Tous les chapitres de : Chapitre 31 - Chapitre 40

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第31話 氷嚢越しの熱

 深夜の静寂に、玲司のスマートフォンが発した振動音は不気味なほど大きく響いた。  画面に浮かんだ『黒瀬』の文字。七年前にも、父や兄の会話の中で耳にした名前だ。  名前一つで、七年前の家の匂いまで蘇った。父の怒鳴り声。床に散った書類。掌に食い込んだ星型のピン。忘れたのではない。思い出さないように、毎日の下へ押し込めていただけなのだ。  胸の中心を強く押さえつけられたようで、私は暗いリビングに立ち尽くした。  彼が今、何を調査しているというのか。莉央が陽菜の瞳を見てから、まだ数時間しか経っていない。まさか、もう動き出したのだろうか。  私は冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、ソファでうなされる玲司を見下ろした。 「……ん……」  玲司が再び苦しげに寝返りを打つ。彼の額には、先ほどよりもはっきりと汗が滲んでいた。  私は迷った末、そっと手を伸ばし、彼の額に触れた。  熱い。  七年前のあの夜ほどではないが、明らかに正常な体温を超えている。 「……高遠さん」  私が小さな声で呼ぶと、玲司の長い睫毛が微かに揺れ、ゆっくりと淡い瞳が開かれた。  焦点の定まらない視線が、暗がりの中で私を探し当てる。 「……結」  掠れた声。 「熱があります。少し、待っていてください」  私は急いでキッチンへ向かい、氷をビニール袋に入れてタオルで包んだ。  ソファに戻ると、玲司は体を起こそうとしていたが、すぐに力尽きたように背もたれに沈み込んだ。 「……いい。ただの、過労だ」  強がる玲司の額に、私は強引に氷嚢を押し当てた。 「おとなしくしていてください」  玲司は少し驚いたように目を見開いたが、氷の冷たさに小さく息を吐き、そのまま目を閉じた。  私は玲司の隣に膝をつき、彼の熱い息遣いを聞きながら、氷嚢がずれないように軽く手を添えた。  彼の顔が、すぐ目の前にある。  整った鼻梁、少し薄い唇。  七年前、この唇が自分を激しく求めた記憶が、唐突に蘇る。  私は慌てて視線を逸らした。  こんな時に、何を考えているのか。彼はただ熱を出しているだけで、あの夜とは違う。それに、彼は婚約者がいる身だ。  私が心の中で自分を戒めていると、玲司が不意に口を開いた。 「……なぜ」 「え?」 「なぜ、逃げない」  閉じたままの瞳。しかし、その声ははっき
last updateDernière mise à jour : 2026-09-30
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第32話 難しい絵本

 時計を見ると、まだ朝の六時を回ったばかりだ。いつもなら、陽菜はもっと遅くまで寝ているはずなのに。 私は慌ててベッドを抜け出し、リビングへ向かった。 ソファに玲司の姿はない。 キッチンからは、微かに電子レンジの音が聞こえる。 私がキッチンの入り口から覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。 ネクタイを緩めたシャツ姿の玲司が、慣れない手つきでマグカップに牛乳を注いでいる。そして、その足元には、パジャマ姿の陽菜が立っていた。「……玲司さん、もっとあったかくしてね」 陽菜が小さな声で要求する。「分かっている。……これでいいか」 玲司が電子レンジから温めた牛乳を取り出し、少し温度を確かめてから陽菜に差し出した。 陽菜は両手でマグカップを受け取ると、ふうふうと息を吹きかけながら少しずつ飲み始めた。「……なにしてるの?」 私が声をかけると、二人は同時に振り返った。「ママ……」 陽菜の声には、いつもの元気がなかった。顔が少し赤く、目も潤んでいるように見える。 私は急いで陽菜のそばに駆け寄り、その額に手を当てた。 熱い。「陽菜、熱があるじゃない」「……うん。のど、いたい」 陽菜が力なく頷く。 私は焦燥感に駆られた。学童が休みになり、新しい預け先を見つけなければならない矢先に、熱まで出してしまった。 今日、私はホテルでどうしても外せない仕事の打ち合わせが入っていた。「YU」として、改装案件の条件を確かめる日だ。 仲介業者から届いた依頼書には、試作費と契約条件が記されていた。玲司の家に一時的に身を寄せていることも、七年前の関係も、その紙には書かれていない。断り続けて仕事まで失うのは違う。そう思い、昨日、業者へ受諾の返事をした。「YUは、私です。仕事の連絡は、これまでの窓口を通してください」 玲司にもそう伝えた。彼はすぐには答えず、やがて「分かった」
last updateDernière mise à jour : 2026-09-30
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第33話 今日は、ここにいる

 ホテルの会議室での打ち合わせは、予想以上に難航した。  担当者の資料には、試作布を使った客室の完成予想図が挟まれていた。見覚えのある星の織りが、ベッドの足元に広がっている。 「企画の方では、このYUさんの布を軸に進めたいんです。ただ――」  担当者は見積書の一行に指を置いた。 「この単価では、全室への導入は難しいです。金糸を減らせませんか」  私は試作布を机へ広げた。減らせば安くなる。けれど、同じ間隔で抜くだけでは、星のように返る光が途切れてしまう。 「糸の量を変えたものと、寸法を少し変えたもの、二案出させてください。使う場所によっては、幅を詰めても印象を保てます」 「追加の試作費は?」 「今日、工房へ確認します。今の金額でできるとは、まだ言えません」  言ってから、膝の上で手を握った。断られるのは怖い。それでも、引き受けてから誰かに穴埋めしてもらう約束にはしたくなかった。  担当者は少し考え、見積書の余白に二案分の欄を作った。私はその横へ、工房への確認と次の提出日を書き込んだ。 「では、二案を見てから決めるということで」  担当者は頷き、私へ見積書を返した。まだどちらにも採用の印はない。私は紙を折り直し、自分の資料の一番上へ重ねた。  休憩に入るたび、スマートフォンを確かめた。陽菜は眠ったと、玲司から短い連絡が来ている。ほっとすると同時に、そばにいない自分を責めたくなった。私は画面を伏せ、次の質問に答えるため、見積書へ目を戻した。  打ち合わせが終わり、急いでホテルを飛び出した時には、すでに夕方を回っていた。  息を切らしてペントハウスに戻り、玄関のドアを開ける。 「……陽菜!」  私がリビングに駆け込むと、そこには静かな光景が広がっていた。  ソファには、陽菜が毛布にくるまってすやすやと眠っている。  そして、その隣の床には、玲司が座り込んでいた。  彼の膝の上には、分厚いロボットの図鑑が開かれたままで、玲司自身もソファの座面に寄りかかるようにして眠りに落ちている。ページの端には、陽菜の字で「ここから」と書いた付箋が貼られていた。  私は足を止め、その光景をじっと見つめた。  冷酷で、支配的で、人の心を持たないと思っていた男が、熱を出した七歳の子供のために、こんな不格好な姿勢で眠っている。  彼の額に落ちた前髪が、
last updateDernière mise à jour : 2026-10-01
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第34話 星型のピン

 翌朝。 陽菜の熱は、昨夜のことが嘘のようにすっきりと平熱に下がっていた。 私は安堵の息を吐きながら、洗面所の鏡に向かって急いでメイクを済ませていた。昨日は打ち合わせが夕方まで長引いたため、今日は少し早めにホテルへ向かい、清掃のシフトに入る前に昨日の打ち合わせの資料を整理しておきたかった。「ママ、もう熱ないよ。今日、学校行ける?」 パジャマ姿のままの陽菜が、洗面所の入り口から顔を覗かせた。「今日は大事をとってお休み。湊先輩にお願いして、お昼までシッターさんを手配してもらったから、お部屋で大人しくしてるのよ」 私がリップを塗りながら答えると、陽菜は「えー」と不満げに口を尖らせたが、すぐに私の足元へ歩み寄り、洗面台の端に置かれた化粧ポーチを漁り始めた。「あ、こら、散らかさないで」「ねえママ、これなあに?」 陽菜の小さな指先がつまみ上げたものを見て、私の手元が一瞬止まった。 小さな、銀色の星型ヘアピン。 七年前。宴席の夜に私の髪から外され、翌朝、冷たいホテルのベッドサイドにぽつんと残されていたもの。 あの後、実家に戻って荷物をまとめた時も、逃げるようにアパートを借りた時も、なぜか捨てることができず、いつも化粧ポーチの底の小さなポケットに隠すように持ち歩いていた。 陽菜がその銀色の星を、洗面所の白い光に透かして見ている。「……それは」 七年間、捨てられなかった理由を自分でも説明できなかった。あれは幸せだった夜の証であり、翌朝には「間違い」へ変えられた残骸でもある。そんなものを、何も知らない陽菜が嬉しそうに髪へ留めている。七年前の景色と今の娘の顔が重なり、取り上げるべきか一瞬迷った。 私は言葉に詰まった。取り上げようと手を伸ばしかけたが、必死になるのも不自然で空中で指を止める。「かわいい! 陽菜、これつけたい!」 陽菜は無邪気に笑い、自分の明るい茶色の前髪をかき上げて、その星型のピンをパチンと留めた。 細く柔らかい髪に、銀色の星が冷たく光る。 呼吸が一瞬、浅くなった。 見慣れた娘の顔が、そのピン
last updateDernière mise à jour : 2026-10-01
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第35話 まだ持っていたのか

 無邪気な声が、静まり返った空間にやけに大きく響く。  玲司はマグカップを持ったまま、ゆっくりと私に視線を移した。  色素の薄い瞳の奥に、言葉にできない熱と、静かな衝撃が渦巻いているのがはっきりと分かった。 「……まだ、持っていたのか」  地を這うような、掠れた低い声。  私はスカートの生地を強く握りしめ、必死に平静を装った。 「……ポーチの底に入っていたのを、忘れていただけです」  震える声を抑え込み、冷たく言い放つ。 「大昔のもので、捨てる理由がなかっただけですから。深い意味はありません」  玲司の口元から表情が消えた。 「捨てる理由が、なかった」  彼はその言葉を、反芻するように低く繰り返した。  嘘だ。忘れていたわけではない。捨てられなかったのだ。彼に捨てられた後も、彼から残された唯一の痕跡を。  私は自分の本心を隠すように、陽菜の髪からピンを外そうと手を伸ばした。 「ほら、陽菜。もう外すわよ」 「えー! お誕生日のパーティのとき、これつけたい!」  陽菜が頭を振って抵抗した、その一言が、玲司の表情を一変させた。◇「……誕生日?」  玲司の低い声が、ピンと張り詰めた空気を切り裂いた。  来る。そう思った。年齢に続いて、今度は誕生日を聞かれる。陽菜は何も隠す必要のない子なのに、答えそうになるたび、私だけが息を詰めている。  私の手が、空中で止まる。  玲司はマグカップを近くのテーブルに置くと、ゆっくりと陽菜に近づき、膝を折って目線を合わせた。  シトラスの香りが、私の鼻腔を掠める。 「君の誕生日は、いつだ?」  穏やかなようでいて、絶対に逃げ場を与えない、重く執拗な響き。  私は全身の毛穴が粟立つほどの恐怖を感じた。  だめだ。答えさせないで。 「陽菜、先に着替えておいで。ピンはパーティの時に考えよう」  私はできるだけ声を荒らげないように言った。陽菜は「約束ね」と念を押し、寝室へ戻っていく。  扉が閉まってから、私は玲司を見た。 「聞きたいことがあるなら、私に聞いてください。陽菜から確かめようとしないで」  玲司の親指が、人差し指の腹を擦った。 「君に聞けば、答えるのか」  答えられなかった。さっき陽菜の髪で光っていた銀の星が、目を伏せても浮かんできた。娘に預けてしまった過去を、私はまだ自分
last updateDernière mise à jour : 2026-10-02
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第36話 答えが欲しかった

「……そうかもね」 私は陽菜の髪から星型のピンを外した。陽菜は不満そうにしたが、今日は家にいるだけだと言うと、しぶしぶ返してくれる。 掌の中の銀色の星は、七年前より少し曇っていた。何度も捨てようとして、結局ポーチの底へ戻したものだ。今朝それを玲司に見られたことで、隠していた時間まで見つかった気がした。 私はピンをポーチへ戻さず、洗面台の小皿へ置いた。すぐに理由は説明できなかった。ただ、もう底へ押し込める気にはなれなかった。 玲司は疑っている。けれど、答えを知った目ではなかった。彼に何を言えばいいのか、私はまだ決められずにいた。◇ その日の夜。 結と陽菜が主寝室で眠りについた後、ペントハウスの書斎には、ただ一人、玲司だけが起きていた。 窓ガラスには、東京の冷たい夜景と、自分の顔が薄く反射して映っている。 玲司は革張りの重役椅子に深く腰掛け、デスクの上に置いたグラスの琥珀色の液体をじっと見つめていた。 ――まだ、持っていたのか。 自分で口にした言葉が、何度も戻ってくる。結はあのピンを捨てていなかった。そして、娘の誕生日には答えなかった。 陽菜は小学校の低学年に見える。自分と同じ色の瞳をしている。それだけで父親だと決めることはできない。相馬が父親だという証拠もない。 結がピンを残した理由を、都合よく自分への未練に結びつけているだけかもしれなかった。 玲司の胸の奥で、黒くドロドロとした感情が渦を巻く。 もし、あの少女が、本当に自分の子供だとしたら。 彼女は七年間、たった一人で妊娠し、出産し、育ててきたことになる。 なぜ、何も言わずに消えたのか。 なぜ、自分からすべてを奪うように、あんな風に逃げたのか。 怒り。焦燥。そして、どうしようもない後悔が、玲司の喉を焼き焦がす。 結は、聞くなら自分に聞けと言った。だが、返ってくる答えが怖かった。否定されれば信じられず、沈黙されればまた疑う。玲司はグラスを置き、デスクの上の電話を見た。 確かな「証拠」が必要だ。 彼女が二度と逃げられない
last updateDernière mise à jour : 2026-10-02
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第37話 YUとして立つ

 会議室のテーブルには、私の試作布と、見覚えのない仕様書が並んでいた。「YU側とは、この仕様で話がついています」 先日の打ち合わせを担当した男が、資料を配っている。表紙には、大きく「YU」の文字があった。企画を通すために欲しかった名前なのだろう。けれど、中身は金糸を一律に減らした案だった。私の見積書では、二案とも未決定のままだ。「待ってください。その変更は、お受けしていません」 男が顔を上げた。私に気づくと、壁際の椅子を指した。「朝倉さん。現場からのご意見は、説明の後で伺います」 ホテルで清掃に入る私の顔を、この人は知っている。先日は布の説明も聞いていた。それでも今は、私の向こうの誰かと話がついていると言う。「仲介の方にも、そう伝えたんですか」「調整はこちらにお任せいただいています。納期もありますから」 男は上座へ向き直り、予算を抑えた分の数字を説明し始めた。壁際の椅子だけが、私のために空いている。そこへ座れば、この人はもう私を見ないだろう。 このまま進めば、私が認めたことになる。自分の名前を隠すために、作ってもいない布をYUの仕事にしてしまう。「YUは、私です」 資料をめくる音が止んだ。 上座の玲司を見ないようにして、私はバッグから見積書を出した。折り目のついた紙を開く指が、もどかしいほど震えている。「この二案を見てから決めると、先日お話ししましたね。承諾したという私の返事を、見せていただけますか」「ですが、あなたは仲介の……」「制作者ご本人です」 契約担当者が、初めて口を挟んだ。確認済みの身元と、変更には本人の承諾を要する条件を、進行役へ伝える。男の手が仕様書の上で止まった。 私は椅子に掛けず、試作布を持ち上げた。金糸が照明を拾い、手首を返すと、光が織り目の奥へ沈んだ。「糸を減らす案も作ります。でも、同じ間隔で抜いたものを、そのまま私の案にはしないでください。光が途切れるんです」 男の口元が動いたが、声は出なかった。「費用を抑える必要は分かっています。寸法を変えた案も、比べていただ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-03
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第38話 仕事では、手を出さないで

 背後から、玲司の声がした。 私が足を止めると、玲司はゆっくりと近づいてきた。 シトラスの香りが、微かに鼻腔を掠める。「……良いプレゼンだった」 玲司の口から出た予想外の言葉に、私は思わず目を見開いた。「ただ、納期のスケジュールが少しタイトだ。あの織り方なら、職人の手配をもっと早く進めろ」「あ……はい。すぐに手配の確認をします」「俺から、知り合いの工房に口利きをしておこう」 玲司が事もなげに言った瞬間、私の心の中で何かがカチンと鳴った。「結構です」 私の冷たい拒絶に、玲司は眉をひそめた。「なぜだ。納期の遅れはプロジェクト全体に影響する」「これは私の仕事です。あなたに手伝ってもらう必要はありません」 私は玲司の目を見据え、はっきりと言い放った。「……仕事では、私に命令しないでください。手出しもしないで」 玲司は返事を飲み込むように口元を固くした。 さっき、誰かに代わりの返事をされる怖さを、彼も見ていたはずだった。助けたいのだとしても、私が頼む前に決めないでほしかった。七年前も、実家の経営権が渡っていくのを、私は何もできずに見ていた。 私は、もう二度と、そんな風に誰かに自分の人生を操作されたくなかった。 数秒の、ヒリヒリするような沈黙。 玲司は頑なに拒む私の顔をじっと見つめていたが、やがて、小さく息を吐き出した。「……分かった」 玲司は短く応じ、それ以上踏み込んでくることはなかった。 私は少し拍子抜けしたが、同時に、彼が自分の線を引いた領域を、今度も尊重してくれたことに驚いていた。「……失礼します」 私は頭を下げ、会議室を後にした。 扉が閉まる直前、振り返った私の視界の端で。 玲司は、私が置いていった試作布の端を、指先で愛おしそうに撫でていた。◇ 結が会議室を去った後。 玲司は
last updateDernière mise à jour : 2026-10-03
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第39話 望まれない結果

 同じ頃。 御堂ライフサイエンスの会長室。 大理石の床に響く、硬いヒールの音。 御堂莉央は、ソファに深く腰掛ける一人の男の前に立っていた。 高遠グループ会長室付特別秘書、黒瀬 隆一(くろせ・りゅういち)。莉央は子供の頃から、父や高遠家が表立って話せない用件を処理する場面で、何度もこの男の顔を見てきた。「……調べはついたの?」 莉央の声は、氷のように冷たかった。 黒瀬は表情一つ変えず、手元のタブレットを操作し、一枚の写真を莉央に見せた。 グランツの制服姿で歩く結と、その手を引かれて歩く、七歳くらいの少女。 明るい茶色の髪。そして、玲司と同じ色の瞳。「朝倉結の娘、朝倉陽菜。現在、七歳。……計算上、七年前のあの時期と完全に一致します」 黒瀬の淡々とした報告に、莉央の形の良い爪が、手のひらに深く食い込んだ。「そう」 莉央は短く応じ、タブレットから視線を外した。 その少女が玲司の娘だと、莉央にはそうとしか思えなかった。 七年前も、朝倉結が現れたことで、莉央が思い描いていた筋書きは崩れた。あの夜の細部を思い返すのは、莉央自身にとっても愉快ではない。 莉央の胸の奥で、ドロドロとした憎悪が煮え滾る。 自分の人生は、幼い頃から「高遠家との結婚」というゴールに向けて完璧に設計されてきた。 玲司の隣に立つのは自分だ。あの女のような、ただの没落企業の娘ではない。「……莉央お嬢様」 黒瀬が、声を潜めて続けた。「現在、高遠社長が、極秘でDNA鑑定を動かしています。検体はすでに、指定のラボへ配送されました」 莉央の視線が、鋭く黒瀬を射抜く。「玲司が、自分で?」「はい。おそらく、本人も疑念を持っているのでしょう。結果が出れば、彼は確実にあの母娘を認知し、高遠家に取り込む動きを見せるはずです」 それは、莉央にとっての完全な敗北を意味する。 玲司に「隠し子」がいる事実が確定すれば、御堂家と高遠家の婚約は破談
last updateDernière mise à jour : 2026-10-04
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第40話 日陰の席

 無数のフラッシュが、シャンデリアの光を反射して白く弾けた。  都内の高級ホテル「グランツ」のメインバンケット。医療支援財団が主催する大規模なチャリティーガラの会場は、華やかなドレスとタキシードに身を包んだ政財界の要人たちで埋め尽くされていた。  場違いなのは服装のせいだけではない。ここにいる人たちは、彼と莉央さんが並ぶ姿を「当然」として見ている。その当然の中に、私は最初から存在していなかった。七年前に見た画面の中の婚約発表が、今度は目の前で立体になっているようだった。  私は会場の隅、太い柱の陰で息を潜めるように立っていた。  会場の壁面には、自分が手がけた布が大きく張られている。照明が当たるたびに金糸が細く光り、歩く人の影で一瞬だけ消える。設営スタッフが最後の皺を伸ばすのを見て、私は反射的に近寄り、端を二センチだけ引き直した。 「YUさん、ここで大丈夫ですか」 「はい。これ以上張ると糸が浮きます」  仕事の確認をしている間は平気だった。スタッフが離れると、指先に残る布の感触を確かめながら、私は柱の陰へ戻った。  今日は清掃スタッフの制服ではなく、地味なネイビーのパンツスーツ姿だ。改装の選考とは別に、ガラの装飾用として納めた布の最終確認に呼ばれていた。  華やかな表舞台に出るつもりなど毛頭なかった。ただ、自分の布がこの壮麗な空間をどう彩るのか、一目だけ見ておきたかったのだ。  だが、今の私の視線は、壁を飾る自分の布地ではなく、会場の中心へと釘付けになっていた。  人垣が割れ、エントランスから一組の男女が現れる。  完璧に仕立てられたタキシード姿の玲司。  そして、その隣で彼の腕に親しげに手を添える、純白のイブニングドレスを着た御堂莉央。  壁を飾る私の布と、その白いドレスが同じ視界に入った。私は半歩、柱の裏へ身を引いた。  二人が歩みを進めるたび、周囲から感嘆の溜息が漏れ、カメラのシャッター音が立て続けに響く。  絵に描いたような、完璧なカップル。  高遠グループの若きCEOと、御堂ライフサイエンスの令嬢。家柄も、容姿も、彼らが纏う絶対的な自信すらも、恐ろしいほどに釣り合っていた。  私は無意識に、柱の冷たい大理石に爪を立てた。  頭では分かっている。玲司が莉央と婚約していることは、七年前から知っていた事実だ。ペントハウスの玄
last updateDernière mise à jour : 2026-10-04
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