あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

100 チャプター

第41話 七年前と同じ選択

 ただ、その表情は能面のように冷たく硬い。報道陣に向けて愛想笑いを浮かべることもなく、その目はどこか虚空を見据えているように見えた。 (……嫌なら、離れればいいのに) 私は唇を噛んだ。 玄関で彼が何を言いかけたのか、私は聞かなかった。聞けば、また信じたくなってしまう。それが怖かった。 今、莉央の手は彼の腕に添えられている。私には向けられなかったカメラが、その二人を追っていた。 彼の隣に必要とされているのは誰なのか。聞かなかった言葉より、目の前の光景の方が、ずっと確かなものに見えた。 ふと、玲司の視線が会場の隅へと動いた。 私の隠れている柱の方角だ。 探すような、何かを確かめるような鋭い眼差し。 私はビクッと肩を震わせ、咄嗟に柱の完全に裏側へと身を隠した。 見つかりたくなかった。 こんな惨めな気持ちで彼を見ている自分を、知られたくなかった。 鼓動だけが、周囲の拍手よりも大きく聞こえた。 拍手とざわめきが少しずつ遠ざかり、来賓の挨拶が始まる気配がした。私はようやく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。 ここでの役目は終わった。これ以上、あの二人を見ている理由はない。 私は誰にも気づかれないよう、壁伝いにバックヤードへの扉を目指して歩き出した。◇ 喧騒から離れた、静かな廊下。 分厚い絨毯が足音を吸い込み、どこか別の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。 私は控室に戻って荷物をまとめようと、少し早足で角を曲がった。「……思ったより、地味な格好なのね」 静かな廊下に、涼やかな声が響いた。 私の足が、床に縫い付けられたように止まる。 数メートル先。女性用のパウダールームの入り口に、純白のイブニングドレスを着た莉央が立っていた。 先ほどまで玲司の隣で微笑んでいた彼女が、なぜここに。 莉央は化粧直しの途中だったのか、手にした小さなリップブラシをケースにしまうと、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。 彼女の
last update最終更新日 : 2026-10-05
続きを読む

第42話 七年前の写真

 莉央は私の耳元に顔を寄せ、囁くように言った。 「七年前も今も、あなたは正式には選ばれない。……ただの、邪魔な過去の遺物よ」  私の身体が、微かに震えた。  言い返せなかった。  彼女の言葉は、私自身が心の奥底で最も恐れている事実そのものだったからだ。  莉央は満足そうに微笑むと、私から離れ、ヒールの高い音を響かせてメインバンケットの方へと戻っていった。  残された花の香りが、私の呼吸を苦しめた。◇ 控室に戻った私は、逃げるように自分の荷物をまとめた。  陽菜の前なら私は母親でいられる。玲司を好きだった二十一歳の自分にも、婚約者の隣に立てない女にもならずに済む。そう思ってバッグの持ち手を握ったのに、指先は情けないほど冷たかった。  一刻も早く、ここから離れたい。ペントハウスで待つ陽菜の顔を見て、現実に戻りたかった。  バッグを肩にかけた瞬間。  コートのポケットに入れていたスマートフォンが、ブブッ、と短く振動した。  仕事の連絡だろうか。  私は深い溜息をつきながら、画面をタップした。  メッセージアプリの通知。だが、差出人の名前はない。未知のアカウントからの受信だった。  不審に思いながらも、私はメッセージを開いた。  文章は、一切なかった。  ただ一枚の画像データだけが、画面の中央に表示されている。  私は息を呑んだ。  薄暗い従業員用の廊下を、壁に手をつきながら歩く、一人の男。  シャツの胸元は乱れ、額には大量の汗が光っている。片手を壁につき、身体を支えるように傾けた姿から、まともに歩くことさえ難しかったのだと分かる。  七年前の、玲司だった。  あの日。宴席を抜け出し、私と小部屋で顔を合わせる少し前の彼。  写真は、廊下の曲がり角の奥から、誰かが物陰に隠れて撮ったように不鮮明だった。  私の全身の血が、一気に凍りついた。  誰が。  あの夜、玲司がこんな状態だったことを、私以外の誰かが知っていた。  しかも、ただ見ていたのではない。わざわざ写真に残していた。  この写真がある以上、少なくとも、誰かがあの夜の玲司の異常を把握し、後を追って記録していたことになる。あの異常を引き起こした人間と撮影者が同じ側なのかは、まだ分からない。  スマートフォンの冷たい金属が、私の手のひらから急速に体温を奪っていく。
last update最終更新日 : 2026-10-05
続きを読む

第43話 届いた鑑定書

 もし、陽菜が自分の子供だったら。 七年間、結は一人で妊娠期間を耐え、たった一人で娘を産み、育ててきたことになる。その間、自分は彼女の痕跡を見失い、公的な婚約者という仮面を被ったまま、高遠のCEOとして生きてきた。 奪われた七年。 いや、自分が奪った七年だ。 もしそうなら、自分は結に何と詫びればいいのか。彼女の失われた時間を、どう償えばいいのか。 だが、その恐怖の底で、玲司の胸を焦がすようなどうしようもない期待があった。 あの少女が、自分の血を引いている。 自分と結を繋ぐ、絶対的な証。 玲司は親指で人差し指の腹を強く擦り、小さく息を吐き出すと、ペーパーナイフを手に取った。 封筒の端を切り裂く、微かな音が書斎に響く。 中から、折り畳まれた一枚の報告書を引き出す。 専門的な数値やグラフが並ぶその紙の、一番下の結論部分。 玲司の視線が、そこに落ちた。 その瞬間、玲司の全身からスッと温度が消え失せた。 ――被検査者間に生物学的父子関係を支持しない。 何度見返しても、文字は変わらなかった。 0パーセント。 血縁関係は、存在しない。 玲司は報告書を持ったまま、革張りの椅子に深く沈み込んだ。 書斎の外から、陽菜の笑い声が聞こえた。朝、学校へ行く前に「帰ったらメダルあげる」と言っていた声を思い出す。血縁がないという一枚の紙と、ここ数日一緒に食卓を囲んだ時間が、玲司の中でうまく同じ場所に収まらない。 報告書を閉じても、結果は変わらない。それなら距離を取るべきだ、と頭では思う。自分が父親かもしれないという期待で近づいたのなら、違った以上、同じ顔をして居座る方が卑怯ではないか。 だが、陽菜が「玲司さん」と呼ぶ声まで切り離せるのかと考えると、答えは出なかった。 少なくとも、この報告書の上では、陽菜は自分の子供ではない。 報告書を信じるなら、結が七年間一人で育ててきたあの少女は、自分とは血の繋がらない、別の男の子供ということになる。 安堵か。それとも、絶望か。 自分でも驚くほど、胸が
last update最終更新日 : 2026-10-06
続きを読む

第44話 一枚の報告書

 翌日の夕方。 私は陽菜を迎えに行き、ペントハウスに戻ってきた。 ドアを開けると、玄関にはすでに玲司の革靴があった。いつもなら夜遅くまで帰らない彼が、こんな時間にいるのは珍しい。「ただいまー」 陽菜が元気な声を上げながらリビングへ走っていく。 私がその後を追うと、玲司はダイニングテーブルの椅子に座り、無表情でタブレットを見ていた。「……おかえりなさい。早かったんですね」 玄関に入った瞬間から、空気がおかしかった。玲司が早く帰っていることより、家の中が妙に静かなことの方が怖い。陽菜だけが何も知らず、いつものように彼へ駆け寄っていく。その背中を止める理由を、私はまだ持っていなかった。 私が声をかけると、玲司はタブレットから視線を上げた。 その瞳の色が、いつもより一段冷たく、鋭く感じられた。「……ああ」 短い返事。それだけだった。 陽菜が玲司の足元に駆け寄り、手作りの折り紙のメダルを差し出した。「玲司さん、これ、あげる! がっこうで作ったの」 玲司は一瞬だけ動きを止めた。だが、陽菜が差し出した手を宙に置いたままにしないよう、すぐに掌を差し出した。 折り紙のメダルは、玲司の大きな掌にはひどく小さかった。彼はそれを壊さないように持ち、低く「ありがとう」と言った。「つけてみて」 陽菜が得意げに言う。玲司は困ったように紐を見たあと、首には掛けず、胸ポケットへ丁寧に差し込んだ。 その手つきは優しいのに、玲司の笑顔だけがなかった。私はそこで初めて、昨日までとは違う距離を感じた。「高遠さん、何かあったんですか」 玲司は陽菜に「手を洗ってこい」とだけ言い、少女が洗面所へ走っていくのを待ってから私を見た。 いつものようにこちらを射抜く鋭さはなく、ひどく疲れて見えた。 洗面所の水音が聞こえ始め、リビングには二人だけの沈黙が落ちた。「何か、ありましたか」 私が尋ねると、玲司は短く息を鼻から吐き出し、立ち上がった。「…&hel
last update最終更新日 : 2026-10-06
続きを読む

第45話 血より重いもの

「昨日まで絵本を読んで聞かせていたのに?」「期待させる方が残酷だ」 その言葉で、私の中の何かが切れた。「私は、その結果が正しいなんて一度も言ってません」 玲司の瞳がわずかに揺れた。低い声が、紙の上に落ちる。「なら、俺は何を信じればいい」「少なくとも、一枚の紙だけで陽菜との関係まで勝手に決めないでください」 洗面所から陽菜の鼻歌が聞こえる。その無邪気な声が、二人の間にある報告書をいっそう薄っぺらく見せた。私は拳を握った。「それに、仮に血が繋がっていなかったとしても、昨日まで一緒にいた時間まで無かったことになるんですか」 玲司は答えなかった。答えられないことそのものが、私には腹立たしかった。私はテーブルの報告書を玲司の方へ押し返した。「この話は、陽菜の前ですることではありません。今は、あの子にはいつも通り接してください」 玲司はしばらく動かなかったが、胸ポケットの折り紙に触れ、小さく頷いた。「……分かった」 その時、洗面所の扉が開いた。 陽菜が濡れた手を振りながら戻ってくる。玲司は一拍だけ遅れて、いつもの席を少しずらした。「玲司さん、メダル、ちゃんと持っててね」「……ああ」 短い返事だったが、陽菜は満足そうに笑った。 私はその横顔を見ながら、指先を静かに握り込んだ。陽菜の前では、今は何も言えない。けれど、勝手に娘を調べたことまで、なかったことにするつもりはなかった。◇ 同じ頃。 御堂莉央は、都内の高級エステサロンの個室で、マッサージを受けながらスマートフォンを眺めていた。 画面には、黒瀬からの短いメッセージが表示されている。『処理、完了いたしました』 莉央は赤い唇の端を吊り上げ、ふふっ、と小さく笑った。 玲司が極秘で動かしたDNA鑑定。 黒瀬は、検査機関へ検体が配送される途中で、それを別の検体にすり替えたのだ。 結果は当然、「父子関係なし」。 これで、玲司はあの女の子供が自分の血を引いているとい
last update最終更新日 : 2026-10-07
続きを読む

第46話 名前のない実力

 数日後。 玲司が見せた鑑定結果は、胸の底に刺さったままだった。あの晩、陽菜が寝た後で湊先輩に電話をした。娘について、自分に無断で検査されたこと。結果に納得できないこと。そこまで話すのに、何度も声が詰まった。 先輩は誰が父親なのかを聞き出そうとせず、まず報告書を見せてほしいと言った。翌朝、玲司に写しを求めると、彼は何も言わずに渡してきた。私はそれを先輩へ送り、元の紙を彼の机へ戻した。 もう一度調べる方法を探してもらっている。けれど、陽菜に何と説明するかも、正しい結果を玲司へ突きつけた後のことも、まだ決められなかった。 今日は、グランツの旗艦フロア改装プロジェクトの最終候補の選考会だ。 ロッカーに畳んだ制服を押し込む時、洗剤で荒れた自分の指が目に入った。同じ手で、夜は鉛筆を握り、糸を選び、布を作ってきた。どちらも私の仕事だ。けれど今日は、その仕事が、最終候補として評価される日だった。 私は、清掃スタッフのシフトを終え、制服から私服に着替えると、そのまま社員用のバックヤードを抜け、上層階の会議室エリアへと向かった。 前回の説明を受け、二案の試作と見積もりを契約担当へ送ってある。今日は、新たに加わる審査員にも現物を見てもらう。出席者は限られ、名簿の仕事名はYUのままだった。 エレベーターを降りると、すでに会議室の前には数名のスタッフが慌ただしく行き交っていた。私は控えめに壁際に立ち、自分の順番を待つ。 胸の奥で、心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。 自分のデザインが、最終候補に残っている。 その事実だけで、十分すぎるほどの達成感があった。だが、同時に、もし選ばれたとして、自分はこのまま「YU」という名前の裏に隠れ続けるのだろうかという、漠然とした不安も頭をもたげていた。「……次、YUさん。お願いします」 スタッフに声をかけられ、私は弾かれたように顔を上げた。 深呼吸を一つして、会議室の重厚な扉を開ける。 中には、長いテーブルを囲むようにして、ホテルの幹部や外部のインテリアデザイナーたちが座っていた。 私の視線は、自然とテーブルの上座を探してしまう。
last update最終更新日 : 2026-10-07
続きを読む

第47話 選ばれた作品

 一時間の選考会が終わり、結果は後日連絡されることになった。  私が会議室を出て、エレベーターホールに向かって歩いていると、背後から低い声が響いた。 「……終わったか」  私が振り返ると、廊下の角から玲司が姿を現した。  スリーピースのスーツ姿。いつもの冷徹な空気を纏っているが、その色素の薄い瞳は、どこか穏やかな色を帯びて私を見つめている。 「高遠さん……今日の選考会には、いらっしゃらなかったんですね」  私が尋ねると、玲司は短く頷いた。 「ああ。今日は現場と外部の審査員に任せた。俺が席にいれば、意見を変える奴もいる」  閉じた会議室の扉を見た。中では誰も、上座の空席へ判断を求めなかった。私はもう一度玲司を見上げた。 「……ありがとうございます」  私が小さく頭を下げると、玲司は少しだけ眉をひそめた。 「俺に礼を言ってどうする。質問に答えたのは君だろう」  相変わらずの、可愛気のない言い草。  だが、私の胸には、彼に対する微かな、しかし確かな信頼の欠片が芽生え始めていた。 「結果が出るまで、あと数日かかる。それまでは、余計なことは考えるな」  玲司はそれだけ言い残し、足早に去っていった。  息を吸うと、彼の残したシトラスの香りがほのかにした。  エレベーターが来るまでの間、私は手にした資料の角を指で撫でた。会議室で答えたのは、糸の撚りや耐久性、光の見え方のことばかりだった。誰も七年前のことも、玲司との関係も聞かなかった。それが妙に嬉しかった。あの部屋では、私は誰かに捨てられた女でも、清掃スタッフでもなく、ただ一人の作り手だった。◇ それから三日後。  私のスマートフォンに、グランツのプロジェクトチームから一通のメールが届いた。  件名にある「選考結果」の文字を見て、足が止まった。廊下の端へ寄ってから、メールを開いた。  ――最終選考の結果、YU様のデザインを採用候補として決定いたしました。最終プレゼンテーションと契約確認を経て、正式決定となります。  私は画面を何度も読み直した。誤送信ではないかと差出人まで確認する。採用理
last update最終更新日 : 2026-10-08
続きを読む

第48話 名前を取り戻したい

 あまりに簡単に言われ、私は笑った。食卓で二人でプリンを食べながら、仕事の話を七歳児向けに説明する。「ママがデザインした布が、ホテルのお部屋で使われるの」と言うと、陽菜は「じゃあ見に行く」と即答した。 自分の仕事を誰かに見せたいと思ったのは、いつ以来だろう。私は空になった容器を洗いながら、YUという二文字が少しだけ狭く感じられることに気づいた。 食後、私は試作の端切れを一枚だけバッグから出した。陽菜は両手を拭いてから、恐る恐る金糸の表面へ指を滑らせる。「きらきらしてる。でも、ちょっとざらざら」「そこを、もっと引っかからないように直すの」「ママのお仕事って、絵を描くだけじゃないんだね」 私は少し笑った。以前なら「内緒の仕事」としか言わなかった。今は、娘に説明できることが一つ増えた。 頭に最初に浮かんだのは、玲司の顔だった。 彼に、伝えたい。彼が評価してくれた自分のデザインが、ちゃんと選ばれたのだと。 私は急いでペントハウスのリビングへ向かった。 玲司はダイニングテーブルで、タブレットに視線を落としていた。「あの……高遠さん」 私が声をかけると、玲司はゆっくりと顔を上げた。「採用の連絡が、来ました」 私が少し上擦った声で報告すると、玲司は息を整え、タブレットをテーブルに置いた。「……そうか」 短い返事。それでも、口元がほんの少し緩んだのを私は見逃さなかった。「本当に、本当に、何も口利きとか、してないですよね?」 私が疑うように尋ねると、玲司は心外だというように眉をひそめた。「審査員には何も言っていない。俺も連絡を待っていた」 差出人の欄へ目を戻した。しつこく聞いてしまった恥ずかしさで、画面を持つ手が少し下がる。「……落ち着きません。まだ、信じられなくて」「読ませてくれ」 玲司が手を出した。私はスマートフォンを渡した。 読み終えてからも、玲司はしばらく画面を見ていた。返されたスマートフォンを受け取る時
last update最終更新日 : 2026-10-08
続きを読む

第49話 深夜の作業室

 深夜のグランツ。  日中の喧騒が嘘のように静まり返ったホテルの一角、改装プロジェクト専用の作業用ミーティングルームに、私は一人残されていた。  眠気はとっくに限界を越えていた。それでも帰る気になれなかった。ここまで来た仕事を、「子育てしながらだから仕方ない」で終わらせたくない。陽菜のために働いている。でも同時に、これは私自身が欲しかった場所でもある。ようやく、その二つを同じ口で言える気がしていた。  翌日の朝九時に控えた、最終的な試作布のプレゼンテーション。今回は社内だけでなく、外部の厳しい目も入る重要な場だ。「YU」としての採用方針は決まったものの、正式契約を前に、実際の施工へ向けて、照明との相性や縫製の強度を最終確認しなければならない。  長テーブルの上には、私がデザインした布地と、様々な色温度の照明サンプルが散乱していた。  私は布の端を指でなぞりながら、照明のスイッチをカチカチと切り替える。  電球色。温白色。昼光色。  光の加減によって、シルクに織り込まれた極細の金糸が、星屑のように浮かび上がっては消える。 「……少し、青みが強いかな」  私が独り言を呟き、別の照明サンプルに手を伸ばそうとした時だった。  背後で、重厚な扉が開く音がした。  私が振り返ると、そこにはスーツ姿の玲司が立っていた。  ネクタイは少し緩められ、手にはテイクアウトのコーヒーカップが二つ握られている。  彼がこの時間に、一人でこんな作業部屋にやって来るなんて。 「……高遠さん」  私が驚いて声を上げると、玲司は無言のままテーブルに近づき、コーヒーカップの一つを私の前に置いた。 「明日のプレゼン、まだ準備が終わっていないのか」  淡々とした声。 「はい。照明との相性を、どうしても自分の目で確かめておきたくて」  私は温かいコーヒーカップに指先を添えながら答えた。  玲司は自分のコーヒーを一口飲むと、テーブルの上に広げられた布地を見下ろした。  そして、私が先ほどまで操作していた照明サンプルを手に取り、無造作にスイッチを入れた。  電球色の柔らかな光が、布の上の金糸を温かく照らし出す。 「……悪くない」  二人はその後もしばらく、照明を一つずつ切り替えた。玲司は経営者らしく「客室全体でどう見えるか」を聞き、私は布の数センチ単位の変化で答え
last update最終更新日 : 2026-10-09
続きを読む

第50話 婚約解消通知

 その息苦しい沈黙を破ったのは、私のスマートフォンだった。  テーブルの上に置いてあった端末が、ブルブルと震え出す。  画面には「湊先輩」の文字が光っていた。  私はハッとして、すぐに電話に出た。 「はい、先輩」 『夜分にごめんね、結ちゃん。明日のプレゼンのこと、気になって。準備は順調?』  湊の穏やかな声が、スピーカー越しに聞こえてくる。 「ええ、今ちょうど最後の確認をしているところです。ありがとうございます」  私が少しだけ声を弾ませて答えた瞬間、隣に立つ玲司が、奥歯を強く噛み締めるのが見えた。 『あのね、法律関係の知り合いから聞いたんだけど、高遠さん、御堂さんとの婚約を解消するかもしれないって。まだ噂の段階だから、確かなことは言えないけど』 「……婚約を?」  手の中で紙カップがかすかに潰れた。湊は、玲司がすぐ隣にいることを知らない。私はその横顔を見ることができず、カップを持ち直した。 『まだ本人に確かめたわけじゃないからね。明日の仕事が終わったら、また電話するよ』 「……はい。おやすみなさい」  通話を切ると、画面が暗くなった。私はしばらく、その黒いガラスを見下ろしていた。  聞かなければよかったと思った。けれど、知らないままでいられたとしても、彼が隣に立つたび期待してしまう自分は同じだ。顔を上げると、玲司の視線はスマートフォンへ向いたままだった。 「……ずいぶんと、マメな弁護士だな」  玲司は私から視線を逸らさなかった。  私はカチンときて、玲司を睨み返した。 「先輩は、私の大事な相談相手です」 「夜中にわざわざ仕事の邪魔をするのが、相談相手の役目か」 「邪魔なんてしていません。心配してくれただけです」  私は一歩前へ出た。 「先輩に当たらないでください。あなたには御堂さんという婚約者がいるでしょう。……私が誰と話すかまで、あなたに言われたくありません」  売り言葉に買い言葉だった。  だが、その言葉を聞いた瞬間、玲司の瞳から不機嫌さが消え、代わりに氷のような静けさが宿った。  玲司はスーツの内ポケットへ手をやりかけ、そこで止めた。何かを取り出すより先に言うべきことがある、とでも考え直したようだった。  窓の外を走る遅い車のライトが、彼の横顔を一度だけ白く照らした。 「……婚約を、解消するんですか」
last update最終更新日 : 2026-10-09
続きを読む
前へ
1
...
34567
...
10
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status