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9話. 九度目という言葉

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-02 16:34:24

真帆の事務所へ戻ったのは、夜九時を過ぎてからだった。澪はコートも脱がずに、テーブルの書類を広げた。

異変管理庁から届いた資料だった。

【無許可監視刻印切断報告書】

対象者:月城澪。

切断実施者:黒瀬怜司。

切断時刻:2028年3月5日 19時42分。

澪は最後の一行を、長く見つめた。

【刻印設置主体:未確認】

「本当に、わからないって書いたんだ」

真帆が向かいの椅子に座った。

「少なくとも、文書で責任は取った。あとで言い分を変えたら、これが残る」

「それがおかしいの」

「何が?」

「私の知ってる人たちは、記録を残さなかった」

澪は紙をめくった。

後ろには霊脈波動の分析表と、現在の措置の内容が添付されていた。

強制保護は行わない。

任意調査を要請。

本人の同意のない薬物投与を禁止。

接触時は代理人の同席を認める。

最後の条項の横に、手書きの文章があった。

【推測上の理由だけで、本人の判断能力の低下を認定しないこと】

署名は、黒瀬怜司。

澪は紙を置いた。

自分を殺したのではないかと疑っている男が、誰よりも先に、自分の決定権を文書に明記していた。

矛盾している。

だから、いっそう危険だった。

スマートフォンが鳴った。

陽介だった。

出ずにいると、すぐにメッセージが届いた。

【澪。記事は全部、削除させている】

【まず、俺たち二人で話さないと】

【望むことは何でも聞く。とにかく家に戻ってきてくれ】

澪は画面を真帆に見せた。

「これ、脅しには見えないよね?」

「まだね。でも、『家に戻れ』が繰り返されるようなら記録して」

澪は短く返信した。

【個人的な連絡は控えていただくよう、お願いしました。今後のご連絡は代理人を通してください】

送信すると同時に、また電話が鳴った。今度は知らない番号だった。

澪は出た。

「月城澪さん」

怜司だった。

「私の番号を、どうやって知ったんですか?」

「捜査上の正式な連絡先として登録されている番号です。ご希望なら、今後の連絡はすべて桐谷先生を通します」

「用件からどうぞ」

「今日切断した監視刻印が、再生し始めています」

澪は自分の手首を見た。

何も見えなかった。

「今は見えません」

「まだ肉眼では見えない段階です。三時間以内に再形成される可能性が高いです」

「誰がつけているのかもわからないのに、どうしてそんなことがわかるんですか?」

わずかな沈黙。

「パターンを知っています」

「何度、見たんですか?」

沈黙が長くなった。

澪は立ち上がった。

「黒瀬さん。さっきからあなたは、私も知らない私の状態を、知りすぎています」

「承知しています」

「では、説明してください」

「今説明すれば、月城さんは私が提示する情報だけで、過去を判断することになります」

「また、証拠が先だと言うんですか?」

「はい」

澪は乾いた笑いをこらえた。

「私の死のそばにいたことは、認めているのに?」

「その事実も、検証していただく必要があります」

「私の記憶です」

「記憶は事実かもしれません。ですが、解釈は間違うことがあります」

言い終えたあと、電話の向こうで低く息を吐く音がした。

怜司が、何かをこらえているように。

「一つだけ聞きます」

澪は窓際へ歩いた。

「私の尾が一本しか残っていないと、どうしてわかったんですか?」

今度は、すぐに返事がなかった。窓の下を見ると、黒いセダンが建物の前に止まっていた。

怜司は、その中にいるようだった。

「月城さん」

声が、さらに低くなった。

「今回が九度目なら、残る一本を、同じように使ってはいけません」

澪の手から書類が滑り落ちた。

九度目。

その言葉は、誰にも話していなかった。

「今、何と言いました?」

「今日は、ここまでにしておきます」

「質問に答えてください」

「回答を保留しているんです。私の説明が、証拠より先に来ないように」

「誰が決めた順番ですか?」

怜司が短く息を吐いた。

「今度の選択は、月城さんに委ねたいと思っています」

電話はつながったまま、しばらく静けさが続いた。澪は窓の下の黒いセダンを見下ろした。

そこでようやく、別の可能性が浮かんだ。

怜司が、自分の死を引き起こした人間ではないのなら。

なぜ、九度目だと知っているのか。

そのとき、事務所の入口のほうから、職員の慌てた声がした。

「先生、一条陽介専務がお見えです」

澪の顔が、冷たく強張った。

真帆がインターホンを取った。

「入室は許可していません。会議室にもお通ししないでください」

けれど廊下からは、もう言い争う声が聞こえていた。

「五分でいいんです。澪の顔を確認したら帰ります」

陽介の声だった。

澪は目を閉じ、それから開いた。最初の人生でも、彼はいつもそう言った。

少しだけ。

確認するだけ。

お前のために。

その小さな例外が、最後には澪の選択権を、そっくりのみ込んだ。

「私が出る」

真帆が止めようとしたが、澪は首を振った。

「今度は、私が直接、終わらせたい話があるから」

ドアノブを握った瞬間、手首の内側が熱く疼いた。

怜司が切り落とした黒い刻印が、皮膚の下で再び蠢いていた。

そして扉の向こうには、陽介が立っていた。

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