All Chapters of 冷え切った心を溶かしたのは、夫の専属医の指先でした: Chapter 51 - Chapter 60

60 Chapters

51話. グローバル・バイオEXPO、榊原綾香の基調講演

一か月後。東京・有明、国際展示場のグランドオーディトリアム。NASDAQ上場予備審査通過後、注目を集めていた星雲グローバルと恵仁堂の合同基調講演。企業広報が力を入れた巨大なステージ中央には、金色の文字が浮かんでいた。【KEYNOTE SPEAKERAYAKA SAKAKIBARACEO, SEIUN GLOBAL / KEIJINDO FOUNDATION】臨月を迎えた綾香が壇上へ歩いてくる。濃紺のシルクケープドレス。髪には宗家から受け継いだ翡翠の簪。歩みは以前よりゆっくり。それでも視線は真っ直ぐだった。二千人を超える聴衆が静まる。「星雲グローバルと恵仁堂が、これから何を検証し、何に責任を持つのか。その話をします」スクリーンへ研究パイプラインが映し出される。恵仁堂に伝わる天然物資料を、現代の標準化工程と前臨床・臨床試験へ載せる計画。綾香は成功例だけを選ばなかった。前臨床で中止した候補。期待を下回った有効性指標。安全性の理由で修正した試験計画。「『伝統』という名前だけでは、データの代わりになりません」聴衆の研究者たちがメモを取る。「効果がなければ、ないと言います。副作用が見つかれば公開します。星雲グローバルが長く生き残る方法は、神秘的に見せることではなく、検証に耐えることです」質疑応答。海外研究者が質問した。「伝統医学のブランドが科学的評価を曖昧にする危険については?」綾香は英語で答える。「あります。だから仮説と結論を分けます。伝統は研究候補を与えてくれますが、効果を決めるのはデータです。間違っていれば捨てます」短い回答。一瞬の静寂のあと、拍手が起きた。「善意が、良い薬を保証するわけではありません。データ、透明性、患者安全で評価されます」客席の遼真が静かに笑っていた。綾香がここまで来るまでの多くを、自分自身で選んできたことを誰より知っている。その時、舞台袖で待っていた秘書がタブレットを持って近づいた。【速報 旧鷹城グループ親族役員十名に実刑判決。鷹城治臣元副会長、懲役十年】秘書が小声で尋ねる。「代表、記者向けコメントを出しますか?」綾香は少し考え、首を横へ振った。「今日は研究の話をしに来た日です。判決については法務部名義で、司法判断を尊重するという原則的なコメントだけ出してください」「承知
last updateLast Updated : 2026-10-05
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52話. 旧鷹城一族への実刑判決、そして始まる陣痛

東京地方裁判所・刑事法廷。被告人席には、旧鷹城グループの親族役員十名が並んでいた。かつての威勢はない。拘置中の者は収容服を着て、在宅起訴だった者も固い表情で判決を待っている。「被告人鷹城治臣ほか九名に対する、特別背任、横領、金融商品取引法違反等事件の判決を言い渡します」裁判長が判決理由を読み上げる。架空会社との取引。インサイダー取引へ使われた借名口座。会社カードの私的利用。グループ資産の流用。綾香は傍聴席で、もうメモを取らなかった。何度も法務資料で確認した内容だった。隣の遼真が低く聞く。「大丈夫ですか」「うん。ただ……本当に終わるんだなって」昔なら、一年でも長く刑務所へ入ればいいと思ったかもしれない。今は違う。裁判所が判断する領域と、自分がこれから生きる時間を切り分けられる。「私は言われたとおりに署名しただけです!」「金を受け取った時はお前が一番先だっただろ!」被告人たちが責任を押し付け合う。裁判長が制止する。「主犯格である鷹城治臣に懲役十年。その他の被告人についても、五年から七年の実刑を言い渡す」法廷がざわめく。何人かが叫び、職員に連れ出される。綾香は振り返らなかった。法廷の外。記者が集まる。綾香は一言だけ答えた。「判決は尊重します。会社はすでに新しい体制で運営されています。過去の事件ではなく、これからの経営で評価されるよう努力します」車へ乗ってから、お腹へ手を置く。どん、と内側から強い動き。「二人も『終わった』って喜んでるのかな」「それは胎動です」「知ってます。少しくらい話合わせてください」遼真が数秒考える。「……はい。とても喜んでいるようです」綾香が笑った。そして数時間後。その冗談のように平穏だった一日に、本当の陣痛が始まった。***夕方。蓮雨庵。温かい茶を飲んでいた綾香の手が止まる。「……っ」下腹部を押さえる。重い痛みが波のように押し寄せた。額へ汗が滲む。遼真がすぐ隣へ来る。手首を確認し、腹部の張りの間隔を見る。数分後。また強い収縮。「綾香」遼真の顔が医師のものへ変わる。「陣痛の可能性が高い。双胎妊娠ですし、すぐに産婦人科チームと救急へ連絡します」綾香が息を詰める。遼真が手を握った。「僕がここにいます。まず呼吸を合わせましょう」
last updateLast Updated : 2026-10-05
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53話. 双子の陣痛、蓮雨庵での緊急分娩

救急隊が蓮雨庵へ到着した頃には、陣痛の間隔はさらに短くなっていた。恵仁堂があらかじめ連携していた産婦人科医も、救急隊とほぼ同時に到着する。診察の結果、搬送中に分娩が進んでしまう可能性が高いと判断され、蓮雨庵の広い和室に緊急の分娩スペースが整えられた。滅菌シート。酸素。救急分娩キット。産婦人科医、看護師、救急隊員がそれぞれの位置につく。恵仁堂側の医師たちは産科チームの指示に従い、綾香の保温と呼吸の補助に徹した。「っ……う、うぅ……!」三分間隔で押し寄せる痛み。綾香は白いシーツを強く掴む。汗が額から落ちた。痛みが強くなるたび、最悪だった記憶が脳裏をよぎる。『子供も産めない』『役立たず』『お前の身体が悪い』司と美津子の声。黒い薬。身体が強張り、呼吸が乱れる。「綾香、僕を見て」熱い手が頬へ触れた。遼真。綾香の隣に膝をつき、目を逸らさない。「怖ければ怖いって言っていい。痛ければ痛いって言って。僕はここにいる」「こわい……」「うん」「すごく、痛い……」「うん。全部言って」遼真は産科医の処置を邪魔しない位置で、綾香の手を握り、呼吸を合わせる。「吸って。ゆっくり吐いて」看護師が血圧と酸素飽和度を確認する。「水、一口だけ」医療スタッフの許可を確認し、遼真がストローを近づけた。綾香はほんの少し口を湿らせる。「頭が見えています! 次の収縮で、長く力を入れて!」産婦人科医の声。綾香は遼真の肩を掴んだ。全身の力を下腹部へ集める。「――っ、ああああ!」次の瞬間。高い泣き声が和室を満たした。「おぎゃあ――! おぎゃあ――!」綾香の目から、一気に涙が溢れた。医療スタッフはすぐに新生児の状態を確認する。「第一子、男の子です。呼吸、心拍ともに良好!」小さな身体が包まれる。綾香の目から涙が溢れた。遼真も目を赤くしながら、綾香の汗で濡れた額へ口づける。だが、休む暇はない。「綾香、まだもう一人います」次の収縮が、すぐにやってきた。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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54話. 二人目の産声、恵仁堂宗家の慶事

「うっ……遼真……また……!」最初の出産で力を使い切った身体へ、二人目の陣痛が押し寄せる。綾香の唇から色が失われた。呼吸が浅くなる。「綾香、こっち」遼真は汗を拭き、産科医が指示する呼吸を一緒に繰り返した。「もう少し。手、折れてもいいから掴んで」「本当に折るかも……」「どうぞ」「あとで後悔しても知らない……!」「望むところです」こんな時なのに、綾香は一瞬だけ笑いそうになった。それで少し呼吸が戻る。産婦人科医が状況を確認する。「次です。ゆっくり、大きく息を吸って――力んで!」綾香が遼真の首へしがみついた。「あああっ――!」そして。もう一つの泣き声。「おぎゃあ――!」「第二子、女の子! こちらも元気です!」綾香の身体から力が抜ける。遼真が肩を支えた。第一子と第二子の泣き声が交互に聞こえる。綾香は疲れ切った顔で、何度も尋ねた。「指……ちゃんとある? 足も? 息してる?」産婦人科医が笑った。「二人とも大丈夫です。よく頑張りました」遼真は何度も頷いていた。目が赤い。綾香が弱く手を握る。「あなた、泣いてるでしょう」「泣いていません」「嘘」「今日だけは見逃してください」綾香は痛みの中でも笑った。笑ったら、また涙が出た。***知らせを待っていた家族と一門の人々。「無事です。母子ともに問題ありません!」その報告に、広間から一斉に安堵の拍手が起きた。玄関には、二人の誕生を祝う花が静かに飾られた。和室。遼真は二人の赤ん坊を、綾香の両側へそっと寝かせた。暖かい身体。小さな呼吸。新生児特有の甘い匂い。綾香は言葉もなく見つめる。遼真はまず、子供より綾香の状態を確認した。「出血量は?」「血圧は?」「寒くない?」医療スタッフへ何度も尋ねる。綾香が薄く目を開けた。「子供たち、見てください」「先に綾香を見ました」「頑固」「ここは直しません」綾香は小さく笑う。子供がいるから自分の女性としての価値が証明された。そんなふうには思わなかった。ただ、会いたかった二つの命が無事に来てくれたことが嬉しかった。***同じ頃。府中刑務所の医療区画。テレビニュースに、短い速報が流れる。【星雲グローバル榊原綾香代表、白石遼真氏との間に双子の男女を出産。母子ともに健康】司は画面を見つめた。「
last updateLast Updated : 2026-10-05
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55話. 残された刑罰、それぞれの末路

府中刑務所、医療区画。鷹城司は長年の薬物・アルコール乱用と、その後の体調悪化により継続治療を受けていた。テレビには経済ニュース。【榊原綾香代表、双子の男女を無事出産】【星雲グローバル、欧州バイオ投資契約を正式締結】画面の中で綾香は、二人の子供を抱いて笑っていた。司が何度踏みにじっても、その人生はもう彼の評価など関係なく進み続けている。彼に残されたのは、治療と刑の執行。そして長く避け続けてきた責任だった。***同じ頃。東京警察病院、管理病棟のオンライン面会室。美津子はベッドへもたれ、画面越しに国選弁護人の説明を聞いていた。「鷹城司被告について、別件の横領事件でも有罪判決が確定し、服役期間は長期化する見込みです」「司が……そんなに長く……?」「また、司被告の重度無精子症については大学病院の記録で再確認されています。榊原綾香さんへ服用させた煎じ薬からも、従前の分析どおり天南星、巴豆などが検出されています」美津子の目が大きく開く。「じゃあ……あの子じゃなかったの……?」自分が三年間責め続けた嫁。薬を飲ませ続けた相手。事実を理解したからといって、時間は戻らない。「成城の本邸や関連資産についても、追徴・競売手続が進んでいます。一族側の元役員にも実刑判決が出ています」美津子はしばらく何も言えなかった。呼吸が乱れ、医療スタッフが面会を中止する。***その頃。蓮雨庵。綾香は産後の身体を休めながら、双子の寝息を聞いていた。遼真が温かい養生茶を持ってくる。「産後の回復用です。熱いうちに」「また苦い?」「少し」「正直になりましたね」遼真が匙で冷ます。綾香は一口飲み、顔をしかめた。「やっぱり苦い」「蜂蜜を追加します」「最初から入れて」「次回から」遼真は冷えた手と足を軽く温める。「法的なことは法務へ任せます。今は回復だけ考えてください」「うん」「まずは床上げの頃まで、ゆっくり身体を休めましょう。お食い初めの頃になったら、近しい人たちと子供たちの成長を祝えばいい」綾香は遼真の肩へ頭を預けた。華やかな結末より。二人の小さな呼吸が、何より良かった。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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56話. 双子のお食い初め

床上げを終え、季節が巡った。双子は生後百日を迎えた。成城・蓮雨庵。高い秋空。風に揺れる竹林。今日は白石家の双子――冬真(とうま)と紗愛(さえ)のお食い初めだった。招いたのは、両家の近しい人々。会社の同僚。恵仁堂一門の年長者たち。規模はそれなりに大きい。ただし、綾香は広報チームが出した最初の企画書を半分近く削った。「フォトセッションは10分まで。子供たちの顔のアップ撮影は禁止。授乳時間になったら式は止めます」「代表、来賓挨拶の進行が遅れる可能性が……」「遅れればいいでしょう。お食い初めだからって、赤ちゃんを空腹のまま待たせるわけにはいきません」担当社員が笑いを堪える。綾香も笑った。以前の自分なら、『大切なお客様を待たせる』と聞いただけで謝罪しただろう。今は、自分で優先順位を決められる。「榊原綾香代表、白石遼真会長ご夫妻です」二人が庭へ出る。綾香は白地の訪問着。遼真は濃紺の羽織袴。腕の中には、小さな双子。朱塗りの祝い膳には、尾頭付きの鯛、赤飯、蛤のお吸い物、煮物、香の物が並んでいた。脇には歯固めの石も用意されている。一門の年長者である白石景吾が『養い親』役を務め、箸で赤飯をほんの少しつまんでは、冬真と紗愛の口元へ運ぶ真似をする。もちろん、まだ本当に食べさせるわけではない。二人が箸の動きを追って小さな手を伸ばすと、庭に笑い声が広がった。食べることに一生困りませんように。歯が丈夫に育ちますように。古くから続く願いを込めた儀式だった。景吾が二人の顔を交互に見て笑う。「元気に育てば、それが一番だ」綾香がすぐ聞く。「勉強できなくても?」老人が咳払いする。「元気で……人様に迷惑をかけず生きられれば」遼真が隣で小さく言う。「基準がかなり下がりました」庭に笑いが広がった。綾香は子供たちを見る。『家の跡継ぎ』という重い言葉より。ただ、冬真と紗愛として育ってほしかった。***夜。子供たちを寝かせたあと、庭の東屋。遼真が後ろから綾香の腰へ腕を回す。「疲れましたか、僕の大事な妻」「少し。でも、幸せ」「今日、一番よかったことは?」「景吾さんが『健康ならいい』って言ったこと」「僕もです」二人で、しばらく笑った。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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57話. 『保生丹』、世界へ――医療アクセスのための選択

双子のお食い初めを終えた頃。蓮雨庵の古い書庫に保管されていた恵仁堂の医書が、研究チームへ移された。恵仁堂の伝統処方を出発点に、星雲グローバルR&Dが標準化を進めてきた天然物由来の神経系希少疾患治療候補。開発コード――『保生丹(ほせいたん)』。スイス・バーゼルと東京の臨床機関が参加した国際共同第Ⅲ相試験で、統計学的に有意な有効性と安全性指標が得られた。米国FDA。欧州EMA。優先審査手続も進む。「榊原代表。複数のグローバル製薬企業から、契約一時金とマイルストーンを含め、最大六兆円規模の共同開発・ライセンス案が届いています」巨額だった。だが条件次第で、薬の価格も研究継続性も大きく変わる。「全部無償にすれば、次の研究資金がなくなるかもしれない」遼真が言う。「でも、最も高く買う一社へ独占させるのも違う」綾香は頷いた。「独占売却はしません。複数地域で非独占ライセンスを設定します。その代わり、低所得国と希少疾患児支援プログラムには無償または大幅減免の実施権を用意しましょう」収益を捨てるのではない。研究を続けられる資金と、治療へのアクセスを両立させる。それが綾香の選択だった。***一週間後。スイス・ジュネーブ。国連欧州本部で開かれた、国際保健と医療アクセスに関するハイレベルフォーラム。WHO関係者。各国代表。医療政策の専門家。綾香が壇上へ立つ。濃紺の和装を基調にしたシルクスーツ。髪には翡翠の簪。隣には遼真。「古い医療知識も、現代科学の検証を通過して初めて、より多くの人を救う手段になります」英語で語る。「私たちは低所得国や希少疾患の子供たちが、価格だけを理由に治療から排除されない仕組みを広げます。同時に、次の研究を継続できる構造も守ります」講演後、国際保健分野での医療アクセス拡大への貢献を評価する特別表彰が二人へ贈られた。拍手の中。綾香は一度だけ目を閉じる。鷹城家の薄暗い部屋で、黒い薬を飲んでいた自分。今の自分。あまりにも遠い。***その夜。レマン湖を望むホテルのバルコニー。遼真が綾香の肩を抱く。「これからは、予定を減らしましょう」「また仕事の話?」「家族の話です。何もしない日も必要です」遼真は黄金色の鍵を綾香の手のひらへ置いた。アルプスの山麓に用意した、恵仁堂欧州拠点近くの小さな別邸。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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58話. アルプスの家、何もしない日の幸福

アルプス山麓。家族が休むためだけに用意した、小さな別邸。綾香はここへ来ると、午前のオンライン会議を二時間までに制限した。残りの時間は子供たちと散歩する。昼寝する。遼真と買い物へ行く。初めて近くのスーパーへ行った日。遼真が幼児用お菓子の成分表示を、異常なほど長く見ていた。綾香はカートを押して先へ行く。「遼真さん。お菓子一袋買うだけで論文査読してるんですか?」「糖分が高いです」「今日くらい、世界が滅びてもいいことにしましょう」結局、一番小さな袋を一つだけ買った。しかも冬真と紗愛より先に、両親が二個ずつ食べた。そんな日々が、綾香にはどんな国際会議より大切だった。庭。一歳を過ぎた冬真と紗愛が、よちよちと歩いている。蝶を追いかけた冬真が尻もちをつく。紗愛が近づき、兄の手を掴む。二人で笑った。「転ばないようにね」綾香が声をかける。過去の傷が完全に消えたわけではない。黒い煎じ薬に似た匂いを嗅ぐと、今でも胸が跳ねる時がある。ただ、そんな日にも帰る場所がある。小道の向こうから遼真が来た。手には白磁のポット。「お茶、冷めます。今日は薬草三種類だけです」「それでも三種類入ってるんだ」綾香がカップを受け取る。手を包まれる。「ありがとう。時々、この生活が夢みたい」「夢ではありません」「三年前、あの冷たい床に座ってた私が。どうしてここまで来たんだろう」遼真は少し考えた。「ここまで来たのは、綾香がずっと選んだからです」綾香が顔を上げる。「僕が救ったわけじゃない。僕は隣にいただけです」しばらく沈黙。綾香が肩へ寄りかかる。「それでも、隣にいてくれてありがとう」「それなら、一生できます」「一生は長すぎる。まず明日まで」「では、明日また契約更新します」「条件を見てから」子供たちの笑い声。綾香は目を閉じた。幸福は、大きな報酬として一度に降ってくるものではない。こうして一日ずつ更新されるものなのかもしれない。遼真がいつものように手首へ触れる。「脈、いいですよ」「それだけ?」「いいえ」少し間を置く。「好きです。それは脈を見なくてもわかります」綾香は笑い、彼へ口づけた。その日の夕方。東京の法務チームから最終報告が届く。鷹城司は前月、刑務所医療区画で感染症と呼吸器不全を併発し死亡。鷹城美津子も長
last updateLast Updated : 2026-10-05
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59話. 恵仁堂財団、共同代表就任の誓い

東京・文京区小石川。恵仁堂宗家。この日は、恵仁堂財団の新しい共同代表体制を一門へ正式に知らせる日だった。綾香が共同代表理事として財団運営に参加し、重要事項を遼真と共に審議することを確認する。祖霊殿の前。案内役が告げる。「白石綾香理事、ご入場です」綾香は少し緊張した顔で、印を受け取る手順を確認する。隣の遼真と目が合う。彼がほんの少し笑った。二人で祖先へ香を供え、礼をする。白石景吾が、金色の布に包んだ箱を差し出した。中には恵仁堂財団の重要事項を確認するための宗家印。「財団の主要な意思決定に共同で責任を負う理事、白石綾香さんへ、この印をお渡しします」綾香は両手で受け取った。重い。遼真が一門へ向けて宣言する。「本日より、白石綾香理事が恵仁堂財団の共同代表理事に就任します。そして僕の人生の伴侶は、これからも綾香ただ一人です」拍手が起きる。綾香は印を見ながら、小声で言った。「本当に重い」遼真も小声で返す。「責任は、だいたい重いものです」二人とも笑った。その後の最初の財団会議。綾香はさっそく一つ提案した。「宗家当主やその配偶者だからという理由だけで、財団の代表権が自動的についてくる仕組みはやめたいです」一部の長老が顔を上げる。綾香は続ける。「理事会と専門委員会を置いて、任期と権限を明文化しましょう。私の次の人が無能でも、血筋だけでここに座れるなら、鷹城と何も変わりません」沈黙。最初に景吾が頷いた。遼真も賛成票を上げる。綾香は、手元の印が少しだけ軽くなった気がした。権力を受け取ることより。権力が勝手に暴れない仕組みを作ることのほうが大事だった。***午後十一時。蓮雨庵へ戻る。竹林の道を、手を繋いでゆっくり歩く。奥に見える灯り。二人が初めて心を近づけた離れ。遼真が綾香を軽く抱き上げ、縁側へ上がった。「明日の朝。最初に会った時の座卓で、脈を見ましょうか」「診察料、高そう」「家族割があります」「何%?」「生涯契約なら無料です」綾香は呆れながら笑った。世間の前では冷静な会長。二人きりになると、たまにこんなことを言う。最初に会った日には、想像もできなかった。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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60話. 君の脈を、一生診る医師

成城・蓮雨庵。静かな秋の朝。竹林の間から差し込む光が、障子を淡い銀色に染めていた。部屋には、二年前の最初の日と同じように、蓬と薄荷の香りがしている。古い座卓の前。綾香と遼真が向かい合って座っていた。ここは、二年前。綾香が司に顎を掴まれ、黒い薬を無理やり飲まされていた場所。冷たい床。苦い薬。恐怖。あの日の記憶は消えない。でも今、座卓の上にあるのは黒い毒薬ではなかった。綾香が自分で選んだ、薄い養生茶。「奥様。手首をお借りしても?」二年前なら、冷たく聞こえたかもしれない声。今は聞くだけで肩の力が抜ける。綾香が手を差し出す。昔あった痣は、もう消えていた。代わりに、子供を抱いた時についた小さな引っかき傷が一つ。遼真の三本の指が、寸・関・尺へ触れる。とくん。とくん。二年前、細く弱く感じられた脈。今は穏やかで、しっかりしている。特別な奇跡というより。食べて。眠って。笑って。怒って。そうして生きてきた時間の結果だった。遼真が笑う。「脈は落ち着いています。定期検診の結果も問題ありません。最初に会った頃とは、ずいぶん違いますね」綾香が彼を見る。「遼真さんが隣にいてくれたことには感謝してます」「はい」「でも今は、わかるんです」少し笑う。「私を生かしたのは、結局、私だったって」遼真は一瞬黙った。そして笑った。「その通りです。僕がしたのは、隣で少し脈を見たくらいです」「『少し』じゃないでしょう」綾香も笑う。縁側の向こうから、子供たちの声。「ママ!」続いて。「パパも!」小さな足音が近づいてくる。遼真が手首を離した。「診察終了ですね」「優先順位、下がりましたね。白石先生」綾香が先に障子を開く。冬真と紗愛が同時に飛び込んできた。遼真は転ばないよう、二人の背中へ手を添える。四人が縁側で一塊になる。座卓の上では、養生茶が少しずつ冷めていく。脈枕も出したまま。綾香は、わざわざ戻って片付けようとは思わなかった。昼になったら誰かが片付けるかもしれない。夕方までそのままでも、別に構わない。少しくらい生活が乱れても、もう世界は壊れない。遼真がふと思い出したように言う。「綾香」「うん?」「脈は、これからも一生診ます」綾香が眉を上げる。「でも、最初みたいに『奥様』って呼ぶのは、もう
last updateLast Updated : 2026-10-05
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