Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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第21話 嫌いになれない理由

 主寝室のキングサイズのベッドは、私と陽菜が二人で寝てもまだ半分以上余るほどの広さがあった。 シーツからは、微かに玲司の匂いがする。 私は陽菜をベッドに寝かしつけ、掛け布団を首元まで引き上げた。 間接照明だけを残し、私はベッドの端に腰を下ろす。 怒涛のような一日だった。 勤務先で玲司に見つかり、仕事の正体を暴かれ、陽菜の存在を疑われ、挙句の果てに自宅が荒らされ、彼のベッドに座っている。 逃げようとしたのに、結局、彼の手の中に収まってしまった。 バッグの中に入れたままの、彼がサインしたメモ用紙。 あれはただの紙切れだ。彼がその気になれば、いつでも破り捨てることができる。 不安と緊張で神経が昂り、私はまったく眠りにつけそうになかった。 数時間が経っただろうか。 深夜の静寂の中、不意に隣でシーツが擦れる音がした。「……ママ」 陽菜が目をこすりながら起き上がってくる。「どうしたの? トイレ?」「うん」 私は陽菜を抱き上げ、主寝室の中にある広々とした大理石のバスルームへと連れて行った。 用を済ませた陽菜の手を洗わせていると、陽菜がふと、少し開いたままになっていた主寝室の扉の隙間から、リビングの方を覗き込んだ。 そして、私のスカートの裾を軽く引いた。「……ママ」「なに?」「玲司さん、あそこにいるよ」 私はハッとして、陽菜の視線を追った。 真っ暗なリビング。 月明かりだけが差し込む窓際の、黒い革張りのソファ。 そこに、玲司が横たわっていた。 書斎で寝ると言っていたのに、なぜリビングに。 私は音を立てないように、少しだけ扉を開けて覗き込んだ。 玲司は上着を脱ぎ、シャツのボタンを少し開けただけの姿で、ソファに身を横たえていた。 彼の長身にはそのソファは明らかに短すぎた。長い脚を窮屈そうに曲げ、腕を胸の前で組んだまま、静かな寝息を立てている。 主寝室の扉から一番近い、つま
last updateDernière mise à jour : 2026-09-25
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第22話 山積みの贈り物

 ペントハウスの朝は、無音で始まると思っていた。 私はまだ微かに薄暗い中、重い瞼をこすりながらキングサイズのベッドを抜け出した。隣で大の字になって眠る陽菜に布団をかけ直し、そっと主寝室の扉を開ける。 大理石の床。完璧に整頓されたリビング。 昨夜、ソファで身を縮めていた玲司の姿はもうそこにはない。代わりに、ダイニングテーブルの上には、幾つもの巨大な紙袋が山のように積まれていた。「……なに、これ」 私は目を丸くして近づいた。 紙袋には、都内の有名デパートのロゴが印刷されている。隙間から見えているのは、海外製の高級知育玩具、人気キャラクターの等身大に近いぬいぐるみ、さらには年齢層を明らかに間違えているプログラミング用のロボットキットまで。 リビングの一角が、一夜にしておもちゃ屋の倉庫と化していた。 ガチャ、と書斎の扉が開く音がした。 私が振り返ると、ネクタイを締める前の、シャツ姿の玲司が立っていた。 手にはタブレットを持ち、視線は画面に落としたままだ。「起きたか。朝食はホテルのルームサービスを手配してある」 淡々とした声。昨夜、私たちにベッドを譲り、自分はソファで寝た人とは思えないほど、いつもの身なりに戻っていた。「……あの、これは何ですか」 私はダイニングテーブルの山を指差した。 玲司はようやくタブレットから顔を上げ、紙袋の山を一瞥した。「必要なものがあれば言えと言ったが、遠慮して何も要求しないだろう。だから、秘書に適当に見繕わせた」 呆れるべきなのに、胸の奥が妙にざわついた。七年前の彼は、私に何かを与える時でさえ、いつも「必要だから」と理由をつけた。今も変わらない。優しさの形を知らない人が、正解の代わりに値札の高いものを積み上げているように見えた。 適当、という言葉の範疇を完全に超えている。「……こんなにたくさん、陽菜は遊びきれません。そもそも、私たちの生活空間にこんなものを置く場所はありませんし」「ここは俺の家だ。置く場所ならいくらでもある」
last updateDernière mise à jour : 2026-09-25
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第23話 朝ごはんがいい

 玲司がコーヒーカップを持ったまま、少し得意げに(本人は無表情のつもりだろうが、私には分かった)陽菜を見下ろした。「好きなものを選べ」 玲司の言葉に、陽菜は紙袋の中を覗き込んだ。 巨大なクマのぬいぐるみ。複雑なギアが組み合わさったロボット。 十秒ほどじっと見つめた後、陽菜は顔を上げた。「全部、いらない」 私は陽菜と玲司の顔を交互に見た。玲司は紙袋へ目を落とし、聞き間違いではないかという顔をしている。 こんなふうに言葉を失う人だったのか。昨日まで怖くて見られなかった横顔を、私は少し長く見ていた。「……いらない、とはどういうことだ。これらはすべて、対象年齢を考慮して……」「だって、こんなにおっきいの、一緒にお布団で寝られないもん」 陽菜はクマのぬいぐるみを指差して、あっさりと切り捨てた。「このロボットも、説明書が英語だから読めないし。ママ、今日のごはん、なに?」 陽菜の興味は、数万、いや数十万円はするであろうおもちゃの山から、すでに朝食のメニューへと移っていた。 玲司の顎が、微かに強張る。 金と権力で解決できない問題に直面したCEOの、完全なる敗北だった。「……ルームサービスを頼んである」 玲司が低い声で答えると、陽菜は首を傾げた。「るーむさーびす?」「ああ。下から、プロのシェフが作った食事が運ばれてくる」「えー。私、ママのごはんがいい。たまごやきと、おみそしる」 陽菜の無邪気な要求に、玲司は完全に言葉を失った。 私はついに堪えきれず、小さく吹き出した。「ごめんなさい……でも、陽菜は朝は和食派なんです」 私が笑いを噛み殺しながら言うと、玲司は恨めしそうに私を睨んだ。「……材料は、冷蔵庫に入っているはずだ」「それなら、私が作ります。陽菜、顔洗っておいで」「はーい!」 陽菜の返事を聞いてから、私はキッチンへ向かっ
last updateDernière mise à jour : 2026-09-26
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第24話 不器用な卵焼き

「えっ……あなたが、ですか?」 私はボウルを持ったまま、目を丸くした。 十四歳の頃から知っているのに、私はこの人の日常をほとんど知らないのだと、今さら気づいた。知っているのはスーツ姿と、兄の隣で交わす短い笑い声と、忘れようとしても忘れられない一夜だけ。フライパンを前にした横顔は、そのどれにも当てはまらなかった。 七年前の記憶を探っても、彼が料理をする姿など一度も見たことがない。「朝食くらい、作れる。貸せ」 玲司は私の手から半ば強引にボウルと菜箸を奪い取ると、IHヒーターの前に立った。 フライパンを火にかけ、油を引く。ここまでは良かった。 だが、ボウルの中の卵を溶き始めた時、その手つきの不自然さに私はハラハラし始めた。「あの……もう少し、白身を切るように混ぜた方が……」「分かっている」 玲司は私のアドバイスを突っぱね、熱したフライパンに一気に卵液を流し込んだ。 ジューッ、という派手な音が鳴り響き、フライパンの上の卵が急激に膨れ上がる。「あ、火が強すぎます!」 私が手を出そうとしたが、玲司は「触るな」と私を制止し、不器用な手つきでフライパンを煽ろうとした。 しかし、卵は綺麗に巻かれることなく、フライパンの端で無惨な塊へと変貌していく。「……玲司さん、なにしてるの?」 洗面所から戻ってきた陽菜が、キッチンの入り口で立ち止まった。 玲司の背中が、ビクッと強張る。「……たまごやきだ」 玲司は低い声で答えながら、必死に焦げつつある卵の塊を四角く整えようとしていた。 陽菜はつま先立ちをして、フライパンの中を覗き込んだ。「それ、たまごやき? なんか、黒いよ?」 容赦ない七歳児の指摘。 玲司が、奥歯を強く噛み締める。「……少し、火が強かっただけだ」「ママのたまごやきは、もっときれいで、あまいんだよ。玲司さんの、おいしく
last updateDernière mise à jour : 2026-09-26
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第25話 いなくなる時は、言え

 結局、その日の朝食は、私が手直ししてどうにかスクランブルエッグ状になったものと、ルームサービスのパンという奇妙な組み合わせになった。 ダイニングテーブルの端に積み上げられた高級おもちゃの山を背に、三人は食事をとった。 陽菜は、少し焦げたスクランブルエッグを口に運び、不思議そうに首を傾げた。「……これ、しょっぱい」 玲司の動きが止まる。「俺は、砂糖と塩を間違えていないぞ」「だって、お塩しか入れてなかったもん。ママのは、お砂糖が入ってるんだよ」 陽菜は不満そうにしながらも、もぐもぐと卵を食べ進めている。 玲司は無言で自分の分の卵を口に運び、微かに眉をひそめた。 私はそんな二人のやり取りを見ながら、コーヒーを一口飲んだ。 おかしい。 誘拐されるかもしれないという恐怖から逃れてきたはずなのに。 敵であるはずの彼の家で、こんな風に食卓を囲んでいるなんて。「……ママ」 陽菜が、フォークを持ったまま私を見上げた。「玲司さんがいると、ママ、よく笑うね」 私の手から、コーヒーカップが滑り落ちそうになった。 カチャリ、と陶器がぶつかる高い音が響く。 私の顔から、急速に血の気が引いていく。 笑っていた? 自分が? 玲司の前で? 私は慌てて玲司の方を見た。 玲司の色素の薄い瞳が、私を真っ直ぐに捉えている。 彼の瞳の奥に、微かな熱が灯っているのが見えた。 私は咄嗟に視線を逸らし、立ち上がった。「……ご、ごちそうさま。陽菜、もう行く時間よ。着替えなさい」 逃げるようにキッチンへ向かい、食器をシンクに置く。 背中に、玲司の視線が突き刺さっているのを感じる。 陽菜の無邪気な一言が、私が必死に築き上げようとしていた壁に、小さなヒビを入れていた。 巨大なクマのぬいぐるみと、最新のロボットキット。 陽菜に「一緒に寝られない」「説明書が読めない」とあっさり切り捨
last updateDernière mise à jour : 2026-09-27
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第26話 触れない約束

 命令の形なのに、最後だけ声が低くなった。私は冷蔵庫に貼られた昨日の紙へ視線をやる。 「買い物に行く時も?」 「場所まで報告しろとは言わない。家を離れるなら、黙って消えるな」 「……分かりました」  互いに納得したというより、これならしばらく同じ屋根の下で暮らせる、という程度の合意だった。冷蔵庫には昨夜の条件書が一枚だけ残った。  その日の夕方。  私は陽菜を部屋に残し(もちろん、屈強な警護がドアの外に控えている状態だが)、レジデンスから少し歩いた場所にある高級スーパーへ夕食の買い出しに出ていた。  玲司の冷蔵庫には高級食材ばかりが並んでいたが、陽菜が好むような大衆的なウインナーやケチャップが決定的に不足していたのだ。  両手に紙袋を抱え、冷房の効いたレジデンスのエントランスに戻ってきた時だった。  黒い大型車が車寄せに滑り込み、後部座席から玲司が降りてきた。  仕事帰りなのだろう。朝とは違い、スーツの上着を羽織り、ネクタイをきっちりと締めている。 「……高遠さん」  私が足を止めると、玲司も私に気づき、わずかに目を見開いた。 「買い出しに行っていたのか。警護は一人つけたはずだが」 「スーパーの入り口で待ってもらいました。あまりゾロゾロ歩くと、逆に目立つので」  玲司は返事の代わりに、私の手から紙袋を一つ取った。 「あ、いいです。自分で持てます」 「重いだろう。行くぞ」  ルールで「勝手に触れない」とは決めたが、「荷物を持たない」とは決めていない。私は反論するタイミングを失い、玲司の後を追って専用エレベーターへと乗り込んだ。  密室に、二人の気配だけが満ちる。  玲司のスーツから漂うシトラスの香りが、狭い空間に濃密に立ち込めた。  私は無意識に、彼から少し距離を取るように壁際に寄った。  扉が閉まり、エレベーターが滑らかに上昇を始める。  その時だった。  不意にエレベーターが小さく揺れた。ヒールの踵が滑り、私はとっさに壁へ手を伸ばした。 「あっ」  紙袋を取り落としそうになった瞬間、強い力で腕を引かれた。  気がつけば、私の背中は玲司の硬い胸板に押し付けられ、腰にしっかりと彼の腕が回されていた。  スーツ越しに伝わってくる、火傷しそうなほどの熱。  私は持っていたものを取り落としかけた。  見上げると、す
last updateDernière mise à jour : 2026-09-27
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第27話 婚約者の訪問

 ピンポーン。 玄関のチャイムが、無機質な音を立てて鳴り響いた。 私の動きが止まる。 このフロアには玲司の部屋しかない。そして、一階のセキュリティを突破してここまで上がってこられる人間は、限られているはずだ。 玲司も怪訝な表情を浮かべ、壁に設置されたモニターを確認した。 画面を見た瞬間、彼の眉間が険しく刻まれる。「……誰ですか?」 私が不安に駆られて尋ねると、玲司は答えずに玄関のドアノブに手をかけた。 カチャリと音がして、重い扉が開かれる。 廊下の間接照明に照らし出されて立っていたのは、一人の美しい女性だった。 洗練された純白のワンピース。完璧に計算されたメイク。どこか冷ややかさを感じさせる、知的で整った顔立ち。 彼女は、ドアを開けた玲司を見るなり、花が咲くような完璧な微笑みを浮かべた。「玲司。ただいま」 その声は甘く、そして周囲の空気を凍りつかせるほどの絶対的な自信に満ちていた。 私は息を呑んだ。 御堂 莉央(みどう・りお)。 御堂ライフサイエンス創業家の令嬢で、七年前、玲司の婚約者としてメディアに大々的に発表された女性。 彼女の冷たい視線が、玲司の肩越しに、玄関で立ち尽くす私へと真っ直ぐに突き刺さった。 完璧に手入れされた黒髪。一分の隙もないメイク。七年前、メディアを通じて見た時よりも、彼女ははるかに洗練され、大人の女としての凄みを増していた。 莉央は玲司の肩越しに私の姿を認めると、ふわりと花が咲くような、しかし温度を一切感じさせない笑みを浮かべた。「……お久しぶりですね、朝倉結さん」 涼やかな声。 私の背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走る。 七年前の買収直後に玲司との婚約が公表された彼女なら、朝倉家との一件を知っていてもおかしくない。だが、私が姿を消した経緯や、あの夜のことをどこまで知っているのかは分からなかった。 ただ、「七年間、玲司の隣に立ち続けた婚約者」が目の前にいる。その事実だけで、私の胸は重くなった。
last updateDernière mise à jour : 2026-09-28
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第28話 公的には、婚約者

 言葉の端々に、鋭い棘が隠されている。  私は無意識に、スカートの裾を強く握りしめた。  そうだ。彼女の言う通りだ。  自分は、ただの「昔の知り合い」。七年前のあの一夜を引きずり、勝手に子供を産み、今また彼の家に転がり込んでいる、どうしようもなく惨めな存在。 「……帰れ。今日は疲れている」  玲司が冷たく言い放ち、ドアを閉めようとした。  その時。 「玲司さん、だれー?」  リビングの奥から、陽菜がパタパタと足音を立てて走ってきた。  私は持っていたものを取り落としかけた。◇「陽菜、来ちゃだめ!」  私は慌てて声を上げたが、遅かった。  陽菜は玲司の足元まで来ると、開いたドアの向こうに立つ莉央を不思議そうに見上げた。  莉央の笑顔が、凍りつく。  純白のワンピースを着た完璧な女性と、寝癖のついた明るい茶色の髪の少女。  二人の視線が交差する。 「……この子、は」  莉央の声から、先ほどの余裕が完全に消え失せていた。  彼女の視線が、陽菜の髪から、その瞳へと移る。  明るい玄関の照明を受けて、娘の瞳には微かな緑が浮かんでいた。玲司と、まったく同じ色だった。  陽菜は莉央のドレスに見とれるように目を瞬かせ、無邪気に首を傾げた。 「玲司さんの、およめさん?」  玄関の空気が、一瞬にして真空状態になった。  誰も、呼吸をしていないかのような静寂。  私は血の気が引くのを感じながら、陽菜の小さな肩を引き寄せ、自分の背中に隠した。  考えるより先に身体が動いていた。相手が誰であろうと、陽菜へ向けられる視線の意味が分からないうちは近づけたくない。七年間、そうやってこの子を守ってきた。その習慣だけは、玲司の家にいても変わらなかった。 「……ちがうわ、陽菜。お仕事の人よ」 「いいえ」  莉央が、氷のように冷たい声で私の言葉を遮った。  彼女はゆっくりと視線を上げ、私を、そして玲司を見据えた。 「まだ、婚約者ですわ。……玲司?」  莉央は玲司の返答を促すように、首を傾げる。  玲司の顎が、強張っているのが見えた。  彼は私に視線を向けることもなく、ただ前だけを向いて、短い事実だけを口にした。 「……公的には、そうだ」  公的には。  その言葉が、私の胸を鋭く抉った。  分かっていた。彼らが婚約していることは、七
last updateDernière mise à jour : 2026-09-28
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第29話 正規の席

 それは、私に対する明確な牽制だった。 七年前も今も、あなたは選ばれない。正規の席は、私のものだ。 莉央の微笑みが、そう告げていた。「……陽菜、奥に行っていなさい」 私は震える声で陽菜に言い聞かせると、玲司の横を通り抜け、莉央の前に進み出た。「ご挨拶は結構です。私たちは、少し事情があって一時的にここにお世話になっているだけですので」「事情、ですか」 莉央の視線が、再び私の背後に隠れる陽菜へと向けられる。「ええ。とても……可愛らしいお嬢さんですわね」 その言葉の裏にある、冷たい探求心。 彼女は疑っている。陽菜の瞳の色と、年齢を。 私は心臓が破裂しそうになるのを必死に堪え、莉央を睨み返した。「……お引き取りください。子供が、疲れていますので」 莉央は私の強ばった顔を見て、満足そうに微笑みを深めた。「ええ、今日はこれで失礼しますわ。……玲司、また後で連絡するわね」 莉央は玲司に軽く手を振ると、持っていた小さなクラッチバッグの中から、一枚のカードキーを取り出した。 それは、このレジデンスのゲスト用エントランスのカードだった。 彼女はそれを指先で弄びながら、カチャリと音を立ててバッグにしまう。 その時、彼女の手から何かが滑り落ちた。 パリン、という硬い音がして、足元に銀色の小さなコンパクトミラーが落ちて割れる。 破片が、大理石の床に散らばった。「あら、嫌だわ」 莉央は表情一つ変えず、割れた鏡を見下ろした。 私の背筋に、冷たい汗が伝う。 莉央の目は、割れた鏡ではなく、私の背後にいる陽菜を真っ直ぐに見ていた。 莉央の視線は、陽菜の瞳からなかなか離れなかった。何かを計算し始めたように見えた。◇ 莉央が去った後、玄関には重苦しい沈黙だけが残された。 玲司は割れた鏡の破片を無言で片付け、立ち上がる。「結。莉央のことだが―
last updateDernière mise à jour : 2026-09-29
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第30話 黒瀬という男

 私は洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。  ひどく青ざめ、怯えたような顔。  莉央のあの冷たい微笑みが、脳裏に焼き付いて離れない。  あの瞳の色を、彼女も気に留めたのだろうか。陽菜が玲司の血を引いていると、疑い始めたのだろうか。  もし、御堂家が本気で自分たちを調べ始めたら。  七年前のように、またすべてを奪われるかもしれない。 「ママ?」  服を脱いだ陽菜が、心配そうに私を見上げている。 「……ごめんね、陽菜。すぐに入るから」  私は無理に笑顔を作り、陽菜の頭を撫でた。  その手は、自分でも止められないほど小刻みに震えていた。◇ 深夜。  私は寝室のベッドで、浅い眠りと覚醒を繰り返していた。  小さな寝息を数えていると、胸のざわつきが少しだけ遠のく。私が欲しかったのは、豪華な部屋でも、守られる生活でもない。この子が明日の朝も何も知らずに目を覚まし、「お腹すいた」と笑えること。それだけだったはずなのに、玲司が近くにいると、七年前に置いてきたはずの願いまで一緒に目を覚ましてしまう。  隣で眠る陽菜の寝息だけが、唯一の救いだ。  ふと、喉の渇きを覚え、私はベッドを抜け出した。  リビングの照明は落とされているが、窓の外の夜景が部屋の中に青白い光を投げかけている。  キッチンへ向かおうとした私の足が、ソファの手前で止まった。  昨夜と同じように、玲司がソファで身を縮めて眠っている。  シャツのボタンは外され、ネクタイは床に落ちている。  私は音を立てないようにキッチンへ向かい、グラスに水を注いだ。  冷たい水が、乾いた喉を潤していく。  グラスをシンクに置き、再び寝室へ戻ろうとした時。 「……う」  ソファの方から、微かな呻き声が聞こえた。  私は足を止め、振り返る。  玲司が、眉間を寄せて苦しそうに寝返りを打っている。  彼の額には、じんわりと汗が浮かんでいた。  七年前の、あの夜。  異常な熱に浮かされ、苦しそうに息を吐いていた彼の姿がフラッシュバックする。  私は無意識のうちに、ソファへと近づいていた。  彼の顔を覗き込む。  七年前のあの夜ほどの異様な熱気は感じない。ただ、ひどくうなされているようだ。 「……結」  掠れた声が、私の名前を呼んだ。  鼓動が、一つ大きくずれた。 「……消える、な
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