小石川・恵仁堂本家、滋陰亭の朝。竹の葉を揺らす秋風の音が、障子越しに澄んで聞こえる。白石遼真の腕の中で目を覚ました榊原綾香の顔には、以前のような暗い影はなかった。遼真が身を起こし、白い麻の上着を羽織る。眼鏡をかけた瞬間、昨夜まで数字を追っていた経営者の顔に戻った。「昨夜は眠れましたか」「遼真さんのおかげで。こんなに深く眠れたの、いつ以来だろう」綾香が微笑み、彼の頬へ手を添える。遼真はその手のひらへ短く口づけ、枕元のタブレットを差し出した。「では、恵仁堂とメディケア・グローバルから上がってきた次の報告です」画面には金融市場の取引履歴が並んでいる。鷹城物産の不良債権と転換社債、総額二百五十億円相当の取得が完了したという報告だった。一族がノンバンクや金融機関へ担保として差し入れていた転換社債や新株予約権付社債も、恵仁堂系ファンドが次々に買い取っていた。それだけではない。画面下には、スイスとシンガポールの海外口座に赤い表示が付いている。司が過去五年間、ペーパーカンパニーを通じて隠していた約八十億円相当の資金。国際司法共助と検察の保全命令により、順次凍結されたのだ。***同じ頃。東京拘置所。「は!? スイスの口座が止まった!? シンガポールの法人まで全部かよ!」面会室で司が叫ぶ。弁護士は青ざめたまま書類をめくった。「状況はかなり厳しいです。恵仁堂とメディケア・グローバル側が主要債権を押さえています。一族保有株式の多くも保全処分や担保権実行の対象になっていて、議決権も事実上動かせません」「俺の金だぞ! 俺が隠した金だ! なんでお前らに止められるんだよ!」司は鉄格子を殴った。最後の逃げ道だと思っていた海外資金も、もう自由には動かせない。激昂した司は紙へ殴り書きした。「これ、榊原綾香に渡せ! 俺の金を全部取っても、お前の首を絞める最後の爆弾は残ってるってな!」***午後二時。丸の内、星雲グローバル本社。ロビーの大型モニターには商号変更と代表者変更の開示が流れていた。【鷹城物産、商号を『星雲グローバル株式会社』へ変更】【代表取締役 榊原綾香 単独代表体制へ移行】その直後。司の弁護士が、青い顔で代表室へ入ってきた。手には血の跡がついた封筒。「榊原代表……拘置中の鷹城司氏からです」綾香は封筒をしばらく見た。
Last Updated : 2026-10-05 Read more