تسجيل الدخولヒドルストン伯爵夫人のサロンが2週間ぶりに開催されると、アデラインも当然招待を受けた。 音楽家の奏でるピアノが優しく鳴り響くサロンは、いつもよりも人が少ない気がしていた。「アデライン、あなたに大事なお話があるの」 ダストン子爵夫人と談笑しながら刺繍を楽しんでいたアデラインに、ヒドルストン伯爵夫人が声をかけた。 中座するのは失礼にあたらないかとダストン子爵夫人を見たが、事前に話は通っていたのか、にこやかにアデラインを送り出してくれたので、ヒドルストン伯爵夫人とサロンの奥にあるソファに並んで座った。「わたくし、このサロンを閉じようと思っているの」 ヒドルストン伯爵夫人の発言は、納得できるものだった。少し前から彼女の顔色が悪いことにアデラインは気付いていた。「お体がお辛いのですね。大丈夫ですわ——空気のいいところでゆっくり静養なされば、きっとすぐに回復されます」 アデラインが夫人の手を握ると、夫人は思った以上に痩せて骨ばったその手でぎゅっと握り返してきた。「ありがとう。あなたは本当にお母さまによく似て優しいわ。それだけじゃない、賢くて気品に溢れている」 夫人は緑色の瞳で、アデラインの困惑する目を見つめた。「わたくしね、あなたのお母さまが本当に好きだったの。美しくて、気品があって、社交界にでたばかりのわたくしのことをとてもかわいがってくださっていたのよ」 夫人の言葉には、懐かしさだけではない温かさが込められていて、アデラインはその中に亡くなった母が最期に見せていた姿を重ねていた。 立派な貴婦人としてアデラインを育てないといけないと、いつも気負っているように見えた母だったが、最期が近付くにつれ、アデラインや妹たちを優しい目で見つめることが増えていた。 そして、時折アデラインの手を握っては、こう言ったのだ。『アデライン。あなたはわたくしの誇りよ。あなたの母親になれて、わたくしはとても幸せだったわ』 なぜ、過ぎたことのように言うのか、その時のアデラインにはわかっていなかった。 だが、今ならわかる。「夫人——いいえ
翌日、アデラインに招かれたヒューは、茶色の毛織物の上下にえんじ色のクラバットという出で立ちで温室に現れた。「まあ……旦那様ったら、わざわざ着替えてくださったのですか?」 アデラインは思いがけないヒューの姿に、少しだけはにかんだように微笑んだ。「奥方からの初めての招待だ。適当な格好では失礼にあたるだろう?」 ヒューはそう言うと、トビーのエスコートで椅子に座った。「キャサリンからやっとお免状をいただきましたの。旦那様から戴いたお茶を旦那様に振舞うなんて、ちょっとおかしな話ですが」「俺に振舞うために毎日練習してたのか?」 ヒューが言うと、アデラインは顔を真っ赤にしてわかりやすく狼狽えた。 キャサリンやナタリー達には練習をしていることは口止めをしていたはずだ。 なぜヒューがそのことを知っているのかと困惑しているのだろう。 その様子がおかしくて、ヒューはにやりと笑うと、親指で自分の執務室の窓を指差した。「見られていたなんて——」 両手で顔を覆ってキャサリンの胸に埋めると、キャサリンは優しくアデラインの背中を撫でた。「黙っていた方がよかったかな?」 キャサリンとトビーの責めるような視線に、ヒューは気まずくなって肩をすくめたが、アデラインはまだキャサリンの胸から離れない。 ヒューが困っていると、キャサリンはアデラインの背中を優しく撫でながら、ティーセットとヒューを交互に見て、何か言いたげに眉を顰めた。 なるほど、とヒューは頷いて軽く咳払いをした。「あー……君から茶を振舞われるのを楽しみに来たんだが、日を改めたほうがいいかな?」 ヒューが椅子から立ち上がろうとすると、アデラインは慌てて振り返った。「いけません。旦那様の大切な時間を割いていただいたのですから——その、ちょっと恥ずかしかっただけですわ」 アデラインがわざとらしく咳払いをすると、ヒューは唇を緩めて、椅子に腰を下ろしなおした。 アデラインの瞳によく似た琥珀色の紅茶は、どこかほの甘く、紅茶の味など分からないヒューですら美味しいと思えた。「こちらはエブラム夫人が旦那様のためにと焼いてくださったビスケットですのよ。ナッツが入ったものお好きなのだと聞きましたの。ご一緒に召し上がってくださいな」 アデラインが嬉しそうに皿に盛ったビスケットを差し出すと、ヒューは勧められるままに手に取っ
数年ぶりに見るアルマン侯爵家は、かつての荘厳な雰囲気を失い、美しかった庭は伸び放題の蔦や草木に覆われて、かろうじて屋敷に通じる道だけは整備されているような状況だった。 事前に手紙を送り、面会を取り付けていたとはいえ、平民の来客に家令ですら歓迎していないことがわかるようだった。 それもそのはずだ。 手紙には、侯爵領にあるベッカー商会の撤退について相談したいと書いていたからだ。 貧しかったレンガ職人だった父は、国のあちこちで工場が建てられていると聞いて、朝も夜もレンガを焼き続けた。 なぜそんなことをするんだと子供心に不思議だったし、借金をしてまでレンガを焼く父に、母は泣きながらやめてくれと頼み込んだ。 レンガの材料もだが、木炭の値段がじわじわと上がってきて、借金が返せないと泣いていたが、そんな母を父は殴りつけてレンガを焼き続けた。 倉庫が、庭がレンガでいっぱいになり、やがて家の中にまでレンガが積み上げられた頃、身なりのいい男がやってきてレンガを全て売ってくれと言ってきた。 タダ同然の材料からできたレンガは、これまでの3倍の値段で売れた。 父は更にレンガを焼き続けた。 気が付くと、町はずれの小さなレンガ小屋は、巨大なレンガ工場になっていた。 それがベッカー商会の始まりだった。「手紙は受け取った。お前——いや、君のいう条件とは何だね」 アルマン侯爵は自分の向かいに座った若い男を、淡い琥珀色の瞳で見つめた。 その瞳の色には覚えがある。 ヒューは不意に10年以上前の思い出が蘇るのを、理性で抑え込んだ。今はくだらない思い出など不要なのだ。「まず、前提としてお伝えいたします。侯爵閣下、私は鉄道の投資権が欲しいのです」「ベッカー商会ほどの大商会であれば、容易なことだろう。君も知っている通り、私は侯爵と言っても今や何の影響力も持たない。君の望みに力を貸すことはできん」 アルマン侯爵の言うことはもっともだった。 地位のみでどうにかできる時代はとうに過ぎた。 領地の工業化を嫌い、農業を推奨し
ヒューから紅茶を贈られたのは嬉しかったが、アデラインには紅茶の淹れ方が分からなかった。「奥様。よろしければわたくしがお手本を差し上げても?」 紅茶を前に首を傾げていたアデラインに助け舟を出したのはキャサリンだった。「男爵家では時折お茶を嗜んでおりましたので」 キャサリンはそう言うと、手慣れた仕草で紅茶を淹れて見せてくれた。「デニス男爵家はとても優雅なご趣味をお持ちだったのね」 アデラインが嬉しそうに言うと、キャサリンは寂しそうに微笑んだ。「夫が東インド会社に伝手がありまして、よく融通してもらっていたのですわ」「まあ」 時折新聞で見る名前に、アデラインは驚きと尊敬の眼差しでキャサリンを見た。「夫はインドの独占貿易が開かれてから、インドからモスリンを買い付けようと何度もインドに使者を送っておりましたの」「そうだったのね」 アデラインはキャサリンの淹れた紅茶を飲みながら、2年前に亡くなった男爵のことを考えた。 デニス男爵家とは直接の関りはなかったが、男爵家の商会が立ち上がっていないことを考えると、おそらくその商談は失敗に終わったのだろう。 今となっては、インドから買い付けるよりも安価なモスリンがイギリスから買えるのだ。 アデラインはヒューが平民でありながら、ベッカー商会をここまで大きくしたことに、改めて賞賛と尊敬の気持ちを抱いた。 冬が本格的になってくると、サロンに招待される日が少なくなっていた。 アデラインはキャサリンやナタリー、時々ポーラやトマスを客に迎えて、暖かい温室で小さなお茶会を開催していた。「今日のお茶はどうかしら?」「あたしは昨日の方が美味しかったですねぇ」 アデラインが差し出した茶を飲みながら、ナタリーは仏頂面を崩さずに答えた。「今日のはちょっと苦みが強いように思いますよ」「あら、わたくしはこちらの方が深みがあって好きですわ」 キャサリンが言うと、ナタリーは仏頂面を少しだけ顰めた。「キャサリンさまは奥様に甘いですからね。その甘さで苦さも和らぐんでしょう
市場を抜けると、大きなホテルにたどり着いた。「ちょうどいい。ここのサロンで休憩しよう」 ヒューの提案にアデラインは戸惑いを見せたが、ヒューすぐに後ろをついていたトビーに目配せをした。 トビーは心得た様子でホテルに入ると、サロンの入り口に立つ使用人に懐から取り出した名刺をみせた。 純金で作られた名刺を、恭しい仕草で胸元から出したハンカチで受け取ると、使用人は颯爽とした足取りで店の中に入っていった。 数分もしないうちに戻ると、トビーに名刺を丁寧に返して「お席をご用意します」と答えた。 トビーは名刺を仕舞うと、主人たちの元に戻り、ホテルの中に案内した。 アデラインはヒューのエスコートでロビーに立つと、ホテル内の贅を尽くした内装や、ベッカー邸の廊下に敷かれた絨毯よりも柔らかい絨毯に足が込むことに驚いて、ヒューの腕にしがみつくように恐る恐る歩いた。 サロンの入り口では使用人が待ち構えており、2人に用意した席に案内してくれた。 おそらく一番いい席であろう、日当たりがよく、他の客からも程よく離れたその席は、腰を包み込むような柔らかな椅子で、アデラインはわかりやすく感動していた。 座るなり胸元からシガーケースを取り出したヒューに、使用人はそっと「後ほどシガールームにご案内いたします」と口添えした。「なるほど」 ヒューは納得した様子でシガーケースを胸元にしまい込んだ。 随分と上品なことだと、小さく溜息をつくが、アデラインはそんなヒューのことは目に入っていないようで、どこか落ち着かない様子で周囲をそっと見回している。 テーブルの上にはメニューがあったが、ヒューはその上に手を乗せたまま、使用人に目配せをした。 使用人は丁寧な態度で2人に近寄ると、ヒューの手の下に置かれたメニューを一瞥してから丁寧に尋ねた。「近頃はコーヒーではなく紅茶を嗜まれる方も多くいらっしゃいます。いかがなさいますか」 使用人の言葉に、アデラインは慌てて「では、わたくしは紅茶をいただくわ」とぎこちなく答えた。「私はコーヒーでいい。それと、私の従者にも同じものを」 ヒューが言うと、使用人は
ギャラリーは小さいながらも、いくつもの絵画や美術品が所狭しと、しかし窮屈さを感じさせない配置で飾られていた。 ヒューはその居心地の良さに感心したが、それ以上にその中に自然に溶け込んでいる自分の妻に目を奪われた。 濃い緑のデイドレスにテンの毛皮の羽織を優雅に着こなしている姿は、他の来場者の毒々しい華やかさとは違い、上品で洗練されているように見えた。 これが教養の差なのか—— ヒューは以前自分が贈ったドレスを思い返して、いかに愚かな贈り物をしたのだろうと自嘲気味に笑った。「旦那様、ここで一枚絵を買うとしたらどれになさいます?」「俺に絵を選べ、と?」 アデラインは授業のつもりなのだろう。教師然とした表情でヒューの困惑した表情を見上げている。「審美眼を持つことは貴族にとっても重要なことですわ」「なるほど、俺の審美眼を養ってくれるというわけか」 ヒューは冗談めかして返したが、どこかでこの会話を楽しんでいる自分に驚きを感じていた。 少し前まではこんな生産性のない会話など時間の無駄だと思っていたのに——だが、その驚きは決して不快なものではなかった。「審美眼はよいものを見ることで養われるのですわ」「では何度もこうやってあなたと出かける必要があるわけだ」 ヒューが何気なく言った言葉だったが、アデラインはすぐに顔を赤くすると、「あちらから見てまいりましょう」とヒューの視線から逃げるように、体ごと向きを変えて絵の方に歩いて行った。「奥様、離れられては困りますよ」 その後ろ姿を追いかけると、ヒューは意地悪な声色でアデラインの手を取って自分の肘に絡ませた。 ヒューの一挙一動に戸惑いを隠さないアデラインを見ているのはとても楽しかった。 ギャラリーの中は決して平和ではなかった。 もちろん、言葉通りではなく、来場した客たちの多くが見知った貴族や新興ブルジョワだったため、絵を見るより挨拶を交わす方が多かったからだ。 だが、一通り挨拶を済ませてしまえば、あとは自由だと思ったのは間違いだった。 誰







