを取り出した。「ただし、条件があります」 玲司の眉がピクリと動いた。「条件?」「ええ。これは『保護』であって、『囲い込み』ではありません」 私はメモ帳のページを開き、迷いのない手つきで文字を書きつけ始めた。「一つ、生活空間を明確に分けること。勝手に私たちの部屋に入らないでください。二つ、私の仕事や外出を不当に制限しないこと。三つ……陽
last update最終更新日 : 2026-09-24
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第20話 彼のペントハウス

 車が滑り込んだのは、都心の超高級レジデンスの地下駐車場だった。 専用のキーキーパーが恭しく頭を下げ、分厚いガラス扉の向こうにある直通エレベーターへと案内される。 他人の気配がまったくしない、無菌室のような空間。 最上階のペントハウスの扉が開いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。 広大なリビングルーム。壁一面の窓からは、東京の夜景が宝石箱をひっくり返したように瞬いている。大理石の床、黒を基調としたイタリア製の高級家具。生活感というものが一切排除された、まるでモデルルームのような部屋だった。 そして、空調に乗って微かに漂ってくるのは、玲司がいつも身に纏っているあのシトラスの香りだ。「……靴はそこに出しておいてくれ」 玲司は上着を脱ぎながら、私と陽菜に短く指示を出した。 陽菜は泣き疲れたのか、私の腕の中で半分眠りかけている。「あの、私たちはどの部屋を使えば……」 私が尋ねると、玲司はリビングの奥にある一番立派な両開きの扉を指差した。「あそこが主寝室だ。セキュリティの観点からも、一番奥まったあの部屋が安全だ。バスルームもクローゼットも中にある」 私は目を瞬かせた。「主寝室って……あなたが使っている部屋ですよね? 私たちは客室で十分です」 愛人のように扱われるのではないか。あるいは、彼の生活空間の片隅に押し込められるのではないか。そう身構えていた私にとって、玲司の言葉は完全に予想外だった。「客室は玄関に近い。万が一侵入された時のリスクが高い」 玲司は私の戸惑いなど気にも留めず、淡々と理由を説明する。「着替えや必要なものは、明日手配させる。今日はもう休め」「でも……あなたはどこで寝るんですか?」「俺は書斎を使う」 玲司はそれだけ言うと、私たちに背を向け、リビングの反対側にある重厚な木の扉の奥へと姿を消した。 主寝室へ入ると、陽菜はまずベッドではなく洗面所を確認した。「歯ブラシないよ」と当然のように言う。私が返事に困って
last update最終更新日 : 2026-09-24
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