Tous les chapitres de : Chapitre 51 - Chapitre 60

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第51話 触れない約束の先

 会議室には、空調の低い音だけが残っていた。  玲司は腕を伸ばせば届く場所にいる。あの瞳を見ていると、七年前に忘れたつもりでいた気持ちまで蘇りそうだった。  彼の手が上がった。頬に触れる寸前で、指先が止まる。 「……触れない約束だったな」  玲司は手を下ろし、半歩退いた。  自分で決めた約束なのだから、ほっとするはずだった。なのに、離れていくのを見た途端、胸が痛んだ。  気づけば、私は彼の上着の袖を掴んでいた。 「……結?」 「私も、どうしたいのか分からないんです」  触れないでと言ったのは私なのに、指を開けなかった。  玲司は少し身を屈め、私が顔を上げるのを待った。シトラスの香りに、さっきまで飲んでいたコーヒーの匂いが混じる。 「……七年間、ずっと君を忘れられなかった」  忘れられなかったのなら、どうしてあの朝、置いていったの。  聞きたいことは山ほどある。それでも今は、返事の代わりに袖を少し引いた。  玲司の視線が私の唇へ落ちる。頬にかかった髪を耳にかけられ、指の腹が耳たぶを掠めた。思わず肩が震える。  その小さな反応に、彼の手が止まった。  恥ずかしくなって俯きかけた時、頬に大きな掌が添えられた。  私は目を閉じた。  唇が重なる。  最初はほんの少し触れただけだった。離れた唇がまた戻ってくる。二度目は少し長く、三度目には角度を変えて、下唇をそっと挟まれた。 「……ん」  声が漏れた途端、玲司が動きを止めた。  唇は離れたのに、彼の吐息はまだ頬に触れている。嫌だったわけじゃない。そのことを伝えたくて、私は袖を握り直した。上質な生地が指の中でくしゃりと皺になる。  彼の喉が小さく動いた。 「……結」  名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。  玲司が再び顔を寄せてきた。今度は私も、ほんの少し背伸びをした。  さっきより深い口づけだった。柔らかな唇も、少し乱れた息も、近すぎて何一つごまかせない。息を継ごうと顔を離した拍子に鼻先が触れ、思わず目を開ける。  いつも冷静な玲司が、苦しそうな顔をしていた。  もう一度、触れてほしい。  そんなことを考えた自分が恥ずかしくて、私は彼の胸に額を伏せた。背中へ回りかけた手が止まる。 「……もう少しだけ」  ようやく口にすると、大きな掌が背中に触れた。遠慮がちなその手
last updateDernière mise à jour : 2026-10-10
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第52話 盗まれたデザイン

 隣の席から声がかかり、私はハッとして顔を上げた。 法務・契約担当として同行してくれている湊が、少し心配そうに私の顔を覗き込んでいる。「顔色が悪いけど、大丈夫? 昨夜、遅くまで作業してたみたいだし」「あ……いえ、大丈夫です。少し緊張しているだけで」 私は慌てて背筋を伸ばした。 仕事の場だ。彼とのことばかり考えている場合ではない。 私はバッグから布見本の端を少しだけ引き出し、指先で触れた。ざらつき、糸の張り、金糸が引っかからない位置。頭の中で順番を確認していくうちに、昨夜の唇の感触が少しずつ遠ざかる。恋愛は答えが分からなくても、布なら触れば分かることがある。その確かさに逃げ込むように、私は呼吸を整えた。 私が自分に言い聞かせていると、部屋の奥の扉が開き、プロジェクトの責任者である、高遠グループのホテル事業会社「高遠ホスピタリティ」の役員たちが次々と入室してきた。 その最後尾に、玲司の姿があった。 完璧なスリーピーススーツ。冷徹なCEOの顔。 私の視線が一瞬だけ彼と交差したが、玲司はすぐに目を逸らし、無表情のまま上座についた。 昨夜の熱情など、微塵も感じさせない。 その明確な線引きに、私は少しだけ安堵し、同時に胸がちくりと痛んだ。 昨夜の続きを仕事場へ持ち込まれたら困る。そう思っていたのは本当だ。それなのに、彼が何事もなかったように資料へ目を落としただけで、置いていかれたような気持ちになる。自分の面倒臭さに呆れながら、私は机の下でスカートの皺を一度だけ伸ばした。「では、定刻となりましたので、最終プレゼンを始めます」 進行役のマネージャーが資料を開いた直後、手元のタブレットが短く振動した。画面を確認した彼の表情が変わる。「……開始前に、一点確認させてください」 プロジェクターに一通の正式な照会書が表示された。差出人は、御堂ライフサイエンス傘下のインテリアブランド「ミドウ・デコール」の法務部。YUが提出した意匠が、同社の登録済み意匠と酷似しているため使用を停止してほしい、という内容だった。 添付された
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第53話 自分の言葉で守る

「五分、ください」 私が遮った。自分でも驚くほど声は落ち着いていた。「今ここで、少なくとも制作時期は確認できます」 私は湊を振り返った。「先輩、大学の展示アーカイブ、まだ公開されていますよね。三年の時の学生展です」 湊はすぐにタブレットを開いた。私も自分のメールを検索する。当時使っていた印刷会社の名前は覚えていた。件名に「学生展フライヤー」と入れた入稿メールが残っている。 数分後、大学の年度別展示ページから、八年前のPDFが見つかった。そこには問題の図案と、まだ匿名ではなかった「朝倉結」の名前が小さく印刷されている。 画面の隅にある自分の名前を見た瞬間、胸の奥が妙に熱くなった。「YU」になる前の、何者でもなかった頃の名前。上手いとも言えない図案を、褒められたくて必死に仕上げていた学生の私が、八年越しにこちらを助けてくれているようだった。 同じ図案を添付した印刷会社への入稿メールと請求書も見つかった。一つだけなら説明の余地がある。だが、公開された大学資料と第三者への発注記録が、同じ年月を示していた。「登録されたものは、この原型をほぼそのまま平面化しています」 私は御堂側の資料と、自分の試作布を横に並べた。「でも、今日出している布は違います。金糸の反射率に合わせて曲線をずらして、星の間隔も織り方向に合わせて組み直しています。原型のまま織れば、この部分が引きつれます」 布を裏返し、糸の走る方向を指で示す。専門外の役員にも分かるよう、私は一つずつ説明した。未熟だった昔の図案まで隠さず見せるのは恥ずかしかったが、それこそが自分が作った証拠だった。 昔の線は荒い。今なら絶対にその角度にはしないし、星の置き方も幼い。それでも、下手だった過去まで他人のものにされてたまるものかと思った。上手くなった今だけが私ではない。あの頃の失敗も含めて、自分が積み上げてきた時間なのだ。 ホテル側の法務担当が資料を確認し、「少なくとも当社がプレゼンを中止する理由にはなりません。原本保全と先方への回答はこちらで行います」と告げた。 玲司は私ではなく進行役を見た。「続けろ」 それだけだった。
last updateDernière mise à jour : 2026-10-11
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第54話 よくやった

 ――午後。 すべての審査が終了し、私のデザインは技術評価で最上位となった。午後には大学と印刷会社への照会も取れ、法務確認を条件に採用方針を維持することが決まった。 プロジェクトチームから拍手で祝福された私だったが、極度の緊張の糸が切れたせいか、大勢の前で笑顔を作るのがひどく苦痛だった。「……少し、風に当たってきます」 私は早々に挨拶を済ませ、逃げるように会議室を飛び出した。 誰もいない、静かな廊下。 私は壁に寄りかかり、ずるずるとしゃがみ込みそうになるのを必死に堪えた。 少なくとも、今日は引かなかった。 自分の名前で残っていた八年前の記録を、自分の声で説明できた。その事実が、遅れて身体に沁みてきた。 朝の照会書は、机の上から消えたわけではない。けれど、私の仕事を止めるための紙に、今はこちらから答えを返せる。 コツ、コツ。 廊下の奥から、静かな革靴の音が近づいてきた。 私が顔を上げると、玲司が立っていた。 彼は無言のまま私の隣に歩み寄り、自動販売機で買ったらしい缶コーヒーを、私の目の前に差し出した。「……ブラックだ。甘い方が良かったか」 私は少し驚いて玲司の顔を見た後、ゆっくりとその缶を受け取った。 温かい金属の感触が、冷え切っていた私の手のひらにじんわりと伝わってくる。 缶の熱を逃がさないように両手で包んだ。人前では平気な顔をしていたのに、廊下へ出た途端、身体の方が先に限界を認めてしまったらしい。肩から力が抜けると、急に空腹まで思い出した。朝からほとんど何も喉を通っていなかった。「……ありがとうございます。ブラックで、大丈夫です」 私が小さく答えると、玲司は私の隣の壁に背中を預け、長い脚を交差させた。「よく、あの場で逃げずに言い返したな」 玲司の声は、普段の冷たさが抜け落ち、どこか穏やかな響きを持っていた。「……逃げても、誰も助けてくれないって、七年前に学びましたから」 私が自
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第55話 五分待て

 日曜日の朝。 ペントハウスの広大なリビングには、絵の具やクレヨン、色画用紙が散乱していた。 陽菜が小学校の図工の宿題で「夏の思い出」の絵日記を描いている最中なのだ。 私はキッチンで遅めの朝食の片付けをしながら、時折その様子に目を配っていた。「ママ、あおいろの絵の具がないよ」 陽菜が画用紙から顔を上げ、不満げに声を上げた。「え? こないだ買ったばかりじゃない」 私が手を拭きながら近づくと、陽菜は空になった青色のチューブを逆さにして振って見せた。「海を描きすぎちゃったの。これじゃ、お空が塗れない」「もう……しょうがないわね。あとで駅前の文房具屋さんに買いに行きましょうか」「うん!」 陽菜が元気よく返事をした、その時。 ガチャリ、と重厚な書斎の扉が開いた。 休日の朝だというのに、玲司はすでに完璧なスラックスとシャツ姿で現れた。ただ、さすがにネクタイは締めておらず、シャツの第一ボタンも外されている。 その少しだけ緩んだ姿に、私は無意識に視線を奪われそうになり、慌てて目を逸らした。 スーツ姿ならいくらでも見慣れているのに、休日のシャツ一枚というだけで知らない人のように見える。家の中で同じ朝を迎えること自体、七年前には想像したこともなかった。私は洗った皿を必要以上に丁寧に水切り籠へ並べた。 DNA鑑定の結果を見せられたあの日から、玲司は陽菜との距離を測りかねているようだった。私に対しても、仕事以外では妙に慎重になっている。あの夜はあんなキスをしたくせに、家に戻れば触れようともせず、必要以上の言葉も口にしない。 そのちぐはぐさが、かえって私を落ち着かなくさせていた。「……出かけるのか」 玲司がコーヒーメーカーに近づきながら、低い声で尋ねた。「はい。陽菜の絵の具がなくなってしまったので、少し文房具屋さんまで」「警護を一人つける。車を手配させよう」「えっ、車なんて大袈裟です。歩いてすぐのところですし……」 私が反射的に断ろ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-12
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第56話 三人の休日

 休日の駅前は、家族連れや買い物客で賑わっていた。 私は陽菜と手を繋ぎ、文房具店へと向かって歩く。 その少し後ろを、ダークトーンのカジュアルなジャケットを羽織った玲司が無言でついてきている。彼のさらに十数メートル後ろには、目立たないように私服の警護が一人、一定の距離を保って尾行していた。 玲司の存在感が強すぎて、すれ違う人々の視線が次々と彼に注がれる。 私は居心地の悪さに少しだけ歩くペースを早めた。 文房具店に入ると、陽菜は一直線に絵の具のコーナーへと駆けていった。「あった! あおいろ!」 陽菜が青色のチューブを手に取って喜んでいると、いつの間にか横に立っていた玲司が、棚の上段に置かれた大きな木箱を指差した。「……それ一本でいいのか」「うん」「これなら、百二十色あるぞ」 玲司が事もなげに指差したのは、プロの画家が使うような、数万円は下らない高級水彩絵の具の木箱セットだった。 私は慌てて玲司の腕を引いた。「ちょ、ちょっと! そんなの買えません!」「俺が払う。これだけ色があれば、海も空も塗り放題だろう」 玲司は本気でそれが最適解だと思っている顔をしている。 だが、当の陽菜は、その木箱を一瞥すると、あっさりと首を振った。「いらない」「……なぜだ。青色以外にも、色々な色がある」「だって、こんなに重いの、学校の図工袋に入んないもん」 極めて現実的な七歳児の反論だった。 玲司は納得できない顔で、百二十色の木箱と陽菜が握りしめている小さな青色のチューブを交互に見比べた。「車で送迎させれば問題ないだろう」「玲司さん、なんにも分かってない」 陽菜が呆れたようにため息をつく。 私はもう、笑いを我慢することができなかった。「ふふっ……」 私が口元を隠して小さく笑うと、玲司が不機嫌そうに私を睨んだ。「笑うな。何がおかしい」「だって…&hellip
last updateDernière mise à jour : 2026-10-12
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第57話 優しい背中

 文房具店を出た後、私たち三人は少し遅めの昼食をとるために、近くの安いファミリーレストランに入った。 玲司がこんな大衆的な店に入るのを嫌がるかと思ったが、彼は周囲の喧騒を気にする素振りも見せず、陽菜の向かいの席に腰を下ろした。 テーブルには、お子様ランチと、私の頼んだパスタ、そして玲司のブラックコーヒーが並んでいる。「ねえ、玲司さん」 陽菜がハンバーグをフォークで刺しながら、ふいに玲司を見た。「玲司さんの子供の時って、どんなだったの?」 私の手が、パスタを巻くフォークの動きを止めた。 玲司の動きも、止まる。 玲司が子供の頃の話をするところを、私は聞いたことがなかった。コーヒーを口へ運びかけた彼の手が、そのまま止まっている。 玲司はコーヒーカップを持ったまま、少しだけ視線を宙に彷徨わせた。「……つまらない子供だった。毎日、家庭教師が来て、ずっと勉強ばかりしていたからな」「えー。じゃあ、怪獣の映画とか、見なかったの?」「見た記憶はない」「プールは?」「スイミングスクールには通っていた」「ちがうよ、浮き輪でぷかぷかするやつ!」 陽菜が身振り手振りで説明すると、玲司はようやく合点がいったように頷いた。「ああ。……そういうのは、したことがない」 玲司の言葉に、私は少しだけ驚いた。 十四歳で出会ってから、彼を知っているつもりでいたが、彼の子供時代の話など、一度も聞いたことがなかった。 常に完璧で、冷徹で、弱みを見せない彼が、ただ勉強ばかりの窮屈な子供時代を過ごしていたという事実。 私は、目の前の彼が、少しだけ人間らしい体温を持っているように感じた。「かわいそう。じゃあ、今度一緒にぷかぷかしに行こっか」 陽菜が同情するように言うと、玲司はコーヒーを吹き出しそうになるのを必死に堪えた。「……俺が、浮き輪でか?」「うん。ママと、三人で」「三人で」という言葉に、私のフォークがほんの少し止まっ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-13
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第58話 隠された休日

 夏の強い日差しが少し和らぎ始めた、午後三時。 駅前の大通りの向こう側。 雑踏の中に紛れるように停められた黒いバンの窓から、長い望遠レンズが三人の姿を静かに捉えていた。 レンズの先には、眠る少女を背負う長身の男。 そして、その隣を歩く、柔らかく微笑む女。 誰がどう見ても、休日の幸せな家族の風景だ。 カシャ、カシャ、という乾いたシャッター音が、車内に響く。「……いい画が撮れましたよ」 カメラを構えたフリーの記者が、口角を歪めて笑った。「高遠CEOの、隠された休日の素顔。……これは、高く売れますね」 記者はモニターに映し出された写真を確認し、隣に座る男に視線を向けた。「情報提供、感謝しますよ。黒瀬さん」 助手席に座る黒瀬は、表情一つ変えずに前を見据えていた。「記事の出し方は任せる。ただ、あの女がどこで働いているか、正確に書くように」「分かってますって。……『ホテル清掃員との禁断の愛』。見出しもバッチリです」 黒瀬は短く頷き、静かに窓を閉めた。 道路の向こう側では、結と玲司が、自分たちに突きつけられた冷酷なレンズの存在に気づくこともなく、待たせていた車へと乗り込もうとしていた。 車内では、記者がすぐにノートパソコンを開き、撮ったばかりの写真を記事画面へ貼りつけ始めていた。 画面上部の見出し欄で、点滅するカーソルだけが次の文字を待っていた。 月曜日の朝。 私は、ホテルの従業員用ロッカーで自分の制服に着替えながら、周囲の空気がいつもと違うことに気づいていた。 ロッカーの陰や、休憩室の入り口。 すれ違う同僚たちが、ヒソヒソと声を潜めて私の方を見ている。 視線が合うと、彼女たちは慌てて目を逸らし、足早に去っていく。 何かがおかしい。 制服のボタンを一つ留めるだけなのに、指がうまく動かなかった。聞こえてくるのは自分の名前ではない。それでも、声を落とされるたびに「私のことだ」と分かる。人の視線は、直接
last updateDernière mise à jour : 2026-10-13
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第59話 好奇の目

 私はスマートフォンを持つ手に力が入り、画面が割れそうなほど強く握りしめた。 どうして。 昨日は、ただ普通に買い物をし、ご飯を食べただけだ。 なのに、どうしてこんな風に切り取られ、悪意に満ちた言葉とともに晒されなければならないのか。「……朝倉さん」 背後から声をかけられ、私はビクッと肩を跳ねさせた。 清掃部門のチーフが、困惑と、ほんの少しの同情を込めた目をして立っていた。「チーフ……」「記事、見たわね。上の階のオフィスも、その話題で持ちきりよ」 チーフは小さくため息をついた。「今日は、とりあえず裏方の作業に入ってちょうだい。表に出ると、他のスタッフの目もあるし……何より、マスコミが入り込んでいるかもしれないから」 私は唇を噛み締め、深く頭を下げた。「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」 頭を下げながら、悔しさで奥歯を噛んだ。私はここで何年も働いてきた。客室の癖も、リネン庫の棚の位置も、忙しい時間帯も知っている。それなのに今は、仕事をする人間ではなく記事の中の「清掃員」として見られている。その言葉が急に、私から仕事まで奪う札のように思えた。 自分のせいで、職場に波風を立ててしまった。 だが、私が今一番恐れているのは、自分のことではなかった。 陽菜だ。 もし、この記事が陽菜の学校の保護者たちにまで広まっていたら。◇ 昼過ぎ。 私は裏方のリネン室でシーツの仕分けをしながら、時計の針ばかりを気にしていた。 陽菜の小学校が終わる時間だ。 いつもなら放課後は学童へ向かうが、今日は記事のことが気になり、チーフに相談して早退し、直接迎えに行くことにした。 チーフへ早退の相談をしようとした時、作業台のスマートフォンが震えた。学校の番号だった。手袋を外す間にも鳴り続ける音に、私はシーツを抱えていた腕をほどいた。「朝倉さん。陽菜さんのお迎えについて、確認したいことがありまして
last updateDernière mise à jour : 2026-10-14
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第60話 不審者の迎え

 陽菜の目から、ポロリと大きな涙がこぼれ落ちた。「陽菜、なんにも悪いことしてないのに。みんな、こわい顔で陽菜のこと見るの」 私は言葉を失い、陽菜を強く抱きしめた。 背中に回した手の下で、細い肩が何度も震えた。熱を出した夜なら薬を飲ませられる。転んだなら傷を洗える。でも、誰かに見られた目が怖かったと言われても、母親の手では消してやれない。そのことがたまらなく悔しかった。 一番恐れていたことが、起きてしまった。 自分たちの過去や、玲司との関係など、七歳の陽菜には何の関係もないことだ。 なのに、大人の世界の悪意が、容赦なく陽菜の小さな世界を侵食し始めている。 私は、怒りと無力感で全身が震えるのを感じた。「……帰ろう。今日は、ママと一緒に美味しいもの食べようね」 校門を出る時、保護者たちの集まりの中から、一人の見知らぬ男がこちらにカメラを向けているのに気づいた。 私は陽菜の肩に手を回し、カメラと娘の間に身体を入れた。陽菜が不思議そうに見上げたので、なるべく普段どおりの歩調で進む。それでもレンズがこちらに向けられていると思うと、早く通りの角を曲がりたくて仕方がなかった。 フリーの記者らしい。校門へ近づこうとしたところを、気づいた教職員がすぐに声をかけ、敷地から離れるよう求めていた。 教職員に短く礼を言い、陽菜と歩き出そうとした。その時、先生が周囲に聞こえない声で私を呼び止めた。「朝倉さん、先ほどお電話した迎えの件ですが……女性の方でした。高遠家から頼まれたとおっしゃっていましたが、お母さんに確認が取れるまでは、お渡ししないと伝えました」 先生は努めて落ち着いた声で続けた。女性は急いでいる様子で、保護者の了解は取ってあると繰り返したという。受付で確認を求められると、車に戻ってしまったらしい。門の外に停まっていたのは、濃い色の乗用車だった。 陽菜が私の手を引いた。先生の話が終わるのを待ちかねたように、靴の先で白線をこすっている。私はその手を握り返した。いつもより少し強くなってしまったらしく、陽菜が不思議そうに見上げた。 ほんの一度
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