スイス、ツェルマット。マッターホルンを望む山腹に建つ、プライベートシャレー。万年雪に覆われたアルプスの澄んだ空気が、木造テラスを静かに抜けていく。東京を揺らした鷹城家の崩壊。会社の買収。裁判。一門への挨拶。息をつく間もなく走り続けた数か月を終え、ようやく二人と、お腹の中の子供たちだけで過ごす時間が訪れた。暖炉では薪がぱちぱちと燃えている。綾香はアイボリーのカシミヤショールを羽織り、ソファから雪景色を眺めていた。妊娠十週。まだ外見からは大きな変化が見えない。けれど下腹部へ手を添えるたび、そこに二つの命があるという事実が胸を満たす。三年間。『冷たい木偶』『子供も産めない女』そう言われ続けた。今になって考えれば、何一つ医学的な根拠のない言葉だった。それでも、言葉が身体へ残した傷は簡単には消えない。「綾香、足が冷えています」背後から遼真が来た。黒いニットとスラックスという、珍しく気楽な服装。手には湯気の立つ木桶。産婦人科と相談したうえで選んだ、刺激の弱い薬草を使った足湯だった。「また漢方ですか」「今日は香り付け程度です」「信用していい?」「成分表もあります」「旅行にまで成分表を持ってくる人、初めて見ました」綾香が笑う。遼真は足元へ膝をつき、綾香の足を湯へ入れた。「熱くないですか」「ちょうどいい」温かさが足先から広がる。遼真は強い圧を避け、足首周辺を軽くほぐした。「寒い時は我慢しないで中へ入りましょう。風邪を引いてつらいのは綾香です」その言葉に、綾香の表情が一瞬だけ止まる。「昔……鷹城家では、真冬でも『子供ができないのは身体が怠けてるからだ』って、冷たい水へ手足を入れさせられたことがありました」遼真の手が止まった。怒りを飲み込むように、ゆっくり呼吸する。それから綾香の足の甲へ口づけた。「もう、嫌なら嫌だと言ってください。寒ければ寒い。痛ければ痛い。それでいい」綾香はしばらく何も言えなかった。やがて両腕を伸ばし、遼真の首へ回す。「じゃあ今は、抱いて」「はい」遼真は綾香を抱き上げ、暖炉前の厚いラグへ座らせた。下腹部を守るように腕を回し、ゆっくり口づける。雪の夜。二人の影が、暖炉の光の中で重なった。***翌朝。テラスのテーブルに、英語の正式招待状が置かれていた。【2026 Z
Last Updated : 2026-10-05 Read more